グリム革命 〜童話その後話〜act1.「灰かぶり」
皆さまようこそいらっしゃいました。
ここは「金の太陽亭」。カッセルという街の、小さな薬屋でございます。
私の夫のヴィルヘルムは、兄のヤーコプと共に昔の言語や文学の研究を続けた学者。
元々私たちは幼馴染でございまして、それが災いしてか結婚後何故か兄と私たち夫婦の三人暮らしに……いえいえ、これは関係ございませんね。こほん。
私が娘の頃「金の太陽亭」に通ってくる兄弟に話して聞かせた数々の昔話を、夫たちはそれはもう興味深そうに聞いておりました。
他にも仕立て屋のフィーメンニンばあさんとか、食堂の看板娘のジャネットとか、牧師の娘フリーデリケとか、むむむ。
全く、あの人たちは不必要に女受けがいいもんだから時々勘に触る……ええと、そうでは無くて、沢山の人々からこのプロイセン王国(ドイツ)に伝わる昔話を纏めて本にいたしましたの。
もうあれから数十年。私も夫たちも天寿を全うして天国に召されるはずだったのですが、何故か私だけがこの不思議な世界に迷い込んでしまいました。
そして私の実家である「金の太陽亭」にそっくりなこの場所から続く世界には、沢山のお話があります。
何のお話かですって?
それは私、ドロテーア・グリムの夫とその兄が書いたお話「グリム童話」でございます。
本の中にあるお話が終わっても、その中で生きる人々の生活は絶え間なく続いてゆくのが人生というもの。
さあ、今日はどの世界を覗いてみましょうか。
* *
「灰かぶり殿、今日もお元気そうで何よりですこと」
「ありがとうございます、ウラ陛下。陛下も今日は一段とお美しく」
「まあ。若くて美しいあなたには敵わないわ、灰かぶり殿。それにあなたの銀髪はとても見事ですもの。おほほほ」
「滅相もありませんわ、うふふふふ」
灰かぶり、灰かぶり連呼するなっつーの。このおばはんっ。
私は心の中でそう叫びつつも顔はあくまでも上品に、かつ穏やかな笑みを浮かべる。ふっ、ここでボロを出した方が負けなのよ。上流社会ってやつはね。
顔の三倍はあるだろうレースのカラーを首元に付け、年がいも無く胸の大きく開いた紫紺のドレスを身に纏った目の前にいる年増の女性は私の義母である。
つまり私の夫であるカール王子の母親……なんだけど、初めて会った時の印象とは全然違ったのよね、この人。
由緒ある貴族の令嬢である私は不運にも母を早くに亡くし、その後は継母と連れ子の姉二人に虐げられて育ってきた。
でもお母様の残してくれたはしばみの木の不思議な魔法でこっそり舞踏会に行き、そこでカール王子の心をこの美貌で射止めたのだ。
国中を挙げて私を探し出して婚姻の儀を行ったくせに、何なのよこの嫌味ババア。
「ま、実家にいる継母よりはよっぽどましか。遠まわしな嫌味だけだし」
「何か仰いまして、灰被り殿」
「いいえ、お義母様」
私は白粉の塗りすぎでそのうちひびが入るんじゃないかと思われる義母の顔を眺めやると、満面の笑みを浮かべてそう答えた。
「エレオノーレ、エレオノーレ」
宮殿の廊下を赤いマントを翻しながら駆けて来たのは、薄い金の髪に水色の瞳の見目麗しい青年――私の夫のカール王子である。
「カール殿下、どうされましたの?」
「庭にね、綺麗な花が咲いていたからエレオノーレにプレゼントしようと思って」
そう言いながら彼が差し出した花は、薄紫色のとげとげの花だった。
「殿下、それアザミですわね」
「うん、そうだよ」
眉根をしかめる私に、カール王子はにこにこと頷く。
アザミは花の部分が針山みたいにツンツンしているだけではなく、その葉にも茎にも立派に棘が生えている。でも若い葉っぱを茹でると意外にいけるのよね……じゃなくて。
ああもう、いつもお腹空かせてた昔を懐かしんでどうする私。
「痛くありませんの?」
「うん、実は痛いかなー」
差し出された王子の手をよくよく見ると、アザミの緑色の棘が無数に刺さって血まみれになっていた。
これでも私は(途中まで)育ちはいいのよ、流血は苦手なのよ。
「きゃぁぁぁ、血が、血がー!」
「大丈夫だよ、舐めとけば治るって」
そういう問題じゃないっつーの、このぼんくらっ。
アザミを床に置くとカール王子は本当に手を舐め始め、私は一瞬目眩を感じた。
これが将来のこの国の王なのだと思うと、未来もへったくれもないと落胆するのは当然のことである。
大体誰に入れ知恵されたのか知らないけど、十二時の鐘と共に舞踏会から姿を消す私を留め置く為に階段にタールを塗るような人だもの。
ま、あの黒くてネバネバしたやつに金の靴をとられたお蔭で、今の私があるんだけどね。
「はぁ」
「どうしたの、エレオノーレ」
「いいえ。お医師を呼んで来ますわね、カール殿下」
「待ってよ、僕も行くよ」
せめて一国を背負う人間ならば、自分のことを「わたし」と言って欲しいものである。
私より一つ年上で今年十七歳になるのに、王子は甘やかされて育てられたせいなのか全く自立心が無い、というか「単なるバカ」だし。
そんなぼんくら王子を後ろに従え、私は内心うんざりしながら廊下を歩み始めた。
「ねえどうしたの、何か怒ってる?」
さらさらの金髪を揺らして顔を覗きこむカール王子を見ると、私はその下がった眉を見て力が抜けてしまった。
彼は血筋が良いだけあって、顔だけは良い。ま、私のことをちゃんと名前で呼んでくれるし、バカは扱いやすいと割り切ってしまえばなんてことは無いだろう。
そうね。いずれカール王子が王位を継いだら、私がちゃんと手綱を取ればいいことなんだわ。
そうとは言え、私にだって時には愚痴を誰かに言いたい時もある。
カール王子はあのままお昼寝をしに行ってしまったし、宮殿の中をふらついていたらいつ義母のウラ陛下に出くわして嫌味を言われるか分からないから、何となく私は一人で庭園の奥の森に入り込んでいた。
「ああ、きっとこれも使用人に見つかると『自覚が無い、はしたない』なんて言われるのねー」
でも私に言わせればよっぽどカール王子の方が自覚が無いし、ウラ陛下の化粧の厚さの方がみっともないと思うけど。
森の中を散策するのはとても心地良かった。緑の葉っぱの隙間からこぼれてくる日の光、地の草を揺らす緩やかな風。
髪留めを外すと自慢の銀髪が風になびいてゆく。自分じゃ見えないけれど、きっと日光を反射してキラキラしてると思うわ。ふっ。
その時遠くの方から何かを叩くような音がして、私は立ち止まる。
「何かしら?」
その音を頼りに森の小路を進んでいくと、目の前に小さな小屋と何かの作業場が視界に入った。
大木を切り倒した後にできた切り株の上で、誰かが薪割りをしている。
ああ、そうか。
「この音は薪割りの音だったのね」
こーん、こーん。と軽快な音が静かな森の中に響き渡る。
ああ、懐かしいわ。私も以前はあのアホ姉どもに命じられて薪割りもしていたんだもの。お蔭で意外に力持ちになったわよ、ふっふっふ。
彼はこの森を管理する庭師か何かだろうか。興味本位で近寄ってゆくとその人物は意外にも若い男で、長身の引き締まった身体が私の視線を奪い取る。
「あら、よく見たら顔も結構良いおと……」
薪割りを終え、首に引っ掛けた薄汚れた布で汗を拭く栗色の短い髪の男性を見た途端、私は一瞬心臓が止まるかと思った。
な、何でここにいるのよ。
口をパクパクしている間に向こうも私に気付き、彼は見慣れた笑顔を向ける。
「あれ、灰かぶ……」
私は猛ダッシュで薪割り男に駆け寄り、そしてみぞおちに肘打ちを一発食らわせた。
ふっ、会心の一撃。
「ぐほっ、な、何するだ。エレ」
「『灰かぶり』って呼ぶなって言ってんでしょ、それに私の名前はエレオノーレ。雅な響きが気に入ってるんだから勝手に短くしないで」
「そりゃすまねえ」
「で、何であなたがここにいるのよ、ハンス」
それが王宮庭師ハンス――――私が玉の輿に乗る前に彼氏だった男との再会であった。
ああ、最悪。
ハンスと初めて出合ったのは、はしばみの木が生えたお母様のお墓の前だったわ。
見た目もそこそこで性格の穏やかな彼とはすぐに仲良しになり、嫉妬深い継母と姉達に隠れて私たちはこっそり付き合っていた。
水汲みをやってもらったり、薪割りを代わりにやってもらったり。力仕事は何でもござれだからとっても便利……たまには自分でやってたわよ、たまにだけど。
あの頃、私だって始めのうちは外国で商談中のお父様がいつか戻ってきて、あのいびり地獄から救ってもらえると思っていた。
でもあのオヤジったら、すっかり継母の表の顔に騙されて私の言う事なんて全然信じてくれなかったんだから。あー、今思い出しても腹が立つ。
せめてハンスが私をどこかに連れて逃げてくれないかと期待してたのに、何だかうだうだやってるだけで全然役に立たなかった。
そうよ、今の三食おやつ付きのゴージャス生活を掴み取ったのは、全部私の努力なんだから。
誰も助けてくれないから、私は自分で「玉の輿」っていう活路を見出したのよ。文句あるかっ。
「誰にも邪魔させないんだから!」
「何だエレ、腹でも空いてるだか?」
「空いてないわよ。エレって短くするなっていつも言ってるでしょ、ばかハンス」
「相変わらずひどいだなあ、エレオノーレは」
「うるさい」
私はあんたにさっさと見切りをつけてカール王子と結婚したのに、どうしてそうのん気に笑ってんのよ。そういうへらへらした所がまた癪にさわるんだから。
「それにしてもハンスって王宮庭師だったのね、私全然知らなかったわ」
「ああ、ちょっと前から親方の代わりにここに来させてもらうようになっただよ」
「……ねえ、前から思ってたんだけどその訛りどうにかならない?」
「オラ訛ってねえだよ、エレオノーレと同じふうに喋ってるだが」
ここにもバカがもう一人。
っていうか、私の周りにいる男はバカしかいないのだろうか。
「ああ、憂鬱だわ」
しかし虐げられて育った薄幸の美少女という売りで王宮入りをした私にとって、「元彼の存在」なんてもっての他。こうやって会ってるところを誰かに見られただけでとんでもないスキャンダルにもなりかねない。
「知られたら最後、あの化粧お化けが黙ってないわよね。下手したら不貞の罪で縛り首よ、縛り首」
そこまで行かなくても、私は体よくここから追い出されてしまうかもしれない。ウラ陛下の作り笑いを思い浮かべながら、私はそれだけは絶対にごめんだと思った。
ここも気安い場所じゃないけれど、未だ継母と義理の姉二人が居ついている実家に出戻るなんてとんでもない。そんなことになるくらいなら一人旅に出るわよ。根性と若さがあれば何とかなるわ、私はまだ十六歳の美少女なんだから。
「いいことハンス。あなたは私を知らない、会ったことも無いの」
「いま会ってるでねえか」
「うるさいわね、それも忘れなさい」
「うん? まあそこまで言うなら仕方ねえだな」
不思議そうに首を傾げるハンスを見やり、私は「バカで助かった」と小さく溜め息をつく。
でも私の人生っていつになったら本当の幸せがやってくるのだろう、そう考えると更に欝にならざるをえない私がいた。
「森の悪魔の生贄に?」
「困った事に、今国中に流行り病が蔓延してますの。占い師の宣託では、高貴な身分の娘を森に住む疫病の悪魔に捧げれば収まるそうよ。お父様は遠くにいらっしゃる教皇猊下にご挨拶に行ってしばらく留守ですから、わたくしたちがしっかり国を守らねばなりません。だから、ね。カール」
「そんなー、母上。僕エレオノーレ大好きなのに酷いよ」
ある日たまたまウラ陛下の部屋の前を通り過ぎた時、無用意にもドアが少し開いたままになっているのを見かけて私は立ち止まった。
立ち聞きをしようと思ったわけじゃないわよ、閉めてあげようという親切心だったんだから。
「生贄にはそれなりの地位が必要ですけれど、有力貴族の娘を差し出させると後々面倒なのです。でも大丈夫よ、愛しいカール。あなたの次の后は隣国の王女を迎える予定ですから」
「美人?」
「ええ、もちろん」
「うーん、エレオノーレの銀髪気に入ってたんだけど……それじゃあ、考えてもいいかなぁ」
「灰かぶり殿は名誉ある前后として、銅像を建てて差し上げましょう。きっと彼女も皆に感謝されて満足しますわ、ほほほほほ」
ほほほほほ。じゃないわよ、くそばばあっ。
思わず喉元まで出かかったその叫び声を、ぎりぎり口を押さえて私は飲み込む。
いや、私だってこの結婚が永遠の深い愛で結ばれてるとかトンチキなことは考えてなかったわよ。でもこれってあんまりじゃない?
神様の前で一応誓いを立てた仲よ。それを物でも交換するみたいに、みたいにーっ。
甘ったれのおバカさんだと油断していたけれど、所詮は王侯貴族なんてこんなものなのだ。きっと私の美貌、それも珍しい銀髪を玩具と同じくらいにしか考えてなかったのだろう。このぼんくら王子め。
「何で他人の為に命を犠牲にして銅像になるのが嬉しいことなのよ、ふざけんじゃないわよ」
ふるふると血の気が無くなるまで拳を握り締める。
白馬の王子さまが救いの手を差し伸べてくれるなんて、そんな夢見がちな乙女の時期はとおに私は通り過ぎていた。自分を助けるのは自分、それ以外にいるものか。
「でも実際、私一人の力じゃどうにもならないのよね」
だから私は、とっととこの王宮から逃げ出すことにした。
慌てて自室に戻ると、王子から贈られた指輪やネックレスから目ぼしい物だけを選んで袋に詰め込む。手の平に入る程度のその小袋の紐をペティコートの紐と結び、水色の絹のドレスとペティコートの間に挟まるようにしておいた。
「早や駆けはちょっと苦手だけど、馬にだって乗れるんだから」
できれば男装でもして変装したいところだったが、そもそも私の部屋には衣装が一つも無い。毎朝召使がどこかの衣裳部屋から持ってくるドレスを着せられていたことを恨みながら、私はこっそり王宮を抜け出した。
庭に面した渡り廊下からそのまま外に出る。茂みに隠れてはみたけれど、遠くに見える高い塀の出口にはやはり見張りの兵士が立っていた。
「他に出口は……」
その時脳裏に閃いたのは、時々隠れて散策していた宮殿の後ろに広がるあの広大な森。
庭園の奥と言っても賊の侵入を防ぐ為に宮殿とは高い塀で隔てられていたが、その中に一箇所だけ壁に小さな穴があることを私は知っていた。
お金なんて沢山あるだろうに、マメに城の修繕をしないのは怠慢なのかケチなのか。今となっては私には分からないけれど、この抜け道を黙っていて良かったと私は自分で自分を褒めた。
そう言えばあれから会っていないけど、今日もハンスは森の中の小屋で仕事をしているのだろうか。
厩にも人がいるのを見て私はあっさりと方向転換し、高価な絹のドレスを破ってしまわないように裾に気を配りながらその穴を抜けた。
運良くハンスに会えたらとりあえず彼に匿ってもらおう。心底お人よしの彼ならば、必死に頼み込めばきっと何でも聞いてくれるに違いなかった。
こんな私を知れば、他の人は自分勝手だと罵るのかもしれない。でも私は私の人生を一所懸命走っているに過ぎないのだ。
ただ人並みに幸せになりたかっただけ。
誰かに苛められて暮らす惨めな自分にだけは、もう戻りたくなかった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
弾む息遣い。耳のすぐ近くに聞こえる自分の心臓の音。
今までこんなに走ったことは無かった。さすがに底は厚く作られているけれど、布靴は石や枝を踏むと時々痛みを感じて顔を歪めずにはいられない。
でも今走らなければ。っていうか、こんだけ苦労しといてこれで人生終わりだなんて私は認めないわ、絶対。
「ハンス、いる?」
一気に開いた扉の先に見えたのは、ある一つの人影。ぜいぜい言いながらも、私はその人影に向かって一歩踏み出した。
「それ以上わたくしに近寄ってはなりませぬ、下賎の者」
途端に室内の暗がりから槍が二本左右から伸びてきて、私の喉元に銀色の刃先が向けられる。
状況を飲み込む前にそのまま床に組み伏せられ、私は辛うじて首を横にして見上げた。
「何者ですか、私をカール王子の正妃エレオノーレと知っての狼藉ですか」
「よく知っていますよ、灰かぶり殿」
頭上から降ってきたその声に、私は思わず目を見開く。
「ウ、ウラ陛下?」
「やはり本当でしたのね、庭師などと通じるとは何と恥知らずな方でしょう。でもご安心なさって、あなたはこのまま王子の妃として国の尊い犠牲になるのですから。おっほっほっほ」
いつも嫌味ったらしく小言をいうウラ陛下の声が、これほど恐ろしく聞こえたことはかつて無い。
そうして私はあっという間に縛り上げられ、密かに「疫病の悪魔」が住むといういわくつきの森に護送されていったのだった。
ぴちょーん。ぴちょーん。
不景気な水音だけが木霊する大きな洞窟。
当然だけど、こんな所まで私を助けに来る酔狂な人間などいない。ハンスなら知り合いのよしみで義理堅く助けに来てくれるかもしれなかったけれど、私たちの関係をウラ陛下が誤解している限り彼の処分も私と似たり寄ったりだろうと思われた。
つまり私は、たった一人でもうすぐやって来るかもしれない悪魔に対峙しなければならない。
辺りは全てを無に帰すような漆黒の闇。手も足も縛られた私は、横倒しにされたまま虚しく闇の向こうから届く水音を聞いていた
「……わけ無いわよ。んしょ、んしょ」
ふっ。継母に謂れ無き虐めを受けていた頃、こうやって縛られて納屋に閉じ込められたことが計五十三回。これだけ回数も重ねれば、人間何かしら突破口を見出す為に特技ができるものよ。
「結構きつく縛られたわね、あともう少しなんだけど」
馬車で護送されている間から少しづつ緩めていたおかげで、洞窟からウラ陛下の手下がいなくなってからそれほど時間もかからず縄は解けた。
薄皮がめくれている様で、手首がヒリヒリする。入る時はウラ陛下の手下が持っていた松明があったのだけど、今は自分の手の平さえ見えない真の闇にいた。
そろそろと壁に向かって這い、立ち上がる。
その時ドレスの裾が何かに引っ掛かっていたようで、ビリリと布が裂ける音がした。しまった、これは後で売るつもりだったのに。
「そこにいるのは誰じゃい」
しわがれた声が聞こえたかと思うと、突然視界が真っ白に染まった。光が洞窟内全てを照らし出し、暗闇に慣れた私の視力を奪う。
「だ、誰?」
「何だあんた。ああ、生贄の娘っ子か」
生贄。その言葉を聞いた途端に、私の背筋に戦慄が駆け抜けた。
「あ、あああ悪魔? 私を食べに来たの?」
未だ視界の回復しないまま再びしゃがみ込み、私は手探りで石を掴んでは声のした方へでたらめに投げつける。
「や、やめんか、危ないじゃないか」
「やめるわけないじゃない、食べられてたまるもんですかーっ」
「危ないって言っちょるじゃろ」
「あっち行ってよ、悪魔!」
「ぴぎゃっ」
「うん?」
カエルの潰れたような悲鳴が聞こえて私は一瞬手を止めた。やっと視力が戻ってくると、十歩くらい先に仰向けで倒れている小さな老人が見える。
「人間?」
でもその老人は高齢とはいえ、幾らなんでも体が小さすぎた。だって私の身長の半分くらいしかないのだから。
真っ黒いローブを纏って腰紐で括り、しわしわの小さな手には何やらいわく有り気な杖が一本。
耳は……一応尖ってはいないようだ。
「あいたたたた」
頭をさすりながら小さな老人がむっくりと起き出す。その時髪の毛が一本もないハゲ頭に洞窟内の光が反射して、ピカリーンと私の目にそれが照射された。
「ま、眩しい」
「うん? おやおや」
老人がフードをすっぽり被ると反射はなりを潜め、私は改めてその老人を見やる。胡散臭くはあるけれど白い眉毛が伸びて隠れがちな瞳は意外につぶらで、長い白髭に顔の下半分を覆われた容貌はそれほど邪悪な雰囲気は感じられなかった。
「酷いのう、こんな老い先短い老人に石を投げつけるなんて」
「ご、ごめんなさい」
「じゃあ行こうかね、ワシの花嫁さん」
「は?」
老人は私の手を掴むと、洞窟の奥へずんずんと歩き始める。ちょっと待って、花嫁って一体何のことよ。
しかし振りほどこうにもその手は意外に力強く、私は引き摺られるように洞窟の奥へと進んでいったのであった。
小規模の流行り病ならば年に一回程度。でもこの国全体を揺るがす深刻な流行り病は、数十年おきにやってくる。
その殆どが他所の大国から流れてきた疫病だったけれど、自生している薬草を飲んだりする以外大した治療方法も無い私たちにとって、それは一度かかれば生死を分つ一大事件に発展した。
実を言えば私の本当のお母様も、その流行り病の犠牲になった一人である。
「何をどう間違った噂があるのかは知らんが、ワシは悪魔じゃないぞい」
「じゃあ何なの?」
連れて行かれた洞窟の奥には想像もつかなかったくらい大きな空間が広がっていて、住み心地良さそうに様々な家具が置かれていた。
剥き出しの地面の上にはふかふかの絨毯が敷き詰められ、その上に立派な寝台や刺繍の施された椅子。向こうにずらりと並ぶ本棚には見たことも無いような分厚い本や古い本が並び、隅の方にあるこじんまりとしたかまどにかけられた大鍋からは湯気が立ち昇っていた。
老人はウムと一度頷き、そして椅子に座った私を見上げる。
「ワシは魔法使いじゃ。それもただの魔法使いじゃないぞい、大魔法使いじゃ」
「ふーん」
「ぬ、可愛くない反応じゃの」
「お爺さん相手にぶりっ子しても仕方ないでしょ」
「ぬぬぬぬ」
そしてその自称魔法使いの老人は私に語った。
随分大昔、今のように流行り病が蔓延していた時、この魔法使いは気まぐれに病気そのものを魔法で国から消したことがあったらしい。当時の王様がこれを喜んで褒美を取らせようとし、何が欲しいか尋ねられて彼は「嫁が欲しい(美人限定)」と言ったそうだ。
それ以来数十年単位で大きな流行病が起こるたび、魔法使いに病を沈静化させてもらうための供物として美しい娘を選んではこの洞窟に行かせる習慣が生まれた。
ウラ陛下は「生贄の娘は身分の高い人間でなくてはならない」と言っていたけれど、美しく身を保つことができるというのは自然と特権階級の人間に限られてくる。農民の娘なんて毎日畑仕事で日に焼けて肌はボロボロだし、栄養不足で見た目もすぐに老女のようになってしまうのだから。それでいつの間にか、「生贄には身分の高い娘」というのが基本になったのだろう。
「それじゃ奥さん増えすぎでしょ」
「それがなあ、みんな普通の人間と同じで短命でなあ。ぐすぐす、ずびぃぃぃぃーっ」
あの、泣かれても困るんだけど。それに服の袖で鼻水拭かないで欲しいわ。
「ちょっと待って。じゃあ魔法使いさんは今何歳なの?」
「さてはて。二百くらいまでは数えておったのじゃが、あとはもう面倒くさくて忘れてしもうたのう」
ありえない、そんなに長生きできる人間がいるだなんて。あ、魔法使いか。
「妻に先立たれるのは寂しいものだて。でも今度の娘さんは元気が良くてワシも嬉しいのう、特にその美しい銀髪は見惚れるわいなぁ」
そう言いながら頬を染める老人を見て、私は失神しそうになった。
あんたが赤くなっても可愛くないってば。っていうか、むしろ気持ち悪いわ。
「なるほど、長い時間の中で魔法使いさんの話が『悪魔』って変わってしまったのね」
「そうみたいじゃのう」
「話は分ったわ、それじゃ」
立ち上がった私を驚いた様子で見つめ、魔法使いが誰何する。
「ちょ、ちょっと待ちなされ。どこへ行くんじゃ」
「どうして私があなたの奥さんにならなきゃいけないのよ。私はこれから自由に逞しく一人で生きていくんだから、魔法使いさんも気持ちよく見送ってちょうだい」
「そ、そうか。…………って、えーーーー?」
「文句でもあるの?」
じろりと見下ろした私の視線にうろたえると、魔法使いは両手の人差し指を目の前でツンツン突き合わせながら恨めしそうに呟く。
「そ、そんな……ワシはこの森の奥でずっと一人で暮らしてきたから誰かとお話もしたいし、最近は足腰も弱ってきてのう。このまま孤独死でもするんじゃないかって心配で心配で……あ、いたたたたた」
突然腰を押さえながら絨毯の上に膝をついた魔法使いは、「さすってくれー、さすってくれー」と呪文のように繰り返しながら私を涙目で見上げた。呪文っていうより、この怨念な雰囲気は既に呪いの言葉って感じだけど。
「もう、仕方ないわね」
溜め息をつきながらしゃがみ込むと魔法使いの腰をゆっくり撫でてゆく。しかしそれも束の間、私は老人の表情の変化を見て血の引ける思いがした。
「はぁぁぁ〜、ええのう。やはり若い娘の手でさすってもらえると格別じゃぁ〜」
ち、ちょっと、何吐息なんて出してるのよ。頬を染めるな、恍惚の表情するんじゃないわよこの色ボケじじいっ。
「あんたの銀髪は本当に綺麗じゃのう、ほぅ」
枯れ木みたいな節だらけの手が私の髪に伸びてきて、私は思わず立ち上がろうとする。
でもなぜか私の足は、床に張り付いたようにピクリとも動かなかった。
「え、何で足が動かないの。やだ、触らないでよ変態!」
「エレオノーレに何するだ、この悪魔め!」
突然洞窟の奥から何かが猛烈な速さで突進してきたかと思うと、それは魔法使いに正面からぶつかる。
「ぎょぇぇぇぇぇーーーっ!」
馬車に轢いて轢いて轢きまくられた時のカエルの如く雄叫びを上げながら、魔法使いは突然の乱入者と共にゴロゴロと奥の方まで絨毯の上を転がっていった。
「あてててて。大丈夫だかエレ」
「ハンス?」
そこにいきなり現れたのはあのハンスだった。小屋の中に姿が見えなかったからてっきり捕まったものだと思っていたのに、彼はウラ陛下の魔の手から逃れていたのだ。
「今この悪魔の息の根を止めるだに。ちょっと待ってるだ」
「ひぃぃぃぃ、やめてよして助けてー」
「往生際が悪いだよ、悪魔め。この細っちょろい首の骨を折ればイチコロだで我慢するだ」
「いやいやいやー、イチコロいやー!」
あんたは大魔法使いじゃなかったのか……。
ハンスに馬乗りになられ、涙と鼻水と唾液でぐちゃぐちゃになった顔で泣き叫びながら魔法使いは駄々っ子のように手足をばたつかせた。どうもこの老人は絶望的に気が弱いらしい。
「あの、ハンス。それ一応悪魔じゃないみたいだから、もう放してあげて」
「んあ? そうだっただか」
さっき突然動かなくなった足は気付かないうちに元通りになっており、私が二人に歩み寄って溜め息混じりにそう言うと、ハンスは素直に魔法使いを解放した。
涙と鼻水とよだれを盛大に垂れ流しながら、恐怖に歪んだ壮絶な顔で魔法使いは上半身を起き上がらせる。その時に頭からフードが落ち、瞬間室内の明かりを反射してまたしてもハゲ頭が光を乱反射した。
「うっ、目の前が見えねえだ」
「眩しいっつーの」
私は足早に近付くと、視線を逸らしながらハゲ頭にフードを再び被せる。それにしてもこの部屋もここに辿り着くまでの洞窟も、ロウソクも松明も無いのになぜこんなに明るいのだろう。
「それはワシが作ったヒカリゴケの一種でな、ワシがちょいちょいと呪いをかけると一斉に光り出すんじゃ。おひょひょ」
私が天井を眺めているのを見て魔法使いの方が察したらしい。もしかしてそのハゲ頭にも強力なヒカリゴケが付いてるんじゃないでしょうね、眩しいったらないんだから。
立ち上がったハンスをよくよく見ると、繊細な顔立ちとまでは言わないけれど目鼻立ちの整ったその顔に擦り傷やら小さな切り傷ができているのに気付く。衣服も上着やズボンが所々破れていて、私は眉尻を下げた。
「もしかしてウラ陛下に酷い事をされたの?」
「いいや、ここに来る間にできただよ。エレを追っかけて慌てて馬に乗ってきただが、途中で道に迷ってけもの道を通ってきただ」
「じゃあウラ陛下には会わなかったのね、良かったわ」
そう胸を撫で下ろす私に、ハンスは勢いよく首を横に振った。
「会っただよ。でも何か『この筋肉美はわたくしが密かに狙ってた』とか、『灰かぶりが憎らしい』とかブツブツ言った後オラのこと解放してくれただよ。そもそも、親方にたまたま引っ付いてきたオラを引き立ててくれたのもあの人だし」
「……あの色ボケ化粧お化け」
「とにかくエレが無事で良かっただ」
大きな温かい手で頭を撫でられて、私は一瞬張り詰めていた気が緩みそうになってしまった。
こんなところで泣いたらダメだ、大体ハンスがここに来たのだってただ私を哀れに思っただけなのだから。
「何怒ってるだ?」
「怒ってなんてないわ」
感情の昂ぶりを抑えようとすると眉根にしわが寄り、唇にぎゅっと力が入ってしまう。
私はいつからこんな性格になってしまったのだろう。小さい頃はいつも綺麗なドレスを着て、美味しいご飯を食べて、お母様の膝の上でいつも歌を歌っていたのに。
皆に愛されて笑っているだけで一日が過ぎていった。しかし今更無くなったものを懐かしんでも仕方の無いことなのだと、私は自分に言い聞かせて生きてきたのである。
でも私の頑張りもそこまでだった。
「よく頑張っただな」
それはたった一言。その言葉と彼の笑顔だけで、私の苦渋に満ちた人生が不思議と価値のあるようなものに感じられた。
抑えきれなくなった涙が頬を伝って流れてゆく。
そうよ、こんなんでも私は精一杯頑張ってたんだから。
涙が熱かった。数年ぶりに流した涙は私の隠して隠し続けた本当の気持ちを乗せて、次々と外の世界へ流れ出てゆく。
「ばかなんて言ってごめんね、ハンス。ばかは私だわ」
ハンスほど心の強い人はいない。私はこの人に助けられた事を、これから誇りにして生きてゆこう。そう思った。
「あのー、いい所を申し訳ないんですけれど」
「何、まだ何か文句あるの?」
泣き顔のまま上から思い切り睨みつけてやると、魔法使いは小さくひぃと悲鳴を上げる。
「この上まだ私に『妻になれ』なんて世迷いごとを言うんじゃないでしょうね」
「しょ、しょんなことはございません。ひぇぇぇ」
震え上がって小さな身体をさらに縮こませた魔法使いは、私たちをびくびくしながら見上げた。
「あの、このままってことは流行り病の件はほったらかしでええんかいの」
「それで脅してるつもり?」
もうこんな国がどうなろうと私の知ったことではない。所詮この時点で私は王家のお訪ね者。生きて行くなら他所の国へ一刻も早く逃げ出さねばならないのだ。
「どうでもいいわよ、流行り病なんて」
「エレオノーレ、それは本気で言ってるだか?」
見上げたハンスの顔はいつもと変わらぬ穏やかな表情で、なのに私はそれが途端に居心地が悪いものに感じられた。
ハンスは私の実のお母様が流行り病で亡くなったことも知っている。だからだろう、何となくもの言いたげな表情に見えるのは。
その視線に晒されるのがだんだんと辛くなってきて、私は頭を小さく振ってから魔法使いを見た。
「で、私にどうしろって言うのよ。言っとくけど、妻にはならないわよ」
「ワシが大きな魔法を使うには、今そのエネルギーが足らんのじゃよ。しかしワシも今の嬢ちゃんは恐ろしゅうて魔法の足しには……」
「何か言った、ハゲ」
「何でも無いですじゃ……ぐえっほ、ぐえっほ」
わざとらしい咳を。
それにしても大きな魔法を使うために必要なエネルギーとは何のことなのだろう。まさか人体を供物にするとか、そんなオチじゃないでしょうね。
「ワシのパワーの源はな」
「源は?」
「煩悩なんじゃ」
言った途端頬をほんのり赤らめる死に損ないの老人を見ながら、私は真剣に話を聞こうとした自分をこれほど後悔したことは無かった。
ああそう。だから「怖い嬢ちゃん」はダメなのね、望むところじゃない。ふっ。
「じゃあ、どっちにしても流行り病を消す魔法なんて使えねえでねえか」
「それが一つだけあるんじゃよ、嬢ちゃんの髪じゃ」
「私の髪?」
「それほど稀有な銀髪、それも若い娘のものなら色々と術の媒介にも役立つはずじゃ」
「この髪があれば、国から流行り病を消してくれるのね?」
「いかにも」
「分ったわ」
私は振り向くと、ハンスの腰元から短剣を引き抜いた。ハンスが止めようと慌てて手を伸ばし、それが私に届く前に自分の髪を掴んで一気に切り落とす。
小さな頃から自慢の髪だった。お母様がいつも綺麗ねと言いながら撫でてくれたこの銀髪。
でもそれがこんなふうに活用されるなら、お母様も喜んでくださるわ。きっとそう。
「はい、これでいいんでしょ。ちゃんと魔法かけなさいよ、やらなかったら後で戻ってきますからね」
「ひょひょー、これはまた豪快に切り落としたもんじゃのう」
髪の束を受け取ろうと嬉々として伸ばした魔法使いの手が届く直前、私はこの小さい老人の手が届かない位置に髪を掲げてこう呟く。
「そう言えばあなた、私が腰をさすってあげた時こっそり魔法かけたでしょう。あの時突然足が動かなくなったもの」
「ひょっ?」
両腕を伸ばしたまま硬直して額に汗を浮かべ、エロ魔法使いは口をパクパクさせた。
「ま、それは大目に見てあげるから、ついでに私のお願いを一つ聞いてくれないかしら」
「お願いとな?」
きょとんとつぶらな瞳を向ける魔法使いに、私は満面の笑みで頷くのであった。
そうして、私とハンスは魔法使いの家を後にした。
長く曲がりくねった洞窟を出ると、すぐ正面に生えている木に一頭の栗毛の馬が繋がれている。きっとあれがハンスが乗ってきたという馬なのだろう。
「そう言えばさっきから大人しいだな、どうかしただかエレ」
「ううん、別に」
「あちゃー。落し物したとか言っておめえを一人で魔法使いの家へ戻らせたのは失敗だったか」
手を額に当てて天を振り仰ぐハンスを横目に、私はほんのひと時前に見た出来事が頭から離れず、自然と眉間にしわを寄せていた。
宝石類を入れた小袋が無くなっていることに気付いた私は、付いてゆくと言ってくれるハンスを置いて一人あの洞窟を引き返した。と言ってもそれは本当にわずかな距離で、何かあったらすぐにハンスが駆けつけて来てくれると思ったからこそなんだけど。
そこで私は見てしまったのだ。あの世にも恐ろしい光景を。
私たちがそこを去る時、魔法使いはこちらを気にする様子も無く早速私の髪に何やら魔法を嬉しそうにかけていた。そうか、銀髪というのはそれほど魔法使いにとって魅力的な魔法材料なのね。とその時の私は内心頷いたものである。
そして一人戻ってきた私が見たもの。
編んだ銀の髪をハゲ頭に被った老人――三つ編みにした銀髪のカツラを被った魔法使いが、恍惚の表情でうっとりと鏡を見つめているその姿を……っ。
術の媒介に使うんじゃなかったのかー!
魔法のエネルギー、エネルギー……そうか。「煩悩」がエネルギーって言ってたものねあのエロ魔法使い。あながち間違っては……いないわ。
「うう、今思い出しても気持ち悪い」
「少し休んでくだか?」
「ううん大丈夫、ありがとうハンス。じゃあ私もう行くわね、あなたも気をつけて」
一人歩き始めた私の肩を掴み、ハンスは慌てたように声をかける。
「ちょ、ちょっと待つだ。一人でどうする気だ、歩いて他所の国まで行くつもりだか」
「だってもうこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないもの」
「何言ってるだ、さあ乗るだ」
強い力に引っ張られて、あっという間に私は馬の上に乗せられてしまう。いつもより強引なハンスの態度に、私は反抗する意欲も無くしてされるがままだった。
後ろにハンスが騎乗すると、背中の温もりを頼もしく感じながら私は呟く。
「私はあなたを見限って王子と勝手に結婚したのに、あなたは怒ってないの?」
「うん? まーそうだなぁ、エレがそうしたいならそれでもいいかなと思っただ。あの頃はてっきり、オラに連れ出してもらいてえって思ってると勘違いしてた時もあっただが」
「は?」
私は今、幻聴を聴いたのだろうか。
「ちょっとあなた、知ってて知らん振りしてたの?」
ぐりんと上半身を捻ると私はハンスの襟元を掴んで眉を吊り上げた。しかしハンスの方は全然動揺することも無く、落ち着いて答える。
「エレがいつ『連れてってくれ』って言い出すかと待ってただが。でも結局それを止めたのはおめえだぞ」
「はー?」
ちょっと待って、何かがおかしいわ。つまりハンスは私が直接「連れ出せ」って言わなかったから何もしなかったってことよね。
「それってつまり、私は無理して結婚する必要なかったんじゃ……っ」
ああ、そうよ。あの頃の私は今よりすこし控え目で慎み深かったから、自分からそんなこと言えなかったんだわ。だって一緒に逃げたらハンスの今の生活もパーなんだから。どんな事してる人なのか殆ど知らなかったけど。
私は目眩を感じ、馬から落ちないようにハンスの服をがっちりと掴みながら顔を伏せた。
「聞いていい」
「うん?」
「どうして私を助けてくれたの?」
実際は気の弱い魔法使いだったけれど、ここは悪魔の巣と言われていた洞窟だ。そんなところまで危険を承知で助けに来てくれる人なんてまずいないだろう。
「そんなのエレが好きだからに決まってるだ」
当然のようにするりとそう言われて、私はかえって笑いが込み上げてきてしまった。ウラ陛下が狙っていたというその厚い胸板に顔を埋めて、くっくっくと小さく笑う。
「オラの両親はもうこの世にいないし、好きなだけエレと一緒に旅してやるだよ」
「エレって言わないで、私はエレオノーレっていう雅な響きを気に入ってるの」
「はいはい」
「何よ、何笑ってるのよ」
ハンスは嬉しそうに目を細めて小さく何度も頷く。ああ、結局私ってこうやって丸め込まれていくのかしら。
でもそれは真綿のようにふわりとして暖かいもの。たまにはそんなのも良いかななんて私は頭の隅で思った。
「さあ、城から持ってきた宝石を資金に、何かひと商売頑張るわよ。出発!」
そもそも問題の解決を「玉の輿」だなんて他力本願な方法に頼ったのが間違いだったのだ。富は自分で稼げ、チャンスは自分の手で掴んでこそ女の生きる道っ。
「そう言えば、エレオノーレはあの魔法使いに何を頼んだだ?」
「ふふ、知りたい? まあそのうち噂が流れてくるわよ、隣国にもね」
ハンスは首を傾げたまま、それ以上は聞こうとしなかった。
上を見上げれば捕まる前は青空の真ん中にあった太陽が、今では西の空を赤く染めながら身を沈めてゆく。林道を馬に揺られ、柔らかなオレンジ色に照らし出されたハンスの横顔を見上げながら私は思う。
助けてくれたのは白馬ではなく栗毛馬に乗った庭師だったけれど、それはそれでとても素敵なことに違いない、と。
そして私たちがこの国を去った後、流行り病は突如として収まり、悪魔の生贄にされた悲劇の后「灰かぶりのエレオノーレ」は民の間で伝説となって遠い国にいる私たちにも噂が届いた。
その時におまけとして引っ付いてきた話は、「王子の若い后を犠牲にした天罰が下り、宮殿に雷が落ちて半壊した」というものだった。
雷だけで半壊っていうのはちょっとオーバーかもしれないけれど、私が魔法使いに依頼した雷は見事に宮殿の上に落ちてくれたらしい。
最後まで半信半疑だったけれど、あの魔法使いは本当に大魔法使いだったのだ。大事な髪をあげた甲斐もあったというものである。
やられたらやり返す。これは私の人生の鉄則よね。ふふ。
「灰かぶり・その後」完。
* *
…………ぐぅ。
はっ。あ、あらお帰りなさいませ。
寝てたでしょうって? そんなことございませんよ、私はもう天に召された人間ですから。ほほほ。
始めにお会いいたしましたわね、ドロテーア・グリムでございます。灰かぶりの世界はご堪能いただけましたでしょうか。
え、野蛮?
――――えっと、うんと。彼女はほら、後にシャルル何とかさんが書かれたシンデレラとは別人ですから。おっほっほ。
では皆さま、今日の「金の太陽亭」の営業はこれまでに致したいと存じます。
またどこかでお会いできることを祈りつつ。では、ごきげんあそばせ。
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