あなたに全てを

モクジ
 何もかもあの人のため。
 やぼったい黒髪を染めて毎日セットに一時間かけていたのも、露出の多い服を着るようになったのも、苦手なヒールの靴を履くようになったのも。
 私が頑張れば頑張っただけ、彼は「綺麗だよ」と言ってくれた。だから頑張ることは、全然苦しいことだとは思わなかった。
 だって私が綺麗になった分だけあの人の横に居る権利が得られたような気がして。
 常に女性の目を奪う、素敵なあの人を独占できるならこんなこと何でもない。

 好き。
 大好き。
 愛してる。
 
 こんな言葉では言い足りない。あの人が私の世界の全て。

「君のことは大切に思っている。でも僕には君を幸せにする自信が無いんだ」
 そう言って彼は目に涙を浮かべて私を見つめた。
 タバコもギャンブルもやらない彼の貯蓄が無いのは、親御さんが重い病気を患っているからだとその時初めて聞かされた。
 大好きな彼と愛を育むことしか考えていなかった私は、今までの自分の浮かれ加減が急に恥ずかしくなった。彼を支えてあげたいと思った。
 割り勘が多かったデートは、やがて全てを私が支払うように。
 ――浮いたお金で彼のご両親が助かるでしょう?

 二人の結婚資金も、彼名義で作った新しい口座に二人で貯金することにした。
 彼はあまりお金が無かったから殆どが私の入金したお金だけど、目標額に近づけば近づくほど私たちの新しい未来が待っている。そう考えればこれも一つの楽しみだと思えるようになった。
 ――だっていつでも彼を側で支えてあげたい。結婚すればいつでも一緒に居られるわ。

 何もかもあの人のため。
 私が頑張って綺麗に装うのも、彼のためにお金を費やしてそれができなくなるのも、気がつけば私の貯金が底をついていたのも。
 ついには家賃すら払えなくなって私は考えた。まだ結婚資金の目標額までは届いていないけれど、私達一緒に暮らせばもっと節約になる。今までよりもずっと一緒に居られる。
 けじめをつけたいと同棲をためらっていた彼だけど、ちゃんと話せばきっと大丈夫。
 だって私達は愛し合っているんだもの。それに私、あの人を喜ばせる報告があるの。ふふふ。

 でも彼の部屋を訪れた時、すでにそこは空き部屋になっていた。
 携帯電話も繋がらない。
 結婚資金を貯めていた口座はすでに解約された後だった。
 もらった名刺に書かれた会社に問い合わせたら、そんな人間はいないと一蹴されただけ。
 あの人は突然、私の前から姿を消してしまったのだ。

「どこにいってしまったの――――うっ、あ、いたっ、痛い……助け……て」













 でも大丈夫。
 私はあなたのことなら何でも知っているから。
 あなたの名前が本当は何ていうのかも。
 私を招きいれてくれた部屋はあなたが週末過ごすだけの部屋で、平日はどこで暮らしているのかも。
 ――――私の他に、お世話をしてくれる女の人がいるということも。
 そう、私は何でも知っているから。

 でも私は信じているの。あなたが真に愛しているのはこの私だけ、そうでしょう?
 それこそが揺るがない真実。
 でも私には、もうあなたに捧げるものが何も残っていなかった。
 あなたが幸せになるようにいつも側で見守っていてあげたい。何か、何か私にできることは残っていないかしら。


「なあ、金も入ったことだし今度ハワイでも行こうぜ」
 ぴちゃり。
「えー、あたしはヨーロッパの方がいいなあ」
 ぴちゃり、ぴちゃり。
 揺らめく水面。浴室にこだまするあの人と女の声。
 私はいつでも彼の側に、あの女よりもっと近い場所で彼を見守るわ。
 ゆうらゆうら。私と、生まれるのが早過ぎた私達の子と一緒にまどろみにたゆたう。
 少しずつ私達は溶けて行く。そして毎日彼の元を訪れるの。

「ああ、喉が渇いた」
「お茶が冷蔵庫に冷やしてあるよ」
 ごくごく。
 あなたの手に取られ、あなたの喉を通り、私達はあなたの一部になる。

「なあ、お茶の種類変えたか?」
「ええ、いつもと一緒だけど?」

 もう私があなたにあげられるものは何も残っていないから。
 だから――

 マンションの屋上にある、給水槽の中からあなたに愛をこめて。 
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