プロローグ
 辺り一帯にたちこめるみずみずしい草の匂いと、前面に広がった緩やかな波を寄せる煌めく湖畔。
 大人たちの群れからこっそり抜け出すことに成功したその少女は、はやる鼓動に急き立てられるようにして駆け出した。
 通りがかりに見かけた珍しい花を、外出もあまりままならない大好きな姉の為にこっそりと摘んでこようと思ったのである。
 すると、不意に地を蹴る小さな靴底が空を切った。
 突然木々の向こうから現れた複数の男達の一人が、少女を軽々と小脇に抱え走り出したのだ。
 少女の不在は一緒にいた大人たちのすぐ知るところとなったらしく、名を呼ぶ声が聞こえたがそれもどんどんと遠くなってゆく。
 普段お転婆で鳴らしている少女ではあったが、有らん限りの力でもがいてもその太い腕から逃れることはできなかった。
 このまま自分は、地の底にあるという死者の国へ連れて行かれてしまうのだろうか。
 幼いながらもそう察した時、腹の底が不安で真っ黒に染まって苦しくなった。両の大きな瞳に一瞬で涙が溜まり、視界が歪んで世界が揺れる。
 否、本当に世界が揺れていた。少女は抱えられた太い腕から突然解放され、小さな身体は空中に投げ出されたのだ。
 背の高い草の茂みに落ちた少女は、背中をしたたか打ち付けて咳き込みながら訳も分からず草の合間から目の前にそびえる大きな背中を見上げた。
「昼間から堂々と人攫いか?」
「何だお前は!」
「人の名前を尋ねる時は、まず自ら名乗るものだろう」
 五人はいるだろう体躯の逞しい殺気だつ男共を前にして、その大きな背中は不敵に言った。


第一話、弟子志願

 厳しい冬が明けた春を祝うかのように、厚い雲に覆われていた空は澄み切った青を覗かせて人々に活力を分け与える。
 フォルマン国王都サンブルクの市場に隣接したその通りはどこを見渡しても屋台が立ち並び、店主は行き交う人々をあの手この手で引き込もうと呼び込みの大声を競うのだった。
 そんな賑やかな空気の中、いかにも雰囲気にそぐわぬふうに黙々と歩く者がいた。
 舗装されていない土道は小さな風が通り抜けるたびに埃が舞うためか、頭からすっぽりとマントのフードを被って顔の中までは判別することができない。
 しばらく歩み進んだ先に、いくつかの粗末な小屋が立ち並ぶ細い通りに行き当たる。
 一番手前にあった小屋の前に立つと、その者は叩こうとした自分のこぶしを扉の前で一瞬止めた。だがすぐに思い直したのか、やがて威勢良く木戸を叩き始める。
「御免。ここは最近評判になっている魔術師殿の住まいと聞いてやって来たのだが」
 しかし、耳を澄まして待てども返事は無い。
「何だ、居ないのか?」
 そう言いながらも再度誰何するでもなく、あっさり木戸を押し開けて勝手に中に入るとその者はフードを外した。高い位置で一つに結った艶のある赤い毛束が肩の上に下り、戸外から差し込む光に晒された白い秀麗な女の横顔が顕になる。
 まだ大人に成りきらない青い瞳が薄暗い室内をぐるりと見回した。明り取りの小さな窓、壁際に置かれた大き目の机の上には幾つもの小瓶と薬草らしきものが並べられていて、隅には藁とシーツで作られた粗末な寝床があるだけである。
 室内には人の気配が感じられず、赤い髪の少女が嘆息しながら小首を傾げた時だった。
「何の用だ」
「うわっ」
 突然暗がりから声がして、驚いた少女は腰に下げた剣の柄を反射的に握りながら数歩後退した。
「ななな何だ、居るならそう言ってくれ」
「勝手に人の家に入る無礼者に文句を言われる筋合いは無い」
 部屋の奥から進み出てきたのは漆黒のローブを纏った老人である。一つに束ねた白髪を背中に垂らし、皺の寄った顔面に収まる鳶色の双眸が真っ直ぐ来訪者を見据えた。
 老人の迫力に気圧されて言葉を詰まらせたがそれも一瞬で、少女は一つ深呼吸をした後ゆっくりと頭を垂れる。
「失礼した、私はティアと申す者。あなたが魔術師ゲトリスク殿か?」
「いかにも、ワシがゲトリスクだが」
「良かった、実は我が国で最近評判の魔術師である貴殿に一つお頼みしたい事が」
「……ふむ」
 その十数秒後。ティアはあっけなく小屋の外に追い出され、目の前で木戸は大きな音を立てて閉められてしまった。
 ぼろい小屋なので、その衝撃だけでも屋根の一角が壊れてしまいそうである。
「何故だ、もうちょっと私の話を聞いてくれても良いだろう!」
「無駄だ。ワシは弟子は取らぬ主義だ、他をあたれ。大体弟子になりたいならその無駄に偉そうな態度を何とかするのだな」
「何だと、このくそじじい!」
 思わず本音が出てしまったティアは口元を抑えたが既に遅い。口惜しそうに唇を噛んで踵を返したが、そのまま歩き去るかと思いきや、どかりと戸口の前に腰を下ろして座り込みを始めた。
「私はどうしても魔術を習いたいのだ、了承してくれるまではここを一歩も動かないからな」
 扉の向こう側にいる老人は返事を返さなかった。その無言が「勝手にしろ」と言っているように聞こえて、ティアは眉間に皺を寄せ腕を組むのだった。

 中天にあった太陽が西の地平に沈み、町が夜の闇に包まれ始めると賑やかだった人通りも途絶えて外気も冷え込んでくる。
 市井の人間にとっては蝋燭を使うことも贅沢であるため、殆どの家庭が日没前に夕食を終えて就寝してしまう。
 途端に静まり返った町中で未だ魔術師ゲトリスクの家の前に座り込んでいたティアは、毛織のマントを隙無く身体に巻きつけて寒さを耐えていた。
 だが空腹はどう改善しようも無いから腹の虫は抗議しっ放しだし、夜間は盗賊や不埒者が横行しているため屋外に居ることは大変危険な行為である。
 遠くの方から聞こえる野犬や酔っ払いの喧騒を耳にしながら、ティアは周囲を監視しながらマントの下で剣の柄を手放すことはできなかった。
「おい、小娘」
「誰が小娘だ、私の名はティアだ」
「口数の減らぬ奴だな。そこをどけ、扉が開かぬ」
 扉越しに背中から聞こえてきたしわがれ声に、ティアは弾かれた様に起き上がる。
 木戸がゆっくり開けられると中からゲトリスクが出てきた。――――何故か、旅装姿で。
「ワシは流れの魔術師だ。そろそろここも引き払うつもりであったゆえ、そんなにこの小屋の前が気に入ったならお前に進呈しよう」
「ゲトリスク殿は?」
「この国を出る。流浪の草は一所に留まらず、国をまたぎ吹く風の如くさすらうのみ」
 荷袋のたすきを肩に掛け、手には樫の木で作られた杖を持ったゲトリスクは問答無用と歩き出した。
 慌てて荷袋のたすきを掴んで引き止めると、ティアは一気にまくし立てる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。旅に出るのはかえって好つ……じゃなくて、私も師匠と一緒についてゆきます。私は剣も使えるし、用心棒にもなってお得な弟子になる、なりますよ」
「間に合っておる。ほれ、離さんか」
「炊事洗濯小間使い何でもするから」
「いらん」
「肩もみも」
「問題外」
「ぬぬぬ。よし、では授業料を払おうではないか!」
「……ぬ」
 歩き出そうとする力と引き止める力がじりじりと競い続けていたが、ここでやっと初めて歩き出す方の力が緩んだ。
 何やら闇雲に言っているうちに突破口を掴んだことを察したティアは、青い瞳をきらりと光らせて更に畳み掛ける。
「修行期間は一年、手付けとして三十ディルサム(銀貨)払おう」
 そう言うとティアは腰に巻きつけていた小さな荷袋の蓋を開けて皮袋を取り出し、そのまま老人に向けて突き出した。
「ふん、たかが一年かじったところで魔術は身につかぬ。無駄だな」
「何とか基礎だけでも身につけたいのだ。一年後には百ディール(金貨)払おうではないか」
「百ディールか……ふむ」
 流浪の魔術師は提示された金額に少なからず心が動いている様で、額に刻み込まれた皺を微妙に上下させながら思案顔である。
 しかしそれも無理からぬこと。一ディールは五十ディルサム、金貨が一枚あれば庶民が一年は遊んで暮らせる額である。
「して、一年後に払うという保障がどこにある?」
「何、私が踏み倒す人間に見えるとでも言うのか!」
「少なくとも今は持ち合わせておるまい」
「ぐっ、ぬぬぬ……家に帰ればある。必ず払う。だが私は一年後にならねば家に金を取りに戻らぬぞ、さあどうだ!」
 顔を自らの髪と同じ様に赤く染め、ティアはすごみながら一歩踏み出した。頭に血が上った結果、「頼む」という概念が吹っ飛んでしまったようである。
 皮の長靴に淡黄色のズボン、朱色の上衣と彼女の着ている物はどれも丈夫で仕立てが良く、一見地味ではあるがなかなか高価な物を身に纏っていた。
 市井も高貴も女性は皆長いスカートをはくのが常識の中で、あえて少女が男装している理由は謎であったが。
「金貨など普通の人間なら一生お目にかかれぬもの。魔術修行をしたがるとは、お気楽貴族の道楽にしては酔狂だな」
「ええい、私の素性などどうでもよいだろう。私に魔術を教える気があるのか、無いのか」
 興奮しているティアとは対照的に、ゲトリスクは特に表情も変えず黙って手を差し伸べた。
 ティアは一瞬その手が「一緒に来い」と自分に差し伸べられたのかと思ったが、直後に手の平が上下するのを見て眉間に皺を寄せる。
 当らずも遠からず。早く金を渡せと魔術の師匠は弟子に促したのだった。
「三十ディルサムで先に一年も面倒を見るのは少々割りに合わんが、足りない分はお前を道中の護衛として雇うことで相殺してやろう。ワシの修行は厳しいぞ、そしてちゃんと働け。だが約束を違え、報酬を踏み倒した時は術の供物にされても文句は言わせぬ」
「もちろんだ」
 ティアの手から銀貨が三十枚入った皮袋を受け取ると、ゲトリスクは無造作に荷袋の中へと放り込む。
 しかし蓋を閉めた荷袋の端がもそもそと動いていることに気づき、ティアは首を傾げながらゲトリスクの荷袋に顔を近づけた。
 すると突然、荷袋の隙間から細長い舌がひゅるっと出てきて鼻先を掠める。
「ひゃっ」
「セーン、大人しくせんか」
 その声に答えるように荷袋の中から大きなトカゲが顔を出した。それはあっという間にゲトリスクの身体を上ると、左肩の上に落ち着く。
 セーンと呼ばれたトカゲは大人の指先からちょうど肘まで位の大きさで、銀色の鱗を身に纏い背中にまだら模様を乗せた変わった種類のトカゲであった。
「これはワシの使い魔のセーンだ」
「使い魔?」
「セーン、聞いていたな。たった今ワシの弟子になったティアだ、余計な面倒が起きないようにお前が見張っておけ」
「お前の弟子なら、ゲトリスク自身が見るべきではないのか」
「ええ!」
 最後に大声で叫んだのはティアである。彼女はたった今、とんでもない光景を見てしまったのだ。
「ト、トカゲが喋った」
「娘、言葉には気をつけよ。私は『トカゲ』ではない、セーンだ」
 シャーと威嚇音を出して尻尾をぴんと伸ばす大きなトカゲに、さすがのティアもすっかり面食らって何も言い返せない。
 ゲトリスクはティアの言動を「偉そうな態度」と評していたが、このトカゲの方がよっぽど偉そうである。
 そしてゲトリスクと言えば、何故か再び樫の杖をつきながら小屋の中へ戻ってゆくではないか。
「あ、あの?」
「何だ」
「今から旅に出るのでは?」
 未だ呆然としているティアの問いかけに、ゲトリスクは戸口で振り返り言った。
「夜間に出歩いてわざわざ盗賊を呼び寄せる馬鹿がどこにいる。大体、城門が閉まっていて町の外には出られぬわ」
「は?」
 状況を上手く飲み込めないティアを外に残したまま、奥に積んである藁で自分の寝床を作るように言い置くとゲトリスクはさっさと小屋の中に入ってしまった。
「さすがのゲトリスクも、今すぐ旅に出る自分に『ついて来る』とお前が即答するとは思いもせなんだ。嫌なら放って置けば良いものを外に置きっぱなしにしておくのは居心地が悪かったらしい。まあ、あれが金が大好きというのもあるが」
「はっ、トカゲ!」
 いつの間にゲトリスクの肩から下りていたのか、気がつけば足元にセーンがいてティアは目を見開いた。
「娘、何度も言わせるな。セーンだ」
 太い鞭のようにしなるセーンの尻尾がティアのふくらはぎをしたたか打ちつけ、気の抜けたティアはそのままへなへなと土の上に膝を着く。
 まだ肌寒い春先の夜。こうしてノルグ大陸の西端にあるフォルマン国にて、一組の奇妙な師弟が誕生したのであった。


「ティア、ティア」
「今行きます、師匠」
「もたもたするな、ティア」
「どさくさに紛れて参加するな、セーン!」
 王都サンブルクを出てから既に二十日。馬を二頭手に入れたゲトリスク達一行はゆっくりと北上を続け、隣接するドーフィネス国との国境まであと数日という行程となっていた。
 最近は日増しに日差しも強くなり、正午も過ぎたあたりで歩き通しだった馬と人間にささやかな休息が与えられることになる。
 だが休んでいるのはゲトリスクと馬だけで、ティアはずっと動きっぱなしだ。
 すぐ側に流れる小川で二頭の馬に水を飲ませ木陰に繋ぎ、やれやれと思って戻ると師匠から「足を洗う水を汲んで来い」と言われて逆戻り。
「全く、足を洗いたいなら自分で川まで歩けば良いではないか」
 眉根を寄せながら皮製の折り畳み式桶の取っ手を下げ、川原の斜面を登るティアは一人ごちる。
「何だ、何か言ったか」
「え、いやいや。何でもありません、師匠」
「ふふん?」
 年寄りのわりには全く耳が遠い様子が見られないゲトリスクであったので、口元だけのその含み笑いに何かしら意図を察せずにはいられないティアであった。
 木陰の下に座るゲトリスクのすぐ前に、ティアは水のたっぷり入った桶を置く。師匠と同じ木の下に腰を下ろすと、少女の汗ばんだ首元を緩やかな風が通り抜けて赤い髪を揺らした。
 ゲトリスクは桶の中に入った水に視線を落とし、すじばった長い指を水に浸す。右手の中指に嵌められたいわれのありそうな銀製の指輪が水の中できらきらと光り、ティアはぼうっとその様を眺めていた。
「水は地に吸い込まれてより深みへ、火は風より軽くより高く上昇する。術で扱う四大元素は上から上昇するもの『火』、『風』。下降するものは『地』、『水』という順序になる」
 そう言いながらゲトリスクの大きな手が水を掬って土の上にこぼした。水はあっという間に吸い込まれ、老人の言葉の通りに地の下へと下降する。
「魔術師はこの世を構築する全てのものを、全身の感覚全てを使って感じ取らねばならぬ」
 再び風が通り抜けてティアの束ねた髪が揺れた。横目に視界に入った自らの髪の赤は、まるで風に煽られて駆け上る炎のようだと一瞬錯覚を起こす。
「さて、以前教えたな。剣術を使う時には現そのものを『見て』把握する、魔術を使う時には現と意識の境界の狭間を『看て』想像を具現化すると」
「はい。でも看る訓練ってどうも上手く行かな……」
「やってみよ」
「え」
「魔術は必ず安全な室内で行うものとは決まっておらぬ。いかなる時もすぐに集中力の使い分けができねば意味がない」
 ゲトリスクは移動の最中や食事の時、就寝前など、特に時間を定めず思い出したように突発的に授業を始める。
 今も心の準備も無しにいきなり苦手な看る訓練を強要され、ティアは内心動揺しつつも意識を集中させた。
 目の前にある皮製の桶を見つめ、次に自分の鼻先を見る。視野がぼやけ二重になっている像の真ん中を何となくみるようにして、視野に入る全てのものを均等に見るのだ。
 そして始めに見た桶の形象を意識の中で形作り、投影する。
 意識集中、意識集中。しかしこれをやると眩暈はするわ、「結局世界の境目ってどこなんだ」という意識が払拭できず、はっきりしない視界にティアはだんだんと苛々してくる。
 眉間に深い縦皺を刻み込み、唇を固く閉じて困惑顔になる少女を横目に、師匠は小さなため息をつきながら手にしていた杖で弟子の後頭部を軽くはたいた。
「いたっ」
「雑念が多い」
「ティアも年頃だ、色々考えることがあって忙しいのではないのかゲトリスク」
「人がいつも妄想ばかりしているみたいに言うな、このトカゲ!」
 ティアが顔を真っ赤にして憤慨しながら立ち上がると、頭上の木の枝に身を任せていた銀のトカゲは隠れるように上方へと移動するのだった。
「お前は体力だけはあるが、不器用にも程があるな」
「面目ありません」
「炊事洗濯何でもやると申したが、蓋を開けてみれば何も知らぬ役立たずだったし」
「うっ、そそそそれは本当に申し訳ないと私も……」
 ティアはやる気と体力だけは申し分なかったが、ゲトリスクに教えてもらうまでは生活に必要なことを殆ど知らなかった。
 馬鹿では無いので教えればたどたどしくも少しずつ仕事を覚えたが、ふと見せるティアの所作や乗馬の作法はやはり上流階級を思わせるものである。
 突然ゲトリスクが座ったまま、横に立つティアの腹部めがけて樫の杖を一閃させた。
 反射的にティアは左腰に佩いていた剣を抜き取ると、飛び退りながら固い杖を剣で受ける。
「何をなさるのです師匠」
「この身のこなしは一朝一夕で身につくものではない。構えもちゃんとした指導を受けたものだ。そもそもお前の気性は絶望的なまでに魔術には向かぬ、家に戻りさっさと今までの様に好きな剣術を続けたらどうだ。ああ、前金は返さぬがな」
「前金っ……いや、まあそれは構わないが。私には…………そういう師匠こそ、その身のこなしは単なる魔術師とは思えませんが」
「当然だ、ワシは天才だからな」
 この強欲くそじじい。
 声には変換されなかったが、ひくついたティアの表情からは魂の叫びがありありと浮かんでいた。


 師弟は王都サンブルクを出てからずっと、整備された街道でなはく少し外れた道を辿りやや大回りする形で旅を続けていた。
 楽な街道を行かない理由をゲトリスクに尋ねたところ、「都会は何でも物価が高い」と非常に生真面目な顔で言われて一瞬圧倒されてしまったティアである。
 何しろ今二人が乗っている二頭の馬も、ゲトリスクの気合の値下げ交渉術により破格の値段で農家から買い取ったものなのだ。
 小さな町や村を経由しながら食料を補給し、もちろん都会ではないから宿屋なんてものは存在しない。
 運良くその日のうちに泊めてくれる家や厩があれば夜露をしのげたが、延々と森と山が続く田舎道の行程の半分以上が野宿であった。
「はあ、今日も星空の下で寝るのか」
「四方の木に獣避けの術を施してあるゆえ命の危険は無いぞ」
「いえ、別にそういう意味で言った訳では」
「星は見放題だ。眠る前に星の読み方を復習しておくように」
 文句を言わず黙って寝れば良かったとティアは後悔したが、それも今更だった。
 真ん中に火を囲み、師弟はそれぞれ毛布に身を包んで横になる。生真面目に空を見上げて星の位置を確認していたティアも、いつしかそのまま寝入っていた。
 どれくらい時間が経ったのだろう。
 焚き火の木がはぜる小さな音で、何となくティアは目が覚める。
「あれ、師匠?」
 横を見ると、焚き火の向こうで寝ているはずのゲトリスクが居なかった。
 ティアは起き上がると小さくなりつつある焚き火に枯れ枝を投げ入れ、周囲をぐるりと見回す。
 端の木に繋がれた二頭の眠る馬、置かれたままの荷物。ゲトリスクが使っていた毛布は無造作に置かれたままで、いつも側にいるセーンの姿も消えていた。厠にでも行ったのだろうか。
「……いや、それにしても遅い」
 一度は再度横になったティアであるが、すぐに眠ることができなくて結局ゲトリスクが帰って来るのを起きて待つ形になっていた。だが彼女の師匠はいつまで経っても森の向こうから帰ってこないのだ。
「まさかあのじじい、どこかで倒れているんじゃないだろうな」
 全く隙の無い鉄人ではあるが、ゲトリスクは外観から察するに年齢は七十を超えている老人である。突発的に何かが起こってもおかしくは無い。
 今夜は夜空にかかる雲も少なく、完全な円に近い月の明るさだけで十分視界は補えた。横に置いてあった剣を腰に差し込むと、ティアは迷い無く夜の森の奥へと踏み込んで行く。
「全く、だから街道沿いに……いや、それはそれで私も困るか。ああもう、どこへ行った師匠」
 一人で夜の森を歩いていると、様々な生命の密やかな気配を全身で感じられるようだった。まるで別世界をさ迷っている気分になる。
 これがゲトリスクの言っていた「看る」ということなのだろうかとぼんやり思いながら、ティアは歩み続けた。
 星の空から降ってくる梟の声。慎重に足元を踏みしめる、ティアの長靴が軋む音。
 手で茂みを掻き分けるたびに揺れた葉が擦れ、優しい囁きを耳元に繰り返す。
 静かな夜だ、本当に静かで……
「穏やかな夜だ。ずっとあそこに居たら、私はもしかして取り返しのつかない事をしでかしていたかもしれない」
 ふと立ち止まり空の輝く月を見上げ、ティアは自重するように小さく呟いた。
 すると、どこかからかすかな音が聞こえて振り返る。
「何だ、水の音?」
 薪拾いの時このすぐ先に小さな泉を発見したことを思い出し、ティアは星の位置で方角を確認すると音を頼りに歩みを進める。
 細い獣道を突っ切り、その先に木々の開けた場所に出た。月明かりを反射した光る水面が注意をひき、その中程に立つ人影が視界に飛び込んで来る。
「誰だ」
 てっきりそこに居るのがゲトリスクだと思い込んでいたティアは、その若々しくて張りのある低い声に驚いて足を止めた。
 視線の先に立っていたのは、闇をそのまま切り取ったような黒い髪を持つ男。
 肩に垂らした長い髪の先から、尖った顎先から落ちる雫はまるで銀の欠片のようだとティアは思った。
 だが何よりも視線を真っ先に奪ったのは、逞しい胸の中央に掘り込まれた奇妙な模様である。
 円の中に十字に配列された丸い黒点、それを繋ぐ様に絡まる蔦の文様。それはどこかの紋章の様にも見えたが、ティアの知る限りではそんな紋章を持つ家系は自国にも近隣の国にもいなかった。
 濡れた頬に月明かりを受け、彫像のように整った顔がこちらに振り返って微笑を浮かべる。
「何だ、覗きか。別に見たいのなら構わんが」
 そこで初めて、ティアは男が裸で水浴びをしている事を認識してはっとした。腰から下は光る水面下に沈んでいたことが不幸中の幸いである。
「誰が覗きなどするか! 私は人探しをしていただけだ……はっ、忘れてた師匠」
 ここに居ないのなら本当にどこかで倒れているか、崖地で足でも踏み外したか。慌てて踵を返す赤い髪の少女の背中に、男の声が投げかけられる。
「おいお前、ここには誰も来なかったぞ。覗き以外は」
 ぴたりと足を止め、そのままティアの身体がぐりんと振り返った。怒りで耳たぶまで真っ赤に染めた少女は、腰の剣を抜きざまに怒鳴りつける。
「覗きではないと言っているだろう。貴様、これ以上私を愚弄するとただではおかぬぞ。それに私は『お前』ではない、ティアだ!」
「ほう、威勢がいいな。ただでおかないなら、どうするというのだ」
「勝負だ!」
「手合わせしてやってもいいが、俺の得物はそちらに置いてあってな」
 泉のほとりには白銀の立派な槍が置かれていた。柄には精巧な模様が彫り込まれており、何やら由緒ありそうな槍である。
 その美しさに思わずティアが目を奪われていると、黒髪の男がジャバジャバと水を掻き分け躊躇いも無くこちらへ向かってくるではないか。
「ぎゃーっ、何だお前。こっちに来るな!」
「勝負しろと言ったのはそっちだろう」
「来るなというに。動くな、見せるな、この変態!」
「何だと、そう言いながらもしっかり俺様の肉体美を見ているのはティアだぞ」
「お前」と言われるのも腹立たしいが、ここで名前を呼ばれても腹立たしいことに変わりないことに気づき、名乗ったことをティアは激しく後悔した。
 言い返したい言葉は山ほどあれども、止まる様子の無い男にこれ以上向き合って喋ることは危険行為である。
 乙女の脊髄反射で身体が勝手に動いた。
 くるりと身体を反転させ、「覚えてろ」の一言を残して少女は一目散に駆け出す。
 やな奴、やな奴、やな奴。顔を真っ赤にしたティアは、そう呟きながら憤怒のいでたちでずんずん獣道を戻ってゆく。
 気がつけばいつの間にか元の焚き火の場所に戻ってきてしまい、そこでティアは口を半開きにして棒立ちになった。
「帰ってるじゃないか」
 何事も無かったように毛布に包まった人影が、焚き火の側で地面の上に横たわっていた。結局余計な気を回して動いたティアの行為は、全く無駄だったというわけである。
 しかも見知らぬ男に「覗き」扱いまでされて。
「くそ、もう寝てやる。今度同じことがあっても、二度と私は探しになんて行かないからなくそじじい」
 毛布を頭から被り、ティアはすぐにでも眠りに落ちようと目蓋を閉じた。
 だが昼間の疲れもあるはずなのになかなか寝付けず、「私は覗きじゃない」と悶々と繰り返しながら苦悩の夜を過ごすのであった。
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