ヒューロの欠片  第一話「二つの絆」 2 
 
 必ず人間は、何かを選択しながら生きていると言われる。
 それは他愛もない日常の小さな事であったり、その後の人生そのものを激変させかねない大きなものまで様々だ。
 今の自分を振り返った時、もしあの場面で別の選択をしていたら……と思いを馳せる者も多いだろう。
 そして優子も今、時の壁を越え、まさにその人生の岐路へ向かおうとしていたのである。


 四月。
 薄紅色の花びらが緩やかに舞い落ちる校庭を抜け、立木優子は下駄箱に向かって歩いていた。
 校庭沿いに植えられた数十本の桜の木々は全て満開を迎え、視線を上にずらせば空は薄い青。
 ピンクとスカイブルー。まさに春を彩る自然の優しいパステルカラーが、目にも鮮やかでとても美しい。
 真っ直ぐに空を見上げると、薄く引き延ばされた綿のような白い雲が幾つか浮かび、ゆっくりと流れてゆく。
 しかしそんな清々しい風景を見ても優子の小さな不安は消えず、思わず吐息がもれた。
「何ボケッと空見てんだよ」
 頭に感じたわずかな衝撃と、その声に振り返った優子は、形の良い眉根を寄せた。
「痛いわね、何するのよ。あんたみたいに馬鹿になったらどうしてくれるの、柊介」
 目の前に立っている舘脇柊介(たてわき しゅうすけ)は、制服ではなくTシャツにジャージ姿をしている。それを見て取って、優子は呆れたように続けて言った。
「まさか、始業式の日まで朝練やってたの?」
「あったり前だろ。何かもう、習慣になっちまっててよ、やっとかないと気持ち悪いって言うか何と言うか」
「……頭の足りない陸上バカはこれだから」
「うるせーな、別に勉強だけが人生じゃねーんだよ。おれはこの足で食っていくんだから問題なし!」
「本当にバカね」
「うるせー」
 この春で共に中学三年生になる二人は、お互いに笑い合った。
 柊介は陸上短距離選手のホープで、去年の全国中学陸上大会に出たほどの実力を持っている。
 優子もバスケット部のキャプテンを務めていたが、彼女を含めチームはいいとこ県大会で入賞できるかどうかのレベルである。
 一年、二年と、偶然に同じクラスになった二人はいつもふざけ合い、けなし合って騒いでいるのが常だった。お互い体育会系の気質でウマが合い、何かといつも一緒につるんでいる事が自然と多かった腐れ縁である。
 しかし今日は三年生としての始業式。優子の憂鬱は、あることが原因だった。
 わずかに見せた彼女の憂い顔に首を傾げながら、柊介は優子の背中を思い切り平手で打ちつける。
「そう言えば、お前また俺と同じクラスだったぞ。あー、うぜー!」
 衝撃に思わずよろめいた優子は、既に駆け出している柊介の背中を見た。
「時間も時間だし、俺そろそろ着替えてくるわ!」
 振り返りもせずにあっという間に遠ざかってゆく少年の姿を、優子は立ち止まって見つめる。
「……そりゃこっちのセリフだっつーの」
 そう呟いた口元は柔らかくほころび、わずかに上気した頬に春の風が心地よく感じられた。

 * *

「勝負!」
 春の新学期恒例の身体測定。
 それぞれに終えて教室に戻った優子と柊介は、お互いの身長が記入されたメモを机の上に叩きつけた。
 優子のメモには百六十九。柊介のメモには……
「やったー! 苦節二年、そしてこれで三年目。ついに俺はこのデカ女の身長を抜いてやったぜー!」
 百七十と書かれたメモを高々と掲げ、柊介が自慢げに優子を見やる。
「何よ、たかが一センチじゃないの」
「ふっ、俺はこれからもずっと成長期。既に旬を過ぎてるお前は、追いつくことはできねーの」
 一年の頃はたった百五十センチしかなかったあのちびっ子に、自分の身長が追い抜かれるだなんて。
 優子は悔しいような、そうでもないような、随分と複雑な心境で柊介を見返す。
 しかし女子にしては身長の高い優子は、それ自体にコンプレックスを抱いていたことも確かだ。だから今まで、柊介の横に並ぶ時は何となく猫背になってしまう習慣がついていた。
「―――柊介?」
 ついさっきまでうるさいほどに喜んでいた柊介は、ふと黙り込み、顎に指をあてて何事かを考え込んでいた。
 そのあまりの真剣な顔に、優子は首を傾げる。
「よし、決めた」
「何が?」
 しかし彼は優子の問いには答えず、優子の手を取って教室を出て行く。
「ちょっと待ってよ、どこ行くの?」
「図書室」
「図書室?」
 勉強嫌いな柊介にもっとも縁遠い部屋の名前が出て、優子は驚かずにはいられない。
 未だ他の級友たちは身体測定の途中で、正確に言えば授業中である。わずかに抵抗してみた優子であったが、柊介の手の力は思ったよりも強く、何となく言われるままに連れ出されてしまった。
 図書室の鍵は開いていた。
 しかし図書係もいないし、利用者もいない。
 ガランとした室内でやっと手首を離すと、柊介は躊躇いもなく言い切った。
「お前が好きだ」
「は?」
「だから俺たち、付き合わないか?」
「へ?」
 さっきから奇妙な声ばかり出している優子に、柊介は眉根を寄せる。
「何だよお前、さっきから『は』とか『へ』とか変な返事ばっかりしやがって。嫌なのかよ」
 頬と耳、全てを真っ赤に染めた柊介にそう問い詰められて、優子も思わず顔がほてった。
 あまりにも唐突過ぎて呆然としていた彼女だが、今初めて我に返り、全身から汗が噴出すほどに緊張する。
 返事は分かりきっている。そのはずなのに、緊張しすぎて上手く口が動かなかった。
 それでも意を決し、優子は床を見つめて答える。柊介の顔を直視して返答するなんて芸当は、とてもじゃないが不可能だった。
「わ……私も、好き」
 精一杯の力を振り絞ったつもりだったのに、その声の小ささに優子は自分でも思わず驚く。
「じゃあ、決まりな!」
 嬉しそうに笑った柊介が不意に優子を抱きしめた。
 緊張ストレスが一気に飽和点に達した優子は悲鳴を上げ、柊介を勢い良く突き飛ばす。
「あ、ご、ごめん。大丈夫?」
「ひでえ」
「だから、ごめんってば。だっていきなりで、ビックリしたんだもん」
「だからって突き飛ばすか、普通?」
「何よ、謝ってるでしょ。しつこい男ねー!」
「勝手に逆切れすんなよ、暴力女」
「何ですって? あんたにそこまで言われる筋合い無いわよ、このアホざる!」
「ちょっと自分が勉強できるからって、いい気になってんじゃねー!」
「なってないわよ!」
 お互い眉間に皺を寄せて、非友好的な視線を交し合う。
 喧嘩はその後まで暫く続き、結局二人は他のクラスメイト全員が教室に集まった後に遅れて室内に戻ってきた。
 周囲が二人きりでいなくなった理由を揶揄する声に、優子たちは顔を真っ赤にして立ち尽くす。そうしてあっという間に、彼らはクラスの公認となってしまったのだった。

 ざわつく教室の中、肘で柊介をつつき、優子が小声で問いかける。
「ちょっと、あんた何でこんないきなりだったのよ。時と場合ってもんを考えなかったの?」
「思い立ったときにやっとかねーと、気持ち悪いだろーが」
「……は?」
 照れたように顔をそっぽに向けながら、柊介が呟く。
「お前の身長抜かしたら、告白するって決めてたんだ。悪いかよ」
 そうだ、これからはもう彼の横に並んでも、猫背にならなくてもいいのだ。
 思った途端、優子の頬に小さい笑みが自然と浮かぶ。しかし口では逆に「バッカみたい」と憎まれ口を小さく叩くのだった。

 *  *

「―――こさん、優子さん。おーい、聞こえてますかー?」
 子供の声に我に返ると、優子は周囲を見渡した。
 そこはほの暗い、何も無い壁と床。
 どこまでも広がっているようで実は狭いようにも感じられる虚無の洞窟のような所に、大人の姿の優子が佇んでいた。
 目の前に立っている赤毛の少年は、スカートの裾を小さく引っ張って笑う。
「ああ、良かった。気がつかれました? ちょっと時間を飛びすぎてしまったようなので、もう少し先に移動しますよって行っておきたくて」
「先へ?」
 呆然としたように答えた優子は、ついさっきまで繰り広げられていた過去の出来事に、すっかり心が奪われてしまっていた。
 自分がそのまま中学三年生の優子そのものになって、そっくりそのまま過去をもう一度繰り返している。
 そんなふうに断言できるほどに、視覚、聴覚、触覚とが余りにもリアル過ぎた。
「これは、どういうこと?」
 震える声で小さく呟く彼女に、ヒューロはいたって明るく答える。
「人生の岐路の正確な位置を探すには、その少し前の時間から丁寧に探さないと時々見落としてしまう事があるんですよ」
 優子は首を横に振った。
「違うの、どうして、こんなにリアルなの? さっきまで私、自分がもう大人だっていうこと本当に忘れていたわ」
「ああ、そのことですか。それは過去のあなたの身体の中に、今のあなたの心が直接入り込んでいるからだと思います。つまり、一つの身体に、二つの心ってやつですね」
 あっけらかんとしてヒューロは答え、そして続けた。
「でもあなたの現在の意識がそのまま自由に動いてしまうと変に過去を変えかねませんから、入っている間は暗示がかけてあるんです。岐路の前の時間で変に過去が変化してしまったら、岐路の位置が移動してしまう可能性もあるし、消滅してしまう恐れもありますから」
 そう説明すると、ヒューロは薄暗い空間に手を伸ばし、押し広げる。
 その隙間から始めに見たときと同じような目映い光の洪水が溢れ出し、再び彼女の身体を包み込んだ。
「さあ、行きましょう」
 ヒューロの小さな手が彼女の手を取り、優子はまた、過去の自分の中に旅立って行った。

 

 夏の太陽が容赦なくコンクリートの建物を照りつける。高まる気温と湿気に、誰もが辟易しないではいられない。
 校舎内はガランとして人気を感じさせず、校庭の方から時折聞こえてくるホイッスルは、水泳部のものであろうと思われた。
 今は八月の半ばも過ぎた、夏休み中である。
 それでも午前中は三年生の補習やら何やらで少しは人がいたのだが、午後も過ぎるとこのように静寂を取り戻していた。
 部活動で午後から学校に来る者も多くいたが、しかしそれは一、二年生だけで、三年生は既に夏の大会を最後に引退した後である。
「暑い……」
「ああ、暑いな……」
 優子と柊介はお互いにうな垂れた様子で建物の日陰に腰掛け、手にしたうちわでなまぬるい風を扇いでいた。
 優子は今日だけ特別に後輩の指導の為に練習に参加し、柊介は数日後に控えた全国大会の為に、最終調整を行っているところである。
 そして一通りの練習を終え、二人とも休憩時間のひと時なのであった。
「お、いいもの発見」
 柊介が腰を上げ、座っていた倉庫の影に近付いてゆく。そこには水道の蛇口と長いホースが置いてあり、彼はホースの先を持つと、水を出して頭から一気に被った。
 気持ち良さそうにしている柊介を横目に、優子は暑さにうんざりした顔で言う。
「こういう時って、男っていいわよね。好きなだけ濡れても大丈夫だし」
「じゃあ、靴脱いで足だけでも洗えば?」
「あ、それ気持ち良さそう」
 早速靴を脱ぎ優子は柊介の方に歩いてゆく。
 かけられた水は冷たいとはいえない。だが何とも心地よい爽涼感であり、優子の顔に元気が戻ってくるには十分なものだった。
「バッシューを履いた足は臭いからなあ、しっかり洗っとけよ」
 くっくっくっと笑いながら柊介が言うと、優子の眉間がピクリと動く。
「あら、スパイクを履いたあんたの足はもっと臭いんじゃないの? 中敷にキノコでも生えてたりして」
「ばっかやろ、キノコが生えてたら履いて走れるかっつーの!」
 不意に柊介がホースの向きを上に向け、優子の顔に水をひっかけた。
 悲鳴を上げて思わず後ずさりした優子だったが、すかさず柊介のホースを取り上げて形勢は逆転する。
「何するのよ、バカざる!」
「ちょ、ちょっと待て。待った、参りました。降参です」
 それでも優子は思いっきり柊介に向けて水をぶっかけてやり、彼はたまらずもう一度ホースを自分の手に取り戻さんと優子の手首を掴んだ。
 その瞬間、思わずお互いの視線が間近でぶつかり、二人の動きが止まる。
 ―――どうしよう、顔が近い。
 優子が至近距離でまじまじと見た柊介の顔は、日に焼けていかにも健康そうな肌をしていた。
 子供のようで、それでいて意志の強さを秘めた瞳は、吸い込まれそうなほどに深い黒。
 いつの間にか視線が少し上を見るようになっていた優子は、柊介の身長が彼女のそれをまた更に追い越しているのを実感させられた。
「柊……」
 彼の名前を呼ぼうとした唇を、柊介の唇が塞いだ。
 遠くで聞こえる水泳部のホイッスルも、体育館の方から聞こえてくる足音も、近くの木で大合唱をしている蝉の声も、全部が全部、一瞬で無音になる。
 柊介の唇は水に濡れていて、少しだけひんやりとした。
 前髪から垂れてきた水滴が、優子の頬にぽたりと一筋落ちてゆく。
 それはほんの一瞬のようでもあり、逆にとても長い時間でもあるようにも感じられた。

 黙ったままゆっくり顔を離した後、柊介が真顔で優子の耳元に囁いた。
「なあ」
「何?」
「お前、ブラ透けてる」
 咄嗟に濡れたシャツの胸元を左手で隠し、残る利き腕の右を、優子は大きく振りかぶる。
「エロざる!」
 夏の空の下、小気味良いほど軽快な張り手の音が鳴り響き、こうして二人のファーストキスは終わったのだった。
 
  *  *

 夏も終わりに近付いていた。
 相変わらず暑いのにはあまり変化は見られなかったが、それでも八月の暦が終わってしまえば夏休みも終わる。
 柊介の全国大会の結果は、結局準決勝進出止まりで入賞することは適わなかった。
 部活漬けだった日々は終わり、これから高校受験へと少しずつ切り替わってゆくのだ。
 そして問題が起こったのは、そんな頃のことである。
「俺、高校は県外のとこに行こうと思ってる」
 柊介のこの一言が、嵐の発端だった。
 ファーストフードの客席に座り、優子は飲んでいたジュースのストローをくわえたまま、目を見開いて柊介を見た。
「隣の県の陸上で有名な高校が、俺をスポーツ推薦で入れてくれるらしいんだ」
「何……それ」
「今年も全国大会入賞できなかっただろ? 今みたいにのんびりやってるんじゃなく、俺はもっと厳しい環境の下で可能性を試してみたいんだ」
 それは揺ぎない決意の表れた声だった。真っ直ぐ優子を見据え、彼の目は冗談を言っているようにはとても見えない。
 柊介がこんなに真剣に自分の将来の事を考えていたことに、優子は少なからず驚きを隠せなかった。
「……高校、一緒のとこを選んでくれると思ってた」
 呆然とそう呟いた彼女に、柊介は苦笑する。
「お前が行くとしたら、頭良いとこだろ? どっちにしても無理だよ」
「それでもっ……」
 机のトレーを見つめ、搾り出すように優子は続けた。
「それでも、ギリギリ柊介の受かるとこなら……」
「ふざけるな」
 低い声音の一言に、優子はびくりと身体を揺らす。
「俺のためにわざわざ高校のレベルを落として受験するつもりか? そんなことされても、俺は嬉しくねーよ」
 突き放した言い様に、優子の中で何かが弾けたような気がした。
 そんなふうに言わなくたっていいのに。何も怒ることないのに。
 バンッと両手で机を叩き、優子は立ち上がる。
「おい、どうしたんだよ」
「もういいわよ」
 優子の返事の意味を理解し損ね、柊介が変な顔をする。
 彼女は一瞬歯を食いしばり、柊介を睨みつけた。
「その高校なら、私も聞いたことあるわ。全国から陸上の選手をスカウトしてるって」
 ―――そしてその生徒たちのために、学校側が寮を用意していることも。
「遠距離は、私無理だから」
「優子!」
 優子は逃げるように店を出た。柊介も慌てて後を追いかけてくる。店から少し離れた所で簡単に追いつかれ、手首を掴まれた。
「待てよ」
「離してよ!」
「俺だってたまにはこっちに帰ってくるし、お前も向こうに遊びに来ればいいじゃないか」
 柊介は簡単にそう言ったが、優子はそれを真に受けることは出来なかった。
 彼は一つのことに集中すると、途端に周りが見えなくなる性格である。そんな高校に行ってしまえば、きっと世界は陸上だけになってしまうのは目に見えていた。休日でも進んで自主練をする彼が、どうしてわざわざ実家に帰ってくるだなんて期待を持てるのか。
 そして一番不安だったのが、最近の柊介がやたらに女子生徒にもてだしたということである。
 三年になって急に身長が伸び、彼は妙に男臭さを感じさせるようになった。
 元々見た目もそれなりだった上、柊介はこの辺ではスプリンターとしてかなり有名な選手なのだ。当然、周囲の女子は放って置かない。
 身長が低かった頃は見向きもしなかったのに、今更騒ぎ出すなんてみんなずるい。
 こんなことなら柊介がチビのままの方が良かったと、優子は唇を軽く噛んだ。
「柊介は、どうせ私の事なんか全然考えてくれないんだから!」
 声を荒げた彼女に、柊介も不快気に眉根を寄せる。
「お前だって、自分の事しか考えてねーじゃねーか。俺の夢より、お前の都合ばっかだ!」
 そう言われて、優子は咄嗟に言い返すことが出来なかった。
 同じ高校に行きたいのは、自分が彼と一緒に居たいから。
 夢のために遠くへ行こうとする彼を認められないのは、いずれ他の誰かに彼を奪われるのが怖かったから。
 そして、そんな事になってしまうくらいなら、いっそこのまま二人の関係が壊れてしまえばいいと優子は思った。
 信じて待った挙句振られるなんて、そんなのは自分のプライドが許せなかった。
「もうやめる! 柊介なんて私いらない!」
 思いっきり手を上下させて彼の手を振りほどくと、優子は走り出した。
 柊介が走って追いかけてくれば、彼女はすぐに捕まっただろう。しかし、柊介が追いかけてくることはなかった。
 多分これで自分たちは終わりなのだろう。
 中学生の二人には、これが限界なのかもしれなかった。

  *  *
 
「優子ー、舘脇君から電話」
「居ないって言っといて」
「ちょっとあんた、いい加減にしなさいよ。可哀想でしょ」
「お母さんには関係ないの、放っといて」
 優子の母は一つ溜め息をつくと、リビングから姿を消してゆく。
 遠くの方から廊下を通じ、電話口で謝っている母の声が、ぼうっとテレビを観ている少女の耳にも何となく届いた。
 八月三十一日。今日が夏休み最後の日だ。
 実は昨日が誕生日だった優子なのだが、柊介と二人で遊びに行く計画も当然とん挫し、宿題を一人虚しく片付けていただけである。
 そして今日近くで大きな祭りがあり、そこに行く約束も、ずっと以前に交わされていた事であった。
 一昨日から三日間、一日一回柊介から電話がかかってくる。
 しかしその全てを、優子は居留守を使っては無視し続けていた。
「今更会って、どうするつもりよ」
 二人の意見はどこまで行っても平行線である。
 やはり最終的には自分が譲歩することになるのだろうか、とぼんやりと考えた瞬間、また怒りがぶり返す。
「さるのくせに生意気なのよ!」
 優子はありったけの力を込めて、ソファーに一発パンチを食らわせた。
 一年の頃はあんなに子供っぽかった柊介が、具体的に自分の将来を考え、進路を決める。
 それを語った時の真剣な眼差しは、少年から青年へ鮮やかに移り変わっていく様を見る者に感じさせた。
 どんどん大人になって行く彼を目の前にして、優子の心はついくことができない。
 自分の方が大人だと思っていただけに、その衝撃は更に大きかった。

 *  *

 薄明るい闇の中で、優子は我に返った。
 十五歳の彼女ではない。二十九歳の大人の自分が、そこに居た。
「やっと見つけましたよ。ここです、人生の岐路」
 ヒューロが嬉しそうに彼女を振り返り、前方の闇を指し示す。
 次第に黒い靄が薄まって行き、その視線の先には、神社の前に立っている柊介の姿が見えた。
 優子は口元を手で押さえ顔を引きつらせる。この先に何が起こったかを、彼女は知っていたからだ。
「彼はこの後、もう一回だけあなたに電話をかけに行くんです。でも待ち合わせの神社の近くには無かったから、少し離れた商店街まで」
 そう、そしてその帰りに交差点を渡った彼は、交通事故に遭うのである。
 轢いた相手は、祭りで浮かれた泥酔状態の若者だったらしい。
 車は全くのよそ見運転で、赤信号を無視してノーブレーキで交差点に侵入してきたと、優子は後に聞かされた。
 ―――柊介は、即死だった。
「柊介!」
 目に涙をいっぱいに溜め、優子は視線の先にいる少年に呼びかけた。
 しかしここは時間と時間の狭間の空間。その声が柊介に届くことは有り得ない。
「柊介を、私が助けることができるの?」
「それは、あなたの選択次第です」
 にっこりと微笑むヒューロに、彼女は顔を明るくさせた。
 ついさっきまで昔の自分とシンクロしていた彼女に、その選択以外の何物もないように思われた。
 彼が死んでから十七年間、結婚して子供を生んでからでさえ、心のしこりとして居続けた柊介。
 自分に電話さえしなければ、約束どおり自分が待ち合わせの場所に行っていれば、起こらなかったはずの事故。
 どんなに後悔しても、柊介が還って来ることはなかったのだから。
 そしてそれが今、覆すことが出来る。
 しかし彼女が一歩前に足を踏み出したところで、柊介の前を通り過ぎた親子連れの姿が視界に入った。

「ママ」

 緊張して冷たくなった手に、小さな手が触れた時の温かさが蘇った。
 痒がって泣く子供の幻聴が耳を支配し、次いで幸せそうな笑い声が聞こえる。
 彼女の足元に蘇る、甘えたようにしがみ付いてきた、小さな身体の感触。
 それは自分が心血を注いで育ててきた、たった一つの小さな命。
「……私が彼を助けたら、真理奈は、どうなるのかしら」
 優子は怯えたようにヒューロを見やる。
 赤毛の少年は、迷いなく答えた。
「うーん、多分消えちゃうんじゃないでしょーかね」
「きえ……る?」
「だって優子さんがここで柊介さんを助ければ、当然あなたのその後も変わってくるはずですから。二十九歳のあなたは、全然違う人生を歩んでるんじゃないでしょーか?」
 動きを止めて呆然としている彼女に、ヒューロは続けた。
「僕の力で変えられるのは、人生に一度しかない最大の岐路だけです。だから、あなたの人生は本当に全く違うものになる」
 違う人生。
 それは優子が何よりも渇望していたものだった。それなのに何故、自分は躊躇しているのか。
 冷たい夫も、手のかかる子供も、口やかましい義母も、そして何より、無気力に生きる自分をあんなにも嫌っていたはずなのに。
 優子は前方の空間を見た。
 誰よりも輝いていた柊介。子供だった自分が、それでも精一杯大好きだった少年が佇んでいる。
 今度は後ろを振り返る。
 暗々たる闇の道の向こうにも、小さな小さな出口が見えた。あれがきっと、自分がいた元の世界。
 ヒューロは穏やかな声で彼女を促す。
「さあ、あなたの好きな未来を選んでください」
 唇を小刻みに震わせ、彼女は小さく呻いた。
「私……、私は……」
 十七年前の過去で賑わう縁日の出店は、どれも活気に沸いていた。
 その中の一つ、「ベビーカステラ」の文字に彼女の視線が止まり、ある光景が脳裏に蘇る。


「―――良かったら、どうぞ?」
「……ありがとう」
 それはまだ入社して三年目の頃のことだ。
 オフィスで休憩時間に優子が気まぐれで差し出したカステラを、戸惑ったように受け取る大きな手。
 大人びた雰囲気の彼が、いつも周囲と一歩距離を取って接していたことは優子も知っていた。
 何も考えず土産をおすそ分けしてしまったが、いつも彼がブラックコーヒーしか飲んでいなかったことを思い出して振り返る。
 しかし彼―――佐奈川弘は、無表情のままカステラの包装を剥がして一気に口の中に押し込んだのだった。
「ごめんなさい、あの、もしかして甘いもの……」
 恐る恐る近付きそう尋ねると、弘は顔に冷や汗を浮かべて一言だけいった。
「すまないが、飲み物をもらえると……」
「さ、佐奈川さん?」
 

 ―――何故今頃、夫の事など思い出すのか。
 そして思い出した途端、涙が溢れてくるのは何故なのか。
 それは今まさに、彼との人生に決別しようとしているからなのかもしれない。
 だから今更、昔の記憶が愛おしく思えるのだろう、と優子は思った。
「私は―――」
 ヒューロを一度振り返り、優子は胸に手を当てた。
 息を吸い込み、固く目蓋を閉じる。
 大粒の涙をこぼしながら、それでも彼女は選択をした。
「私は―――」
 自らの指で指し示した方向へ、彼女は視線を向ける。
 一歩、また一歩と、この薄暗い道の中を、彼女はゆっくりと自分の足で歩んで行くのだった。



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