ヒューロの欠片  第二話 「パリの正義」 3
 
 夏も終わりの九月初旬。日中はそれほどでなくとも、日が落ちるとパリは途端に冷え込む日が多くなる。
 下水道の整備が不完全で石畳の上を汚水が流れるこの街は、軒を連ねる五、六階建てのアパルトマンの窓から中世さながら排泄物を外に投げ捨てるのが未だ当たり前となっていた。
 公設の給水泉は数が少ない上に手入れが行き届いておらず、万年水不足のパリの生活水はセーヌ川が頼りである。水売りが一日中行き来して川の水を各家庭へ運ぶのだが、時に自然災害によりセーヌ川が濁ってしまうとそれをそのまま飲まなければならなかった。
 よって期待を持って初めてこの街を訪れる者はその悪臭の酷さに慄き、セーヌ川の水を飲んで体調を崩すのが通例である。
 こんな不衛生な状況下では夏の間に流行り病や寄生虫などが発生しやすいのだが、今年のパリはどうやら大きな痛手を受けないままに秋を迎えることができそうであった。
 その手紙がマクシミリアンの元に届いたのは、そんな頃のことである。
 寄宿舎の自室で飾り気のない白い封筒を開けると、彼は読むなり表情を曇らせて空の封筒を荒々しく床に投げつけた。
「今更何のつもりだ」
 差出人の名前はシャルロット・ロベスピエール。長兄がパリに行ったあと、兄弟の年長者として故郷のアラスですぐ下の妹と末の弟を面倒見ている二つ年下の妹である。
 そして大人の誰かに代筆を頼んだに違いない手紙には、思いがけない内容が綴られていたのだった。
 
 パリの中心を流れるセーヌ川に浮かぶ二つの島のうち、ノートルダム大聖堂のあるシテ島から南に伸びるサン・ミシェル橋を渡ると、サント・ジュヌヴィエーヴの丘が眼前に広がる。
 緩やかな丘陵を描く裾に広がる建物群はカルティエ・ラタンと呼ばれ、十四世紀に造られたソルボンヌ大学、十六世紀に作られたルイ・ル・グラン学院を筆頭に、医学校、美術学校、士官学校などが集まった学生街としてよく知られていた。
 その日の授業を終えたマクシミリアンがほど近い寄宿舎へ戻ろうと門を出たところ、正面のサン・ジャック通りの上り坂を軽やかな足取りで駆けて来る人影が視界に入り足を止める。
 夕方前の大通りはどこも馬車と人がごった返しになりがちだが、ここは学生街のためかそれほど喧騒は感じられない。
 今日はいつものように頭部をボンネット(フリルの付いた布製の被り物)で覆わずに高い位置で髪を結い上げ、若草色のワンピースの裾を翻しながら手を大きくぶんぶん振る少女が誰であるのか、顔の中が見える距離になる前から少年には分かっていた。
「マクシム! あのねお返事が」
「マリアンヌ、そんなに走ると危な……」
 両者の距離があと五メートルほどという所で、少女は歩道を歩いていた一人にぶつかってよろめく。慌ててマクシミリアンも駆け出して細い肩を支えて一息つくと、ぶつかった人物に頭を下げた。
 しかし少女の代わりに謝罪の言葉を紡ぐはずだった口が、相手を見た途端に凍りつく。
 口とは逆に見開かれた双眸が、そこに佇む人物を食い入るように見据えた。
 白髪交じりで手入れのされていない黒髪、襟元や袖口がほころびたシャツに薄汚れたクラヴァット(ネクタイ)。上着とキュロットがかろうじてその男の社会的身分を証明しているかに見えたが、こけた頬も生気のない瞳も、長ズボンを穿き食うやくわずの生活を余儀なくされているフランス農民のそれを少年に思い起こさせる。
「大きくなったな、マクシミリアン」
「驚いた、あなたまだ生きていたのですか」
 マクシミリアンに未だ肩を支えられた格好のマリアンヌは、普段落ち着いて見えた少年が初めて見せる感情の昂ぶりに意外そうな視線を向けていた。すぐそこにある見知った少年の亜麻色の瞳は怒りに震え、燃えるように光をたゆたわせている。
 場の張り詰めた空気に耐えられず「誰」と少女が聞こうとしたその時、マクシミリアンが吐き捨てるように呟いた。
「で、何の御用ですか――――父上」
 フランソワ・ド・ロベスピエール。彼がアラスの家を出てから、それは実に六年越しの親子再会であった。


『親愛なるマクシムお兄様へ
 お元気でお過ごしでしょうか、お兄様が陛下の前で祝辞を読むという名誉を賜ったこと、心よりお喜び申し上げます。
 こちらはアンリエット(次妹)がやっと風邪が治って最近よく外で遊べるようになり、オーギュスタン(次男)は来年お兄様と同じ学校へ行けるようにと猛勉強中です。
 お手紙を差し上げたのは他でもありません、実は先日町でお父様を見かけたとおっしゃる方がいたのです。
 ほうぼう探してはみたのですが、結局お父様を見つけることはできませんでした。
 ですがもしかしたらお兄様の噂を聞いてそちらに行かれたかもしれないと思い、お知らせしておこうと思います。
 お兄様がお父様の事をよくお思いになっていらっしゃらないことは知っていますが、どうかお父様を見かけたらアラスの家に帰ってくるように説得をお願いします。
 では、お兄様のご幸運とご健康をお祈りしつつ。
 シャルロット・ロベスピエール』

 かつてのロベスピエール家の主人フランソワは、祖父やそのまた祖父と同じように法律家としての道を歩み弁護士として成功した人物だった。
 妻との間には子供が次々と四人生まれ、長子のマクシミリアンは利発で将来は有望。何人もの依頼者を常時抱えていたフランソワの収入も多く、二階建ての大きな屋敷に住むロベスピエール一家はブルジョワ階級の中でもそれなりに裕福な生活を送っていた。
 それが崩れたのは、妻のジャクリーヌが五人目の子を流産したのが元で亡くなってからである。元々浮気が絶えず腰の落ち着かないところのある彼だったが妻のことはそれなりに愛していたらしく、その落ち込みようはかなりのものだった。
 そして彼は四人の子を抱える父親として立ち直るどころか、仕事もろくにせず複数の恋人をつくっては遊び暮らすようになる。挙句の果てには多大な借金を残して消息不明になり、十歳のマクシミリアンを筆頭に四人の子供たちだけが取り残された。
 妹のシャルロットは当時八歳だった。それほど明確な記憶がない分、父に対する思いが思慕に傾くのは仕方のない事なのか。
 苦虫を噛み潰すような思いの中で、マクシミリアンは妹へ返事の手紙を数日前に書いたばかりである。
 父はパリには現れなかった、と。
「ねえマクシム、やっぱり良くないわ」
「私は何も間違っていない」
「でもあなたのお父様は、この世であの方たった一人なのよ」
「だから!」
 レ・アル(中央市場)に隣接する、パリで最も美しいとされるサン・トゥスタッシュ教会。
 ゴシックの重厚な構造とギリシアのコリント式柱が混在した歴史ある建造物の前にある広場で、腰を下ろしていた花壇のレンガを力任せに叩きつけたマクシミリアンは立ち上がった。
 昨日突然現れた父とろくに会話もせず追い返した少年は、肩を落として去って行く男を気遣うように同じくそこを離れたマリアンヌの落し物を拾っていた。
 差出人の名前のない手紙で、封は開いていたが中までは見ていない。そして学校が終わってからレ・アルでマリアンヌの伯父が経営する花屋まで届けに来たのだった。
「だから……嫌なんだ。自分の父親があのような腑抜けだと思うと虫唾が走る」
「マクシム」
 マクシミリアンはその時、自分を心配そうに見上げてくる空色の瞳が初めてわずらわしいものに感じられた。わずらわしい? いや、それとは少し違っていたかもしれない。
 あのように惨めな男が自分の父親だということを知られて、恥ずかしかったのだ。
 どこの者とも知れぬ下品な女を屋敷に連れ込み、自分の義務さえ果たすことのできなかった人間のクズのような男。
 父がつくった借金に屋敷は取られ、兄弟たちは母方の実家に身を寄せた。それまで上品な服に身を包んで教養ある環境で育ってきたマクシミリアンにとって、それは屈辱な出来事でしかなかったのである。
 十一歳で奨学金を得てパリに来てからも年間四百五十リーヴルというお金だけでは学費と雑費だけで殆どが消えてしまい、裕福な子弟の学友達のように衣服を揃え、身なりを整えることもままならなかった。
 それでも当時の労働者の平均年収が四百リーヴルだったことを考えれば大きなお金である。パリの一流の学校で勉学する事とは、それだけ費用がかかるということなのだ。
「私の父は六年前に行方不明になった。そしてそれは、これからも変わらない」
 そうはき捨てるマクシミリアンは、しかし少女の目を決して見ようとはしない。
 彼女が自分と異なる意見をしたがっているのはよく分かっていたし、聞きたいとも思わなかったからだ。
「マクシムはいつも正しいわ。でも私たち人間は、いつも正義だけでは生きていけない時もあるのよ」
 心がどうしようもなく弱くなった時、誰かにすがりたいと思った時。正論だけでは決して満たされない心の隙間を、人は愚かな行動で埋めなくてはいられない衝動に駆られる時がある。
「誰だってそうよ、あなたのお父様だけが悪いんじゃない。私だって……」
 真っ直ぐ自分を見つめてきた水色の瞳に、マクシミリアンの心臓が跳ね上がった。
 マリアンヌは両の手を胸の前で組み、その瞳を潤ませる。
「あなたの中に、私が入り込む隙間はない?」
「え?」
「私はあなたが好きよ、マクシム」
 思考が、真っ白になった。
 いつも冷静で絶えず何かを考えているはずの少年の頭は、少女のたった一言だけで機能を麻痺させられてしまった。
 マリアンヌが二歩近付き、ボンネットに包んだ頭をそっと少年の胸に寄せる。花の香りがふわりと漂って、マクシミリアンの身体をわずかに硬直させた。
 すぐ側に感じる息遣い。そっと回した手に触れる少女の身体は、いつも元気な彼女からは想像もつかないほどに華奢で頼りない。
「私は……」
 跳ねる自分の心臓の音を聞きながら、それでもようやく頭が回り始める。
 マクシミリアンの胸に過去の記憶が蘇った。
 母が亡くなった後、父が何度となく屋敷に連れ込んで来た酒場の女や場末の娼婦たち。
 空の酒瓶が床を転がり、狂ったように笑いさざめく甲高い声が屋敷じゅうに響き渡っていた。
 下の兄弟たちは皆既に寝入っていたようだったが、長兄のマクシミリアンだけは二階の自室のベッドで震えながら耳を塞ぎ、歯を食いしばってじっと耐えるしかなかった。
 愚かな父。そして愚かな女たち。決して自分はそうはなるまいと、幼心に決心したあの夜。
「マクシム」
 細い腕がマクシミリアンの背中に回された。柔らかい女性の身体の感触が服越しにも伝わって、一気に現実へと引き戻される。
 そして目の前にいる人物が、途端に「少女」ではなく「女」なのだと実感させられた。
 女、女。何と愚かで、汚らわしい生き物。
「よしてくれ」
 考えるよりも先に両手が彼女を自分から無理矢理引き剥がしていた。 
 元気で明るくて自分の背中をはたくようなマリアンヌだからこそ、今まで疑問も持たずに一緒にいられた。それなのに……
「君もなのか、マリアンヌ」
 この聡明な少女でさえ、いつかは「女」というものに変わっていってしまう。それは考えてみれば当たり前のことなのに、全く失念していた自分自身に、変わらないでいて欲しいと思っていた自分の身勝手さに、マクシミリアンは大きな衝撃を受けていた。
「ごめ……なさ」
 今にも消え入りそうな声に視線を上げる。顔を俯かせた少女の顎先から幾つも流れ落ちる透明な雫が、彼の心臓をぎりりと締め上げた。
「う……ゲホッ、ゴホゴホゴホッ」
「大丈夫か?」
 突然激しく咳き込みながら両の膝を地に着かせた彼女に手を差し伸べようとしたが、なおも咳をしつつ頭を横に振るマリアンヌの拒絶にあって動きを止める。
「さようなら」
 掠れた一声だけをその場に残し、小さな背中は去って行った。
 マクシミリアンは金縛りにあったように一歩も動けぬまま、ただそれを見送ることしかできなかった。

「やっと見つけた、マクシミリアン」
 そしてしばらく立ち尽くした後、突然名を呼ばれて振り返ったそこに立っていたのは少年が予想していた人物である。自然と眉間に皺が寄り、答える声は低くなった。
「父上」
「ほんの少しでいいんだ、金を用立ててくれないか」
 その一言だけで父がここに現れた真意を悟り、マクシミリアンは唇を軽く噛む。
 アラスにはもうロベスピエール家というものはない。彼の兄弟は母方の実家に住んでいるのだし、放蕩の限りを尽くした父が妻の実家に金を無心できるはずもなかった。
 そしてどこかで聞いたのだろう、息子のマクシミリアンは四百五十リーヴルも奨学金をもらってパリで勉学中なのだと。そんな金は殆ど残らず身の回りの物ですら満足に整えられないというのに、父は愚かにもそのおこぼれを目当てにこんな遠くの首都までやって来たのである。
「父上、私にはそんなお金はありません。あなたにも誇りが残っているのなら、働いて稼げばいいでしょう」
「頼む、十リーヴルだけでもいいんだ」
「いい加減にしてください!」
 こちらに伸ばされた父の手を、マクシミリアンは反射的に跳ね除けた。側に立っているだけでむせる様に臭ってくる酒のにおい、薄汚れた手、乱れた頭髪。全てが嫌悪の対象であり、こうして話しているだけでマクシミリアンは気が変になってしまいそうだった。
「何だ。あの子は今日も親切にしてくれたのに、血の繋がったお前は随分と冷たいんだな」
「今何と言いました?」
 詰問するように視線を強めた息子に、フランソワは淀んだ瞳をさ迷わせる。
「ちょっとだけ借りるつもりだったんだが、返さなくてもいいって言ってくれてな。お前はあの娘と結婚するのか?」
「あなたは!」
 へらへらと薄ら笑いを浮かべる父親の胸元を思わず掴むと、マクシミリアンはその手に力を込めた。
「あなたは他人の施しを平気で受けるのか、それでも誇りある法律家ですか。嘆かわしい!」
「や、止めろ、暴力は止してくれ」
「ふざけるな!」
 まるで大きな子供のように頭を両腕で庇いながら父は身を縮める。やり切れない思いでマクシミリアンが服を離して突き飛ばすと、フランソワはバランスを崩して道のぬかるみの中に足を踏み入れてしまった。
 パリの道にあるぬかるみとは、すなわち街の人間が窓から投げ捨てた糞尿と泥が混じったものである。これ以上はないほどに惨めな父親の姿を見て、失望も怒りも通り越して小さな笑いが浮かんだ。
 その時、父の傍に銀色に光る何かが落ちていることに気付く。ぎりぎりぬかるみには入らず石畳の上にあったそれを拾い上げると、どこか見覚えのある銀製のロザリオだった。
「まさか、これ」
「盗んだんじゃないぞ、アラスに帰る旅費がないと言ったらあの娘の方からくれたんだ」
 言い訳する父を睨みつければ、口を閉ざして視線を逸らす。
「どうせアラスなどに帰るつもりなどないくせに。あそこはあなたにとって、決して住み心地の良い土地ではないはずだ」
 かつての友人に借りた借金もまだ完済されておらず、自分の家もないから妻の実家に身を寄せる他にない。それに父は、冬の長い北の土地をいつも嫌っていた。そもそも、自分が少し説得したくらいで妹たちの所に帰るような人間ではないのだ。
「これは私が彼女に返しておきます」
 え、と残念そうな声を上げるフランソワだったが、息子の険しい表情を見ると力づくで取り戻そうとまではしなかった。
 マクシミリアンは同年の男子の中では小柄でそれほど力も強い方ではない。フランソワが強引に飛び掛れば形勢逆転できたかもしれなかったが、父にはその気力自体が既になかった。
 元々どこか気の弱いところのあった人だ。酒と乱れた生活で、すっかり息子の言うところの「腑抜け」になってしまったようである。
 踵を返し、よたよたと遠ざかっていく父の背中を少年は黙って見つめていた。
 誰かの背中を見送るのは今日はこれで二度目である。どちらの時にも、たった一言くらいは声をかけて引き止めるべきだったのだろうか。
 父のことはやはり許すことはできなかったが、妹たちのがっかりする顔を思い浮かべると深い溜め息をもらさずにはいられなかった。

  *  *

「そろそろだ、見えるか」
 ヒューロが指し示した闇の向こうには、ぽっかりと黒い壁に穴が開いている。その先に見えた光景にマクシミリアンは一瞬で心を奪われてしまった。
 過去の自分がルイ・ル・グラン学院の前を通り過ぎ、坂を下ってゆく。学校が一箇所に集められたその丘がある街の名は、カルティエ・ラタン。語源は数百年前から各国からの留学生が集い、街の共通言語がラテン語だったことに源を発する。
 学校の他には記念建造物が道に華を添え、キケロ、セネカなどの古代人の像が道行く学生を黙ったまま見守っていた。その横を通り抜け、戻り、石畳の上を何度も行き来しては十六歳のマクシミリアンは難しい顔で考え込む。
 洗いたてのハンカチに包んで上着のポケットに入っているものは、銀のロザリオだった。今は顔を合わせづらい持ち主にどう言葉を掛けて良いのか皆目検討も付かなくて、こうして同じところをウロウロしているのである。
「そうだ、私はあの時行かなかった」
 あの涙を見た翌日だった。父の謝罪もせねばと思ってはいたが、やはりもう少し間を置いてからの方がお互い冷静に話し合えると思ったのだ。
 しかし後にマクシミリアンが改めてマリアンヌの伯父が営む花屋を訪ねると、店主の伯父は苦々しそうにこう答えたのみである。
「あいつは嫁に行っちまったよ、遠いところへな」
 その後の噂で、マリアンヌが実はかなりの資産家の落とし種だったのだと伝え聞いた。自分を好きだと言った少女がたった数週間後に資産家の親元に引き取られ、今やどこかの身分ある男の妻に収まっている。そう想像しただけでマクシミリアンの心は激しく乱れた。
 自分から拒絶したくせに、彼女が他の誰かのものになるのが嫌だった。
「本当は、好きだったんだ」
 自分でその気持ちに気付いた時にはもう彼女はいなかった。あっさり自分を見切って上流階級の世界へ消えていった彼女が憎らしくさえ思えた。
「だから私は全てのものを捨てた。勉学だけに打ち込んで全てを忘れようとしたんだ」
 そう呟いた時、マクシミリアンは突然何かに思い当たったように顔を上げる。
 やっと気付いたのだ。自分がどうして全くマリアンヌのことを覚えていなかったのか、その理由が分かったからである。
 彼女からもらったリンドウで作ったしおりも、読み書きの勉強のために使った詩集も紙もペンも全てセーヌのほとりで燃やしてしまった。そして時間と共にだんだんと小さくなっていく炎を見ながら思ったのだ。
 これで全てを忘れよう、何もなかったことにしようと。
 本当に忘れてしまうとは思ってもみなかった。だが結局勉強しか取り得のなかった自分に、他に何ができたと言えるだろう。
「ですがマリアンヌ自身は幸せに暮らしているはずです、私が今更どうする訳にもいかないでしょう」
 初めて時の狭間に足を踏み入れた時とは違い、マクシミリアンの心は様々な傷のせいで萎れかけていた。新たな傷ではなく、過去の忘れた傷から噴出す悲しみの血のせいで。
 かつての優しい人々を改めて目の当たりにし、誰一人今は自分の側にはいないという孤独を自覚してしまったからだ。
「あの娘は長くはないぞ。その後楽しく余生を送ったとは思えんがな」
 ぼそりと呟いた子供の一言に、マクシミリアンは目を見開いた。
「肺を患っている。大して生きられんはずだ」
 ヒューロは少女のその後に興味を持ったのか、過去のマクシミリアンが映し出されている隣に指を伸ばす。中央から闇がだんだんと薄れてゆき、やがて一つの穴が出来上がった。
 そこに映し出された少女は、どこかの屋敷の一室に閉じ込められているようである。マリアンヌは叫び疲れ、声も掠れて力をなくしていた。
 少し動いては激しく咳き込み、長かったはずの髪は肩に付かないくらい短くなって艶もなく乱れ放題である。
「マリアンヌ!」
 どれだけ叫ぼうとも声が届くことはない。それでも叫ばずにはいられなかった。
 太陽のように輝いていたあの少女が、暗い部屋の中でたった一人で閉じ込められて病に侵されている。何とかしてやりたい、心からそう思った。
「ああ、お前は革命とやらをやり直したいのだったな。遠回りになるが、ここからその戦略でも練り直せばよいだろう。とりあえずこの日にあの娘にお前が会えば、それで人生の選択肢が変わる、それでいいな」
 革命をやり直す。確かにそのために彼はこの少年の後に付いて来たはずだった。しかし今はそれだけではない、確信を持ってそう言うことができる。
「はい、お願いします。赤髪の天使よ」
 そう頷きながら、マクシミリアンは両目を閉じる。目蓋の裏に思い浮かぶ姿はスカートの裾を翻しながら駆けて来る、元気な少女の輝くような笑顔だった。




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