第五章、華の都トゥール

 石畳の敷き詰められた道の両側に、整然と立ち並ぶ煉瓦造りの建物群。
 向こうの高台の上にそびえる水色の尖った屋根の美しい城は、芸術をこよなく愛するというドーフィネス王の居城である。
 しかし立派な大通りを避けて一本裏道に入ると、フォルマン国でゲトリスクが住んでいたような庶民街が顔を覗かせる。威勢の良い物売り達はどこの王都でも健在のようで、軒を連ねる屋台と、籠を片手に売り歩く売り子の声が心地よくティアの耳に飛び込んで来るのだった。
「トゥールの城には行ったことがあるが、馬車の中に押し込められて寄り道すらさせてくれなかったからな。一つ隣の国でも色々と違いがあって、何を見ても興味深い」
 一月以上かけてやっと目的のトゥールに辿り着く事のできたティアは、目を輝かせながらあっちにこっちにとふらふらしながら一人で歩いていた。
 すると、通りの向こうから馬の嘶きと悲鳴が聞こえてくる。街の真ん中を流れる大きな川の岸まで走ってゆくと、人だかりの向こうに地面に倒れた一人の娘が見えた。
「死にてえのか、ぼやぼやしながら歩いているんじゃねえぞ!」
 酒樽を山のように荷台へ積んだ馬車が通り過ぎ、御者台の中年男はそう乱暴に言い捨てて行く。
 眺めているだけの人ごみを掻き分け、ティアは倒れた娘に駆け寄るとそっと抱き起こした。
「おい、大丈夫か。怪我は?」
「――大丈夫ですわ。それよりも私、ヴァナル神殿に行かなければ……」
 どこか遠くを見ているような、虚ろな薄い水色の瞳がティアを見上げた。結わえられた癖のある栗色の髪がほつれ、身につけているドレスも薄汚れてはいたが容姿はなかなかに可愛らしい少女である。
「イルゼ?」
「え?」
「あ、ああ、申し訳ない。知り合いに少し似ていると思ったのだ」
 優しい栗色のくせ毛と、晴れた空のような薄い水色の瞳は亡くなった侍女と良く似た面差しを少女にもたらしていた。
 彼女はティアと同じくらいの年頃であろうか。貴族の娘という感じでは無いが、それなりに裕福な家の娘である事は見て取れる。
「あちこち擦り傷だらけではないか。他に痛い所は無いか?」
「急いでいたら途中で馬から落ちてしまって、やっとここまで歩いてきたのですけれど……私」
 しかし立ち上がろうとすると、その娘――フラヴィは苦痛に顔を顰める。落馬した時か今転んだせいなのか、どうやら足首を痛めているようであった。
 ふらつく細い身体を支えようとティアが慌てて腕を伸ばすと、フラヴィを受け止めたティアの首根っこを更に掴む誰かがいた。
「少しの間じっとしていることもできないのか。三歳児か、お前は」
 身をやつしているとはいえ一国の王女を猫の仔のように扱い、顰め面をしているのは成り行き上の同行者である流浪の槍使いであった。
 二人とも目的地に着いた後はそれぞれ別行動を取るつもりだったのだが、そろそろ路銀の乏しくなってきたティアが馬を売ってしまおうと言い出したのである。
 ゲトリスクを探すため暫く街中に滞在するならばティアは必ずしも馬が必要という訳ではないし、宿屋に泊まるにも馬の世話代が別途かかる。
 代金を折半する事を条件に自分よりも確実に交渉術に長けていそうなクロウにそれを任せ、その間馬屋の前で待っているはずのティアは勝手に一人でふらふら歩き回っていたのだった。
「ああ、いや。人ごみの中に師匠に良く似た後姿を見つけたものだから、いてもたってもいられず」
「ほう、早速見つかったのか。早いな」
 感心するようなクロウの言葉に、未だ首根っこを掴まれたまま赤い髪の少女は眉根を寄せた。
「しかしあっと言う間に見失った。もしかしたら、見間違いということもあるが」
「――――で、そのままふらふら道草を食っていたわけだな。新たな厄介ごとまで抱え込んで」
 やっとティアの服の襟を放すと、クロウは呆れたようにフラヴィの方へ視線を投げかける。
「まあいいか、お前も俺もトゥールに着いた。馬の代金の半分を渡せば、もう俺の知ったことではない」
「ふふふ。確かにそうだが、この娘は先を急いでいる上に足を痛めているのだ」
「だから?」
「おぶってやってくれ」
「嫌だね」
「何だと、それでも男か貴様。か弱い女性が困っているのを見たら助けるのが筋ってものだろう」
「お前だって男だろう」
「誰が男だーっ」
「あ、あの。私は何とかなりますから、どうか喧嘩なさらないで……下さい」
 見るに見かねた怪我人の少女は、恐縮したように二人を見比べながら小さく呟くのだった。
 
「そうか、ではこの神殿にフラヴィの兄上が居るのだな。しかし随分と若い聖導神官だな」
「私とお兄様は年がかなり離れているんです。それでも随分と若い方ですけれど」
「ああ、なるほど」
 ヴァナル神殿はそれほど離れた距離では無く、結局ティアがフラヴィに肩を貸してやることになった。
 クロウは譲歩に譲歩を重ねた結果、ティアの荷物を預かってその場待機である。もっとも、ティアに言わせれば「それのどこが譲歩だ」と文句を言いたいところであるが。
「お兄様は……」
 先ほどまでは少し嬉しそうに話していたフラヴィであるが、何度か「お兄様」という言葉を繰り返しているうちにその表情を曇らせていった。
「フラヴィ?」
「あ、いいえ。何でもありませんわ。送っていただいてありがとうございます、この門を通ったすぐ先ですのでもうここで」
 フラヴィが指し示す先にあるのは、精巧な彫刻を施された石の門。鮮やかな緑の葉を茂らせた樹木が、門の向こうに伸びる道沿いに均等に植えられていた。
 そして見上げた先には、重厚感のある伝統建築を施された神殿がそびえ建つ。
 フォルマンの王女としては少し悔しいところだが、隣国ドーフィネスは昔から芸術分野において一歩先を行く国である。王都トゥールが「華の都」と呼ばれる由縁であった。
「そうか。では何があったかは知らぬが、兄上とは仲良くな」
「ありがとうございます。またお会いできる事がありましたら、このご恩は必ずお返しいたしますわティア様」
 姉と確執を持ちながらも、友人に似た行きずりの少女に「兄と仲良く」と言う妹。
 知らずに多大な迷惑をかけ、そして突然兄とは血が繋がらない事を知ってしまった妹。
 お互い自分の顔に浮かべた微笑がどこか悲しげである事に、二人の少女は気付くことなく別れを告げたのであった。
 片足を引きずりながら歩いてゆくフラヴィを暫く見送った後、何となく浮かない表情でティアは踵を返す。
「はぁ」 
「ふむ、随分と物憂げな溜め息だ」
「え?」
 不意にどこかで聞き覚えのある声がした。だが振り向いても、ティアの周囲には誰もいない。
 気のせいかと思って再び歩き出そうとすると、したたかふくらはぎを太い鞭の様なもので叩かれ思わず転倒しそうになる。
「うわっととと」
 数歩たたらを踏んで踏み止まり、振り返ったティアは驚きに目を丸くした。
「セーン!」
 見るべき場所は前後左右ではなく、足元であったのだ。久しぶりに銀色の大トカゲを見たティアは顔を綻ばせ、長くてごつごつした身体を持ち上げる。
「お前一人か? 師匠は一緒ではないのか?」
「ゲトリスクは今、あることにかかりきりだ」
「そうか、まあ良い。では早速師匠の居所を教えてくれ」
「私はゲトリスクの使い魔ではあるが、お前の使い魔ではない。よって、ものを尋ねるのにその無礼な態度は非常に不愉快だ」
 どこの王様なトカゲだ。
 こめかみをぴくぴくさせながら怒りを噛み締めたティアであるが、両手で持ったトカゲを握り潰さないだけの忍耐力はあったようである。
 口元だけ無理に笑い、ぎらつく目のままティアは改めて問い直した。
「ゲトリスク師匠はどこにおいでですか、セーン殿」
「察しの悪い娘だな。ゲトリスクは今お前には会わぬ、私がここに居る理由を少し考えてみればすぐに分かる事だ」
「理由?」
 首を傾げて考える事しばし。だがすぐにその理由というものが分かったらしく、ティアは再び溜め息をつく。 
「そうか、師匠はまだそんなに怒っているのか」
 とどのつまり、顔も見たくない程怒っているゲトリスクが先手を打ってセーンを寄越したという訳である。
 がっくりと肩を落とすティアに、銀色のトカゲは自分を抱える少女の腕を尻尾でぺしぺし叩きながら言った。
「全く脈が無いのならば私を寄越すことすらせぬ、ゲトリスクもそのうち気が変わるであろう。この街に来て暫く暇であったゆえ、私はお前に付き合ってやっても良いぞ」
 セーンが一緒に居てくれても、ゲトリスクに会えなければ意味が無いのだが。複雑そうな表情を見せるティアにお構いなく、セーンは腕を駆け上りゲトリスクの時と同じように左肩に乗るのだった。
 だが意外にも、セーンが現れて驚いたのはティアだけではなかったようである。
 川の側で荷物番をしていたクロウは、戻ってきたティアの肩に乗っている銀色のトカゲを見て一瞬顔を引きつらせた。
 それは本当にほんの小さな顔の動きであったが、いつも憎たらしいほどに余裕をかましているクロウが初めて見せた動揺をティアが見逃すはずが無い。
「何だクロウ、このトカゲがどうかしたのか?」
「トカゲではない、私はセーンだ」
 今更だと思ったのだろう、クロウはトカゲが喋っていることに驚くふりすらしない。
「神殿に行って大きなトカゲを肩に乗せて戻ってきたら、普通誰でも驚くだろ」
「久しいなクロウ、息災だったか」
「……セーン」
「何だ、やっぱりお前知ってたんじゃないか」
「何が」
「だから、ゲトリスク師匠のことだよ」
 クロウは何か言いたげにセーンを一瞥した後、そっぽを向きながら言った。
「まあ確かに、俺の祖父はゲトリスクという名前だが」
 それを聞いたティアの眉間に、瞬間的に皺が寄る。
 血縁。どうりで嫌なとこばかりそっくりなはずだと。
 ではクロウが強制的に魔術を習わされたというのは、ゲトリスクが魔術師であったからなのだろうか。
 ゲトリスクは天涯孤独の流浪者だと勝手に思い込んでいたので、師匠に孫がいたという新情報を得てティアは途端に好奇心がむくむくと湧き出すのだった。
「なあクロウ……」
「おや、そこに居るのはもしやフォルマンのティアナ殿じゃないかい?」
 声がする方に二人が振り向くと、自分達が居る細い道と十字に重なる大通りの向こう、少し離れた場所に豪奢な馬車が止まっていた。
 第三者の気配を感じた途端、セーンは既にティアの荷袋の中へ潜り込んでいる。 
 白い馬二頭が引く馬車は精巧な彫り模様が施され、いたる所に金箔が貼られて陽に煌びやかに光っていた。大変豪華で美しい馬車ではあったが、ティアもクロウもその派手派手しさに自然としかめ面になる。
 声の主は小窓からこちらを眺めていたが、やがて金の扉を御者に開けさせると中からしずしずと降りてきた。
 初めは面食らっていたティアだったが、距離が近づき誰であるかを覚ると、眉間に深い皺を刻み込み物凄くいやそうに口を半開きにする。
 馬車から降りてきたのは若い男であった。
 年は今年で二十歳。濃い蜂蜜色の金髪、青みがかった緑色の双眸。すらりと伸びた肢体は男性にしては華奢で頼りないが、しみ一つ無い白くなまめかしい肌はその辺の王女顔負けの色気を漂わせている。
 そして何が一番目を惹くかといえば、服の背部に縫い付けられた長くて大きな鳥の羽である。青と緑が混ざった美しい文様の鳥の羽が五本、背中からにょきにょきと生えて一歩あるくたびに揺れているのだ。
「なかなか良いだろう? 南方の国にしか居ないクジャクという鳥の羽で、貴重品なんだよ」
「オ……オーギュスタン」
「従妹殿、ようこそ芸術の国ドーフィネスへ。それにしてもはて、フォルマン国王女が訪問するという話を僕は聞きそびれていたのかな」
 ドーフィネス王妃はフォルマン国王の姉。よって第三王子オーギュスタン・ド・ドーフィネスと、ティアナ・エル・フォルマンは血の繋がった従兄妹となる。同年代の従兄妹でも、王妹の子オスカーとはえらい違いようであった。
 数回顔を合わせた程度であるが、ティアはオーギュスタンが生理的に大の苦手である。
 女みたいな綺麗な顔をしていても、ふにゃふにゃしているだけかと思えばその実何を企んでいるか分からない底知れなさを感じるからだ。
 何にしても奇抜と言うか、奇妙としか言いようの無い格好を「芸術だ」と好むあたりティアにとっては人外の生き物のように思えるのだった。
「いや、人違いだ」
 踵を返して足早に立ち去ろうとしたティアの服の襟をすかさず掴み、オーギュスタンは白皙の頬に微笑を浮かべる。
「どこへ行くんだいティアナ殿。ふふふ、国賓をそのまま帰してしまったらそれこそ僕がお父様に叱られてしまうよ。ああそうだ、城に帰るつもりだったけどさ、堅苦しくて嫌なら僕の離宮に来るかい? 静かでいいところだよ」
「断る。誰がそんな怪しげな所へ行くか」
「ふふ。君の赤い髪、いつ見ても見事だよねえ。この髪でカツラを作ったら、さぞやこの僕の美貌を際立たせることができるだろうに」
「ひぃぃ、触るなー」
 ティアの赤い髪を細い指で梳きながら、オーギュスタンは緑青色の瞳を白銀の槍を持つ男に向けた。
「君はティアナ殿の護衛かな、なら一緒に来ると良い。ああ、向こうにいるむさい輩は駄目だけど」
 オーギュスタンが指し示す方向から、五つの騎影が近づいて来ていた。遠目でもティアには先頭の人物が誰であるかがすぐ分かる。こんな遠くからでも未だにすぐ見つけ出せてしまう自分が滑稽で、少女は小さく苦笑するのだった。
「さ、僕自慢の馬車にご案内しよう」
「こ、こら。引っ張るなオーギュスタン」
「お前もこの手を離せティア」
「こうなったら魔窟にお前も道連れだ、クロウ」
 意外にもオーギュスタンは腕力があるようで、ティアの服の襟を掴んだままずるずると引きずってゆく。
 そして引っ張られてゆくティアはティアで、その場からさり気なく立ち去ろうとしていたクロウの腕をがっちりと掴んで離そうとはしなかった。
 こうしてティアの後を追って来たフォルマン国の捜索隊は、突然のオーギュスタンの登場によりわずかの差で王女を捕まえ損ねたのである。


 床に敷かれた絨毯の上には客をもてなす為の薔薇の花びらが撒かれ、食卓の下に焚き染められたほのかな香と相まって室内に芳香を漂わせる。
 白いテーブルクロスの上には大皿が幾つも並び、兎肉のシチュー、豚肉の腸詰、山うずらの香草焼き、子牛の炙り焼き、山のように積まれた林檎や葡萄などの果物。とにかくその場に居る人間だけでは食べきれないほどの贅沢な料理がこれでもかと並べられていた。
 しかし主賓である姫の顔は、これらを目の前にしてお世辞にも嬉しそうとは言えない。
 城を出てから久方ぶりのご馳走だというのに、一時は飢え死にしかけたフォルマン国王女は面白くもなさそうに眺めているだけであった。
「なあオーギュスタン、歓迎してくれるその気持ちはもう十分に受け取った。というか、もう私はそれで胸が一杯だ。だからもう帰ってもいいか」
「つれないことを言うなあ。もしかしたら僕は君の義兄になるかもしれない身だよ、そうしたらいつもサンブルクの城で君達と一緒に暮らすことになるというのに」
 ティアの護衛ではなく友人という身分で同席していたクロウは、一人黙々と料理を平らげながら「何のことだ」といわんばかりにティアを見る。
 青い硝子杯に注がれた冷たい葡萄の果汁を口元に運びながら、ティアは説明をした。
「私の姉ウェリフィンにはまだ決まった婚約者がいないのだ。今まで病気がちだったために様々な事を見合わせてきたのだが、最近は少しの外出なら難なくこなせるまで体調が良いようでな。我が王家には王子がおらぬ、故に長女の婚姻相手探しに大臣達は色々と作戦を練っているのだ」
 外交の手札として他国の王子を招いても良し。国内の強化を図るために有力貴族の子弟を婿に迎え、貴族を取り纏めるも良し。
 その中の一人が隣国の王子オーギュスタンであり、大貴族の子息であるオスカーなのだ。
 オスカーはともかく、この変人オーギュスタンが義兄になった日には二度と城には帰りたくないと思うティアである。
「ふーん、なるほどねえ」
「…………いいから」
 早朝のオスカーとのやり取りを見ていたクロウは何やら意味深に呟き、ティアは動揺を隠し切れずに顔を赤くする。
「温泉療養を早めに切り上げてきて良かった。こうしてティアナ殿に偶然会えたのもヴァナル神の思し召しかな」
「どこか身体でも悪いのか?」
 温泉に浸かってもその膿んだ頭は治らないぞと言いたかったが、さすがに一国の王子相手であるから心の中だけでティアは呟いておく。
「まさか。季節の変わり目は僕の柔肌によろしくないからね、労わってあげないと」
「……なるほど」 
「そうそう、最近僕はあるものを探し始めてね。知っているかい、『神々の記憶』といういにしえの秘宝書なんだけれど」
 オーギュスタンの問いかけに、クロウは特に気に留める様子も無くパンの欠片を口に放り込み、ティアは黙ったままオーギュスタンを見やる。
 少なくとも従妹だけは興味を示してくれた事に気を良くしたのか、オーギュスタンはそのまま饒舌に語り始めた。
「遥かなる太古の時代に存在したという幻の国アヴァロン。神々の叡智を記したその書は、手にした人物の願いを何でも叶えてくれるそうだよ。素晴らしいことだと思わないかい、もしそんなことが可能なら、この僕の美貌はずっと衰えることなく保てるという事なんだ」
「……またくだらないことを」
 オーギュスタンは肩にかかる煌びやかな金髪をぱっと指で振り払うと、鳥の羽根で装飾された扇を広げ口元を隠しながら目を細める。
 ちなみに最初の度肝を抜いた背中のクジャク羽根は外出用の装飾だそうで、室内では比較的まともな格好に着替えていた王子様である。
「ま、ティアナ殿には分かるまいよ。年がら年中馬を乗り回して日焼けした顔を平気で人目に晒すなど、美を愛する僕にはとてもできない暴挙だからね」
「悪かったな、いつも日焼けしているがさつ人間で」
「色々調べさせた成果もあがっているんだよ。何でも、アヴァロンの場所を教えてくれるという不思議な石があるそうなんだ」
「ふーん」
 オーギュスタンが扇をぱちんと畳むと、その下から覗くのは妖しい微笑をたたえた口元だった。
「欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れる主義なんだよ、僕はね」
 

 途中でクロウと離れ、侍女に案内されるままに客室へ通されたティアは一人になった途端に天蓋付きの寝台へと倒れこむ。
「疲れた」
 同時に布団の上に投げ出した荷袋がもそもそと動き、中からセーンが顔を出した。
「乱暴に扱うな、無礼者」
「……どいつもこいつも」
 そのままごろごろと転がって円柱形の枕を抱きかかえると、ティアはおもむろに服の中から何かを引っ張り出す。首から下げられていた紐の先はいつも服の下に隠されていたが、旅が始まってから今初めて小さな袋から中身を取り出した。
 親指よりも少し大きい程度の真っ黒い石。何故ウェリフィンがこれを所有していたのかは分からないが、ティアがこれを持ち出したことは既に察しているに違いない。
 もっとも、オーギュスタンまでもがこの宝探しに参加しているとは思いもよらなかったが。
 ティアはウェリフィンの会話を聞いたあの後から王家の書庫と神殿の所蔵を勝手に漁り、自分なりに得た情報があった。
 一つはゴイルの印が「アヴァロンの方角を教える奇跡の石」と呼ばれている事。もう一つは、これを所有する者が自らの魔力を吹き込んで初めてゴイルの印は発動するものであり、石はアヴァロンの方向を持ち主にしか分からない方法で伝えてくるという事。
 フォルマン国にも多少は魔術を扱う人間はいる。祈祷や予言を専門とする神官の一部には、元々一つであった魔術を改めて習う者もいると聞く。
 だが城の中で誰を信用してよいか分からなかったティアは、下手に情報を漏らすことが躊躇われた。
 一番信用していた姉に裏切られ、頼ろうとした従兄に信じてもらえなかったとなれば、もう自分一人で何もかもを成さねばならないと思ったのだ。
 だが現実は、思った以上に魔術の修行は困難を極めている。
「破門される前に、一度師匠に試してもらえば良かったかなあ」
 アヴァロンの「神々の記憶」が人にもたらす欲望や野心。それは時として、自身や他人への狂気として襲い掛かる麻薬のようなものである。
 だがティアは、不思議とゲトリスクならば飄々とそれらを蹴散らしてしまうような気がしていた。けちで偏屈で頑固な老人ではあるが「そんなくだらんものに頼るな愚か者」と一喝するだけで、真の心は決して揺らぐことは無いのだろうと思った。
「珍しい物を持っているな。それがゲトリスクを怒らせた原因の一つか」
 魔術師の使い魔ならば「神々の記憶」について知識があっても当然か。柔らかい寝台の上に寝そべりながら、セーンが静かに問いかける。
「お前が叶えたい事は何だ?」
 ティアは何も答えず、ただゴイルの印をじっと見つめているだけだった。


 ――――ア、ティア。
 誰かが自分の名を呼んでいる。
 この声は一体誰のものだったか。記憶を手繰り寄せ、思い出す。
「お母様?」
 十九歳でティアを産み、たった二十三歳でこの世を去ってしまった美しい母ヘルミーネ。
 全ての記憶は朧気でこうして思い出される優しい声も柔らかな感触も、もしかすると本当の記憶ではなくティアの願望に過ぎないのかもしれない。
 ティアは見晴らしの良い露台に佇んでいる。見下ろす庭に見覚えがあるのは、一月前まで自分が住んでいたサンブルクの城であるからに相違無かった。
 城には幾つかこうした露台が設けられていたが、微妙にどことも景色の角度が違っていることにティアは気付く。
 真下を覗くと一階と二階の窓が並び、ここが三階であることが分かった。遥か右下には階段をあしらった噴水があり、露台の手すりの右端には女神フリッガの彫刻が外壁に取り付けられているのが見える。
 不意に右隣に人の気配を感じた。横を見ると、そこに立っているのは記憶と肖像画の中にしかいないヘルミーネその人である。
 驚いて声を掛けようとしたその瞬間、反対の左隣にも気配を感じて振り返る。
 鼻の下と顎に蓄えられた豊かな髭、飾り羽根の付いたビロードの帽子から覗く髪は母と同じ金の色。いかにも生真面目そうなその中年紳士の横顔にはどこか見覚えがあった。
 実際に見たことは無い。だが幼少期に育ったダールベルクの屋敷に飾られていた肖像画に、威厳を誇るその伯爵は堂々と描かれていたはずだ。
「お爺様」
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
 祖父の咆哮を合図に、母と祖父がそれぞれティアの腕を絡め取る。
「何をなさるのです、お放し下さい」
 ティアの懇願にも関わらず、両端の二人はティアを引きずるようにして露台の手すりを乗り越えようとした。
「放して下さい、放せ!」
 足が床を離れ、宙を舞ったその一瞬。
『なんておぞましい一族でしょう』
 どこからともなく聞こえてきたのは、姉ウェリフィンの言葉であった。

「起きよ、ティア」
 ふくらはぎに痛みを感じて急激に意識が引き戻される。ティアは目を開けた瞬間に飛び起きると、額に流れ落ちる汗を感じながら辺りを見回した。
 見慣れない調度品、静まり返った室内。既に窓の外は夕暮れを迎え、招かれた先でいつの間にか自分が寝入ってしまったことをティアはようやく自覚する。
「ようやく気付いたか。あまり良い夢ではなかったようでちょうど良い」
「セーン?」
 ティアを呼んでいたのは夢の中の母ではなく、現実のトカゲであるセーンであった。確かに良い夢ではなかったが、何も噛み付くことはないだろうと思っているとトカゲは小声になって説明をする。
「食事に何か盛られたか。扉の向こうも窓の下も、既に見張り兵で埋め尽くされておるぞ」
 驚きの声を上げそうになってティアは慌てて自分の口を手の平で蓋をする。トカゲの顔の近くに寄り、同じように小声になって喋った。
「食欲が無くてあまり食べなくて正解だった。しかしまずいな、オーギュスタンは私があいつの目当ての物を持っていることを初めから知っていたのかもしれない。あの変態は多分、自分の欲望の為なら外交問題などお構い無しだ」
 服の下に隠れている小袋を上から握り締め、ティアは側の椅子に立てかけた剣を取ろうとする。
「待て、お前はもう暫くここで寝ている振りをしているとよい。私はクロウを探してくる」
「え、ちょ、セーン」
 セーンは寝台から飛び降りると、少し開いたままの二階の窓からするすると外に出て行ってしまった。トカゲの使い魔など役に立ちそうにも無いと思っていたが、なるほどこういう時には重宝するものである。
 だがしかしティアには一抹の不安があった。
 セーンはクロウの元に協力を仰ぐために向かったのだろうが、あの男はティアと違って宴の食事を目いっぱい食べてはいなかったか。
 ほんの少し口にした程度ですっかりティアは寝入ってしまったのだから、クロウはきっと今頃底なし沼のように深い眠りに落ちているに違いない、と。


 オーギュスタンからの使者を受け、実家からトゥールに着いたばかりのダヴィドは再び夕暮れの頃離宮に舞い戻ってきていた。
 正面を避け馬車を裏門の方へ迂回させようとしていると、正門の方がにわかに騒がしい事に気付く。
 何事かと思い馬車を降りてそっと様子を伺うと、数人の騎士が門番と何やら揉めているようであった。
「こちらにティアナ王女がお世話になっていると伺ったのです」
「何度も申し上げますが、そのような方はいらしておりません」
「よい、ホラント」
「ですがオスカー様」
 交渉していた男の肩を掴んで下がらせると、身なりの良い茶色の髪をした青年が代わりに前に出る。
「私はフォルマン国のオスカー・フォン・ケヒトと申す者。突然で申し訳ないが、母方の従兄弟にあたるオーギュスタン殿下にこのオスカーがお会いしたいと伝えて頂きたい」
 さすがに隣国の王族に連なる人間だと知ると、四人の門番はそれぞれ目配せするようにして一瞬黙り込んでしまった。
 しかしすぐに返した返事はこうである。
「オーギュスタン殿下は本日の昼頃にトゥールの城へ帰還あそばされました。こちらにはおられませぬ」
「そんな馬鹿な」
「ホラント」
 これ以上ここで交渉しても無駄足だと判断したのだろう、やがて一同は馬に乗り離宮の門から離れて行った。
 やり取りの一部始終をただ黙って見ていたダヴィドは、突然何かを思い立ったように立ち上がる。
 オスカー達の進行方向へ先回りできる道を見張りに見つからないよう駆け抜け、すぐ前方に五つの騎影を夕闇の中に発見した。
「もし、お待ちください」
 静かな離宮の外れにて、フォルマン国の騎士とドーフィネス国の神官はこうして相見えた。


 すっかりと日が落ちて客室も闇に包まれる中、未だ寝た振りをして寝台に横たわっているティアはじっと聞き耳を立て少しでも情報を集めようとしている。
 一度誰かが扉を開けて室内を確認していたので、下手に室内をうろうろすることもできないのだ。
 それにしても、セーンが出て行ってからかなりの時間が経過しているように思える。こうしてじりじり待っているから長く感じられるのか、本当にそれだけの時間が経過しているのかは、ただ寝転がっていることしかできないティアには判別がつかなかった。
 暫くすると、屋外の方から喧騒が聞こえてきた。ここからはよく分からないが、何となく窓の外が薄ぼんやりと明るくなったような気がする。
「火?」
 部屋の扉の外でも慌てたように何か会話がなされているようだが、小声なのでよく聞き取れない。すると、扉の向こうでガチャリと音がした後、幾つかの足音が部屋の前から遠ざかって行くのだった。
 何かがあった。弾かれたように飛び起き、ティアは剣を掴んで扉に駆け寄る。
 扉の取っ手を掴んだが、これが押しても引いてもびくともしない。さっきの音はここに外側からの鍵を掛けていった音だったのだ。
「ええい、なんとしっかり者の見張り兵だ」
 扉は随分と頑丈な作りのように見えたので、自分が体当たりしたところで開くとは到底思えない。
「とすれば、あとは窓か」
 先に窓下に誰もいないことを確認してから顔を外に出すと、焦げ臭いにおいが鼻をついた。
 向かい側の建物に遮られた向こうの空がぼんやりと明るい。やはり火事の様である。
 ここは二階なので飛び降りたら絶対に死ぬという事も無かっただろうが、残念な事に視界が悪くて下までの目測がさっぱり分からない。
 ここはシーツかカーテンでも使って縄を作り、確実な方法を取らねばなるまい。こういう発想が瞬時に浮かぶその理由には、ティアが勉強をさぼるために自室から逃げ出した実績を持つ王女様であるからだった。
 丈夫そうな布を物色していると、不意に扉の鍵が開けられる音がする。ティアは抜いた剣を構え、大理石の暖炉の影に身を潜めた。
 暗がりの中で聞こえる足音は一人。剣は腰に佩いていないようで金属音は聞こえない。
 気配が近づいてきた所を見計らい、ティアは一気に飛び出した。
 始めから暗闇の中にいたティアの方が闇に目が慣れている。相手の喉元にぴたりと刃を突きつけ、その動きをあっと言う間に封じた。
 しかし軍服ではなくローブを身に纏っているらしきその人物は、剣を喉元に突きつけられても悲鳴一つ上げず落ち着いた様子で言葉を綴る。
「ティアナ殿下でございますか、ご無事でようございました」
「誰だお前は」
「聖導神官を拝しておりますダヴィドという者でございます。フォルマンのお迎えの方がすぐ近くでお待ちです、外までご案内致しますのでお早く」
 聖導神官。昼間のトゥールで出合ったフラヴィという娘は、自分の兄の役職名を確かそう言ってはいなかったか。
「もしかしてお前、フラヴィという娘を知らないか」
 剣を突きつけられても落ち着いていたダヴィドが、王女の意外な質問に初めて動揺を見せた。
「それが栗色のくせ毛のフラヴィであれば、私の妹でございますが」
「そうか。では案内を頼むダヴィド」
 セーンの帰還を待たず、ティアはダヴィドと二人部屋を飛び出した。


 宴の席を退出してティアとは別の通路に案内されたクロウは、上の階ではなく更に下へと移動していた。
 その途中で丸腰のところを六人の兵士に剣を突きつけられ、手足をぐるぐるに縛られた上で地下牢に放り込まれたのである。
「ブリューナクはどこに置いたんだっけな」
 宴の席には無粋であるとして、クロウもティアも部屋の入り口にいた召使に武器と荷物を預けされられていた。ティアは部屋に戻る時にちゃんと返してもらったが、クロウはその前に捕えられてしまったというわけである。
 囚われの身になった割には緊張感のない様子で冷たい床に座っていたクロウだが、やがて天井に開いた小さな穴から覗く爬虫類の顔を見て声を掛ける。
「やっと来たか」
「何だ、せっかくの牢なのに見張りがおらぬのだな」
「逃げられない自信があるんだ……ぶっ、セーン!」
 喋っている途中のクロウの頭上に銀色のトカゲは思い切り良く落下してくると、「この方が早い」と冷静に受け答える。
「柄にも無く大人しく捕まったものだ」
「ここの王子様が少し気になることを言っていたんでな。様子を見てみるのも良いかと思ったのだ」
「ほう。ではあの赤い髪の娘も、様子を探るためにずっと行動を共にしていたと?」
 何のことだと眉根をしかめる青年に、銀色のトカゲは真ん丸い目を瞬かせる。
「あれもゴイルの印を持っている。何だ、気付かなかったのか」
 言葉を発さぬまま床を見つめていたクロウは、やがて呆れたように溜め息をついた。
「なるほどな、そのための魔術か」
 その時、上方に備え付けられた小さな窓から遠く喧騒が聞こえる。直接地上の外へ繋がっているその窓から漂うのは、何かが燃える焦げ臭い臭いだ。
「気の利く何者かが火を放ってくれたようだが、ティアで無いことは確かだ。今は客室で寝た振りをしているはずだからな。お前は眠り薬を盛られなかったのか、クロウ」
「何か入っていたなら大抵気付いたはずだが。俺が食べた物には何も入っていなかったと思うぞ」
「ふむ、なるほど。とりあえずそのままでは術も使えまい、今解いてやる」
「術……確かにこの状況では、使わざるを得んか」
 クロウはわずかに複雑そうな表情で呟くと、セーンが縄を噛み切り自由になった手で逆三角の印をつくる。
「クロウ、ちょっと待……」
「ヒレク、ゲブラー、アメモーン」
 それは以前ゲトリスクが川原でティアを助けるために唱えた、火球を飛ばす呪文と同じ言葉。
 クロウから飛び出した膨大なエネルギー体は、目の前の鉄格子に真っ直ぐ向かっていった。


 突然の地を揺るがすような衝撃に、人気の無い通路を選んで走っていたティアとダヴィドは身体をよろめかせて壁に手を付く。
「下からか? 何だ今のは」
「分かりません。東方から伝わった火薬のようにも思えますが、私は向こうの厩に火を付けただけですし……」
「何、外の騒動はお前がやったのか」
「申し訳ありません、他に見張りを引き離す策が思いつかず」
 恐縮するダヴィドにティアは笑い飛ばした。
「先に手を出してきたのはオーギュスタンだ、お前が気に病む事は無い。ドーフィネスに居づらくなったら、優秀な神官を家族ごとフォルマンに引き取ってやるから心配するな」
 ダヴィドはその言葉をどこまで真面目に受け取っているのか、ただ笑みを浮かべただけで具体的な言葉は返さなかった。
「それでなダヴィド。実は私にはもう一人連れがいるのだが、その者が囚われていそうな場所を知らないか」
「いえ、そこまではさすがに」
「そうか……仕方ないな。脱出口はお前が先ほど走りながら教えてくれた情報で十分だ、私はその連れを探してくるからお前は先にこの宮を出ると良い」
「いえ、それでは殿下が」
「嫌な奴ではあるが、そいつは命の恩人なのだ。見捨てるには後味が……おい、ダヴィド」
 ダヴィドはティアの腕を掴むと、予想以上に強い力で細い腕を引っ張りながら走り出した。
「その方は後で私が必ずお連れしますから、殿下だけでも先にお逃げください。私一人ならば何とでも誤魔化しようがございます」
 ダヴィドの言う事は尤もの様な気がするが、自分一人で先に逃げるというのはティアが簡単に納得できるものでは無い。
 しかし自分が残ることが結果的に足を引っ張る事にもなりかねないと思うと、ダヴィドの手を簡単に振り払う事もできないのだった。
 厩の火事と先ほどの原因不明の爆発音のせいか、ダヴィドが先導する通路を二人は不思議なほど誰にも見咎められることなく走りぬける。
 やがて既に暗くなった屋外へ飛び出ると、中庭には複数の人間の気配があったので近くの繁みに身を隠した。
 かなりの人数が、建物の向こうにある厩の消火に駆り出されているのが喧騒の大きさでよく分かる。それにあぶれた数人なのか、明かりの松明を持った者が慌てたように中庭を右往左往していた。
「さっきの爆発は何だ!」
「地下牢が吹っ飛んだみたいだぜ。でも壁が崩れて中に入れないって」
 地下牢と聞いて、もしかしたらそこにクロウが捕えられているかもしれないとティアは顔をはっとさせる。
 そして次の瞬間、先ほどまでティアたちがいた建物が揺れた。
 離宮は悲鳴を上げながら地響きと共にその身を傾かせ、中から噴き出した粉塵が一気に闇夜へ舞い上がる。
 地下の天井が崩れ落ち、建物全体の均衡を欠いて傾いてしまったのだ。
 慌てて粉塵の噴き出す入り口へ駆け寄ろうとするティアを、ダヴィドが必死に制する。
「放せ」
「なりません」
 その二人の揉み合う姿を中庭にいた兵士の一人が見咎めて叫んだ。
「そこにいるのは誰だ!」
「くそ」
 ダヴィドの手を振り払い、ティアは剣を抜き放つ。
 まさにその時である。視界の端にあった建物の壁を破壊して飛び出す、大きな影があった。
 反射的に飛び散る瓦礫を避け、その場にいた皆が慌てて後方へと飛び退く。続けて突風が押し寄せて、その風圧の強さに身体の自由を奪われた。 
 中から飛び出してきた大きな影は、一気に空へと駆け上る。
「鳥?」
 いや、一気に離宮より上の高さまで上昇したものの大きさは馬や牛より遥かに大きかった。半月の頼りない光を一身に受け、銀の鱗を煌めかせる。
 広げられた両翼はまるで空を覆いつくす帳の様に大きく、しなる尻尾は大蛇のように太くて長い。
 ダヴィドが驚嘆したように低い声を漏らした。
「まさかあれは竜か。遥か昔の時代に存在したという伝説の神獣が本当にいたとは」
 夜空に羽ばたく銀竜をティアは必死に目を凝らして見上げる。
 もたげる長首の先に咥えられた、白い棒の様な物。鋭い爪の生え揃った竜の前足に抱えられた、あの人の様な影は。
(クロウは心配ない。お前もこの混乱の隙に逃げるが良い、ティア)
「え?」
 頭の中に声が響いて、咄嗟に隣のダヴィドを振り返る。神官が不思議そうにティアを見かえすのを見て、その声が彼のものではない事を確信した。
「まさか今のは」
 離宮の上を一度だけ旋回し、竜はそのまま彼方へ姿を消そうとしている。呆然とそれを見つめるティアの背後に、逃げ出した王女を捕まえようとこっそり離宮の兵士が近づいていた。
 いきなり後ろから羽交い絞めされて驚愕したティアは、かっと怒りで頬を赤くさせながら足を後ろに蹴る。
「私に触れるな無礼者!」
「ぎゃぁぁぁぁぁっ」
 思い切り股間を蹴られた兵士は一瞬で崩れ落ち、苦悶するように地面の上を転がった。
 鼻からふんと一息出した後、王女は非常に微妙な表情をしたダヴィドに「行くぞ」と急き立てる。
 建物が破壊される轟音に驚いて、何人かの兵士がこちらに向かってくるのが見えた。
 二人はより明かりの届かない繁みの中へ飛び込み、不運にも傾いてしまったオーギュスタンの離宮を後にしたのである。


 暗い景色の中を、走って、走って、走り続けた。
 王族の土地である為、離宮の周りには民家などは存在しない。ただ広大な森と平原が続くのみである。
 後ろから追って来る気配は既に無い。ダヴィドの案内に間違いが無ければ、この先のどこかにオスカー達が待っているはずだった。
 こんな事態になってしまってはそれも仕方が無いのか。しかし今更どんな顔をして会えば良いか分からないし、あの銀竜とクロウのことも気になる。
 そんなことを考えながら走っていると、思いがけなく何かに躓いてティアは派手に転倒した。
「大丈夫ですか、殿下」
「ああ、いや。何かに引っ掛かって」
「お前、人の足をふんづけておいて言う事はそれだけか」
 ぶつけた膝をさすりながらティアが立とうとすると、足元を覆う丈の長い草の中から大きな影が立ち上がった。
 一瞬警戒はしたが、聞き覚えのあるその声にティアはすぐ緊張を解く。
「クロウ、お前無事だったか。…………うげ」
 最後の変な声は、いざ近づいてみるとクロウの額が血まみれであることに気付いたからである。
 腰に括り付けた荷袋から適当な布を引っ張り出すと、もう一度クロウを座らせてティアは手馴れた手つきでくるくると布を巻きつける。昔から小さな怪我はしょっちゅうだったので、生活力は無くとも手当てだけは得意なのだ。
「もしかしてお前地下牢にいたのか? あの爆発の中よく無事だったな」
「まあ、手違いはよくある事だ」
「は?」
「おかしいな。俺の予定では入り口だけ吹っ飛ばすつもりだったんだが、どうして」
 クロウは独り言をぶつぶつと呟くだけで、ティアには何のことだかさっぱり分からない。すると足元から何かが勢いよく駆け上ってきて、少女の左肩に乗った。
 肩に鎮座したトカゲを見ると、ティアは思わずその身体をむんずと掴む。
「あれ、何でお前小さいんだ。さっきのは? あれ?」
 だが不思議な事にセーンはいつものように言葉を発せず、ティアの手の中で身体を揺らされるのみである。
「トカゲに話しかけてどうする。興奮し過ぎてまだ混乱してるのか?」
 素っ気無いクロウの言葉にティアはただ黙って視線を返した。そして彼らの再会を黙って見ていたダヴィドが、気遣わしげに二人を促す。
「お二人とももう少し歩けますか。ここではまだ追っ手に追いつかれる危険が高いので」
 ダヴィドは離宮から飛び出した竜の前足に収まる人影に気付いていなかったのだろう、クロウが独力で脱出したとすんなり思ったのか余計な事を聞こうとはしなかった。
「歩けるかクロウ」
「問題ない」
 槍を片手に再び立ち上がったクロウは本当に頭部の傷以外はどこも支障が無いようで、全くふらつきも無く歩き始める。
 未だ両手にセーンを抱えていたティアは、歩きながら爬虫類の逆三角の顔をじいっと間近で見る。トカゲはうるさそうに少女の鼻先を前足で押し返そうとし、態度だけはいつもと余り変わらないように思えた。
 よくよく考えてみれば、セーンは他の人間がいる時は殆ど荷袋の中に姿を隠してしまい喋った事もない。やはり喋るトカゲと広く知られるのは――いや、多分あの竜もセーンに違いないのだが、とにかく秘密にしたいのだろうと理解した。
 それにしても竜を使い魔にしているだなんてさすが自分の師匠だ、と不肖の弟子は一人悦に入る。
「ところでダヴィド、私達は一体どこへ向かっているのだ」
 暫く歩き続けてから尋ねたティアに、神官はふと立ち止まり振り返った。
「そうですね、もうここらで終わりにいたしましょう」
「え?」
 ダヴィドが指笛を鳴らすと、どこからとも無く十数人の人影が繁みの中から現れる。一瞬それがオスカー達なのかと思ったが、すぐにそうでない事が分かった。全員一斉に剣を抜いたからである。
 ダヴィドは今までの彼とは思えないほど俊敏な動きで、その一群の中へ駆けて行く。
「おい、どういう事だこら!」
「男と合流したのは計算外でしたが、まあ構いません。ここで二人とも消えて頂きます」
「お前、フラヴィの兄のダヴィドというのは嘘だったのか」
「いいえ、嘘ではありませんよ。ああ、そうそう。フォルマンの騎士殿には全く逆方向の場所で待機しているはずですから、助けを期待しても無理だと思います」
 冷静になって考えてみれば、あの離宮の住人でもないダヴィドが客室の鍵を簡単に開けてのけたのも十分おかしい事である。
 クロウを助けに戻ろうとしたティアをとにかく先に連れ出そうとしていたのは、襲うなら女一人の方が容易であるからだ。
「さて、ウェリフィン様から盗んだゴイルの印を返していただきましょうか」
 突然豹変したダヴィドの態度に混乱していたティアの思考が、その言葉に一瞬停止した。
 何故ここで姉の名前が出てくるのだ?
 しかしその続きを考える間もなく、一斉に敵が襲い掛かる。
「ぼうっとするなティア」
「分かっている。セーン、お前本当はあんなすごい姿をしているなら隠れてないで手伝え」
 落ちないように肩から素早くティアの懐に潜り込んだセーンは、鼻先だけを外に出して言った。
「断る。さっきので私はもう疲れた」
「なにーっ」
「諦めろ、こいつはそういう奴だ。ゲトリスクにだって絶対服従と言うわけでは無かっただろ」
 言われてみればセーンは使い魔のわりに、主人であるゲトリスクに対しても好きなように発言をしていた。
 使えない。全く使えない「使い魔」である。
 クロウの銀槍が唸りを上げて横に薙ぎ払われる。襲い掛かろうとしていた男達の剣が纏めて弾き返され、勢いを押し返した。
 その背後を狙おうとしていた敵をティアの剣が迎え撃つ。
 しかし幾ら二人の武術が抜きん出ていてもさすがに多勢に無勢だ、囲みを突破しようにも馬も無く、思った以上に形勢は不利であった。
 そんな中、一つの騎影が近づく。
「お兄様!」
「フラヴィ、何故お前がここに」
 昼間見た時よりも更に髪を振り乱したフラヴィが、突然戦いの場に迷わず飛び込んできた。彼女は兄にしがみ付き、涙を流しながら懇願する。
「もしも私の為にオーギュスタン殿下に脅されているのならもうおやめ下さい。そのお二人は昼間困っている私に親切にして下さいました、無闇に人を傷つけるのだけはどうか」
「何故ここが分かった」
「ヴァナル神殿を訪ねたら、オーギュスタン殿下からの使いが来てまた外出されたと聞いて神殿で馬を借りました。私……私お父様とお母様の話しているのを聞いてしまったのです。私は二人の子では無い、ただの使用人の子。そんな縁もゆかりも無い私の為に、どうかこれ以上罪を重ねないで下さいお兄様」
「フラヴィ、その男から離れろ!」
 敵の脇腹に一太刀あびせると、ティアは怒声を上げる。しかしフラヴィにはその声が届いていないのか、ただただ一心に兄を見つめて懇願しているのだった。
 ダヴィドはいつもと同じ柔和な微笑を浮かべると、そっと妹の頬に手を添える。
「気に病む事はない。ちゃんと父上や母上とお前は血が繋がっている」
「え?」
「分からないか。お前は私が十七の時に実家へ帰省した時、物欲しそうに私を見ていた使用人の娘に情けをかけてやった時の子だ。まさか子を宿すとは思いもしなかったが、私に堕胎させられるのを恐れてお前の母はあの家を逃げ出したのだよ」
 ダヴィドの口元が奇妙な形に歪んでいた。相変わらず微笑を浮かべているが、それがかえって違和感を覚えさせる。
 ダヴィドは神童と謳われる頃、既にどうすればこの世のありようを自由に動かせるのかという考えに固執していた。
 その為には父ロドルフのように、財はあっても権力を持たぬ存在では意味が無い。役人もまた、貴族階級かそれに繋がるものを持たない限り昇進するにも限界があった。
 所詮平民の出自である自分がのし上がるには、神官になるのが一番手っ取り早いと弱冠十三歳の時に結論を出したのである。
 神官の世界では暗黙の了解で、生涯を独身で通し神に仕える者が指導者として選ばれる事が殆どであった。
 責任のある者ほど人生の殆どを神殿に詰めた生活を送らねばならないし、世襲は不可能だが自分の子を神官にして優遇したり、余計なしがらみの可能性がより少ない者の方が神職の指導者としては都合が良いからである。
「どこから聞きつけてきたのか、父上が余計な事をして孫であるお前を引き取ったのだ。私はあの時、どうして何もしなかったのか今でも悔やんでいるよ」
「お、お兄さま」
 フラヴィの柔らかな頬に触れていたダヴィドの指がゆっくりと滑り落ち、華奢な喉元にあてがわれる。
「華々しい私の出世劇に、私生児がいたという醜聞はいらぬ。お前のせいで私の計画は狂いっぱなしだ、慎重に進めていた計画がいつあの王子にばれるかとこの所はずっと肝を冷やしっぱなしだった」
「くっ……おに、さ……放し、て」
 ダヴィドはそのまま右手一本でフラヴィの喉を締め上げ、残る左手を翻した。
 瞬間、フラヴィの薄い水色の瞳が衝撃に見開かれる。開けられたままの小さな唇が小刻みに震えた。
 少女の腹部にめり込ませた手を引き抜くと、ダヴィドの手には短剣が握られている。父が持つそれは、実の娘の血に染められた凶器だ。
「だから死んでくれ。お前も大好きな兄の人生の邪魔になるのは、本意ではないだろう?」
「フラヴィ!」
 その光景を目の前にしながら、ティアは阻止する事ができなかった。近付こうとすると剣を携えた男達が壁となって阻み、その位置まで踏み込む事ができなかったのだ。
 血が流れている。栗色をしたくせ毛の、若い娘の腹から。
 段々と光を失ってゆく水色の瞳。あれは誰だ、フラヴィ?
「――――違う、イルゼだ」
 あれは姉の謀略によって命を落とした哀れな侍女。自分が守る事ができなかった尊い命。
 浅い呼吸で肩を上下させ、赤い髪の王女は呟く。上げられた双眸からは感情が姿を消し、虚ろな狂気の光がたゆたっていた。
 声も無く突然駆け出した赤い疾風は、今までより更に速さを増して刃を振り下ろす。
 目の前に立ちはだかる男達の首を刎ね、腕を切り落とし、腹を引き裂いて臓物を飛び出させた。
 悪鬼の如く変貌した少女は自らの防御は全く省みない。クロウは厳しい表情で戦線に加わりながらも、ティアの死角になる敵を確実に仕留め彼女とも一定の距離を保った。
 あっと言う間に自分の手勢が半分以下に減って行く様を見て、ダヴィドは忌々しげに立ち上がる。既に動かなくなったフラヴィをうち捨て、彼女が乗って来た馬に飛び乗った。
 主に見捨てられた剣士達は、走り去る馬の尻を見て一気に戦意喪失する。方々の体で逃げ出し、後には死体が転がるばかりである。
 馬で逃げたダヴィドの追跡は、とうてい徒歩では無理だった。あっと言う間に闇に溶け込み、視界の届かない所へ消えてゆく。
 するとティアは何を思ったのか、既に事切れた遺体の腹目掛けて何度も何度も真っ直ぐに剣を突き立てるではないか。
「止めろティア」
 クロウの言葉は耳に聞こえていても、頭に、そして心に届かなかった。行為を止めないティアの剣を、青年は強引に槍で受けて動きを止める。
 振り向いた少女の頬も衣服も、そこら中に返り血を浴びて真っ赤に染まっていた。
「私は望んだ事も無いのに、姉は自分の王位継承を確実にするため私を殺そうとした。そのせいで私の大切な友人は死んだ」
「だから何だ」
 切り捨てるようなクロウの言葉に、虚ろだったティアの青い瞳が見開かれて相手を睨みつける。
「このまま泣き寝入りなどするものか。あの女が後生大事にしまっていたゴイルの印を持ち出し、代わりに『神々の記憶』を探し出して私が何もかもを奪ってやるのだ!」
「……特別に、一つ教えてやろう」
 興奮したティアとは対照的に、クロウは真冬の湖水の様に冷たく冴え冴えとした表情を見せた。どんな仕掛けになっているのか、手にしている槍ブリューナクが音も無く自ら白い光を発し始める。
「あれはそんな生易しいものじゃない。何でも願いを叶えてくれるだなんて、単なる幻想だ」
「何?」
「行け、ブリューナク」
 その短い言葉で、白銀の槍は主の手から離れて飛び出した。と言っても二人は元々至近距離にいたので、ほんの少しの距離に過ぎないが。
 ブリューナクは真っ直ぐティアの胸目掛けて飛んだ。
 表現できないほどの激しい衝撃に、ティアは声も無く槍を胸に突き立てたまま後方へと吹っ飛ぶ。

 ああ、だがこれで自分は解放されるのだ。

 どうしてクロウが突然こんな事をするのかは分からなかった。
 しかしそんなふうに思うだけで、ティアの表情は自然と穏やかになっていた。
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