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● 僕とベンチと、桜の話。  ●

 春は薄桃色の桜。夏は真っ青な空と、濃い緑の葉を茂らせた桜の木に留まる沢山の蝉たち。
 秋になったらその葉は黄色や茶色になって舞い散り、この病院の敷地内を埋め尽くす。
「うーん、でもやっぱり冬に屋外のベンチは寒いよなあ」
 僕は目の前に両手の平を持ってくると、はあっと息を吹きかけた。
 見ることは出来ないけれど、指先や鼻の先までも真っ赤になっているのかもしれない。凍えた手をコートのポケットに突っ込むと、次の受診の時にはちゃんと手袋を持参しようと思った。
「ああ、いたいた。あんた本当に昔からここが好きね、真冬も真夏もよくこんなとこに居られるもんだわ」
 元気な声がしてゆっくりと顔を上げる。声がする方向には振り向かず、僕は座ったまま声の主に笑った。
「ここに居ると色んな音が聞こえてくるんだ。昔と大きく変わったものもないから、見えない僕にも季節の移り変わりがよく分かるんだよ。百合香ちゃん」
「ふうん、そんなもんかしら」
 跳ねる様な足音があっという間に近付いて止まると、僕のすぐ側で呆れたように溜め息をつくのが聞こえる。
「まだ十六歳なのに良太って隠居じーさんみたい。そりゃ今は病気で目が見えないけど、角膜の手術受ければ治るんでしょ。男ならもっと血湧き肉踊る野望を持て!」
 不意に背中に張り手が飛んできて、思わずむせる。
 百合香ちゃんは僕より一つ年上の従兄妹でご近所さんだ。たまに母さんのパートとかち合ってしまった時なんか、僕の通院に付き添いをしてくれる親切な人なのだ。
 親切な人なんだけど……元気すぎるというか、コミュニケーションの仕方がアレというか。思ったことも何でもずばずば言うし、得意技がこの「張り手」なのでほんの少し困ることもあるけれど。
「さ、支払いも済んだんだからさっさと帰るわよ。途中で肉まん買ってこう」
「百合香ちゃんって本当によく食べるよね」
「うるさい。カッコイイ女はよく食べ、よく動き、よく寝るのよ」
 本当にそれが「カッコイイ女」の定義に当てはまるのか疑問だったけれど、二発目の張り手が飛んでくる前に僕は黙ってベンチから立ち上がる。
「あ、そうだ、今度から病院に行く時は僕一人で行くよ」
「あんた車に轢かれたいの?」
 速攻の切り返しに眉間に皺が寄った。でももうこれは決めたことだから、こんなことで引き下がるわけには行かない。
「行きのバスに乗る時は何だかんだで誰かが一緒だし、バス停は病院の正面玄関のまん前。あとは七歳の頃から通ってる病院なんだ、どうにでもなる」
「もう決めたんだ?」
「うん、決めた」
 閉じたままの目蓋の上に、ポケットから出したサングラスを掛ける。折りたたんであった白杖を手早く組み立てると、足元の点字ブロックをコツコツと叩いてみせた。
「良太は顔は女の子みたいなくせに、変なところで頑固だからなあ。いいよ、叔母さんに私からも言ってあげる」
「ありがとう」
 完全に僕の視界が閉ざされてから既に二年。移植の手術をするために角膜の提供を待ち続けてからは、一年が過ぎようとしている。
 昔見た極彩色の世界は相変わらずそこにあるけれど、僕はずっと取り残されたままだ。
 七歳の時に病気を発症して以来、段々と霞んでいった僕の景色。移植手術を受ければ治る可能性もあるけれど、それも百パーセント保障されているわけでもない。
 心配性の両親が僕を気遣ってくれるのは嬉しいけれど、ひと月に一回の通院くらい自分一人でこなさなければと思っていた。
 少しづつ少しづつ、周りの人へかける迷惑を減らして行けたら。それは、僕が前からずっと思っていたことだった。


「――とはいえ、世の中そう甘くないなあ。はあ」
 年が明けて一番初めの検診日。
 病院行きのバスに乗るまでは良かったけれど、回数券を通路に落として他の乗客さんに探してもらったり、病院についてからも玄関口でうろうろしていたら親切な看護師さんに助けてもらったり。
 どんなに大変でも一人でやらなきゃと気負っていたんだけど、人の厚意を断るのも何だか悪いような気がして
「結局最後の支払いまで至れり尽くせり……僕ってそんなに頼り無さそうに見えるのかなあ、ああ、駄目だ」
 溜め息をつきながらいつものベンチへと向かう。
 今までも診察後の長い会計待ちの間に、母さんを中に残して僕一人でここへ足を運んでいたから慣れたもの。
 と余裕こいていたら、ベンチの角に足を思い切りぶつけて絶句する。
「ぶっ」
 こんな一月の寒い中、病院の中庭なんて誰も居ないと思っていたら違ったようだ。いつものベンチには先客がいて、さっきのヘマをばっちり見られてしまったらしい。
「あ、ごめんね。何かやたら大きな独り言してるなあって見てたら……足、大丈夫?」
 聞こえてきたのは女の人の声だった。ここで最後に反省会をしようと思っていたけれど、今日はもう駄目だ。間が悪すぎる。
 赤くなった顔をあまり見られないように、伏せたまま身体の向きを変えた。
「いえ、大丈夫です」
「あれ、座って行かないの?」
「え?」
「違うの? それとも向こうの噴水の方に行くつもりだった?」
「あ、う、いえ。そうじゃないんですけど」
 そうして結局、僕はベンチの隅に腰を下ろすことになってしまった。つくづくノーと言えない自分が恨めしい。
「ねえ君、もしかして一人で来たの?」
「見えなくても道順はよく知ってますから」
 今日は全然ダメダメだったけど。
 でもその女の人はちょっと黙り込んだ後、すごく感心したように言った。
「小学生なのに頑張るなあ、えらいえらい」
「僕、もう十六歳です……」
「ええっ、そんな小さいのに? ああ、いや、そうじゃなくて。そうだよねえ、どう見たって高校生だよねえ」
 さっき「小学生」ってはっきり言ってたくせに。
 どうやら僕の顔は年齢よりも随分と年下に見られるらしく、身長も低いから中学生に間違われることが時々ある。
 でもさすがに小学生は……かなりショックだ。
「はっ、もしかして小学生だと思われてたから、さっきもあんなに皆が親切だったのか?」
 口を半開きにして呆然としている僕の横から、すまなそうな女の人の声がした。
「あの、ごめんね。私が変なこと言ったばっかりに。大丈夫だよ、君ギリギリ高校生に見えるから」
「はあ」
 微妙なフォローの言葉にどう反応したものか分からず、僕はただ苦笑するだけだった。
 目が見えなくなってからは特に、初対面の人とこんなふうに会話する機会は減っていた。
 今は随分と復活したけれど去年までの僕は世の中に絶望して全てを拒絶していたし、相手の人も自然と身構えてしまうのが雰囲気で察せられてしまうから。
「うーん、でもそれは別に君の事が嫌いだからっていう訳じゃないでしょ。むしろ、気遣おうとして失敗しちゃったって感じ?」
「まあ、そうなんですけどね」
「世の中親切な人は時々いるけどさ、やっぱり手を差し伸べる時には少し躊躇うものなのよ。それを飛び越えて君を助けてあげようって気にさせるのも、一種の才能じゃない。よっ、ジゴロの男!」
「ジゴロって……」
 初対面の人に僕はこんなことまでべらべらと。
 彼女は話し上手で聞き上手なのか、気付いてみれば僕たちは三十分以上話し込んでいた。その証拠に、帰りのバス時間十分前に設定しておいた携帯アラームが鳴っている。
「すみません、僕バスの時間があるのでそろそろ行かないと。お姉さんはこの病院にはお見舞いで来たんですか?」
「え、私?」
 何か変なことを聞いてしまっただろうか。微妙に間が空いて一瞬緊張したけれど、その女の人は朗らかな声で返してくれた。
「うん、そう。気をつけて帰ってね、ええと」
「僕は西野良太って言います」
「私は御園桜よ」
 それが、僕たちが初めて会話した日の出来事だった。


 二月。まだ寒さは和らぐことは無い。
 親しい看護師さんが今日は曇り空と言っていたけれど、僕はそれを冷たい北風でしか知る術は無かった。
「また会ったね。ええと、良太君だっけ」
 一人での遠出二回目は、バスから降りる時に転げ落ちた以外は何とか上手くいったと思う。
 そうしていつものようにあのベンチへやって来ると、どこかで聞き覚えのある声がして僕は立ち止まった。
「もしかして先月あったお姉さんですか」
「そう、偶然だよね」
「まだお友達入院されてるんですね」
「友達?」
「だって、お見舞いで来てるんでしょう?」
「ああ……うん。難しい病気だから、なかなか良くならなくって」 
 そうなんですか。そう言おうとしたけれど、何となく声が出なくて僕は黙り込んだ。
 前に会った時と同じ明るい声の中に、ほんの少しだけ溜め息のようなものを感じたような気がしたからだ。
「ごめんなさい」
「良太君が謝ることじゃないよ、気にしないで」
 そう言ってはくれたけど、桜さんは今どんな表情で僕の隣に座っているんだろう。
 暗闇の中視線を動かしてはみたけれど、やっぱり僕の目には何の景色も映ることは無い。
 そうしてやはり彼女は話を聞くのがとても上手な人で、他愛も無い世間話から始まり僕は学校のことや病気のことなんかをぺらぺらと喋ってしまう。
「じゃあ、角膜の移植手術を受ければ目が見えるようになるんだ」
「絶対にとは言えませんけど、可能性は高いだろうって。でも僕は弱虫だから、その手術を受けることを決めるだけで一年かかっちゃいました」
 七歳の時に発病し症状の進行が早かった僕は、いつか全盲に陥るという未来を子供なりに理解しているつもりだった。
 でも理解しているということと受け止めるということはやっぱり違って、二年前の朝、起きたはずなのに突然訪れた明けないままの闇の中で僕の頭は真っ白になった。
 殆ど引き篭もりみたいな生活をして一年近く。
 とうとう堪忍袋の緒が切れて、暗い闇の中に蹲っていた僕を後ろから蹴り倒した人物がいた。従兄妹の百合香ちゃんである。
「それがね、本当に僕その時蹴られたんだ」
「え?」
 いじけるな、甘えるな、めそめそするな。カビが生える、陰気くさいからいい加減にしろ。……他にもいっぱい何か言われたと思うけど、もう覚えていない。
 でも一番堪えたのが、「叔母さんをいつまで泣かせるつもりだ」って言葉だった。
 両親はいつも僕を気遣ってくれて、優しい言葉だけを掛けてくれていた。見えないどこかで毎日母さんが泣いていることなんて、僕は全く知らなかった。
「そっかー、もしかして良太君はその『百合香ちゃん』が好きなの?」
「え……ええっ? 違いますよ、そんなんじゃないんですあの人は」
 本人の申告によれば学校でもかなりもててるらしいけど、僕の記憶の中の百合香ちゃんは小学生までの顔しか鮮明に分からない。
 確かに綺麗な顔はしていたけれど少し茶色っぽい髪を振り乱し、男子といつも喧嘩していたような気がする。
 やってることは今もあまり変わらないような気もするから、僕の中ではあの髪の毛ぼさぼさの野生児百合香ちゃんのイメージのままなのだ。
「ふーん。……あ」
 何かに気付いたように桜さんが声を切ると、髪に何かが触れる感触がした。ふわり、と優しい良い匂いがしてどきりとする。
「葉っぱがね」
 そう言って小さく笑う声がした。
 ポケットに入れた携帯のアラームが鳴っている。僕はそのメロディーをどこか遠くに聞きながら、自分の鼓動が速くなっていることに気付いていた。
 百合香ちゃんはそういう人じゃないんです、どちらかと言えば、僕は。
 そう考えた途端に彼女のことを何も知らない自分に改めて気付いたけれど、結局僕はベンチに建て掛けておいた白杖を手探りで掴んで立ち上がる。
 時間には余裕をみて動かなければならない。僕は走ることは出来ないし、ほんの短い距離でも道を誤る可能性だってあるのだから。
「すみません、そろそろバスの時間だから行かないと」
 そんな自分が少し嫌で、自虐的な気持ちになるのも久しぶりな気がした。


 三月。吹き付ける風が緩やかになり、その温度も暖かみを含むようになる。
「今回はもう完璧だった?」
「ばっちりです。と言いたい所なんですが、今日は携帯電話を忘れてしまったので落ち着かなくて」
 今回も受診後にいつものベンチへ行くと桜さんの声がして、僕は内心ほっとした。三度目の偶然なんて都合のいいことは無いかもしれないと思っていたから。
「あー、その感覚私も分かるよ。携帯を家に忘れると何か不安なんだよね」
 僕の場合は携帯電話のボイス機能やアラームを時計代わりに使っていたりするし、どこかに迷い込んでしまった場合の命綱となるものなので少し意味合いが違ってくる。
 でもそこまで説明するのも何だか変な気がして、桜さんの言葉に小さく頷いただけだった。
「今日は薄い水色の空に、わた飴を伸ばした様な雲が少しだけ。桜の枝の蕾が膨らんでる、開花までまだもうちょっとかかるかな」
「名所とまではいかないけれど、ここの桜も結構綺麗なんですよ」
「へえ」
 この中庭には十本の桜の木がある。目には見えなくても、僕の脳裏には薄桃色の桜が咲き誇った姿が鮮明に蘇った。
 中でもこのベンチの後ろに生える木が、一番大きくて見事な花を咲かせるのだ。
「同じ名前ってこともあるけど、わたし桜って大好きなの。見頃は来月になるかなあ」
「あの、来月の同じ日にここで……一緒に桜、見ませんか」
 僕には見ることはできないけれど。それに、黙っていてもまた来月にここで偶然会えるかもしれないけれど。
 でもそれだけじゃ嫌だった。僕は確かな約束が欲しかったのだ。
「いいよ」
 返事は思ったよりもあっけなく、だからこそ何か引っ掛かるものを感じた。
 彼女の目に僕は一体どういうふうに映っているんだろう、と。
 御園桜という人物の年齢は。どんな姿をしていて、何をしている人なのか。長い期間入院しているというお見舞いの相手は、どんな人物なのか。
 視力があれば簡単に手に入る情報すら今の僕には分からない。声だけでは分からないことが多過ぎた。
「お友達の病気はどうですか」
「うーん、まあまあかなって感じ」
「そうなんだ、その人は学校の友達?」
「……うん」
「前にね、主治医の先生に言われたことがあるんです。薬を使った治療は人間の治癒力を助けるに過ぎなくて、本当に治すのは本人の『治りたい』っていう強い気持ちなんだって」
「…………そう」
「だから、その人もきっと」
「思うだけで……治るとでも?」
「え?」
 何だか桜さんの声が変だった。いつも明るい彼女の声が急に沈みこんで、まるで別人のような気がした。
「あなたに何が分かるの、手術をすれば治るあなたに。私の何が!」
 私のって、一体どういうことだろう。どうして桜さんはこんなに怒っているんだろう。
 僕は、彼女の何を踏みにじってしまったんだろうか。
「ごめんなさい」
 分からないまま、ただそう謝ることしか出来なかった。
 返事は無い。でも彼女がベンチを立ち去った足音はまだ聞こえないから、同じベンチに座っていることは確かだ。
 もう一度謝罪の言葉と、左隣に座っているだろう彼女の方へ手を伸ばしかけた時だった。
「ここにいたの、良太。いつまでも帰ってこないから、どこかで事故にでもあったのかと思うじゃない」
 元気の良い声が遠くの方から聞こえ、反射的に振り向く。軽快な足取りは僕の良く知っている足音だ。
「百合香ちゃん?」
「今何時だか分かってんの? 病院から連絡があったのにあんたはいつまでも帰ってこないし、携帯にかけてみれば家に忘れてるし。もう本当に抜けてるんだから」
 問答無用で頭を横からぐいと押され、次いで勢い良く抱きつかれる。――というよりも、抱きつく振りをしてヘッドロックをかけるのが百合香ちゃんである。
 でもこれをされるのは本当に心配をかけてしまった時だけだから、苦しくてもある程度は甘んじて受けるようにしていた。
 とは言え、やはり苦しいものは苦しい。
「ご、ごめん。でも病院から連絡って、何かあったの?」
「コーディネーターの人から連絡があったの。角膜提供の順番が回ってきたのよ、明後日手術だって。叔母さんはまだあんたのこと家の近所で捜してるわ、すぐに帰ろう」
「本当?」
 びっくりして立ち上がる。そして僕は、すぐ隣に気まずくなったままの桜さんがいたことを今更のように思い出した。
 ただのプロレス技なんだけど変に誤解されたら、だなんてちょっと頭の隅に過ぎりながら左隣を振り向いた。
「あの桜さん、さっきのは」
「良太?」
「いやだから、百合香ちゃんはちょっと黙っててよ」
「桜って、まさか木に向かって喋ってるわけじゃないわよねあんた」
「そんなわけ無いだろ、ベンチに座ってるそこの女の人だよ」
「ベンチに……座ってる?」
 百合香ちゃんは少しだけ黙り込み、そしてはっきりと言った。
「私が見つけた時から、あんた一人しかここに居なかったけど」
「え?」
 桜さんが立ち上がり、去って行く足音は聞こえなかった。
 百合香ちゃんに一瞬気を取られはしたけれど、それまでは今にも桜さんが怒ってその場を立ち去るんじゃないかとびくびくしていた僕が聞き漏らすはずが無い。
 なのに僕の従兄妹は、始めからベンチに僕しか座っていなかったと言う。
「そんなずない、よく見てよ百合香ちゃん」
「ああもう、あんたもしかしてここで昼寝でもしてたわけ? 寝ぼけて無いで早く帰るわよ、ほら」
 結局僕は、怪力の百合香ちゃんにずるずると引き摺られるようにしてその場を離れた。
 いつの間に桜さんは隣から居なくなったのだろう、まるで空でも飛ぶようにして。


 四月。移植手術を終え、退院してから既に半月以上が経っていた。
 両目を覆う包帯は外れたけれど、明るい屋外で保護のサングラスは未だに外すことはできない。
 そして今日は、桜さんと一緒に花見をしようと約束した日でもある。
 診察を終え会計待ちでロビーのソファーに座っていると、数人のおばさんたちの会話が耳に飛び込んできた。
「昔飛び降り自殺があったんだって?」
「そうそう、若い女の子らしいけど、難病を苦にして病室の窓から飛び降りたって」
「嫌ねえ、中庭でしょそれ。病院が改築する前の話だから……ざっと二十年くらい前かしら」
「今でも『出る』って話、たまに聞くわよ」
 病院で人が死ぬなんて日常茶飯事のことだ。学校の怪談と同じく、昔からある病院にもこういった話はよくあることで。
 だから……だから。
「幻だったなんて嘘だよね」
 サングラスを外して僕は中庭のベンチの前に立つ。その後ろに聳え立つような大きな桜の木から、花びらがはらはらと舞いベンチと地面を所々薄桃色に染めていた。
 約束をしたのに、ここには桜さんは居ない。
 それが僕が彼女を怒らせてしまったせいなのか、幻のように消えた彼女が別世界の存在だったからなのかなんて分からない。
 彼女と語り、わずかに髪に触れられた感触は今でも鮮やかに蘇るのに。どうして桜さんはここに居ないのだろう。
 いつもと同じ様にベンチに腰を下ろし、左隣を振り返った。
「……あれ」
 目を瞑ってベンチの右端を手で触る。間違いなくこの位置が、桜さんと一緒に会話していた時の僕の座り場所。
 でも左に空いた余分スペースは思ったよりも狭くて、かなり近い位置にお互いが座らないといけないということになる。
 桜さんの声はそんなに近いところから発せられたものじゃなかったのに。
「じゃあ、どういうこと」
 何となくその先は考えたくなくて、僕は真上に咲き乱れた桜の花びらを見上げる。桃色の花と優しい水色の空が、悲しいくらいに綺麗だと思った。


エピローグ
 桜前線はあっという間に通り過ぎて夏も終わり、やがてここにも秋が来る。
 僕はといえば視力が戻った途端に伸長も随分と伸びて、やっと中学生に間違われる呪いから解放された。
 今でも月に一度の診察は変わらず続いていて、彼女と約束した日付と同じ日に受診するのがお決まりになっている。
「ああ、もう行かないと」
 ベンチに座って文庫本を読んでいた僕は、腕時計の時間を見て立ち上がった。
 バスの到着時間まであと五分、これを逃すと一時間後の便を待たなくてはならなくなるから大変だ。
 息を荒げて辿り着いた先には既にバスが停まっていて、急いで駆け込もうとしたその時だった。
「またね、桜」
「うん、今回はすぐに退院できると思うし」
 反射的に振り返ったのは”桜”という名前に反応したからだ。その振り返るわずかな間に聞き覚えのある優しい声音があると認識した途端、僕の心臓が跳ね上がる。
 視線の先にいたのは四人の女の子。僕の同級生よりは少し幼い印象の、多分中学生の女の子たちだった。
 三人はお見舞いなのだろう、残る一人は車椅子に座り別のバスに乗り込む友達を見送る。
 結局バスに乗り遅れた僕がその場で呆然と眺めていると、その車椅子の女の子もこちらに気付いたようで顔をはっとさせた。
「もしかして……君が桜さん?」
 二つに分けて縛った長い黒髪、パジャマの上に羽織った桃色のカーディガン。大きな瞳を目いっぱいに見開いて、華奢な両肩がわずかに揺れている。
 ひざ掛けの下から伸びる足が乗せられた車椅子のステップには――――片方のスリッパしか乗っていなかった。 
 その女の子は赤くなった顔を伏せ、泣きそうな声を漏らす。
「ごめんなさい。私の足はもうどうやっても元には戻らないから、あの時良太君に八つ当たりしたの」
「……うん、僕こそごめん」
 気付いてあげられなくて。
 やっぱり声はあの桜さんのものだった。ずっと年上の人だと思い込んでいたから、まだあどけない彼女の外見が未だに信じられないような気もしたけれど。
「本当はね、初めて会った時より前に見かけたことがあったの。私と同じ年くらいに見えるのに綺麗なお姉さんと一緒に居たから、年上の彼女なのかなと思って……その」
「僕の勘も当てにならないなあ」
 のんびりそう呟くと、下から窺い見るような少女を見て僕は小さく笑った。


『だってさ、泣きそうな顔してこっち見ながら顔をぶんぶん横に振ってるんだもん。これは見て見ぬ振りをするのが女の情けってやつじゃない?』
 車椅子をベンチの横に停めていた女の子を記憶の中で振り返り、義理人情に厚い従兄妹は後に僕に向かってそう笑い飛ばしたのだった。

  もしよろしかったら感想をお願いいたします。
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