ヒューロの欠片  第一話「二つの絆」 1
 
 薄明るい闇の中に、女性と子供が佇んでいた。
 呆然と一点を眺めやる彼女の纏め髪は毛束がほつれ、どこからともなく流れる時の風に静かに揺れている。
 横に穏やかな表情で佇む少年は、前と後ろ、そして最後に女性を見上げ、黙って促す。
 二人の立つ場所は、そこだけぽっかりと別の空間に繋がっているように何も無い。しかし二、三メートルも進めば曖昧な境界線の先に、かつての祭りに賑わう神社が見えた。
 彼女は今、選択を迫られている。
 視線を前方に向ければ、かつて自分が何よりも大切に想っていた少年の姿が見えた。
 そして振り向いた先には、暗々たる闇の道の向こうに続く帰り道―――現代。
 赤い髪の少年は穏やかな声で彼女を促す。
「さあ、あなたの好きな未来を選んでください」
 彼女は今、まさに人生の岐路に立たされていた。
 選択次第で今までの自分の人生をやり直すことが可能なのだと。
「私……、私は……」
 唇を小刻みに震わせ、彼女は小さく呻く。
 自分は、どちらに進むべきなのか――と。



「……はい。はい、分かりました。色々気を遣っていただいて申し訳ありません、お義母さん」
 やっとのことで相手の話が終わり受話器を置くと、佐奈川優子は疲れたように息を吐き出す。
「全く、出すのは口だけなんだから。大きなお世話だってんのよ、くそババア」
 優子が「くそババア」と悪態をついた相手は夫、弘の母である。
 視界の隅にその弘が通り過ぎて行くのを見て、彼女は軽く眉間をしかめた。
「今日は日曜日よ。それでも仕事に行くの?」
「ああ」
 短く答えると、弘はすぐに視線を逸らして玄関に消えていく。
「……本当に、仕事なのかしらね」
 わざと聞こえるようにそう言ってやったのだが、夫は何の反応もせず玄関の閉まる音だけが家の中に響いた。
 何もする気が起きず暫く座ったままぼうっとしていると、子供の泣き声がして我に返る。
「どうしたの、真理奈」
「ママ、痒いのー」
 隣室で寝ていた三歳の娘の元へ行くと、真理奈は両腕の肘の内側を見せながら泣いて訴えた。
 赤くただれ、痒さに耐え切れずに掻きむしった痕が微量の出血をみせている。
 娘は生まれつきアトピー性皮膚炎に悩まされ続けており、無残な傷痕は両腕だけでなくあらゆる間接部に見られるものだ。
「ああ、掻いちゃったのね。しょうがない子」
 医者から処方された塗り薬を取り出し、優子は真理奈の両腕に塗ってやる。
 しかしそれだけですぐに痒みが収まるわけでもなく、娘は泣くのを止めなかった。
「痒いー、痒いー」
「……お薬は塗ったでしょ、もう少し我慢しなさい」
「だって痒いんだもん、ママー」
「もうママに出来る事は無いのよ」
「痒いー!」
「……うるさい」
 優子は小さく呻いたが、それでも娘はかまわず訴える。
「ママー!」
「うるさいって言ってるじゃない!」
 優子は容赦なく大声で怒鳴りつけた。
 真理奈は瞳を強張らせ、その途端に口を閉ざして黙り込む。幼い視線の先にあるものは、思わず母が振り上げた手だ。
 顔をしかめ、振りかぶった手をゆっくり下ろすと、優子は呟く。
「ああ、もう嫌」
 両手で顔を覆い、溜め息が漏れた。

 もう随分と前に人生が終わってしまったかのような絶望感の中、彼女はそれでも、何とか日々を過ごしていた。
 二十六歳で夫の佐奈川弘と結婚してから、三年と少し。三歳になる娘との三人暮らしのマンションは、結婚と同時に新築で購入したものだ。
 大手企業に勤めていた彼女が、三歳年上の弘と社内恋愛の末結婚した時は、誰もが皆、彼女を羨んだものだった。
 弘は有名大学を卒業し、社内でも仕事ができると有望視されていた出世頭で、それなりに整った容姿と百八十五センチと長身の真面目な性格の男である。
 彼は普段あまり表情が表に出ない冷静な男性で、彼を射止めようとした女子社員は数多くいたのだが、彼はその中から優子を選び、結婚した。
 結婚話が持ち上がった当事、優子は部署の中でも責任ある仕事を任されるようになったばかりだったので会社を辞めたくはなかったのだが、婚約期間中に妊娠が発覚して、結局退社を余儀なくされたのである。
「私だって、あのまま会社を辞めていなければ……」
 かつてキャリアウーマンだった頃の自分を思い出しては、そう呟くことが多くなっている。
 こんな所で不毛に時間を費やす、専業主婦の自分が嫌だった。
 優子は顔を上げ、室内を見回す。
 自分の趣味でコーディネートされた家具やカーテン、棚には自分で作った小物が綺麗にディスプレイされ、さながらドラマに出てくる「現代的でお洒落な部屋」だった。
 しかし部屋をどんなに飾ろうとも夫は無関心で何も言ってくれない。
 たまの休日にさえ娘と遊ばず、さっさと仕事に出かけていってしまう冷たい男なのだ。
「ママ」
 呆けた様に部屋を眺めている彼女の手を、小さな手がきゅっと握った。
 子供の温かい体温が冷たい優子の手にも伝わる。
 やっと表情を緩めた優子を見た真理奈は嬉しそうに微笑み、横に引っ付くように座った。どうやら痒みは収まったようだ。
 そのまま横で小さな寝息を立て始めた娘の寝顔を見ながら、優子は考えていた。
 ―――この子も自分をこの檻に縛りつける原因だ、と。

 三人で暮らすマンションは、優子にとってコンクリートでできた檻にしか感じられなかった。
 自分を母として、妻として縛り付ける全てのしがらみが煩わしく、疎ましいものでしかない。
 真理奈のアトピーアレルギーにしても、優子は義母から「それまでの食生活が悪かったからだ」といつも罵られていた。
 だから彼女は娘のアトピーを治す為に、食事は全て添加物の無いものにこだわるし、治療の為の毎日の沐浴、薬の塗布、内服と、痒がって泣く娘を宥めつつ、できるかぎり一所懸命やってきたつもりだ。
 しかしさっきもかかってきた電話のように、義母は真理奈のアトピーが未だに治らないのは、彼女の怠慢のせいなのだと繰り返した。
 そこまで言うのなら義母が直接手伝ってくれても良さそうなものなのだが、義母はただ文句を言いたいだけなのだ、と優子は割り切っている。
「私、どうして弘なんかと結婚しちゃったんだろう……」
 今更言っても仕方ないことだが、彼女は胸の中でそう呟き、続いてある一人の名前がよぎった。
 十四年も経った今でもこだわっている自分が馬鹿らしく、やはりそれでも、それは忘れることのできない名前だった。
「柊介がいれば、こんな事なかったかも知れないのに……バカ!」
 かつての同級生の名前を口にしながら、優子は手近にあった雑誌を壁に向かって投げつけた、その時だった。
「わあっ!」
「……え?」
 誰も居ないはずの壁際から小さな声がして目を見開く。
 娘は自分の隣で寝ている。では、声の主は一体誰だというのか。
 そこに立っていたのは、柔らかそうな赤い巻き毛の十歳くらいの少年だった。
 随分と時代がかった格好をしていて、緑色のマントに、白い布を巻きつけたような衣装を着ている。やたらとニコニコ笑っている少年の瞳は緑色で、まるでゲームの登場人物がそのまま抜け出てきたかのようだった。
「……外人?」
 やや的外れな事を口走った後、優子は我に返って少年に詰問する。
「君、どこから入ってきたの?」
「いえ、入ってきたというか何と言うか。気が付いたらここに辿り着いていたわけでして」
 胡散臭気な視線を向ける優子と、緑のつぶらな瞳がぶつかった。
 少年は満面の笑みを浮かべて言った。
「おめでとうございまーす! あなたは、人生をやり直すチャンスを今手にされましたー!」
「……は?」
 子供は両手を高く掲げ、その場を盛り上げようとして大声を張り上げたのだが、優子に通用するはずもない。
 彼女は立ち上がり、不法侵入の子供に歩み寄る。
「はい、さようなら」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
「いい? 他人の家に勝手に入ったら、犯罪なのよ、犯罪。分かる?」
 どう見ても西洋人系の容姿をした少年に、「犯罪」という日本語は少し難しかったか、と一瞬思ったが、優子は構わず玄関の方へ引っ張っていこうと手を伸ばした。
 しかしそれは通り抜け、掴もうとした手が空を切る。
「……え?」
 驚いて少年をもう一度よく見たが、別に透けているわけでもないし、どこからどう見ても実態が目の前にあるとしか思えない。
 それでもう一度、少年の身体に手を向ける。
 ちょうどみぞおち辺りにすっぽりと手が入り込み、実際に手に触れるものは何もなかった。
「―――き」
 たっぷり三秒の間を置いて悲鳴を上げようとした優子の口を、少年は小さな手で慌てて塞いだ。
「あー、待ってください。僕お化けじゃありませんから。ね? ね?」
 優子の身長は百六十九センチと、女性にしては高い方だ。その彼女の口を塞ぐには、赤毛の少年の身長はどう見積もっても足りない。
 どうやってそれを補ったかといえば―――、宙に浮いていたのである。
「むー! むー!」
「いやー、困りましたねー。どこから説明したらいいんでしょーか」
 目を見開いてそれを凝視する優子に、赤毛の少年は困ったように笑った。

   *  *

 少年はヒューロと名乗った。自分の身体の欠片を探して、色々な時間を渡り歩きながら旅をしているのだと。
「ですからね、今の僕は、影でしかないんです。だからすっけ透け」
「だから一体、何者?」
「それが困ったことに、僕以前のこと全然覚えてないんですよ。覚えてるのは、誰かの人生の岐路に僕の身体の欠片が散らばってるっていうことだけで」
 優子は頭を抱えた。
 これは夢に違いない。そうだ、あまりのストレスに自分は白昼夢を見ているのだと。
「僕の身体の欠片の気配を探していたら、ここに出たんです。どうやら今回は、あなたの人生の岐路みたいでして」
 ヒューロはえへっと可愛く笑ってみたものの、優子の反応は鈍かった。
「あっ、その顔は信じてませんね?」
 可愛らしい頬をわずかに膨らませ、ヒューロは優子の目をじっと見る。
 真っ直ぐな視線に優子はひるみ、口を開いた。
「もう、夢みたいな絵空事を信じられるほど純粋じゃないのよ。私は大人ですから」
「大人って不便なんですねえ」
「大人は大変なの」
「でも……お名前何でしたっけ?」
「優子」
「優子さん、僕は自分の身体の欠片を探しにあなたの人生の岐路へ行かなきゃ行けないんです。でも、本人が一緒じゃないと正確な位置が掴みにくくて」
「そう、大変ね」
「わーん、冷たいなあ。ですからね、一緒に行ってもらうお礼に、あなたに一度だけ人生をやり直すチャンスを差し上げようと」
 優子の身体が一瞬、ピクリと動いた。
「人生を……やり直す?」
「はい」
 この、コンクリートの檻の生活から抜け出せるというのか。本当に?
 真剣な顔つきをした優子を見て、ヒューロは満足げに軽く頷いた。
 彼女の手を取り、笑顔を向ける。
「同意が得られたところで、早速出発しましょう! 行きますよー!」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ。私がいつ同意したのよ! 待ち――」
 面食らっている優子の目の前に、突然に大きな光の渦が出現した。
 そこにはありとあらゆる色彩の光が溢れかえり、ゆっくりと流れるようにたゆたっている。
 一瞬、それが希望の道のように優子には思えた。
 ヒューロに手を引っ張られ、途端に優子の身体は光の波に飲み込まれる。
 一瞬だけ後ろを振り返ると、娘の真理奈があどけない寝顔をこちらに向けているのが見えた。直後に入り口が閉ざされ、優子の「しがらみ」である何もかもは、あっという間に見えなくなった。



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