ヒューロの欠片  第一話「二つの絆」 3 
 
 人が幸せだと思う定義とは何なのだろう。
 子供から大人になるその道のりは、一歩前に進むたび、何かを切り捨てなければ進めないこともある。
 優子はあの十五の夏の終わりから、自分の中の時計がどこか止まってしまったような気がしていた。
 既に十分高かったが、中学三年生からこっち、彼女の身長が全く伸びなかったことも、何となく皮肉めいたものを感じずにはいられない。
「優子、優子!」
 身体を揺すられる振動に意識を取り戻し、優子はうっすらと目を開けた。
 永い永い時間の旅をしたせいだろうか。頭が鉛のように重く、ぼんやりと霞の中にいるような気分である。
 心配そうな瞳が彼女を見返し、優子は小さく微笑んだ。
「髪、みだれてるわよ」
「こんな時に何を言ってるんだ、お前は」
「会社の人が今のあなた見たら、みんな驚くわね」
 ヒューロに連れ出された時はまだ昼前だったのに、窓から外を見ればすっかり夜になっていた。
 仕事から帰ってきた弘がリビングに倒れている優子を見つけ、彼は随分と慌てた様子で妻を抱き起こしたものである。
 自分を大事そうに抱える夫の腕に心地よく身をゆだね、優子は続けた。
「昔あなたにカステラあげた時のこと、思い出したの」
 一瞬怪訝そうな顔をした弘だったが、すぐにいつもの生真面目な顔になって答える。
「いやあれは、貰ったものは食べないと悪いと思ったから」
 甘いものが極度に苦手だった弘は、かつてそれを知らず手渡した優子に気を使い無理に自分の口に押し込んだ。
 しかしその後気分が悪くなり、会社を早退するという落ちまでついてしまったのである。
 そこまで苦手なら食べるフリでもして捨ててしまえば良いものを。
 いつも冷静沈着で人を寄せ付けない弘の意外な一面に、当時の優子は心の中で微笑せずにはいられなかった。
 視線を動かせば、リビングの床に弘のカバンと一緒にビニールの袋に入った箱が転がっている。
「あれは?」
「結婚記念日だから一応ケーキを買ったんだが、中でもうぐちゃぐちゃになってるだろう。まあ、仕方ない」
 優子は今日が結婚記念日だということを夫が覚えていた事にも驚いたが、逆に、すっかり忘れていた自分に更に驚いた。
 感情的になった挙句、何も見えていなかった己の愚かさに恥じ入る思いだ。
 しかし、何も自分が食べられないものを買ってくることはないのに。
 小さく笑い、優子は夫を見上げる。
「ケーキなんか食べたら、また体調悪くなっちゃうわよ?」
「俺は食べないが、お前は甘いものが好きだろう」
 あくまでも真面目な顔でそう語る弘を見て、優子は今更ながら思い出した。
 そうだった。
 彼は冷たい人なのではない、とても不器用な人なのだ、と。
 
 優子は弘とちゃんと恋愛をして、その上で結婚をしていた。
 彼が出世頭でエリートだからとか、他の女子社員のように打算や別の考えがあったからではない。
 彼と結婚したいと思ったから、自分はそうしたのだと今更ながら思い出した。
 そう思った途端、ほんの少し前まで自分のすぐそばに居た少年のことが不意に頭をよぎる。
 自然と涙が溢れ、あっという間に頬の上をこぼれ落ちていった。
「どうした?」
「私、結局二回も柊介を見殺しにしたんだわ」
 そうして次第に嗚咽の声を大きくする優子を、弘は黙って抱きしめてやった。
「……そうか」
 彼女が何のことを言っているのか、弘にはきっと分からなかっただろう。それでも相槌を打ってくれることが、優子には嬉しかった。
「ママ」
 小さな手が優子の手を掴む。
 昼寝から起きた時に母親がいなくなっていて、心細かったのだろうか。
 泣きはらした赤い目で真理奈は笑い、優子の手にその温もりを伝えたのだった。

 *  *

 クローゼットの中を探り当て、優子はあるものを引っ張り出した。
 小さな古びた箱の中に入っていたのは、手のひらサイズのオルゴールである。
 ネジを回せば音が出るはずのその代物は、彼女が手にしてから一度も曲を奏でたことは無かった。
 
 柊介が十四年前に事故に遭った時、前日に渡すはずだった優子の誕生日プレゼントを彼は持っていた。そしてそれが、このオルゴールなのである。
 彼の葬式の席で遺族に渡されたそれは、包装こそ破れてはいたがオルゴールに目立った傷は見あたらなかった。
 しかしどんなにネジを巻いても音は出ず、無音のままネジがひとりでに動くだけ。やはり大きな衝撃が加わってどこかしら壊れているのだろうと、優子も諦めていた。
「――あっ!」
 オルゴールを箱から出そうとすると変に引っ掛かっていたらしく、優子は力任せに引っ張った。
 すると指を滑らせ、勢いよく箱ごとオルゴールを床に落としてしまった。
 これはいよいよ本当に壊れたかもしれない。焦って拾おうとすると、オルゴールの底が剥がれている事に気がつく。
 それは底が二重構造になっていた為で、それがこの衝撃で外れたものだった。
 折りたたまれた小さなメモが中から出てきて、優子は驚いてそれを取り上げる。
 ノートの切れ端に乱暴に書きなぐられたその強い筆圧は、懐かしい少年の姿を色鮮やかに思い出させるものであった。

『これで俺がふられても、優子が幸せになってくれればそれで良しとしてやる。お前は何でも背負い込みたがる優等生だからな、あんま気にするな』

「柊……介」 
 柊介はあの時、もうお互いの縁が遠くなってしまった事を覚っていたのだろうか。
 しかし何故今頃になって、こんなメッセージが出てきたのか。
 目の前の彼を救えなかった自分を思いやったかのように、こんなにタイミング良くメッセージカードが現れるだなんて余りにも都合が良すぎるとしか思えなかった。
 メモを呆然と見やる優子の側で、真理奈がオルゴールを手に取り、たどたどしい手つきでネジを回しはじめる。
「あ、真理奈、それは壊れてて音が出な……い」
 しかし予想に反し、小さな手の中のオルゴールは優しい音色を立てて曲を奏で出した。
 何もかもを包み込むような澄んだ音色の羅列に、不意に中学生の頃の記憶が鮮明に蘇る。

 一年のクラスで初めて見た時の柊介は自分より十センチ以上背が低くて、元気で明るい彼と話すのが楽しかった。
 二年生になっても同じクラスになり、自分の身長が彼より高いことが気になりだして猫背になることが多くなった。
 三年生になった柊介はどんどん大人っぽくなり、自分はいつも無理をして平気な顔をしていた。しかし内心は彼の一動作毎にドキドキさせられていたのだ。
 最後の夏に初めてキスをした。
 そして夏が終わる直前に、まるで風のように彼はこの世から去ってしまった。

 オルゴールの優しい音が、「もういいんだ」と言ってくれているような気がした。
 もう前に進んでくれていいんだ、と。
「ごめんなさい……」
 大粒の涙をこぼしながら、優子はもういない相手に謝罪した。
「ごめんなさい」
 床に顔を伏し、心の底から思う。
 助けられなくて、ごめんなさい。
 幸せになって、ごめんなさい。
 あの事故以来何度となく謝罪し続けた彼女は、最期にもう一つだけ、言葉を付け加える。
「好きになってくれて、ありがとう」
 そう声に出して言えた今ここから―――優子の時間が再び動き始める。
 全力疾走で人生を駆け抜けたあの元気な少年が、そっぽを向き「仕方ねえな」と小さく笑っているような気がした。

 *  *
 
 ほの暗い空間の中で、ヒューロは光る物体を自分の身体の中に取り込んだ。
 それは四散したという、彼の身体の欠片である。
「はー、良かった、良かった。今回も無事に見つかって。でも、優子さん結局元の時代にそのまま戻っちゃったけど良かったんですかねー?」
 のんきな口調で首を傾げる彼の身体から、不意に目映い光が溢れ出した。身体に異変を感じたヒューロは、不安げに自分の両腕を掴む。
 次第に少年は苦悶の表情を浮かべ始め、頭を抱えてうずくまってしまった。
「い、痛……頭が……」
 額に汗が浮かび、依然として頭を抱えながら、ヒューロは歯を食いしばる。
 身体から出た光がやがて収まると、ヒューロはゆっくりと起き上がった。
 しかしその表情は、全くの別人ともいえるものである。
 鋭い眼光に、薄く笑みを浮かべた口元。美しい緑色の瞳の色さえも、わずかに翳ってしまったように見える。
「ふん。私の力を貸してやったというのに結局同じ未来を選ぶとは、よくよく人間とは愚かな生き物だな」
 可愛らしい声のままヒューロはそう吐き捨てると、手を伸ばしてまた新たな場所への道を作り出した。
「多分、もうすぐだ」
 欠片を取り戻したヒューロに分かったのは、もうすぐ彼の身体の欠片は、全て集まるだろうということ。
 どこの時代の、いつの誰の人生の岐路かはまだ分からない。
 しかし彼が本当の身体を取り戻すのは、そんなに遠い話ではないかもしれない。




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