第六章、魔術師の日記

 主神ヴァナルの父の名を冠したユミルの間にて、フォルマン国王フランツ三世は落胆の溜め息を漏らす。
 神話をなぞらえた美しい天井画に、金箔をめぐらされた煌びやかな柱。部屋の色に合わせてしつらえられた山吹色の革張りの椅子に腰掛けた国王の前には、彼の甥であるオスカーが跪いていた。
「力至らず、面目次第もございません陛下」
 フランツ三世は背が低くやや恰幅の良い、どこからどう見ても人の良さそうな風貌をした中年男性である。特別な才能を持ち合わせていない代わりに、その人柄の良さと人望だけで成り立っている王であった。
 よく言えば善良、悪く言えば能無しと囁かれる彼であるが、度量が広く不思議と優秀な人材には恵まれているので大臣達がフランツ三世をしっかりと支えてくれている。
 幸いに彼の三人の娘は皆美人の母親似であるが、父親が甘いのを良い事に次女は剣術に明け暮れ、三女は学問と研究の道に没頭するというかなり個性的な育ち方をしてしまった。しかも現在その二人の王女は家出、研究という理由で王都に不在である。
「この責めは何なりと」
「娘は自らの意思で出奔したのだ、それには及ばぬ。それにお主が見つけ出せぬのなら他の誰をやっても結果は同じであったろう。この上は、ティアナの無事をヴァナル神に祈るしか手立ては無いか」
「ですが陛下」
「あれの母ヘルミーネは不幸な事になったゆえ、せめて娘には幸せな結婚をさせてやりたかったのだがなあ」
 暫く目を瞑って沈黙した後、フランツ三世は甥を穏やかな目で見つめる。
「お前の母がずっと息子の安否を気にかけていた。早く顔を見せて、我が妹だけでも心安らかにしてやってくれ」
 王と違ってオスカーは厳しい表情を崩す事は無く、ただ黙って深々と頭を下げるのみであった。

 王との謁見を終え、オスカーは両側に神々をかたどった大理石の彫刻が並ぶ廊下を一人歩む。
「帰ったのですね、オスカー」
 不意に声を掛けられ、振り向いた場所に立っていたのはウェリフィン王女であった。
 目にも鮮やかな若草色のドレスを纏い、編んだ輝く金髪を両側の耳の上で一周くるりと巻いた清楚な出で立ちである。
「ティアは見つかりましたか?」
「いえ、残念ながら」
「そうですか」
 長い睫毛を伏せ、ウェリフィンの美しい顔は本当に落胆している様にも見える。幼い頃からよく知った仲ではあるが、正直オスカーには彼女の本心がどこにあるのか分からないでいた。
 二、三短い言葉を交わすと、長旅の帰還直後という事もありオスカーは早々にその場を辞す。
 そしていくらか足を進めた後に、ふと振り向いた。
 視線の先にいる、ゆっくりと歩き去るドレスを着た華奢な後ろ姿。彼女はまさに姫という名にふさわしい人であった。
 今よりももっと身体が弱く、かつて病床にあることが多かったウェリフィンの少女時代。しかしその美しさと心根の優しさは誰よりも輝いていて、当然の様に少年オスカーの未熟な騎士道精神を激しく揺さぶった。
 ティアが勘違いしたのも仕方が無い。自分でもウェリフィンに対する気持ちが、美しき未来の女王に対する忠誠心の表れでしか無かったことに気付いたのは、つい二年前の事なのだから。
 子供子供だと思っていたティアナが、十五歳の披露目をするためにその瞳と同じ、抜けるような青色のドレスに身を包んで人々の前に姿を現したあの日。
 いつの間にか成長した女性的な美しさと、今にも空に羽ばたいて行きそうな自由な魂に魅了されて以来、オスカーは剣術の稽古相手になることができなくなった。
 ほんの少しの掠り傷であってもティアに負わせることが躊躇われ、稽古に集中できない事が逆に危険だと思ったからである。
 稽古の相手を素っ気無く断った時も、彼女が城から姿を消す前に深刻な表情で相談してきたあの時も、本来元気の塊の様なティアはとても失望した様にオスカーを見つめていた。
 結局何一つティアにとって良き事を成す事ができなかった過去に後悔し、本当に今自分がすべき事が何であるかをオスカーは自問自答し続ける。
 頭のどこかでは、既にそれが遅すぎた気付きであると自覚しながらも。 


「わたくしはお育て方をやはり間違ったやもしれません」
 窓際に立つ背筋の伸びた老女の後ろ姿。所々白髪が混ざってはいるが、一つに纏められたその髪束は鮮やかな赤い色をしていた。
「ちゃんと聞いておられるのですか!」
 机の上に置かれた焼き菓子に手を伸ばそうとしていた少女は、大きな声に驚き慌ててその手を引っ込める。
 窓の方を向いているはずなのに、実は後ろにも目が付いているのではないかと思われる程の察しの良さである。
「娘のヘルミーネの時は夫ヴィクトールの方針で厳しく躾けたため、優しい子ではありましたがやや内向的な娘になってしまいました。おかげでろくに恋もせずに王のお手つきになってしまい、宮廷で権勢を奮うでもなく小さくなって暮らすばかり」
「いや、父上は良い方だとおも」
「誰があんなぼんくら」
「ぼ、ぼんくら……」
 本来はここに居るはずの無い人物、ティアナ王女は思わず苦笑する。
「相手が王と言えども所詮は側室の身。ヘルミーネのように気の弱い娘には宮廷暮らしは土台無理だったのです。あの子にはもっと見目が良く才能のある婿をと考えていましたのに」
 拳を握る祖母ハイデマリー・フォン・ダールベルク伯爵夫人は、そう言いながら振り返った。
「ティアナ様をお預かりした時、わたくしは心に決めたのですよ。娘の時は失敗しましたが、今回は生真面目の塊の夫は既に居ない。正妃様のお子は別におられる事ですし、王位継承には関わらないと考えて今度こそはのびのびとお育てしようと」
 五歳になるまでティアは母と共に、ここダールベルク家の屋敷で生活をしていた。そして病床のヘルミーネに代わって王女を育てたのが祖母である。
 いずれ王宮に戻ることになるのなら、ここに居る間に見聞を広めて幅広い価値観の下地を作ろうと、ハイデマリーは幼いティアを比較的自由に育てた。当時の遊び相手の中に庶民である庭師の息子がいたのもその一環だ。
 しかし豊かな感受性と強い心を持つ女性に育つはずが、いつの間にか剣術に傾倒しておまけに今は家出中の身である。
 昨日の夜中、突然オスカー達一行に匿われる様にして館に転がり込んできたティアを見てハイデマリーは心底驚いた。
 その上王宮にも誰にも知らせず匿ってくれと頼まれて、更に驚く。
 本来この館の主人であるべきティアの伯父、現ダールベルク伯爵は宮廷に出仕する身であるので家族と共に王都にいたが、留守を預かる祖母はティアの真剣な表情を察し孫をすんなり受け入れる事にした。
 王宮に知らせを入れないことが王への裏切りに繋がるだとかそんなことは、「そうすべきだけの理由があればよろしい」というハイデマリー特有の自己判断によりあっさりと排除されてしまったのだった。
 肝が据わっていて大変頼もしい祖母なのであるが、どこかの孫同様気が強い事この上なく、ティアにとって最も頭の上がらない存在であることは確かである。
「あなたに一体何が起こっているのか、それを今詳しく聞くことは止しましょう」
「ありがとうございます。もう頼れるのはお祖母様しかいなかったのです」
 一つ息を吐き出すと、ハイデマリーはテーブルを挟みティアの向かい側の椅子に腰掛けた。
「どうぞお食べ下さい。今朝作らせたのですよ、そのお菓子はあなたの好物でしょう」
 凛としたハイデマリーの表情がふっと和らぐと、同じ髪の色を受け継いだ孫娘を優しく見つめた。

 ◇

 今から十日程前の事。
 ドーフィネスの地でティアはクロウの槍に胸を刺されて後、それ程時間を経たず再び目を覚ました。
 目の前には松明の火に照らされた第三王子オーギュスタンの顔があり、自分は死んでいなかったのだとぼんやり思う。
 起き上がろうとすると胸に鈍痛が走り思わず手で触れたが、出血はどこにも無く打撲痛であることを知った。そして、そこにあるべきものが形を変えていた事も。
 ティアは服の中から紐を引っ張り小さな袋を取り出すと、その中身を手の平に乗せた。ばらばらと細かい欠片が幾つも転がり出て、狭い手の平からその半分以上が地面へと落下する。
「ああ、壊れてしまった」
 槍の先は偶然ティアの服の下に隠れているゴイルの印に当たり、代わりにこれが砕け散ってしまったのだ。もう、これでは使い物にならない。
 既にクロウはその場から姿を消していた。オーギュスタンの部下に助け起こされながら、ティアは力の無い視線を上げる。
「血まみれだし見つけた時はてっきり死んでいるかと思ったよ。なかなかに悪運が強いようだね君」
「確かに、良いのは悪運だけな気もするな」
「ああ……それにしてもダヴィドの尻尾を掴む為に、僕はとんでもない代償を支払う事になってしまったな。ところでティアナ殿は一体どこで竜と知り合いになったんだい?」
 そう言えばティアの懐で蠢く感触がまだ残っていた。セーンは未だ彼女の服の中に隠れたままのようである。
 それにしても今のオーギュスタンの発言は一体どういうことなのか。
 この変態王子は始めからダヴィドの企てを知っていたのかと、ティアは目をまん丸にする。
「連れておいで」
 心得たように二人の部下が何者かを荷車から落とした。そのまま地面を引き摺る様にして王子王女の前に連れてこられると、手足を縛られて自由を奪われた男――ダヴィドが表情を消した横顔を覗かせる。
「大神官の爺がさ、自分が動けなくなってからこの男の動向が怪しいから調べてくれって言ってきたんだよ。あの爺さまには借りがあるし、断ると死ぬまで恨みを言われそうだから引き受けたんだけど、いい暇つぶしにはなったかな」
「は?」
 事の始まりは、ドーフィネスの大神官がオーギュスタンにダヴィドの動向を調べてくれるように依頼したことから始まる。
 ダヴィドは既にこの時点から、ウェリフィンとの密約で大神官だけにしか場所を知らされない秘密の書庫を探していた。
 そこにオーギュスタンから「秘密の書庫を探せ」と全く同じ命令をされたものだから、ダヴィドは自分の隠密行動が王子にばれているのかと一瞬焦ったわけである。
 しかし最終的には単なる自己中心的な王子の我が儘とあなどり、まんまと罠に嵌められてしまったのだ。
 だがダヴィドは大変用心深く、中々決定的な証拠が掴めなかった。ウェリフィンが何かしらの形で関わっている事は既に気付いていたので、偶然トゥールでティアを見かけたオーギュスタンは一気に事を片付ける策を考えついたのだ。
「あの時点ではティアナ殿がウェリフィン殿の仲間という可能性も捨てきれなかったし、まあ君にはそんな器用な真似は無理だろうけど」
「悪かったな」
 自分が囚われたと思ったティアの元にダヴィドを向かわせる事で、二人の置かれた立場がはっきりするという訳である。
「あの黒髪の槍使いは結構頭が切れそうだったから地下牢に閉じ込めておいたんだけどさ、彼は一体何者なんだい?」
 興味しんしん顔でそう尋ねるオーギュスタンに、ティアは「そんな事は自分の方こそ知りたい」とまだ痛みの残る胸をさする。
「つまりお前、私が単純だからあえて駒として使ったと言いたいんだな。ふふふ」
「やだなあ、君がこの件に加担していないことは信じていたよ。僕ら親戚じゃないか」
「姉上もお前の従妹だが」
「まあまあ。確かに君も危ない目にあったかもしれないけどさ、僕なんてお気に入りの離宮をすっかり壊されて貧乏くじを引かされたようなもんだよ。あー、あれはもう建て替えるしかないだろうなあ。お金がかかるなあ」
「うっ」
 真相は地下を吹っ飛ばしたのはクロウであるし、最後の止めを下したのはセーンである。だが全く自分は与り知らぬとは言い切れなくて、ティアは言葉を詰まらせた。
「今回はお互い様と言う事にしておいてあげるよ、ティアナ殿」
 何やらいまひとつ納得がいかないような気がしたが、結局ティアは頷かざるを得ない。
「それにしても馬鹿にしてくれたもんだよねえ。アヴァロンの事について調べ報告しろと言ったら、誰でも調べれば分かるような事しか僕に報告しないんだから」
 隣に立つ部下の手から松明を受け取ると、オーギュスタンは無造作にその先端をダヴィドの太腿に押し付けた。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ」
 衣服に火が燃え移り、焦げた臭いが鼻腔をつく。耳を塞ぎたくなる様な聞き苦しい悲鳴をあげ、ダヴィドは芋虫の様に転がり回った。
 かろうじて神官のローブに灯された火は消されたが、布地が焦げて穴が開き、火傷を負った太腿目掛けて容赦無く王子の靴底が振り下ろされる。
「うっ」
「もうお前と遊ぶのは飽きたから、ここで死んでも構わないんだよ。幸いな事にお前の娘は命を繋いでちゃんと子孫は残せるわけだし、心残りも無いだろう?」
 ぎりぎりと火傷部分を踏みつけながら微笑を浮かべるオーギュスタンの言葉に、ティアは反射的に聞き返す。
「娘?」
 フラヴィは死んでいなかった。ダヴィドは逃げ足こそ速いが武術の心得は無かったので、短剣で刺した傷もそれ程深くなく、運良く内臓も傷付かなかったのだ。
 気まぐれなオーギュスタンがたまたま彼女を救う気になった事も大きな幸運である。彼は徹底的に興味のある対象しか視界に入れない性質なので、下手をすればそのまま放置されていた可能性もあったのだから。
 フラヴィは既に応急処置を済ませ離宮の方へ送られたと聞き、ティアは自然と表情を和らげる。
「そうか、生きていたか。それは良かった」
 本当に良かった。二度も殺される所を見なくて。
 心の底から、ティアは生存の報告を神に感謝した。
「そうそう。ダヴィドが書庫から持ち出していたこの本、中を見たら僕よりずっと君の方が関わりが深いみたいだから進呈しよう」
「私に? しかしそれは秘密の所蔵なのだろう」
「こんな辛気臭い本要らないよ。普通に保存するには手に余ったから、あそこに封印されていただけみたいだし」
 古びた革の表紙には題名が何も書かれていない。オーギュスタンが差し出したその本を受け取ると、ティアの指先から一瞬ぴりりと静電気の様なものが走り抜けた。
「何だ?」
 何か仕掛けがあるのかと裏返してみたが、何の変哲も無いただの本の様である。
「おや、ようやくお迎えが来たようだ」
 オーギュスタンが視線を巡らし、闇の向こうから複数の蹄の音が聞こえてきた。
 ダヴィドの策略によって遠くに追いやられていたオスカー達は、様子を伺っていた離宮の余りの騒ぎの大きさに待っていられず、離宮とその周辺をずっと探し回ってようやく目的の王女を捕まえる事に成功したのだ。
「なあオーギュスタン、『神々の記憶』を手に入れるって話は本気だったのか?」
 美しい横顔を覗かせながら、年上の従兄は夜空に浮かぶ半分の月を見上げる。
「さあねえ、でも仮に伝説が本当だったとしても不老不死だけは望まないよ」
 意外そうな表情を見せるティアを横目にし、オーギュスタンは妖艶に微笑んだ。
「限りがあるからこそ、誰しも最終的に人生というものは救われるのではないかな。それに僕は、叶えたい事はどんな手を使ってでも自分で成し遂げるからそんなもの必要ないのさ」
 最後のはいかにもオーギュスタンらしいと、少女は小さく笑った。
 既にゴイルの印を失くしたティアには、旅を続け、魔術を習う理由がもはや存在しない。
 フォルマンに帰った後これからどうするべきか。結局何一つ解決しないまま、ティアの旅は終わりを告げたのであった。


「あの時は本当に自分がもう死ぬと思ったのだ。思い込みとは凄いものだな、セーン」
 昔自分が使っていた部屋を宛がわれたティアは、椅子でも羽根入り座布団の上でもなく絨毯の上に座り込んでいる。
 元々出奔する前のティアは表向きこの屋敷に向かう予定であったので、祖母が必要なものを粗方準備しておいたのだ。
「それを言うなら私の方が生きた心地がしなかった。お前の服の中で串刺しにされては死んでも死に切れぬ」
「どういう意味だそれは」
「それにしてもティア、今自分がどれだけ不可思議な格好をしているか自覚はあるのか」
 美しい刺繍の施された椅子の上に寝そべるセーンは、呆れたように丸い目を瞬かせた。
 広い部屋の真ん中で胡坐をかき、背をベッドに預けて難しそうな顔で本を読む一人の少女。そこまではまだ許せるとしても、彼女の服装がいつもの動き易い男装ではなく鮮やかな葡萄色のドレスを身に纏っているのだ。
 一般の婦女が一生着る事の無いような、上等の布と仕立てを施されたその葡萄色のドレス。顔立ちのはっきりしているティアにはとても良く似合い、黙って立っていれば王女で通るのに長いスカートの裾を捲り上げ、潔く大股を広げている様は一見倒錯した絵面となるのである。
「お祖母様があの格好だと屋敷には置いてくれないというのだ。久しぶりに着るとこう、わさわさして鬱陶しいがそれも仕方ない」
「それでその祖母から話は聞けたのか」
「まあ大体はな。やはり十六年前、この屋敷へ魔術師が一人やって来たことがあったそうだ。かなり独特の雰囲気だったからようく覚えていたそうだぞ」
 ゴイルの印を失い、失意のうちに帰国の途に着いたティアはその道すがらオーギュスタンから託されたあの古びた本を手に取った。
 異国人の手によるものだが幸い記載は大陸北西部に広く分布する古語のルシン文字でなされており、所々躓きつつもティアは根気良く読み進めていったのである。そしてその中には、とんでもない真実が記載されていた。
 その日記の書き手はメタニヤフという、フォルマン国よりもずっとずっと東生まれの魔術師であった。
 ちなみに魔術師の記載する日記とは、自らが会得し行った術の仔細を記録に残す事が本来主目的であるため、記載者が積み重ねてきた魔術歴の集大成とも言うべきものである。
 メタニヤフは様々な魔術に精通し、それなりに名の通った存在であったらしい。
 故に、やがては更なる力を求めてゴイルの印をどこからか手に入れ、アヴァロンの地を探す旅に出た。

 ――――私の頭の中へ、ゴイルの印が囁き続ける。
「そなたは我によって選ばれし術師。我が指し示す方角にある刻印されし黒き髪の男から、アヴァロンへの道を示し『神々の記憶』をも操る、かの鍵を奪え」
 あれからノルグ大陸をさすらい続け、どれだけの時が過ぎたのか。大地を歩み続ける私の両足は衰え、杖を持つ手も枯れ木のように惨めな姿に落ちぶれた。
 もう私に残された時間は少ないだろう。どうして見つからない、その鍵を持つという男は一体どこにいるのか。
 
 そうしてメタニヤフが最後に辿り着いたのが、このフォルマン王国だった。
 彼は遂にアヴァロンの地に立つ事ができなかった自分の人生に絶望していた。長い旅に終止符を打ち、この西国で最後を迎えようと安住の地を求めたのである。
 優れた魔術師であるメタニヤフはかつて母国で、旅の途中通り過ぎた各国で、有力者がその地に留まるようパトロンを申し込んでくるという経験を幾度もしてきた。
 そんな自分の才覚に絶対の自信を持っていたメタニヤフが白羽の矢を立てたのは、当時国王の第二王女を産んだばかりの側室の実父ヴィクトール・フォン・ダールベルク伯爵である。
 正妃よりも側室側の方が、占いでもまじないでも需要が大きいと踏んだのだ。
「それがな、お祖母様の話によるとそのメタニヤフという魔術師は随分と居丈高で鼻持ちならない奴だったらしい。元々お爺様は生真面目な現実主義者で、魔術の類には全く興味を示さない方だった。偉そうに自分を雇えと言う魔術師を、取りつくしまも無く追い返したそうだ」
 自尊心を酷く傷つけられたメタニヤフは、結局失意のまま暫く後に亡くなったようで日記の記載は途切れている。
 しかし一番最後のページに綴られた乱れた文字は、読む者に戦慄を与えた。

 ――――あのダールベルクという男を決して許さぬ。
 我が手は槍、我が手は剣。この場においてこの場にあらぬもの。冥府の女神よごらんあれ、かの者の心の臓を食らい尽しその血を捧げん。
 ――――恨めしい。どうして人は限られた時間の中でしか生きられぬ。
 私が死んだ後は、また他の者がこのゴイルの印を手に取るのだろう。私が遂に辿り着けなかったアヴァロンの地へ、かの者は行くのかもしれない。
 そう思っただけで、この身は嫉妬の業火で焼き尽くされてしまいそうだ。
 だから私はこの魂を裂き、この石に一つの賭けをすることにする。
 願わくば、ダールベルクの娘が産んだあの姫がこのゴイルの印を一番初めに手に取る事を期待して。

「どういう意味だ」
 セーンにも分かるように音読していたティアは、思わず顔を上げる。つまり「あの姫」とは、自分に相違なかった。メタニヤフはあのゴイルの印がいずれティアの手元に行くことを期待していたのか。その裏に隠された真意とは?
「ええい。他の魔術は事細かに記載しているくせに、最後は気になることだけ書いてそのまま死んだのだな。根性の無い」
 セーンが椅子から飛び降り、ティアのすぐ側までやって来ると本を覗き込む。
「我が手は槍、我が手は剣……これは古い呪詛の言葉だ。恐らくお前の祖父はこの魔術師に呪い殺されたのだろう」
「そんなはずは無い。祖父は誤って露台から転落して亡くなったのだから」
「ティアナ様!」
 突然部屋の扉がどばーんと開き、ハイデマリーが中に入ってきた。王女と喋るトカゲは驚いて固まり、声も無い。
「あら、どなたかとお話をされていたようですけれどわたくしの気のせいでしたかしら」
「ほ、本を音読していたのです」
 しかしハイデマリーの鋭い視線が、ティアの側にいる銀色の爬虫類を見逃すはずが無かった。
「またそんなものをお部屋に入れて。昔も何度か森で捕まえた動物を勝手に持ち込んだことがありましたけれど、今度はトカゲでございますか」
「トカゲではな……」
「わーっ。と、ところで何か御用でいらしたのでは?」
 普段は正体を隠したがるくせに、ハイデマリーの言葉にむっとして抗議しようとしたセーンをティアは慌てて背後に隠す。
 はて、自分と孫以外の声が一瞬聞こえたような。ハイデマリーは小首を傾げながらも喋り始めた。
「先ほど十六年前の事をお尋ねになられたのは、もしや夫ヴィクトールの事故死について未だ埒も無い噂が残っているからではありませんの? もしそうであればとんでもございません、露台のすぐ端でヴィクトールは突然の心臓発作で倒れたのですわ。落ちそうになる夫を助けようとしたヘルミーネはそれを支えきれず、一緒に落下してしまったのです。全く、誰が気がふれたなどという妄言を広めたのでしょう、失礼な」
 ――――我が手は槍、我が手は剣。この場においてこの場にあらぬもの。冥府の女神よごらんあれ、かの者の心の臓を食らい尽しその血を捧げん。
 心臓発作。その単語は魔術師メタニヤフが日記に綴った呪詛の言葉を思い起こさせた。
「それは確かなのですか、お祖母様」
「間違いございませんよ、ヘルミーネ自身から聞いたことですから。ティアナ様はまだお小さかったので、事故の事に関しては後々お話しようと思っていたのです」
 言いたい事を言ってすっきりしたのか、ハイデマリーはそのまま部屋を出て行ってしまった。あっけに取られたティアは、呆然と閉じられた扉を見つめる。
「良かったな、あっと言う間に謎の一つは解決した」
 そしてセーンが示した残る謎とは、文末に綴られていたゴイルの印についての「メタニヤフの賭け」だ。
「単純に考えれば、あのゴイルの印には何かしらの呪詛でもかけられていたということか。だが私はあれを触っても何とも無かったぞ?」
「少し敏感な者であればあのゴイルの印も日記も、直接触れた者は少なからず精神に呪詛の影響を受ける。ドーフィネスの神官も多分例外ではない、お前が魔力に対して鈍感過ぎるのだティア。まあ、ここまで体質的に合わないというのもある意味珍しいが」
「なんと、私はそこまで魔術の才能が無かったのか」
 淡々と語るセーンの言葉に、ティアは少なからず衝撃を受け肩を落とす。
「それと恐らく、ゴイルの印にかけられた術は一番初めに手に取った者に対して効果を発するものだったのだろう。姉が先に持っていたのなら、メタニヤフの企みは外れたのだな」
「では姉が突然別人の様に変貌したのは、この逆恨み魔術師のせいなのか。もしかしたら私が受けるはずだった呪詛を、姉が代わりに受けてしまったと?」
「今更真相を知ったところでどうにもなるまい。お前は殺された侍女の敵討ちの為に、姉から全てのものを奪い取るつもりなのだろう」
「違う、あれはクロウが」
 フラヴィが殺されたと思ったあの時、どうしようもない感情の昂りを持て余して暴走したティアは、信じていた姉に裏切られイルゼも殺された事をクロウに漏らした。
 同情してもらいたかった、可哀想だなと優しい言葉を期待していた。
 だがそれをクロウにあっさりと切り捨てられ、怒りに駆られたティアは思わずそう言ってしまっただけなのだ。
 何ということだ、とティアは言葉を失い口元を手で覆いながら頬を染める。知らず、いつの間にかあの槍使いに甘えようとしていた自分の姿に気付いたからだ。
 それを見透かした上で、クロウは自分に寄りかかられることを拒絶したに違いない。ああ言われて当然だ、今の冷静なティアならそう思うことができる。
「私は『神々の記憶』が何でも願いを叶えてくれると聞いて、姉を元の優しい姉に戻してもらおうと思った。姉の罪が消えるわけではないが、それでも私は今城にいる姉が本来の姿ではない事を信じたかった」
 そのまま城に留まる事でいつか姉を斬り捨ててしまうかもしれない自分を恐れ、ティアは思い切って飛び出したのだ。
 だがクロウはティアに槍を突き立てる直前、「神々の記憶」が何でも願いを叶えてくれるという話は幻想に過ぎないと言っていなかったか。
「神々の記憶」そのものが存在しないのか、それとも伝わる話とは違う力を持つものなのか。それが確かだとすれば、ティアも過去のメタニヤフも骨折り損というものである。
 どちらにしろ既にゴイルの印を失った今、ティアの計画はまた一から考え直さねばならなかった。
 自然の力を源にして魔力に変える近年体系化された魔術「マゲイヤー」とは違い、呪詛は魔術師と神官が一つのものであった古代に使われた降神術「テウルギア」の一部である。
 中でも呪詛は術者の命を削って行われるものが大半で、古代での術者が宗教者としての面を持つからこそ使用を許された門外不出の技であった。
 宗教と魔術が切り離されてから何百年もかけて、現在の魔術「マゲイヤー」は改良されてきた。ゲトリスクが使い教えたものもマゲイアーであるし、今ではテウルギアを知る者は殆どいないと言える。
「セーン、呪詛はどうやって払えば良い」
「知らん」
「お前、ここまで軽やかに説明しておいて肝心の事だけ知らないなんてことあるか」
「私は使い魔であって、魔術師ではないからな」
 しれっと答えるトカゲを見やり、そう言えばこいつは「使えない使い魔」であったのだとティアは顔をしかめる。
「大神官なら何か知っているかもしれないが、迂闊に私の帰国を他の者に知らせたくも無いし」
「他にいるだろう、もう一人」
 セーンの呟きに小首を傾げた王女は、その数秒後に意を汲み取ると勢い良く立ち上がった。
「よし、倉に行くぞセーン」

 天窓からわずかな光が届くだけの薄暗い倉の中。
 太腿に痛々しい包帯を巻き、足首に鎖を繋がれたその者は入り口の扉が開き差し込んでくる外の明るさに目を細める。
 見張り兵にねぎらいの言葉を掛けて中に入ってくるのは、ドレスの裾を颯爽と捌きながら歩く一人の少女であった。
「そうしているとやはりあなたは王女なのだと感心致しますよ」
「褒め言葉は素直に受け取ることにしている。ところでお前に尋ねたい事があるのだ、優秀と誉れ高い若き聖導神官よ」
 無精髭の伸びたやつれ顔を、ダヴィドはゆっくりと上げる。
 隣国の王女との謀略に加担した神官はその場でオーギュスタンの手にかかる事は無く、生き証人としてティアがその命を貰い受けていたのだった。


 既に夏の様相が板についてきた王都サンブルクだが、国王の居城はいつの時期でも役人や貴族が集い賑やかなのは変わりない。
 広大な敷地を囲い込むのは緻密に積み上げられた石垣の城壁で、一番外側から最奥の王族居住区までは三つの門を通過せねばならなかった。
 しかしそれも大貴族の家紋入り馬車であれば、二つの門までは特に止められることなく入ることができる。
 最後の門の前へやって来ると、ダールベルク家の紋章入り馬車を止めた御者は、二人の門兵の前に立って目深に被ったつば広帽子をくいと上げてみせた。
 始めは訝しげに目を細めた門兵達だが、御者の顔をまじまじと見た後大きく口を開ける。
 御者は口元に人差し指を当てて門兵の声が漏れるのを制すると、こう囁いた。
「実は私の行動は父上も了解の上のある作戦でな。ここでお前達に騒がれるととても困るのだ」
 帽子の下からわずかに覗く赤い髪。真っ直ぐ見上げてくる青い瞳の力強さにうろたえ、門兵達は思わず声も無く頷いてみせる。
 行方不明中の王女は馬車よりも直接馬に乗って出かける事が多かったので、高貴な身分の割には門兵にも顔をよく知られていた。以前は侍女のイルゼに散々文句を言われたものだが、こうしてはったりの一つで目的を遂行できるならば儲けものである。
 城の中には多くの様々な人間がいる。しかしここで十二年暮らしたティアは、どこがどの時間に人気が少ないのかということを熟知していた。身なりさえ整っていれば、堂々と歩いている方がかえって怪しまれないものなのだ。
 独断の行動をオスカーに見つかればまた叱られるだろう。しかし城中ならばウェリフィンとて派手に人を動かす事は憚られるだろうし、一応綿密な計画と準備はしてきたつもりだ。
 ダヴィドに証言をさせて全てを明るみに晒すのは簡単な事である。しかしそれでは、自分の代わりに呪詛を受けたウェリフィンを救うことにはならない。
 一人薄暗い廊下を歩きながら、ティアは何も乗っていない自らの左肩の軽さに思わず小さな溜め息をついた。
 昨夜からセーンの姿が消えていた。できれば最後まで一緒に居て欲しかったが、そもそもあのトカゲは気まぐれにティアに付き合っていたに過ぎぬ。きっと元の主人のもとに戻ったのだろうと、ここはすっぱりと諦めるしかなかった。
 城は大まかに三分割して呼び分けられているが、その中でもとりわけ東の棟はひと気が少ない。三階のある部屋の前までやって来るとティアは一応周囲を確認した後、一本の鍵を取り出した。
 ここはかつてティアの母が使っていた部屋であり、祖父と母が落下したいわくつきの露台がある場所である。ヘルミーネにはいつかまた帰ろうという思いがあったのか、療養先の実家にこの部屋の鍵を持ち帰っていた。
 フランツ三世がこの事故のことについてどのように考えていたのかは分からないが、ヘルミーネが亡くなった後もこの部屋はずっと封印されたままでティアも一度も入ったことが無い。
 噂好きな城の侍女達はこの部屋を不吉がって近付く事もなかったので、今のティアにとっては好都合な場所なのであった。
 扉を開けると、鎧戸が閉められた薄暗い室内が出迎える。埃くさい臭い、白い布が掛けられた調度品の数々。
 当たり前だがティアが一歳時までしか使われていなかった部屋に郷愁を感じる事は無く、さっさと部屋の中央を横切ると空気を入れ替える為に全ての窓を開け放った。

 ◇

 十六年前の側室転落事件から人気の絶えたこの部屋に、二人目の来訪者がやって来たのはそれから暫く後である。
「ティア、良く無事で帰ってきましたね」
「お久しぶりです、姉上」
 戸口に一人で立つのは、濃紺のサテン地に銀糸の刺繍を施したドレスを纏ったウェリフィンである。姉は白皙の頬に微笑を浮かべ、妹の方もわずかに口元を綻ばせて言葉を返した。
「でも何故あなたが帰ってきたことを皆に知らせないのです? 昔あなたとマルティナと三人でよく伝言遊びをした木に文が結ばれているのを見た時、わたくし本当にびっくりしたのよ」
 小さな紙切れを差し出すと、ウェリフィンはくすくすと小さい笑い声を漏らしながらそれを細切れに破り始める。
「そう、本当に驚いたわ。――――あなたがまだ生きているなんて」
 声音が低くなり、ウェリフィンの瞳が鋭い殺気を帯びて光った。そう思った瞬間に姉の手が素早く動き、ティア目掛けて何かが真っ直ぐに飛んでゆく。
 反射的に床に転がりそれを避けると、後方の壁に短剣が深々と突き刺さった。
「さあお返し、わたくしのゴイルの印を!」
 そうしてウェリフィンが室内に踏み込んだ時、部屋の四方から小さな火花が上がってウェリフィン目掛けて稲妻が走り抜ける。
 この件が上手く行けば解放してやるという条件の下、ダヴィドに書かせた護符があらかじめ四隅に貼り付けられていたのだ。
 魔物の自由を奪うための護符で動きを封じられ苦しむということは、今のウェリフィンがそれに該当するということである。
 予想していたからこそ準備したはずだったがやはり目の当たりにするとその衝撃は小さくは無く、ティアは真っ白になるほどに下唇を噛み締めそれを耐えた。
 ティアは皮袋の中から一冊の本を上半分だけ取り出すと、それを目の前に掲げてみせる。
「悪いが、ゴイルの印は既に無い」 
「なに」
「壊れてしまったのだ。だが姉上がダヴィドに探させていたもう一つの物はここにあるぞ、どうする?」
「私の日記」
 ウェリフィンが思わずそう叫んだのをティアは聞き逃さなかった。
 ダールベルクの所領で呪詛の解き方について尋ねた時、始めこそダヴィドの口は重かったものの、交換として恩赦を手に入れられると分かると彼なりの推論をティアに教えていた。
 さすがに国で七人しかいない聖導神官まで登りつめた人間であるので魔除けの知識には詳しかったが、呪詛そのものについてはダヴィドも独学で古い文献をかじった程度のことしか知らない。
 だが知的欲求を満たすためにいくらか魔術書も読んだ事があり、ちゃっかりメタニヤフの日記も読み解いていたので実践は無理でも知識だけはあったのだ。
 恐らくメタニヤフがゴイルの印に掛けた呪詛は、自らの魂を裂いて別の物に留まり術に掛かった者を支配するためのもの。
 魂を裂けば死んでしまうのではというティアの疑問に、ダールベルク伯爵の呪詛の対価を払い済みであろうからどうせ幾らも保たない身体であっただろうと前置きした上で、神官は「見方を変えれば役に立たない身体を捨てて別の身体で生き直すようなものであるから、究極の命の有効活用法かもしれない」と感心したように言った。
 そしてダヴィドの推論は正しかった訳である。
 壁際の小卓の上には昼間にも関わらず、陶器製の平たいランプに火が灯されていた。右手で本の入った皮袋を、左手でランプを手にしたティアは未だ護符の力で動けないウェリフィン――メタニヤフを睨みつける。
 作戦その一、ウェリフィンの身体に入り込んだメタニヤフの魂をできる限り表層化させる事。
「この本を探すように言われたダヴィドはずっと疑問に思っていたそうだ。確かにこれは魔術書としてもアヴァロンの秘密についても貴重な資料だが、他国の秘密書庫を暴いてまで手に入れるには危険が大き過ぎるとな。いくら『神々の記憶』の手がかりを得た所で、その前にこの事が発覚すれば宝探しどころではない」
 ゲトリスクはどうやら持ち歩いてすらいない様だったので個人差はあるのだろうが、魔術師にとって己の魔術歴を刻み込む日記は何にも代え難いものであるらしい。
 過去の行いや祖母ハイデマリーの証言からしても、メタニヤフは自己顕示欲の強い人間である事は明白だ。そんな彼にとってこの日記の存在価値はとてつもなく大きなものであるに違いなかった。
「この本を入れている革袋には油が染み込ませてある。何が言いたいのかは分かるな、メタニヤフ」
「愚かなダールベルクの孫娘め、祖父と同じく我の怒りを自ら買うか。――――かつての私は王族の庇護の下改築を行う神殿の一室にゴイルの印を置き、その部屋自体を誰の目にも映らぬように封印をした。お前の名が分からなかったゆえ、『フォルマン国王女の目にだけ留まる』という罠を仕掛けてな。引っ掛かったのがお前ではなく身体の弱い姉王女だった事は誤算だが、弱い分だけ私の支配を受けやすくて助かったわ。ひゃーははははは」
 金の髪を振り乱し、狂気に満たされた瞳が深く暗い色へとくすんでゆく。本当のウェリフィンは一体今どうなっているのか。メタニヤフの意識に追いやられ、打ちひしがれながらこの光景を垣間見ているのだろうか。
 奥歯をぎりりと噛み締めながら、ティアは小卓に本とランプを置くと床から大きな網を持ち上げた。
「ヴァナル神よ、我にご加護を!」
 渾身の力を振り絞り、それをウェリフィンの頭上へと放り投げる。
 網は漁師が使うものを小さく作り直したもので、ばっと広がったかと思えばその細い身体をたちまち網の中に閉じ込めた。網目には針のように細いシダ状の葉を無数に茂らせた緑の草が、一面に巻き付けられている。
「何だこ……ぐ、ぐぁぁぁぁぁっ」
「魔除けに使われる香草のイノンドだ。既に魔に堕ちた貴様には、その香りが身を針で刺されるような苦痛だろう。出て行け、姉上の身体から出て行け!」
 興奮したティアの腕が小卓の端にぶつかった。陶器のランプが衝撃に耐えられず傾き、皮袋に中身の油を引っ掛けながら小さな火を燃え移らせる。
 元々油を染み込ませてあった皮袋はあっと言う間に燃え上がり、中の本も巻き添えに小卓の上で大きな炎を作った。
「しまった」
 本はメタニヤフを興奮させるために使っただけで本当に燃やすつもりは無かったが、もうこうなってしまってはどうしようもない。
 その光景をまなこが落ちそうなほど見開いて凝視していたメタニヤフが口元を震わせた。
「貴様、貴様、きさまー!」
 護符で動きを封じられイノンドの香りで苦痛に悶えていたはずのメタニヤフが、大声で叫びながら網を掴みそれを引き裂いた。間髪を入れず指で逆三角を形作ると呪文を口ずさむ。
「ヒレク、ゲブラー、アメモーン」
 ウェリフィンの身体から四つの火球が部屋の四隅に向かって飛び出した。地響きと共に護符ごと壁を抉り取り、メタニヤフを拘束していた力が一気に解消される。
「なっ、その身体で魔術を使えるのか」
「殺してやる、その身が形を無くすまでずたずたに刻んでやるわ小娘!」
 予想した以上に魔術師の底力の方が強大であった。最もメタニヤフを表層化させた状態にイノンドを覆い被せ、ウェリフィンの身体から炙り出す作戦は失敗である。
 こちらに歩み寄ってくるメタニヤフを見据え、ティアは腰に佩いた剣の柄に手をやったが抜く事ができない。抜いたとしても斬り付けるのはウェリフィンの肉体、ここまで来てその躊躇いは命取りである。
「くそ、やはり無理やりにでもダヴィドを連れてくるんだった」
 頭脳労働は得意だが実践向きでは無いとして、頑としてこの城に来る事を拒否した囚われの聖導神官の愚痴を呟きながら、じりじりとティアは窓際へと後退して行く。
 室内は小卓の上の炎とメタニヤフの四つの火球によって、静かに壁際から炎の範囲を広めつつあった。まだ無事な中央の絨毯をゆっくりと踏みしめながら、ウェリフィンの顔でメタニヤフは不気味な笑みを浮かべる。
「ゴーブ」
 あっと言う間に露台まで追い詰められたところで、メタニヤフの呪言によりティアの身体の自由が利かなくなった。すぐ背の後ろには露台の石造りの手すりが当っている。
 ウェリフィンの細腕が妹の首元へ伸ばされた。本来の姉では考えられない程の握力で、ティアの気道が締め上げられる。
 首を押し潰される痛み、頭部にせせり上がって来るどうにもならない圧迫感。ティアは苦痛で目を瞑りながら、必死に動かなくなった手を動かそうともがき続ける。
「さて、どうやってお前を殺してやろう。祖父と同じようにここから落ちてみるのも一興だが」
 ティアの身体が持ち上げられられ、足が爪先立ちになった。その時、今まで固く閉じられていたティアの青い瞳がかっと開かれる。
『お前みたいな奴用に裏技が無いわけではないぞ』
 突然少女の胸に槍を突き立て、何の説明も無しに姿を消した黒髪の男が教えてくれたある方法。
 ティアの眼前に「看える」ウェリフィンのすぐ斜め上に、醜い老人の顔があった。そして両者を繋ぐ白い糸が。
 ダヴィドは第一の作戦が失敗した時の為にもう一つ策を授けていた。メタニヤフとウェリフィンの間には、術を媒介に契約を結んだ糸が存在するはずであると。
 首を締め上げられて意識が遠のきそうになるのを必死で鼓舞し、全ての力を右腕に集中させた。魔力に反応し難い体質が幸いしたのだろうか、動かないはずの腕がぴくりと動く。
 そして袖の内に潜めておいた短刀を手に持ち、白い糸目掛けて一閃させた。
 作戦その二。両者の契約の糸を、呪力を持つという動物の骨で作った刀で断ち切る。である。
「何!」
 途端にウェリフィンの身体に寄り添っていたメタニヤフの魂が弾き飛ばされた。
 首を締め上げていた手の力が緩み、解放されたティアの身体はそのままふらりと後方へと倒れてゆく。
 くすんだ瞳に光を取り戻したウェリフィンが、目の前の光景に悲痛な表情を顕にしながら必死に手を伸ばした。だが全ての力を使い切ってしまったかのように、ティアはそのまま露台の手すりの向こうへ身体を沈ませる。
 ふっと身体が空中に投げ出され、露台の端に取り付けられた女神フリッガの彫刻が視界の横に入った。
 祖父と、そして母と同じ光景を見ながら自分もここから落下して行くのだ。
 静かに瞳を閉じ、風に身を任せたティアの身体が着地した。だがそこは地面ではなく、別の場所である。
(生きているかティア、自分の力で息を吸え)
 直接頭に響く、聞き覚えのある声。それに促されるように少女の細い喉が震え、ひゅうと息を吸い込んだ。
「うっ、げほっ、ごほごほっ」
 蘇ってくる疼痛と止まらない咳に身を縮めながら、ティアは目蓋をこじ開ける。
 涙目の歪んだ視界に映るものは空。横に広がるのは風を切る巨大な翼、ごつごつとした銀色の鱗の大地。ティアは地面に落ちたのでは無く、セーンの背に乗って今まさにフォルマン城上空を飛んでいたのだ。
「セー……ごほっ」
 上手く発音できないティアの代わりに、銀竜は再びあの露台に向かって旋回する。すると目の前に現れたのは露台に佇む黒いローブを纏った白髪の老人と、その脇に力尽きるようにして倒れているウェリフィン、それと二人の対角線上に浮かぶ黒い渦の様な物。
 黒い渦には光る目があった。本当にあったのかどうかはっきり見えた訳では無いが、上空にいるティアと視線が合った途端に殺気を放ったことだけは確かである。
 せめてお前だけでも道連れにしてやる、そう聞こえたような気がした。黒い渦がこちらに向けて飛び出したその時、露台に立つ老人が高らかに呪文を唱える。
「シュレク、ビナー、エギン」
 見えない神の手に叩き落とされるように、メタニヤフの残骸は露台の床に押し潰された。間髪入れず、更に言葉が綴られる。
「大いなるもの、至高なるもの。我ゲトリスクの名において命ずる」
 ゲトリスクが右手に持つ樫の杖の先端が二度床に打ち付けられ、左足を一歩前に踏み出し素早く円を描く。そして中央を踏みしめた。 
「その鮮烈なる光で邪なる影を滅せよ、ルーグ!」
 それは三つの言葉を組み合わせて魔力を操るマゲイアーではない。神官と魔術師が一つのものであった時代に使われた古代魔術、テウルギアの詠唱呪文である。
 黒い渦が押し付けられている床から鮮烈な光が飛び出した。余りにも強い光は全てのものを真白に焼き尽くし、周囲の者全ての視界をも奪い取る。
 一瞬にしてメタニヤフは光の中に消失したらしく、ティアの視力が戻った時には一欠けらの残骸も残ってはいなかった。
「師匠……何故ここへ」
 セーンの背から再び露台に戻ったティアは、呆然としながら黒衣の老人を見上げる。露台から続く室内の入り口には、既に騒動を聞きつけた何人かの人影があった。
 中の火を消火せんと指揮を取るオスカーの姿、窓のすぐ外で停止飛行している銀竜の姿に慄く野次馬達の嬌声。
 それらを背にして憮然とした表情で振り返ったゲトリスクは、鳶色の瞳を少し困ったように泳がせたあと不肖の弟子を見下ろす。
「クロウに依頼されてな」
「クロウが?」
 あんな仕打ちをしておきながら別ではゲトリスクにティアを助けるよう依頼するとは、クロウは一体何を考えているのだろうとティアは首を傾げる。
「セーンを迎えに呼んだのだが、少し来るのが遅れたな」
「いいえ、助かりました。本当にありがとうございます」
 無意識にティアの手がまだ痛みの残る首元へ伸びた。今度こそ本当に死を覚悟したわけだが、何とか姉の中からメタニヤフを追い出すことに成功し、ついでにティアの祖父と母の事件の因縁もこれで全て片が付いた。
 本当に、これで全てが終わったのだ。
 すると思いがけなく、大きくてしわがれた手がティアの頭の上に優しく落とされた。
「一人でよく頑張った」
 呆れられた事と叱られた事しかなかったゲトリスクの予想外の言葉に、ティアは一瞬言葉を詰まらせる。
 途端に視界が歪み、自分がみっともなく人前で止め処なく涙を流している事を自覚した。しかし外聞など今更どうでも良い。
「これ、離れぬか」
「ほ、本当は……こわっ、怖かっ……」
 途切れ途切れの言葉を繋ぎ合わせながら黒いローブにしがみ付き、ティアは幼い子供の様に大きな声で泣き続けた。
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