ヒューロの欠片  第二話 「パリの正義」 2
 
「聞いて下さい、マクシム!」
 乱暴に自室の扉が開けられてすぐ横の戸棚に振動が伝わる。上に乗せられていたランタンがカタカタと抗議の声を上げ、机に向かい羽ペンを握ったままマクシミリアンが入り口の方を振り返った。
「また壊す気か、カミーユ」
 同室の下級生カミーユ・デムーランがこのように飛び込んでくるのはいつものことである。呆れたように一つ溜め息をもらしたマクシミリアンの声音は、しかしそれでも「仕方がないな」といった柔らかい雰囲気を含んでいた。彼を見るたび、マクシミリアンは故郷に残してきた弟を彷彿とさせられるからだ。
「聞いてください、僕、僕……」
「分かったから落ち着け、君は何でもかんでも大騒ぎし過ぎる」
 ぺンを置いて立ち上がると、詰め寄ってくるカミーユの肩を押してベッドの方へ誘導する。まるで子供に言い聞かせるような形で彼をベッドの上に座らせると、マクシミリアンは一つ息をついてから尋ねた。
「で、何があったんだ」
 その言葉を待ってましたとでも言いたそうにカミーユは黒い瞳を輝かせると、頬を紅潮させながら勢いよく話し出す。
「僕、運命の人に出会ったんです!」
「……君には一体何人の『運命の人』がいるんだ、カミーユ」
「今までの出会いは全てこの為の布石だったんですよ」
 腰に手を当てて呆れ顔のマクシミリアンに、カミーユは嬉しそうに笑う。この後輩が街や教会で出会った美しい少女を見ては、「運命の人」と言って騒ぐのはいつものことなのだ。
 物怖じしない性格のカミーユはこれと決まるといつも猛烈なアタックを始め、本人の自己申告によると戦績はほぼ八割程度だとか。
 黒い髪と瞳はいつもキラキラと輝き、顔の造作もなかなかに繊細で整っている方だ。それに何といってもこのパリ一の名門学院に通い成績も優秀なのだから、相手が貴族などの高嶺の花でもない限りそうそう無碍にする街娘はいないというものだった。
 しかし上手く行く確率が高いといっても何故か彼はすぐに振られてしまうことが多く、そして向こうが振らなければ自分から運命の相手への興味をなくし、やはり縁が切れてしまうのだった。
 熱しやすく冷めやすい。優れた頭脳も波に乗れば上手く発揮されるが、いつもが必ずそうとは言えない。そのムラのある性格が全てに災いしていることは明白で、間近で見ているマクシミリアンには歯がゆくて仕方がないのだった。
「君はこのパリに勉強をしに来たんだろう、色恋ばかり追ってどうする」
 まだ十四歳なのに、とすっかり兄の心境でマクシミリアンはいつものように説教を始める。するとカミーユは慌てたように上着のポケットからあるものを取り出すと、免罪符が如くマクシミリアンの前に突き出した。
「マ、マクシム、あなたに渡してくれって預かってきました。ほら」
 封筒を受け取ると、宛名を見てマクシミリアンの眉が訝しげに中央に寄る。
「こんな名前の知り合いはいない」
「何言ってるんですか、可愛い女の子でしたよ」
 それを聞くと、彼はその封筒の中身を改めることすらせずに机の上に放り出した。
「え、読まないんですか?」
「興味ないし、そんな暇もない」
 淀みなく言い切る先輩を見て、今度はカミーユの方が「何と勿体ない」と溜め息をもらすのだった。
 去年の五月に先のフランス王ルイ十五世が逝去し、弱冠十九歳のルイ十六世が即位した。
 戦争をすればイギリスに植民地のインドやカナダを取られ、晩年は放蕩の限りを尽くす愛人のデュ・バリー夫人を常に側に置いて政治をおろそかにし、フランスの国力を更に弱体化させた先王の死に人々は歓喜したものである。
 かつてガリア地方を統一したフランク王国初代王クロヴィス一世が、パリの東にあるランスでカトリックに改宗するべく洗礼を受けた。それ以来の伝統で、フランス王はランスで戴冠しない限り正当な王とは認められないということになっている。
 そうしてルイ十六世は即位して約一年後の一七七五年六月十一日にランスで戴冠式を行い、帰途中にルイ・ル・グラン学院に立ち寄って生徒からラテン語の詩で祝辞を受けた。
 その栄誉ある代表として選ばれたのが、講師から「ローマ人」と称されるほどにラテン語が堪能だったマクシミリアンだったのである。
 その一件以来、それまで女っ気のなかった彼の周囲が俄かにこそばゆい雰囲気に包まれ始めているのも事実だ。そして真面目一辺倒の彼が、戸惑い以上に苛立ちを感じていたことも。
 代々法律家の家系で育ちも悪くはない。マリアンヌが「さえない」と一刀両断していた容姿だって、力強さはなくとも通った鼻筋とくっきり二重目蓋はパリジェンヌ達に「可愛い」と囁かれていた。
 それに何と言っても法律学科の首席ならば、将来弁護士として勇名を馳せる可能性大というわけである。
「私にはそんなことに心を砕いている余裕はないんだ」
 彼の父フランソワ・ド・ロベスピエールは故郷で弁護士を営んでいたが、マクシミリアンが十歳の時に借金を作ってそのまま消息不明になってしまった。
 以来長兄の彼がロベスピエール家の家長であり、今は母方の祖父母の家で暮らす弟妹を守らなくてはと自負している。
 早く大人になりたい。家族を守れるようになって故郷へ戻るのだ。
 奨学金試験を受けて十一歳でパリにやって来た時から、胸に宿る決意は今も昔も変わりない。
「またまた。そんな堅いこと言って、本当はちゃんと意中の女性がいるんじゃないですか?」
 帰ってきたばかりなのにまた出かけるつもりなのか、カミーユは既に戸口に立ちながらも先輩の机の上を指差す。
 寄宿舎の勉強机は表面に漆すら塗られておらず古くて簡素な作りだが、綺麗に整頓されたそこには本と筆記類の他に白い台紙で作られたしおりが置かれていた。
 薄い紙で表面を覆われ、内側に青紫色のリンドウの花びらが数枚の葉と一緒に押し花としてあしらわれた、一見雅なものである。
「これは恩のある友達からもらった花なんだ」
 初めてわずかに怯みを見せたマクシミリアンに、カミーユは微笑を浮かべた。
「それリンドウですよね、『正義』の花だ。マクシムにぴったりですよ」
 そう言うとカミーユは手を振りながら部屋を出て行ってしまい、再び一人になったマクシミリアンは机の上に乗せられたしおりを手に取る。
 ひと月ほど前にたまたまマリアンヌからもらった一本のリンドウの花。後に偶然その花言葉を知り、何か因縁めいたものを感じてそのまま枯らすのは忍びないと思ってしまった。
「だから押し花にしてみたんだが、変だったかな」
 凛とした姿の花が意味するものは、「正義感」と「誠実」。
 将来弁護士を目指す自分にとってこれほど相応しい花はないと思い、常に身近に置いておきたいとも思った。
「他に意味なんて、ない」
 もう一度同じことを心の中で呟きながら、少年は青紫の花びらをそっと指でなぞるのだった。


「ふんふん、で、これは何て読むの?」
「ああ、これは……」
 周囲を欄干で囲まれた八角形の広場。中央にはルイ十五世が駿馬に跨った銅像が誇らしげに人々を見下ろし、はるか西を望めば隣接するチュイルリー公園の広大な緑地が道に沿って左右に続く。
 向こうにそびえるチュイルリー宮とルーブル宮は雅やかな姿を人々に晒し、フランス王がヴェルサイユに住むようになって久しい今日でも健気に威光を知らしめていた。
 ルイ十五世広場と名付けられたその広場は、周囲を堀が余すことなく巡り、八角形の隅にはそれぞれ花模様を台座に施した東屋が建てられている。
 その一つに入ってベンチに腰を下ろし、少年と少女は本と紙をにらめっこしながら青空教室の真っ最中だった。
 マリアンヌが持っていたペンを受け取ると、マクシミリアンは紙に綴りを書きながら説明する。
「『親愛なる』。よく手紙の書き出しに使うだろ」
「ああ、そうなんだ」
 何やら嬉しそうに頷くマリアンヌは、その綴りを今すぐ脳に刻み込もうとするかのように何度も口ずさみながら指で綴りを辿る。
 知らず知らず以前よりも休日に外出する機会が増えていたマクシミリアンは、先日また例の如く道でマリアンヌに出会い、その時に文字を教えて欲しいと頼まれたのだった。
 過去に二度も助けられた恩もあることだし、と休日だけの約束で快諾した。それで今こうして、読みやすい詩集本を選び書付のメモなども持参して教えているわけだが。
「そう言えば、どうしていきなり読み書きを教えて欲しいだなんて?」
 不意に少女が紙面から顔を上げる。すると意外に二人の顔の距離が近くて、少年はわずかに後ずさりした。
「うん、手紙をね……書きたくて」
「代筆屋があるだろう」
「できれば自分の字で書けたらなって思うのよね」
「ふうん。ま、何にしても向学心があるのは良いことだと思うけど」
「そう? ウチの伯父さんなんて『花屋の小娘に教養なんていらねえ』っていつも言ってるわよ」
「伯父さん?」
「そう、伯父さん。私ずっと伯父さんの家で暮らしてるの」
 父はおらず、母は死んだとあっけらかんと喋りきると、マリアンヌは再びその空色の瞳を詩集へ向けた。その時いつか見たあの銀製のロザリオが服の胸元からシャラリと出てきて、紙面上でゆっくりと揺れる。
 今までお互いに込み入った話をしたことはなかったので、マクシミリアンは彼女の意外な環境に思わず黙り込んでしまった。
 聞いてみたいことは沢山あった。しかし口をついて出たのはたった一言だけである。
「じゃあ、一通り手紙の書き方を教えるよ」
 いつもの晴れやかな笑顔になると、マリアンヌはマクシミリアンの亜麻色の瞳を真っ直ぐ見た。
「ええ、ありがとう」


「マクシム、マクシム、マクシムーッ!」
 そろそろ暦も七月になる。パリの夏は比較的気温も低いため、曇りや雨の日はやはり春と同じでシャツの上に上着をきなければ肌寒い。
 そんな曇り空の下、またしても部屋の扉を廊下に轟き渡るほど乱暴に開けて飛び込んできた低気圧に、ベッドに寝そべって本を読んでいたマクシミリアンは溜め息をついた。
「今度は何だ」
「ふ、振られました、僕」
「たまにはそんな事もあるだろう」
「しかもこっぴどく怒鳴られて、思い切り殴られたんです!」
 そういえばさっきからカミーユは左頬をずっと押さえたままだ。腕を引っ張る。
 すると頬に見事な平手打ちの赤い跡が付いているのが顕わになり、マクシミリアンは思わず噴出した。
「あ、人の不幸を笑いましたね、酷いですよマクシム」
 口を尖らせて拗ねる後輩の肩を軽く叩くと、マクシミリアンは何とか笑いを納めようと顔をひくつかせる。
「悪い。でも今回は相当の女傑だったみたいだな」
「そりゃあもう、元気のいい綺麗な人なんですよ」
 嬉しそうに語ったカミーユだったが、声音はあっという間に落ち込んで小さくなってしまった。
「ああ、どうして僕の情熱を理解してくれないんだろう」
 今は大層おおげさに落ち込んでいる彼だが、またしばらくすれば別の運命の相手を見出して復活することはマクシミリアンには分かっていた。だからもうこれ以上話を聞くのも慰めるのも無用、とばかりに彼は机の上の本と筆記用具を手早く袋に詰めて部屋を出る。
「用事があるからもう行くよ」
「ああ、慰めてくれないんですか。マクシムの人でなしー」
 自由奔放なのは個人の自由だが、もう少し大人になってもらいたいものだ。軋む廊下を歩きながらカミーユの嘆きを背にし、マクシミリアンは苦笑した。
 しかし、実はこの一件にはまだ続きがあったのである。
「全く本当に失礼しちゃう」
 恒例になりつつあるルイ十五世広場での、マクシミリアンの青空教室。
 そこに現れた少女のあまりな憤慨の様子に、少年はつい「何かあったのか」と尋ね、途端にマリアンヌは細い眉を吊り上げまくし立てるのであった。当然その怒りは彼に向けられたものではなく、別の人物に向けられたものである。
 何でも、今日の午前中いつものようにセーヌ川の河岸で花を売り歩いていると、ある少年に呼び止められたというのだ。彼は目の前にやって来ると突然こう言ったのである。
「美しい人よ。聖母マリアのように清らかなその美しさが、僕の心を一瞬で虜にしてしまいました」
 突然何ごとかと一歩後ずさりしたマリアンヌだったが、身なりの良い少年も同じように一歩踏み出して更に言葉を続ける。
「あなたが鈴の音のような可憐な声で道行く人々に呼び掛けるたび、僕は嫉妬の業火で身を焦がしてしまいそうです。罪深きマドモワゼル、どうかこんな愚かな僕の気持ちを察してください」
 そうして反応に困っている少女の手を取ると、うやうやしくその手の甲にキスをしたというのである。
 街のそこかしこで見かける花売りの娘は、ただぼんやりと突っ立って花を売っていただけではない。当時のパリの世情の乱れを顕著に表したように、彼女達は自らの女の武器を使い、時にはチラリとスカートの裾や胸元を垣間見せ、その視線で道行く男性を絡め取っては花を強引に売りつけるのである。
「私をその辺の腰の軽い花売り娘と一緒にしないでもらいたいわ。うちの仕入れた花の品質には自信があるし、私はブーケの腕で売ってるんだから」
 他の娘達が抱える平籠には花がそのまま入っていることが多かったが、マリアンヌは伯父が営む店の花を組み合わせて小さなブーケを自分で作って売り歩いていた。その可愛らしい花束と彼女の明るい笑顔に引き寄せられ、人々は足を止めて花を買うのである。
 その事実に少なからず誇りを持っていた彼女は、一方的に迫ってくる少年の態度の中に「自分が他のはしたない花売り娘と同じ目で見られている」と感じ取ったようだった。今もこうして思い出しては憤慨しているのだから。
「どこかの学生だって言ってたけど、あんなので学問なんてできるのかしら。何が『運命の人』よ、バカにするなーっ!」
 愚痴を聞きながら教材の詩集をペラペラとめくっていたマクシミリアンは、途端に手を滑らして本を地面に落した。
「運命……ってまさかその相手の髪の色」
「黒かったわよ、デムーランとか名乗ってたわ。私より年下に見えたし、何だか頭に来て思い切り叩いてやったんだから」
 カミーユ・デムーラン。それが自分と同室の、あのお調子者の名前である。マクシミリアンの脳裏にあの見事な平手打ちの跡がよみがえり、思わず失笑する。
「なあに、もしかして知り合いなの?」
「いや、何でもない」
 意外な偶然もあるものだ。心の内でそう呟くと、少年はまた一つ小さな笑いをこぼすのだった。
 マリアンヌは勉強熱心で元々賢い娘だった。始めは殆ど字が読めなかったのに、今では簡単な文ならぎこちないながらも書くことができる。
 目の前の真っ白な紙に生まれていく彼女の文字を眺めながら、少年はマリアンヌが読み書きを習いたいと言った動機を思い出していた。自分の手で手紙を書きたい、彼女は確かそう言っていたはずだ。
 代筆を頼まずこんなに苦労してまで自分で書きたい手紙とは、一体どんなものなのだろう。
 そう考えた瞬間、未だ寄宿舎の自分の机の隅に置かれたままの封筒を思い出す。
 何故だか嫌な気分がした。臓腑が重たく感じられて、鼓動が少しだけ速くなる。その原因も分からぬままにマクシミリアンは自然に口を開いていた。
「その手紙の……」
「そう言えばあなたって有名人だったのね、ついこないだ聞いたばかりなんだけど」
「え?」
 自分と同時に喋り出したマリアンヌの声にかき消され、マクシミリアンの呟きはそこで途絶えてしまった。しかし本人ですら何を言い出そうとしていたのか自覚がなかったために、少女の話題に意識が向いてしまう。
「最近街の娘たちに人気あるみたいじゃない、嬉しい?」
「関係ない」
 眉間に皺を寄せるマクシミリアンを見て、マリアンヌは背中をバンバンと勢いよく叩きつけた。
「まあまあ、周りが騒いでもマクシムはマクシムなんだから。ね」
 快活に笑って見せた少女は、しかしその途端に背中を折って咳き込んでしまう。
「何で叩いた君の方が咳き込むんだよ」
 細い背中をさすってやりながら少年が気遣わしげな視線をやると、マリアンヌは呼吸を落ち着けるために目を瞑って胸に手を当てた。
「……うん、ちょっと最近よく咳が出て。よし、もう大丈夫」
 自分を見上げる空色の瞳にいつもと同じ光が戻っていることを確認すると、マクシミリアンは小さく息を吐き出した。
「ねえ」
「うん?」
「マクシムは王様に会ったんでしょ、どんな方だった?」
 ルイ十六世への祝辞の件であることを察し、マクシミリアンは自然と姿勢を改める。
「優しそうなお方だったよ」
 記憶をゆっくりと辿りながら、公園内を横切るキャロッス(豪華四輪馬車)の残していった土の轍を眺める。
 ルイ・ル・グラン学院が喜びと緊張に満ち溢れていたあの日。
 音もなく初夏の小雨が降りしきる中、門の前で跪き王の乗った馬車を出迎えた講師一同と生徒代表のマクシミリアン。
 全校生徒が周囲を静かに見守る中、中庭のテラスでラテン語の詩を読み上げる少年を見守るフランス王の眼差しはとても穏やかなものだった。隣に佇む王妃マリー・アントワネットは未だ十九歳の乙女であり、薔薇色の頬や輝かんばかりの美しい金髪、碧い瞳に宿る光は希望に満ち溢れ、新王夫妻はにこやかに祝辞を受け取ったのである。
「そう、穏やかな方なのね」
 黙ってマクシミリアンは頷いた。
 王が代わってもう一年。フランスという大国が、これからゆっくりとでも良い方向に変わってくれたらいい。少なくとも先王や、その前の摂政時代のような無軌道で無法がまかり通る国政のあり方は正さねばならない。若輩であることを自覚しながらも、マクシミリアンはよく最近そう考えるようになっていた。
「マクシムは今の学校を卒業したらどうするの?」
「バシュリエ(大学の入学資格者)を目指すよ、学士号をとって弁護士になるつもりだから」
「弁護士になったらどうするの?」
「アラスに帰るつもりだけど?」
 ロベスピエール家はアラスで代々法律家として根付いてきた家系だ。しかも二人の妹と弟一人を守らなければならないという使命がある彼には、他の選択肢など思いもつかなかった。
「アラス、アラス……北の方よね」
 フランスといっても以前はベルギーの一部だったその寒冷の地は、冬の間は殆ど灰色の厚い雲が空を覆って太陽が姿を見せない。湿気が多い平原であまり豊かな土地とは言えなかったが、パリよりも更に遅い春がやって来た時には全ての緑が息を吹き返し、夏は束の間の楽園を築き上げる。
 故郷の記憶は全てが良いものとは言えなかったが、兄弟たちと走り回った庭や裏の森を思い起こすと、いつも真面目なだけの少年の表情が少しだけ和らいで見えるのだった。
 そんな光景を横目で見ながら、マリアンヌは微笑む。
「私もいつか行ってみたいな、アラスへ」
「他所の人には寒いだけだよ」
「マクシムって、勉強はできるのにどうして察しが悪いのかしら」
「何が?」
 首を傾げる少年に、少女はわずかに眉根を寄せた。

  *  *

「カミーユ、か」
 久しく口にしていなかった名前を声に出してみると、今まで繰り広げられていた十代の世界との光の落差に、何故だか世界にたった一人取り残されたような奇妙な寂しさが大人になった心に浸潤する。
 マクシミリアンはその後弁護士になってからアラスに戻り、カミーユ・デムーランも同じ弁護士となった。
 しかし弁護士として成功するマクシミリアンとは違い、カミーユにはあまり向いていなかったようで、彼は数年後にジャーナリストとしての道を歩み始める。
「諸君、直ちに武器を取れ!」
 革命家のたまり場になっていたパレ・ロワイヤルでそう叫び、彼がやがてバスチーユ要塞陥落へと繋がる民衆蜂起を促した立役者となったことは今もパリ市民の記憶に新しい。
 カミーユが発行に携わっている雑誌に何度かマクシミリアンの論文を載せたこともあり、大人になってからも細々と交流は続いていた。
 しかし、その後輩も今はいない。
「いないとは?」
「私が殺したのです」
 ヒューロの問いかけに、マクシミリアンは静かに答えた。二人以外誰もいない静寂の中で、不自然なほどに冷静な声が空気を震わせる。
『同志ロベスピエール、あなたに紹介したい人がいるんです』
 後に同じ国民公会議員となった彼ら。それより少し前に遡った頃、カミーユがマクシミリアンに紹介した恰幅の良い男の名前はジョルジュ・ジャック・ダントンと言った。
 彼もまた同じ弁護士であり、雄弁な発言が人々を魅了して民衆の人気を博したのは奇遇にもマクシミリアンと同じである。
 しかしその性質はお互いに水と油。「清廉と徳」を大事にするマクシミリアンに対し、ダントンは常に清濁を併せ呑む豪快で奔放な男だった。
 共に山岳派として共和制を目指して戦い、始めこそその豪快さに惹かれるものを感じたマクシミリアンだったが、革命の変遷と共にダントンという男が単なる自制心のない、欲にまみれた人間でしかないと判断を下す。
 いかなる道徳観念とも縁のなかった男が、どうして自由の擁護者たりえようか。
 ダントン一派を起訴するための資料は既に揃っていた。政治の片腕であるサン・ジュストにそれを渡せば、この男と共に行動していたカミーユ・デムーランも同じ運命を辿ることは明らかである。
 しかしそれも正義のためには仕方のないことなのだと、政治家に徹する彼は疑問にも思わなかった。
「私たちは常に最下層の市民の味方でなくてはならない、ブルジョワに通じた身中の虫が最も厄介な存在となり得るのだ」
 いつの間にか独り言を口にし、拳を握り締めていたマクシミリアンをヒューロは黙って見る。
 何も言わない赤髪の天使の視線を受けながら、彼は孤独だった。
「今度は貴様の番だ、ロベスピエール!」
 逮捕されて六日後に彼らは断頭台に上がった。牢獄から処刑場まで運ばれる馬車がマクシミリアンの下宿の前を通り過ぎた時、夕暮れのパリの街に響き渡った呪いの予言は、室内にいた彼が聞いたダントンの最期の言葉だった。
 カミーユは生気の抜けかけた様子で何も言わずに運ばれていき、理想の白い政治のためにまた一つ邪なものが排除されただけ。そのはずだった。
 自分は間違っていない。繰り返し呟く彼の心は、それでも何故か孤独である。また、ダントンが言ったとおりに三ヵ月後に逆襲に遭い、こうして自分も政治の舞台から引きずり落とされた現実の滑稽さを思うと虚しさは更に募るばかりだった。
「マリ、アンヌ」
 水色の瞳、艶やかな茶色い髪。朗らかな笑顔は太陽の様で、その光は優しくひび割れた心の隙間に少しずつ染み入ってくる。彼女が自分の知らない人物などではなかったということを、マクシミリアンは今実感しつつあった。
 今まで全く存在を忘れていた過去の少女のことが、どうしてこんなにも今思い出されるのだろう。
 大人になって日々忙殺されていた記憶から、不思議なほど彼女のことだけが、ここで過去を見るまで綺麗さっぱり消えていた。
 それは記憶力の良いマクシミリアンにしてみれば、全くおかしなことだった。
 



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