ヒューロの欠片  第二話 「パリの正義」 1
 
 少年は思い出していた。
 自分がかつて「神」と言われる眷属の一員であったことを。
 そして何者かの手により、自らの身体が消滅してしまったということを。
 緋色の髪は柔らかいくせ毛で、音もなく吹き抜ける時の風に静かに波打っている。
 十歳程度にしか見えない小さな体に似合わぬ、碧玉の瞳から発せられる鋭い眼光。
「この渇きは何だ」
 腹の奥底から湧き上がる正体不明の飢餓感に、ヒューロは細い喉元に手を当てる。
 かつての自分はいつも何かを求めていた。しかしそれが一体なんだったのかが分からない。
 言いようのない不快感に耐え切れず、自分以外は誰もいない薄闇の空間で唸り声をあげた。それは怒りであり、切なくもあり、誰とも知らぬ相手への懇願でもあった。
 喉を枯らすまで咆哮を上げた後、ヒューロは前方の闇を見据える。そこに、自分の欠片を持った者がいるのを感じたからだ。
「ふん、こんな馬鹿げた事も後もう少しで終わりだ」
 小さな手を伸ばして闇を事もなげに押し開く。漏れいずる世界の光に目を細めながら、それでも少年は頭の片隅でこう思った。
 ――――この渇きは本当に自分の思念なのだろうか、と。



「何故ですか、同志ロベスピエール!」
 サン・ジュストはその美しい眉を興奮で吊り上げたまま、目の前の古びた机を一叩きした。その振動で上に置かれていた指令書とインク壷、羽ペンなどがわずかに移動する。
 三十人ほどをゆうに収容できるはずのパリ市庁舎の大部屋は、それを上回る人数、そして熱気溢れる空気で今にも破裂しそうである。
「これ以上何の罪もない同志たちを危険に晒すわけにはいかない。分かってくれ、同志サン・ジュスト」
 苦々しそうに漏らすマクシミリアン・ド・ロベスピエールの心はこれ以上ないほどに傷ついていた。
 これまで彼は、ただ理想の国家を作るためだけに心血を注いできた。腐敗を嫌い、尊く白い美しい政治を目指して、ひたすら「徳」を理想に頑張ってきた。
 なのに今、自分はその全てに裏切られたのである。
「暴君を倒せ!」と日中の国民公会で自分に投げかけられた言葉が、未だに耳の奥にこびり付いて離れなかった。
 誇り高い彼はもうこれ以上、「暴君」と言われたくはなかったのである。
 それでも目の前に集まった自分を慕う人々を落ち着かせるため、目の前に差し出された救援を求める指令書にサインをしようとペンをとった。その時である。
 大地が揺れた、そう思った。
 しかしすぐに大砲の衝撃音なのだと自覚する。突然市庁舎のバリケードを突き破り、国民公会の指揮するフランス軍が建物内に侵攻を始めたのだ。
 怒声と銃声が市庁舎に充満し、ただならない緊張感がマクシミリアンを支持する市議会側の人間の間に走る。
 この部屋のドアが蹴破られるまで、それは本当にあっという間だった。
 津波のように押し寄せる軍人の波。その軍服の紺色は、ここにいる人間全てを飲み込んで深い深い海の底へ引きずり込んでいく。
 スローモーションの映像の中で、そんな錯覚を彼はふと思う。
 煌く白刃の脅威が次々と人々を襲う。自分を逃がそうと腕を引っ張る同志サン・ジュストの力の強さを別世界のように感じながら、一人、また一人と倒れてゆく同志達をマクシミリアンは呆然と眺めていた。
 突然、人の波の中から一人の若者が視界に飛び込んでくる。短銃を構え、その銃口は正確に自分に向けられていることをマクシミリアンは覚った。
 危ない。それは誰かの叫んだ言葉だったのか。それとも自分が心の中で思ったことなのか。どちらにせよそれを認識した時には、顎にとてつもない衝撃を感じてマクシミリアンは足元をよろめかせる。
 まるで鉄のハンマーで直接顎を砕かれたかのようだった。激痛を通り越し、視界が真っ白に染まる。
 自分の顔が自分のものではないような、そんなおかしな感覚の中で彼はそのまま意識が遠くなってゆくのを自覚した。
「ロベスピエール、ロベスピエール!」
 後世その美貌から「革命の大天使」と呼ばれることになるサン・ジュストの胸に抱えられながら、マクシミリアンは亜麻色の瞳を閉じる。
 残念だが正義の革命はこれで終わりだ、そして自分の命も。
 そう、思った。

 一七九四年七月二十七日、テルミドール(熱月)の反動と呼ばれたこの日、マクシミリアン・ド・ロベスピエールはクーデターによりフランス革命の中枢からたった一日で引き摺り下ろされることになった。
 昨日までの彼の肩書きは国民公会議長。彼は命を懸けて戦った仲間によってその地位を失い、倒れた。
 たった十九歳の少年兵に撃たれた弾丸は顎を貫通し、骨は砕かれ出血が止まらないままその場しのぎの応急処置だけをされていた。
 それでもまだ、マクシミリアンは生きていた。
 発熱で視界が歪むなか目を覚ましたのは、コンシェルジュリと呼ばれる牢獄の中である。一年前には王妃マリー・アントワネットが収容されていた、別名「ギロチンの間」と呼ばれる場所だった。ここに入った者は全てがギロチン刑に処せられるからである。
 どちらにしろ死ぬのなら、痛みに苦しんだ挙句公開処刑されるよりすぐに死んでしまいたい。
 自分は間違ってはいなかったはずだ。そうだ、間違っているのは賄賂を受け取る腐敗した政治家であり、他国に逃亡して裏から糸を引くかつての有力貴族たちであるはずだ。
 心の中で毒づいてみたものの、息が荒くなると顎に負担がかかって激痛を誘発する。
 剥き出しの荒削りな石で囲まれた小さな独房。その片隅に設置された簡易ベッドに横たわる彼の姿は見るも無残だった。
 普段から清潔好きで隙なく身なりを整えていた法律家出の青年は、華美ではないがいつもセンスの良い格好をしていた。
 それが今やレースのシャツとクラヴァット(ネクタイ)は血で汚れ、上着は床を引きずられたせいで土や埃であちこち擦り切れ汚れている。顎を覆う布は元々白かったはずなのに、傷口から絶えず滲み出る血に侵食されて赤黒く変色していた。
 市庁舎に一緒にいたはずの実弟のオーギュスタン、すぐ側にいたサン・ジュストは一体どうなったのか。
 考えるまでもなく、自分がここにいるならば彼らも同じように逮捕されてこの牢獄に収容されているに違いなかった。
 間違っている。この世は間違っている。
 しかしもうマクシミリアンには正義の為に戦う力はなく、その気力も失せていた。フランスなどこの先オーストリアやプロシアに蹂躙されてしまえばよいのだ。そんなことを考えてしまうほどに、彼は人民の「正義」の有り様に絶望していた。
「おい、お前」
 マクシミリアンが深夜の独房で考えに耽っていると、どこからともなく子供の声が聞こえた。
「聞こえているのか、それとももう死んだのか」
 始めは気のせいかとも思った。だが続けて不躾な言葉が聞こえて、ベッドに横たわったまま視線を動かす。すると自分のすぐ横に赤毛の子供が立っているのに気付き、思わず目を見張った。
 どこから入ってきた。そう言おうにも口をわずかでも動かすと激痛が走り、彼はただ小さなうめき声を上げたのみである。
「ふん、喋れぬか。では聞け」
 マクシミリアンを見下ろす子供の瞳はエメラルドのように強い光を放ち、その表情はいかにも不遜な雰囲気が漂っている。何も言葉を返せないままじっと子供を見つめると、子供――ヒューロは言った。
「お前に人生をやり直すチャンスをやろう、ついでにその怪我も治してやる」
 大きな緑の瞳を煌かせ、そして覗き込むように顔を近づけるとヒューロは囁く。
「その代わり、少しの間私と一緒に行動を共にするのだ。悪い話ではあるまい?」
 一体悪魔とは、実にこのようなあどけない顔をして人を誘うものなのだろうか。熱で浮かされた頭で考えながら、それでも彼は小さく、しかし確かに頷く。
 ヒューロが小さな手を伸ばし、不意にマクシミリアンの顎に覆われた布を取り払った。
「うっ」
「すぐ済む、静かにしろ」
 子供の手の平が傷口に触れるか触れないかの距離で止まると、急に何か温かいものに顎下が包まれる感触がして息を飲む。突然、ヒューロの手の平から真珠色の柔らかな光があふれ出したのだ。
 しかしそれはほんの十数秒のことで、あっという間に激痛は嘘のように去り、出血が止まり、傷口も完全に塞がってしまった。
「これは……奇跡か」
 すっかり元通りになった自分の顎に触れながら、マクシミリアンはベッドから上半身を起こす。そして先ほどは悪魔と心内で呼んだ少年に視線を戻すと、優雅なお辞儀をしてみせるのだった。
「あなたの慈悲に感謝します、赤い髪の天使よ」
「私の名前はヒューロだ」
 顎の動作だけでヒューロはマクシミリアンに起立を促し、そして石造りの独房の壁に手を触れる。すると人一人通れるくらいの穴が突然出現し、様々な光が溢れ出して暗い独房をそっと照らし出した。
 黙って光の中に入っていくヒューロの後を追い、マクシミリアンも独房の壁を潜り抜ける。
 迷いはなかった。
 人生をやり直す。それは今のマクシミリアンが、何よりも切望していた事であったからである。


 人はいつもその瞬間が過ぎ去ってから後悔をすることになる。だから彼は自分の人生は全てが完璧で、そして美しくあらねばならないと考えていた。
 自分は間違った選択などしない。もしその結果が思わしくないのであれば、それはたまたま同時に関与していた他者の理由によるものであり、正義に基づいて道を選んでいる限り自分に落ち度はないと信じていた。
 だから思いもしなかった。心の奥底にずっと閉じ込められていたその小さな感情が、実は「後悔」という名を持つものであったということを。
 他者の落ち度によるものではなく、純粋に自らに向けられた悲しみが眠っていたことに。


 セーヌ川を抜ける風は優しい暖かさを含んで少年に吹きつけ、後ろで束ねた黒髪を小さく揺らして挨拶をする。
 遅めの春の陽気が馴染んできた五月も末頃。パリのセーヌ川に面した大通りには、様々な物売りが立ち並んで賑わいを見せていた。
 行き交う人々に投げかけられる売り文句は、まるで歌を聴かせるかのように独特な節回しである。甲高くよく通る声は屋台の幕を越え、側の家の中までこっそり入り込んでしまうほどに元気が良い。
 朝から晩まで大きな水瓶を荷台に積んだ水売りが忙しく行き交いする。まだ暗いうちにパリ郊外から野菜を売りにやって来た農夫は、疲労困憊の痩せ馬を何とか宥めながら自分の家へ帰っていく。
 そんなパリのいつもと同じ朝の光景の中、ロベスピエールは歩きながら分厚い本を読んでいた。
 くっきりした二重目蓋に亜麻色の澄んだ瞳、十六歳にしてはやや小柄でやせっぽっちの身体。彼は王の名前を冠する名門ルイ・ル・グラン学院の学生で、いずれは政治家や弁護士などのエリートとなるべき卵たちの一員である。
 しかしその割にはいかにも着古した様子のシャツとキュロットの上下に、ぼろぼろの革靴という冴えないいでたちで、手にある革張りの高そうな本だけが妙に浮いていた。
 そんな彼が生まれ故郷のアルトワ州からパリにやって来て、すでに五年の歳月が経とうとしている。
「邪魔だ、どけ!」
 猛烈な勢いで背後からやって来たディアブル(座席の側面と屋根しか付いていない馬車)がロベスピエールのすぐ脇を通り過ぎて行き、本に気を取られていた少年は驚いて足をもつれさす。
「うわっ」
 何とか転倒するのを防いだまでは良かったのだが、馬車が通り過ぎた後の土煙にマクシミリアンは白い眉間に皺を寄せて頭を振った。
「相変わらずどんくさいわね、マクシム」
 笑い含みの小鳥のさえずりのような声が聞こえ、少年は後ろを振り返る。
そこに立っていたのは白いブラウスに紺色の長いスカートと白のエプロン、茶色い髪の毛をフリルの付いたボンネットで覆い、腕に平籠を抱えたいかにも元気の良さそうな少女だった。
「何だ、マリアンヌか」
「あら、ルイ・ル・グランのエリート学生さんは恩人に向かって随分薄情な態度をとるのね」
「それについてはこの間ちゃんと礼を言った」
「それにあなたを助けたのはあれで二度目なのよ、ふふ」
「本当、感謝してるって」
 本を閉じ小さな溜め息をつきながら少年はマリアンヌに視線を戻したが、少女の水色の瞳と出合った途端すぐにその視線を逸らしてしまう。
 太陽のようにいつも溌剌としたマリアンヌの発言やその態度は、今まで同世代の異性とまともに話したこともなかったマクシミリアンにとって、これ以上ないほどに扱い難い存在だった。
 どれだけ難解と言われるラテン語ができようと、素晴らしい詩が書けようとも、首席の成績だけでは太刀打ちできないことが世の中には多い事を、少年は思い知らなければならないのである。
 マリアンヌが「助けた」と言ったその出来事とは、ちょうどふた月ほど前のことになる。マクシミリアンがたまたま近道をしようとレ・アル(中央市場)の中を歩いていた時、彼は思いがけなく果物泥棒と間違えられてしまったことがあった。
 突然果物屋の店主に腕を掴まれて狼狽する少年に助け舟を出してくれたのが、この栗色の髪の少女だったのだ。
「違うわよおじさん。林檎盗んだのはほら、あの子じゃない?」
 少女が指差す人ごみの中に、十歳にも満たないであろう子供が走り去って行くのが店主にも見えた。その小さな手にしっかりと握られていた赤い林檎も。
 マクシミリアンがのん気に果物屋の前を通り過ぎようとしていた時、彼の影に隠れてその少年がまんまと林檎を盗んでいったというわけである。
 晴れて無罪放免となった後、やれやれといった様子でマクシミリアンは恩人である少女に頭を下げた。
「マクシミリアン・ド・ロベスピエールと申します。先ほどは本当にありがとうございました、マドモワゼル」
「どういたしまして、ムッシュー」
 屈託のない笑顔で答えた少女は、しかし次の瞬間突然に渋い顔を見せて首を捻る。
「あなたのことどこかで見たことがあるわ」
「え?」
「私記憶力だけはいいのよ。うーん、どこだっけ、その冴えない顔は随分昔にも見たような気がするんだけど」
 少々引っ掛かる表現ではあったが顔には出さず、マクシミリアンは自分の記憶の糸を順に辿っていく。その時少女の首元に揺れるロザリオに気付き、不意にあることを思い出した。
「もしかして五年前ここで会いました?」
 その問いかけにマリアンヌは両手を合わせて一叩きする。
「ああ、あのおのぼりの迷子さん」
「パリに来て間もなかったんだ、仕方ないよ」
 わずかに眉間に皺を寄せ、マクシミリアンは小さく言った。
 マクシミリアンはフランス北部アルトワ州のアラスという場所の生まれである。七歳で地元のオラトリオ修道院神学校に入り、奨学金試験を受けて十一歳の時に今のルイ・ル・グラン学院へ入学した。
 そして大都会のパリにやって来て間もない頃、街に散策へ出た少年は人の多さに圧倒され、流され、ついでに貴族のキャロッス(豪華四輪馬車)に追いたてられるように目的の見学地ルーブル宮もルイ十五世広場からも遥か遠ざかり、いつの間にかレ・アル(中央市場)の中に迷い込んでしまったのだった。せっかく初めて一人で緊張しながら辻馬車に乗り、この近くまで来たというのに。
 レ・アルはパリの各所に開かれる市場の大元のようなもので「万人の倉庫」と言われている。由縁は当時外から入ってくる食料品は殆どこの市場にまず集められていたし、どの店もここで仕入れるのが常識となっていたからである。
 店と店の間の狭い道には自分よりも遥かに背の高い大人がひしめき合い、すでに学校の方角はおろか市場の出口すら少年には分からない。
 そんな、泣くのだけは必死に我慢していたマクシミリアンを見つけたのが、当時彼と同じ十一歳で花屋の売り子として働いていたマリアンヌ・ボワイエだった。
 お互いの小さな手を繋ぎ市場を抜ける時、先行する少女の身なりが貧しかった割には不釣合いな銀製のロザリオを首から下げていたので記憶に残っていたのだ。
 それから五年の月日を越えて二人はこのレ・アルで再会し、またしてもマクシミリアンは同じ少女に助けてもらった。しかし男としては、あまり格好良い話とはいえないだろう。
 マリアンヌはレ・アルで花屋の売り子をする以外に、花の入った籠を提げて大通りで直接売り歩くということもしていた。そしてふた月前のその再開以来、道で顔を合わせるとこうして臆面もなく話しかけてくるようになったというわけである。
 そうは言ってもマクシミリアンは学校がない日ですら外出することがあまりなく、会ったといってもこれで通算三度目だったりするのだが。
「今日はどうしたの、お散歩?」
 あまり出かけないということを既に知っている少女は、そう小首を傾げる。
「カミーユに追い出されたんだ、あんまり部屋に篭っているとカビが生えますよって」
 カミーユとはルイ・ル・グラン学院の寄宿舎で同室になった二つ年下の下級生だ。マクシミリアン同様かなり優秀な生徒であったが、頭の中にはいつも旺盛な好奇心が詰まっていて、様々な失敗をしでかしては同室の先輩にいらぬ心配をさせている問題児でもある。
「まあ、それで本を読みながら歩いてたの?」
「かなり面白い本なんだ、公園に着くまでの時間が勿体なくて」
「何の本なの、物語?」
 マクシミリアンが大事そうに抱えていた本を覗き込むようにして、不意にマリアンヌが顔を近づける。ふわりと花のよい香りが少年の鼻腔を刺激して、心臓をドキンとさせた。
「しゃ、社会契約論」
「何それ」
「国家とはいかにあるべきで、その中で暮らす市民の権利と責任とはどのような……」
「あー、もういいわ、ありがとう。とにかく難解な本なのね、うん」
 自分の語りが途中で遮られてしまったことに少年は肩をすくめると、本の表紙を大事そうに撫でる。
「面白いのに」
「私は自分の名前だけ書ければそれでいいわ。難しい事はあなた達エリートさんがやればいいのよ。ね?」
 当時の識字率は男性でも半数に届かず、女性に至っては二割強といったところ。それを考えれば、マリアンヌが自分の名前を書くことができるだけでも随分とましな方だった。
「ああ、もう私行かなきゃ。そうだマクシム」
 既に三歩大股に進んでから振り向くと、マリアンヌは抱えていた平籠の中から一つの花を取り出す。
「これだけ半端で残っちゃったの。はい、あなたにあげるわ」
 目の前に差し出されたのは、緑の葉が茂った枝に幾つも花を付けた鮮やかな青紫色のリンドウの花だった。
「ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
 五年前から数えてこれで三度目の同じ受け答えに、少年と少女は思わずその口元に笑みを漏らしたのであった。

 *  *  

 不意に彼は自覚した。
 ほんの数瞬間前まで己がいたその場所は、既に通り過ぎた記憶の中にあるということを。
 しかし目の前で繰り広げられていた光景の中の少女には何故か見覚えがなく、三十六歳のマクシミリアンは赤毛の子供を振り返った。
「赤毛の天使よ、これは」
「今、お前の過去の中から一番大きな人生の岐路を探している。繊細な作業だからこうして順を追って見ていかねばならぬ、厄介なことにな」
 そしてマクシミリアン自身が変えることができるのは、その「最大の人生の岐路」のみという説明をヒューロは付け加えた。
 しかしマクシミリアンは未だ得心できないという様子で首を傾げ、ヒューロを見つめる。
「これは本当に私の過去なのですか?」
「どういう意味だ」
「私はあのマリアンヌという少女を知りません」
 赤い髪の少年は意に介さず、ふっと小さく口の端に笑みを漏らしただけだった。
 彼らが立っている場所は地面の上なのか、それとも宙に浮いているのかすら判別がつかない薄暗闇の中である。
 独房の壁に創られた入り口からはあれほど様々な光が溢れかえっていたというのに、いざ中に入ってみれば明かりらしいものは何一つ存在しなかった。
 ヒューロとマクシミリアンの姿だけが周囲に同化することを拒むように白く浮き出し、それは彼にどうにも奇妙な感覚を与える。
 どこからともなく吹いてくるこの緩やかな風は、一体どこから吹いてくるのだろう。ぼんやりと考えながらマクシミリアンは周囲を見渡した。
「しかし私には、学生時代にやり直すべきことなど存在しないのです」
 自分がやり直したいと思っていることは「革命」の推し進め方である。もっと慎重に、もっと的確に人を見極めて自分の周りを固め、今度こそ他の邪魔をされずに理想を実現させるのだ。
 だからこんな十代に戻られても困ると詰め寄る彼に、赤毛の天使は一瞥をくれた。
「お前の意見など聞いてはおらぬ」
 外見とは正反対の人間の領域を遥かに越えた威圧感に、マクシミリアンは開きかけた口をそのまま閉じる。しかしわずかな沈黙の後、何か思い当たったように再び顔を上げるとヒューロを見ながら言った。
「その姿からすると、あなたはギリシア神かローマ神なのですか?」
 驚いたように緑の瞳を見開く少年に、マクシミリアンは更に詳しく説明を加える。
「その衣装は確かキトンという古代ギリシアの民族衣装だと思いましたが」
 ついでに言えば、ヒューロの白いキトンの上に羽織っている緑色の外套はヒマティオンと言う。マクシミリアンは学生時代、講師から「ローマ人」と評されるほどに古代ギリシア語やラテン語を得意とし、その延長で色々と歴史文化なども独自で調べたことがあったのだ。
「……分からない」
 わずかに視線を泳がしながら少年神はただそれだけを呟く。それ以外答えようがなかったからだ。
 ヒューロの身体は未だ実体を持たない不完全な影に過ぎない。しかし一つずつ欠片が戻ってくるたびに力は強くなり、心に芽生える思考も変化し続けてきた。
 きっと良い自分も悪い自分も同じように飛び散った後、今こうして回収しているからなのだろうと少年は推測している。
 今目の前にいるあの人間、マクシミリアンの傷一つない顎を見上げてからヒューロは自分の手の平を見やる。
「あの力は、治癒の力」
 その力も以前までは使えなかった能力の一つである。そしてそれは、激しく少年の心を揺るがすものであった。
 治癒の力。
「治癒の……女神」
「何か言いましたか、赤髪の天使よ」
「いや」
 不意に口をついて出た言葉の真意も分からぬまま、ヒューロはまた次の時間を旅するためにその腕を宙に伸ばす。
 全ての欠片と記憶が戻るまでは、どんなことがあってもこの欠片探しを続けなければならない。それが彼に与えられた全てだった。 




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