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● キッズ・ヒーロー --- 弐、雷おやじとマサル ●

弐、雷おやじとマサル

 みなさんこんにちは。ボクは今年十四才になる中学二年生、小玉(こだま)ひろしと言います。
 先日は何だか変な幼稚園児に絡まれて大変な目にあったけれど、そのおかげで幼馴染の一期と仲直りもできたし、いじめっ子の田仲も何故かあれ以来ボクに意地悪なこともしなくなりました。
 彼らのリーダーの一期がボクとよく一緒にいるようになったことも当然あるんだろうけど、それにしては田仲のボクを見る目がちょっと恐怖を帯びているような気がするのは気のせいでしょうか。
 その変な幼稚園児、マサルのエアガンを脳天に喰らって気絶してしまったという経緯が彼にはあるので、それが軽くトラウマになってたりするのかもしれません。……額へこんでたし。 
 ということで、今日は塾も無いし学校も終わったし。家に帰って先週買ってもらったばっかりのゲームをやることで頭がいっぱいのボクは、ウキウキしながら学校からの帰り道を急いでいます。
 ということで、本編行ってみましょうー。

  *

「掃除でちょっと帰るの遅くなっちゃったねー」
「仕方が無い。最近マツケンは自分の中で『美化強化週間』とやらを決めているらしいからな、言い出したらきかないし」
 学校からの帰り道。横に並んで歩いている一期(いっき)に話しかけると、彼はぼそりと無表情のまま答える。
 でもその声音からは何となくうんざりしているような雰囲気が伝わるような気がして、ボクはほんの少し笑ってしまった。
 マツケンというのはボクと一期の担任の先生で、本名は松田健作という人だ。もうすぐ四十代に入るくらいの年齢だと思ったけれど、その話題になるとマツケンは何故かいつも不機嫌になる。
「心が若ければ肉体も若いのよ、サンバで鍛えたこの肉体がそう叫んでいるわ!」
 って言いながらお得意の「マツケンサンバ」を教壇の上で踊り出すから、ボクら生徒の間では「年齢の話題」はタブーなのだ。
 何故かと言えばそれを始めると先生は何クールも踊り続けるので、授業が終わるのが遅くなるのである。過去にその愚を冒して、何度貴重な放課を無駄にしたことか分からない。
 ちょっと乙女チックなおじさんだから、年齢の話は余計辛いのかな? よく分からないけど。
 しかもボクたちが言うことを聞かないと、マツケンは泣いて訴えるから始末に終えない。
 何故だろう。女の先生が泣いていると「まただよ」って結構みんなドライに反応したりするのに、四十手前のおじさんが女言葉で嘆きながら鼻水を垂らして派手に泣く様は、何だかそのままスルーすることができない凄みがあるのだ。
 うーん。これ以上醜い姿を見せられたくないからなのかもしれないけれど。
 結局みんな何だかんだで「マツケンが泣くからしょうがないか」とブツブツ言いながら作業を始めるので、これはこれで効率の良い方法なのかもしれなかった。

 公園の前を通り抜ける時に頭上を何かの鳥が羽をばたつかせて飛ぶ音がして、ボクたちは上を仰ぎ見る。
 そこはこの間しずバアに出会った、あの公園である。
「鳩だ」
「あいつ……何だっけ、のの原……」
 一期が公園の方を見て首を傾げてそう呟き、ボクも同じ方を見た。
 公園の真ん中に立っていたのは同じクラスの女の子である。ボクは彼女を見た途端、心臓の動悸が跳ね上がるのを自覚した。
「違うよ一期くん、『のの原』じゃなくて、『篠原ののか』ちゃんだよ。同じクラスなんだから名前くらい覚えないと」
「ああ、そんなような名前だったな」
 一期はボクの変にうわずった声を特に気にする様子もなく、興味なさ気にそう答える。
 ボクのクラスの人間は当然「篠原ののか」を知っているけれど、彼女は学校内でもその可愛さでかなり有名な女の子だった。
 黒くてツヤツヤした長い髪に大きな目、いつもふっくらした白いほっぺは微笑を浮かべていてまるでモナリザのよう。……あれ、ちょっと違うかな。
 まあとにかくそんなマドンナ的な女の子の名前をちゃんと覚えていないのは、二年生の男子の中では一期くらいのものだろう。
 実を言えば、ボクもちょっと憧れてたりして。
 でもこんな冴えないボクじゃ、きっと相手なんかしてもらえないんだろうなあ……。
 視線の先にいるののかちゃんの側には、ざっと数えても二十羽以上の鳩がいた。
 彼女の手には鳩の餌が乗っているらしく、地面に落ちたのをついばむもの、彼女の肩に止まっているもの、飛びながら手の平の餌をついばんでいる鳩もたくさんいる。
「何だか一枚の絵みたいだなあ」
 美少女を取り囲む平和の象徴の鳥。
 つい先日この公園で繰り広げられた園児と妖怪ババアの仁義無き戦いが、まるで嘘のように美しい光景だった。
 そうして幻想的な雰囲気すら感じながら立ち止まってボクがそれを眺めていると、その異常事態は突然に発生した。
「きゃー!」
 ののかちゃんが突然悲鳴を上げる。
 餌を求めて集まり過ぎた大量の鳩が、一斉に彼女に群がってきたのだ。
 あっという間にののかちゃんは鳩に覆いつくされ、鳩人間にされてしまう。
「大変だ!」
「すごいな、全身鳩だ」
 冷静なんだかよく分からないことを言っている一期はこのさい放っといて、ボクは慌てて公園の中に駆け込んで行く。
 すぐ側までやって来ると、ボクの足音に驚いたのか鳩は一斉に彼女から飛び去り、そこには呆然と立ち尽くすののかちゃんがいた。
 綺麗な長い髪はぼさぼさになって鳩の羽が幾つか絡まっており、学校帰りに直接ここに寄ったらしく、彼女の制服にはフンの付いた鳩の足跡が無数に付けられていた。
 まさに壮絶。無残な彼女の姿にボクは思わず口が半開きのまま声も出ない。
 後からやって来た一期が彼女を見て、一言こう言った。
「のの原、鳩のフンが手のひらに乗ってるぞ」
 未だ鳥に餌をやるポーズのまま固まっていたののかちゃんは、その言葉に視線を自分の手の平に移す。
 そこには見事なでっかい鳩のフンが右手の平に乗せられていて、彼女の手から白い液体がぽたりぽたりと落ちてゆくのが妙に生なましかった。
「ふぅ……」
「あ、篠原さん!」
 あまりにもショッキングな出来事のせいなのか、ののかちゃんはそのまま気を失って倒れてしまった。
 ボクはギリギリのとことで何とか彼女を抱えて地面に倒れこむのを防ぎ、そして不意に訪れた重さを支えきれずに派手に尻もちをつく。
 ……なさけない。
 お世辞にも逞しいとは言えないボクだけど、好きな女の子一人支えられないだなんて情けないにも程がある。
 一期にも聞こえないようにそっと、ボクは溜め息をつくのだった。

  *

 ののかちゃんが目を覚ますまでかかった時間は十分くらいのもので、ボクはその間に公園の水飲み場まで彼女を運び……殆ど一期が抱えてくれてたんだけど、手の平の鳥のフンを洗い流してあげた。
 女の子の手って白くて綺麗なんだなあ、柔らかいなあとドキドキしながらボクは彼女の手を洗い、持っていたハンカチで綺麗に拭いてあげる。
 お母さんに毎朝無理やり持たされていつもポケットに入れっぱなしのハンカチだけど、今日は本当に持っていて良かったと思った。
 一期が抱えてボクがののかちゃんの手を拭く。その時彼女が不意に目を覚ました事に気付くのが遅れたボクは、ちょうど前傾姿勢でいたせいで、急に跳ね起きた彼女の頭突きを思い切り右側頭部に喰らった。
「――――はっ!?」
「ガフッ!」
 神様。これはちょっとだけ、本当にちょっとだけののかちゃんの手を必要以上に触ろうとした天罰なのでしょうか。
 ボクはとんでもなく激しい衝撃に頭をくらくらさせながらもんどりうち、今日二回目の尻もちをついたのだった。
「痛ったーい。あれ、はと……」
「気がついたか」
「あなたは……永島君?」
 その瞬間、まだ彼女を抱えたままの一期とののかちゃんの視線が交錯する。
 その光景はさながら愛を囁き合うロミオとジュリエット、もしくは永い眠りから覚めた眠り姫と王子の、まさにゴールデンポジションである。
 それを見てボクは目を見開き、ついでに口もこれ以上は無いくらい開けて心の中で叫んだ。
 しまったぁぁぁぁ! この状況じゃ、ののかちゃんをカッコよく助けたのは一期だけで、ボクはただのおまけという事に。
 いや、無様に尻もちをついている時点で、ボクの姿は彼女の視野にも残っていないだろう。
「だ、だだ大丈夫だった?」
 慌てて立ち上がり、服に付いた土を払いながら自分の存在をアピールする為にそう言うと、ののかちゃんはボクの方を見て小さく首を傾げた。
「ええ、ありがとう。ええっと……うーんと……」
 可愛い顔で眉間に皺を寄せてそう唸る彼女に、ボクは掠れた声でこう答える。
「同じクラスの小玉ひろしです……」
「あ、そうそう、小玉君」
 一期はすぐに名前が出てきたのに……、一期はすぐに……。
 ボクはそのまま力なく大地にうなだれ、独り言を呟き続けたのだった。

 *

「さっきは本当にありがとう。私、よくここで鳩に餌をやってるの」
「でもこれからは気を付けてね。また鳩に襲われちゃうかもしれないから」
「うん……、今まではこんなことなかったんだけどなあ」
 少し俯き加減になったののかちゃんの目が少しだけ涙で潤み、それを見たボクは慌てて次の言葉を探して口にした。
「でもでも、鳩に餌をやるのは楽しいよね。ののかちゃんもそうでしょ?」
「え?」
 驚いたようにボクを見やる彼女に、思わずボクも「え?」と聞き返す。
「何か他に理由があるようだな」
 ぼそりと一期が言うと、ののかちゃんは満面の笑顔でうなずいた。
「鳩を手なづけて、伝書鳩にしようと思ってー。ふふ」
「伝書鳩?」
「田舎のおばあちゃんに伝書鳩で手紙を出すのが夢なのー、素敵でしょう?」
 うふふと天使の微笑を浮かべるののかちゃんを、ボクは思わず口を半開きにして見た。
 普通に切手貼って出せばいいのに……。いや、電話のが早いような……。
 でもきっとののかちゃんにしか分からないロマンが伝書鳩にはあるのだ、いやあるはずなのだ。
 ボクはそう無理やり結論付けて喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「なるほど、鳩にはそういう利用法があるのか」
「ね、いい案でしょ?」
 ちょっと待ってよ一期。
 どうして君はそこで素直に賛同できるんだ、しかも素で。
 伝書鳩を素直に認められないボクがおかしいのか、それともこの二人が超越した世界に生きているのか、もうボクにはよく分からなくなってしまった。
 そしてその時だ。
「よくよくお前達は阿呆どもだな。このジョウホウ社会の中、今更そんな古典的手段を使おうとするとは」
 どこかで聞いたような甲高い声がして、ボクはその声のする方を見る。
 それはちょうどボクの向かい側に立っているののかちゃんの後ろの方。
 彼女を通してその後方を見やったその時、風も無いのにののかちゃんのスカートが何故か思い切りめくれ上がってボクは目を見開いた。
「ふむ、白か」
「きゃぁぁぁぁぁ!」
 その瞬間、ののかちゃんの手が空を切って大きくしなり、ボクの頬めがけて振り下ろされる。
 当たった瞬間に視界が真っ白に飛び、ボクは見事に横に吹っ飛ばされた。ののかちゃん、意外に力が強いんだね……。
 吹っ飛ばされた場所から顔を上げてそこを見ると、そこに立っていたのはやっぱりあいつだった。
「久しぶりだな、ひろし。元気にしてたか?」
「……マサル」
 ボクはズキズキと傷む頬を押さえながら、心底うんざりしながらその幼稚園児を見やる。
 どうしてマサルがここに……。
 っていうか、どうしてこいつがスカートをめくってボクが殴られなければならないんだ。
 しかもマサルはののかちゃんの真後ろからスカートをめくっていたから、ボクの位置からじゃパンツなんて見え無いのに。
 これでは全くの殴られ損である。
 でも別にパンツが見たいと思ってた訳じゃないよ? うん別にね。いや本当に。
「またお迎えの人を待たずに、一人で勝手に幼稚園を出てきたんだろ」
「ふっ、そう何度も同じことを繰り返すオレ様ではないわ」
 ああ、そうそう。こんな感じですごく偉そうな喋り方するんだよ、この幼稚園児は。
「今日はお前に用があって、わざわざ下僕のためにこんな所まで迎えに来てやったのだ。感謝しろよ」
「だからボクは下僕じゃないったらっ!」
 ここにはののかちゃんも居るのに何てこと言ってくれるんだ、マサルのバカバカ!
 ボクがののかちゃんに視線を向けると、彼女はこの会話をよく聞いていなかったのか相変わらずのほほんとした表情でボクを見返している。
 マサルも同じようにののかちゃんを見上げると、幼い顔のくせにいっちょ前に眉間に皺を寄せて言った。
「何だこの女、ずいぶん汚れているな。お前の仲間か、ひろし?」
 幼児は「婉曲」という表現を知らないから、その発言は時に残酷だ。マサルの場合は意図的にそうしている節も見られるから、更に性質が悪い。
 髪の毛に鳩の羽を絡ませたまま既に半泣きになっているののかちゃんを面白くも無さそうに見やると、マサルは後ろを振り返りながら手を振った。
「まあいい、面倒くさいから全員連れてゆくことにしよう。おい、運んでくれ」
 誰に手を振っているのかとボクもその方を見やったけれど、そこには誰も居ない。
「マサル、誰に言って……」
 そう言いかけたボクの身体が不意に宙に浮いて、視界が一瞬で変化する。ボクが空を飛んでいる訳じゃない、黒っぽいスーツに身を包んだでっかい男の人が、ボクの身体を横抱きに抱えたのだ。
 びっくりして助けを呼ぼうとしたボクの口は、大きな人の手で塞がれて阻止されてしまった。
 何だ、一体何が起こってるんだ!
 ちらりと横目に映った一期とののかちゃんも、それぞれスーツの大男に抱えられて身動きが取れなくなっていた。
 拉致か、これは人攫いなのか? ボクは絶体絶命なのかー!?
 しかしマサルだけは落ち着いた様子で、口の塞がれたボクの目の前にやって来て不敵に笑った。
「心配するな、悪いようにはせんぞ。ふふふ……」
 誰がお前の言葉なんか信じられるか!
 ボクはそう言ってやりたかったけど、うーうー唸っているだけでちゃんとした声にならずに終わってしまう。
「早く車に運べ、行くぞ」
 マサルが歩き出すと、ボクたちを抱えたままの大男達もそれに従って移動し始める。
 このまま拉致されてボクたちはどうなってしまうのだろうか?
 まさかコンクリート詰めにされて海の底? ひっそり船で運ばれて外国で人身売買?
 ボクは平凡な中学生なのに。最近やっといじめられなくなって、好きな女の子を遠くから見つめて小さな喜びをかみしめるのが日課の、本当に平凡すぎる一般市民なのに。
「誰か助けてー!」
 でもやっぱりボクの叫びは声にはならず、天気の良い真昼間、ボクたちは公園からいきなり拉致されてしまったのだった。

  *

 室内の照明に光る革張りの高そうなでっかいソファー。
 壁にはボクの身長よりも更に大きなサイズの油絵の人物画がかけられ、何だかとんでもなく異質な空間にやってきてしまったような錯覚を覚えさせられる。
 でもあの肖像画のおじさん、どこかで見たことがあるような気がするのはボクの気のせいかな……。
 天井を見上げれば豪奢なシャンデリアが燦然と輝き、窓から見える中庭の風景はまるでどこかの宮殿のように無駄に広く、庭木が整然と並んで美しかった。
「……ここは一体どこ?」
 車に無理やり押し込められたボクたちが連れてこられたのは、とんでもなく大きなお屋敷だった。
 門から車でしばらく走ってやっと玄関に辿り着くほどなのだ、狭い日本の住宅事情を全く無視した広さである。
 ボクなんてマンション暮らしだから、中学に上がる時に散々親に交渉して自分の部屋を確保したっていうのに。
「全くどうなってるんだよ、ここは」
 このとんでもなく広い応接室だけで、ボクの家は苦も無くまるまる入ってしまうだろう。
 玄関先でボクと一期は真っ直ぐここの部屋へ通されたが、その時何故かののかちゃんだけは別の部屋へ連れて行かれてしまった。
「ののかちゃん、大丈夫かな」
「別に変なことをされたりはしないだろ、俺たちだって別に何とも無いし」
 ボクの不安気な様子とは正反対に一期は長い脚を投げ出してどさりとソファーに腰を下ろすと、出されたコーヒーをのんびりとすすった。
 すごいなぁ、一期はコーヒーをブラックで飲めるんだ。
 って、そんなところに感心してどうする、ボク。
 彼が言うとおり、確かにボクたちには危険が迫っているという雰囲気は感じられなかった。
 始めはあんなに唐突な連れ去り方だったけれど、ここに着いてみれば立派な部屋に通されてちゃんともてなしも受けている。
 一体何がどうなっているんだろう?
 自分の目の前に置かれたコーヒーカップに砂糖を三杯、ミルクをたっぷり入れると、それを飲みながらボクは首を傾げた。
 そしてその時勢い良く入り口のドアが開け放たれて、驚いたボクは慌ててそっちに視線を移す。
「待たせたな、ひろし」
 そう言って一番初めに入って来たのはマサルである。そしてその後ろに立っていたのは、和服姿の綺麗な女の人だった。
「あなたが小玉ひろしさん? マサルがお世話になったそうで、その節はどうもありがとうございました」
 その女の人が近付いてきてボクの手を取ると、にっこりととても柔らかい笑顔を見せる。
「あ、あの?」
「マサルの母の、天王寺あやめと申します。よろしくお願いしますね」
「は、はい」
 落ち着いた雰囲気を醸し出していてもマサルのお母さんの見た目は意外に若く、まだ二十代後半に入ったばかりのような印象を受けた。
「あ、あの」
 そう言いながらおずおずと最後に入り口から姿を見せたのは、別の部屋へ連れて行かれたののかちゃんである。
「あら、よくお似合いですわ」
 あやめさんが嬉しそうに手を叩き、ボクも口を開けてうんうんと頷いた。
 乱れた髪は綺麗に整えられて髪飾りを付け、汚れた制服は何とも美しい和服姿に変わっていたからだ。
「ふむ、小奇麗にすればそれなりに見られるな。おいお前、オレ様の彼女にしてやろう」
「はあっ?」
 と目をひん剥いてマサルを振り返ったのは、このボクである。
 幼稚園児のくせに学校のマドンナののかちゃんを「彼女にしてやる」だなんて、何て不届き千万な奴!
 しかし次の文句を言おうとする前にスパーンと軽快な音を立てて何かがマサルの後頭部を殴りつけたので、思わずボクの動きが止まる。
「マサルさん、今何かおかしな事を言いませんでしたか?」
「い、いえ、母上。何も言っていません」
 少し顔を強張らせたマサルに変わらぬ微笑を向けながらそう問いかけるあやめさんの手に握られているのは、さっきまで胸元に差し込まれていた扇子である。
 先ほどの数秒の間に彼女はすばやい動作でこれを抜き取り、一糸も乱れぬ華麗な動作でマサルの後頭部をはたいたのだった。
 マサルのお母さんって、実は第一印象とはかなり違う人なのかもしれない。……だってあの「マサル」のお母さんだし。
 目をぱちくりさせているボクを振り返ると、あやめさんはまたにっこりと微笑みかける。
「マサルさんから色々とお話を聞いて、以前からお会いしたいと思っておりましたのよ。ですからこうしてお招きいたしましたの。今日はゆっくりしていらっしゃいませね」
「え、そうだったんですか?」
 マサルが「用がある」って言うのは、そういう意味だったのか。ボクはてっきり攫われたものとばかり思っていたけれど……いや、あの「ご招待」の仕方じゃ普通誰でもそう思うよ。
 ボクが驚いたような顔をしているのを見て、あやめさんが軽く首を傾げる。
「あら、どうかなさいました?」
「ひろし、うんこか? 我慢するなよ、トイレは出てすぐ右の通路を行けば……」
 そこまで言いかけて、マサルは言葉を切る。先ほど同様、お母さんの扇子パンチが後頭部に直撃したからである。
「下品な物言いは天王寺家の者として相応しくありませんよ。……まさかマサルさん、大事なお客様に失礼なことをしてはいませんわよね?」
「え?」
 チラリと気遣わしげな表情をボクに向けたあやめさんだったが、その右手はギリリと音が出そうなほどに強く扇子を握り直している。その白くて細い腕の一体どこにそんな力があるのか、全く不思議な話であった。
 横目で見たマサルの顔はやや青ざめて見え、ボクは小さく噴出した後こう言う。
「いいえ、そんな事はありませんよ」
「そう、それは良かったわ」
 ニッコリと微笑むあやめさんに聞こえないように、ボクは小さくマサルに囁いた。
「マサル、これで一個貸しな」
「ふん、分かっている。天王寺家の名にかけて、オレ様が忘れたりすることは無いから安心しろ」
 ふっくらしたほっぺを真っ赤に染め上げて口を尖らせるその様は、やっぱりどこからどう見ても幼稚園児でしかない。
 そしてそれを見たボクは、自然と笑みがこぼれるのだった。

 *

「それで『天王寺家』って?」
 マサルの苗字は天王寺。
 別にすごく珍しい苗字では無いけれど、このでっかいお屋敷を見る限りはどう見てもただの一般家庭とは思えない。
「我が一族が経営する天王寺グループ傘下の企業は、そうだな、ざっと見積もって三十くらいだ」
「天王寺グループって、よく宣伝とかやってる天王寺建託とかの、あの?」
「そうだ」
「わー、マサルくんってお坊ちゃまなのねー」
「別に大したことでは無い、うちより大きな企業など幾らでもある」
 普通の顔で、幼稚園児のくせに妙に大人くさいセリフをマサルは言う。
「マサルさんは天王寺家を継ぐために、たくさんお勉強をしているのよね。幸いIQも高かったから、専属の家庭教師の方とどんどんお勉強が進んでしまって」
「小学生の過程は終わったので、先週から中学生の教科書を使っています、母上」
「まあまあ、それはすごいわ、マサルさん」
「幼稚園児が中学生の教科書で勉強ー?!」
「ふっ、宿題で分からない所があれば教えてやってもいいぞ、ひろし」
 嫌だ、幾ら勉強が苦手のボクでも、幼稚園児に教わるのは嫌だ。
 眉の端を下げて情けない表情になりながらも、幼稚園児のマサルが色々難しい言葉を頻繁に使う理由に納得するボクであった。
「そしてあれは、オレ様のおじい様のおじい様だ。元は由緒正しいゴクドーの跡取り息子だったらしいのだが、商才があったらしくてな、フドウサン業で儲け始めたのが始まりらしい」
 そう言ってマサルが指差したのは壁にかけられた大きな油絵の具の肖像画で、古そうな型のスーツに身を包んだ中年の男性が堂々とした様子で描かれている。
 そうか、どっかで見たことがあると思ったら、マサルにどことなく似ていたのだ。顔のパーツも何となくだけど、何よりもあの偉そうな雰囲気が。
 それにしても元は極道の企業家か。何だかすごいような、どう表現したらいいのか良く分からないような。
「ねえ。マサルがエアガン持ち歩いてるのは、ご先祖様が元極道だから?」
 何となく聞いたその一言に、マサルはでっかい目でじいっとボクを見てから言った。
「そんなわけあるか。単にオレ様の趣味にすぎん」
「まあマサルさん、まだそんなオモチャを持ち歩いているのですか? それでは護身用にならなくてよ」
 ソファーに腰掛けて優雅にコーヒーの芳香を楽しみながら、あやめさんがニッコリ微笑む。
「本物ですとまだ重くて持てませんから」
「あら、それもそうですね」
 親子がにこやかに会話する内容じゃないよ、これ。
 ボクは何だか頭が痛くなってきて、そっとおでこに手を当てた。

 談笑が続く中、何となく浮かない様子で溜め息をついているののかちゃんにボクの視線が止まる。
「どうしたの、篠原さん」
 急に話しかけられて驚いたののかちゃんは、慌てて顔を上げると取り繕ったように笑顔になった。
「うん……」
 それで彼女はまた黙り込んでしまい、何となくその場に沈黙が訪れる。
「ののか、お前は公園で鳩に襲われたそうだな」
 くっ、マサルめ。ボクでさえまだ苗字でしか読んだこと無いのにいきなり呼び捨てかい。
 でもののかちゃんは幼稚園児に呼び捨てにされたことは全く気にしていないようで、小さく頷いた後に話し始める。
「あそこの鳩達は、始めはあんなじゃなかったの。でもあの子達最近いじめられる事が多いから、あんなことになったのかなあと思って」
「いじめられる?」
「公園の目の前にあるお家のおじさんがね、自宅の庭の盆栽にも鳩のフンがかかるからって言って、鳩を公園から追い払うの」
 直接長い棒を振り回すときもあれば、ロケット花火で威嚇することもある。
 それは朝と夕方に必ず行われ、ののかちゃんが鳩に餌をあげていたあの時間だけが、鳩たちにとって平和な時間なのだそうだ。
「そのうち、あの公園から鳩さんいなくなっちゃうかもしれないね……」
 肩を落とし、ののかちゃんは大きな溜め息をつく。
「よし、ちょうど良いことに明日は土曜日だ。あの公園に朝六時半に全員集合しろ」
 重苦しい沈黙を破るように、マサルがコーヒーカップを口元に持っていきながらそう言った。
 ちなみにマサルのコーヒーカップの中身だけは、ミルクたっぷりコーヒー牛乳である。
「え、もしかしてそのおやじを退治するとか?」
「……オレも行くのか」
「だから一期くん、突っ込むべきところはそこじゃないから」
「まずは現場を見てみんことには、何とも言えんだろうが」
 そう言った後、四人掛けのソファーで隣に座っているマサルが不意にボクに顔を近づけて小さな声で囁いた。
「ひろし、お前ののかを助けてやりたいのだろう。これでさっきの借りはチャラだからな」
「マ、マサル何で分かったの?」
「何か言った、小玉くん?」
「ううん、何でも無いよ」
 ボクは首を振りながらののかちゃんにそう答え、そして改めてマサルを見た。
 侮れない。マサルはただの傍若無人な幼稚園児ではなく、尊大な物言いの割には本当に人をよく見ている。
 これもIQの高さのなせる業なのだろうか、本当に末恐ろしい幼稚園児であった。


 その日の夕飯の席で、ボクはご近所さんとよく立ち話を毎日しているお母さんに、そのおじさんのことを少し尋ねてみることにした。
「ああ、田淵さんでしょ? ウチはまだ遠いから聞こえたりはしないんだけど、あの辺の家の人は大変みたいねぇ」
「大変って?」
 ボクが差し出したコップにお茶を注ぎながら、お母さんは続ける。
「ほら、毎朝早い時間からロケット花火とかやるじゃない。音がうるさくてかなり近所迷惑になってて、みんな怒ってんのよ」
 でもそれ以上に田淵のおじさんはおこりんぼうなので、なかなかみんな苦情を面と向かって言えないでいるらしい。
「なるほど、なかなかすごいおじさんみたいだ」
 ハンバーグを一切れ口の中にほお張ると、ボクは明日起こるであろう惨事について思いを馳せるのであった。

 *

「遅い、何をやってるんだマサルは」
 現在時間、六時四十分。
 ボクを含めて他の三人は全員集まっているのに、言いだしっぺのマサルだけがまだ来ていない。
 お母さんの情報によれば田淵のおじさんが行動を起こすのは七時過ぎくらいらしいので、ゆっくりしている時間もあとわずかである。
 田淵家は公園の正面の入り口とは反対側の、裏側の細い路地を挟んで隣接する比較的古い木造住宅の家だった。
 庭の面積は十分ある方だと思うのだが、その殆どが盆栽の鉢で埋め尽くされて何だかとても窮屈な印象を受ける。
「あんなに盆栽集めてどうするんだろ」
「大きく育てて薪にするとか」
「一期くん。盆栽は小さいままだよ、普通」
 そして普通に現代生活を送る限り、薪を使うべき場面は皆無のはずである。
「もう秋なのに、こんなに狭くちゃお庭で焼き芋もできないねー」
「……もしかしてののかちゃん家、毎年やってるとか?」
「うん、やってるよ。楽しいよー、小玉くんにもおススメー」
「あ、いや。ボクん家マンションだから、ははは……」
 どうしてこう、ボクの周りの人間は発想がレトロな人が多いのだろうか。
 ついてゆけないボクが変なのか? 懐古趣味が今この一帯では流行っているとでも言うのか。
「はっ、もしかして頭が遅れているのはボク?」
「何をたわけたことを言っている」
 その甲高い声に振り向いたボクは、その声の主を見た途端にそのまま倒れそうになった。
「マサル、その格好は一体何のつもりだ」
「何か問題でもあるのか?」
「大ありだよ!」
「小玉くん、しーっ」
「うっ」
 口元に人差し指を当ててののかちゃんがそう言い、ボクは慌てて自分の手で口を塞いだ。
 そこに現れたマサルの格好は、服装はごくごく普通の洋服を着てはいたのだが、その背中に背負っていた物は尋常ではない。
 こなれた手つきで背中の筒からそれを一本取り出すと、マサルは左手で持っていたものに番え、引き絞る。
「わっ、やめ……」
 止める間もなく打ち放たれたそれはボクのおでこに見事に命中し、その衝撃と驚愕でボクはそのまま後ろに倒れこんだ。
「大丈夫か。……矢?」
 キュポンと小気味良い音をたてて、一期がボクのおでこからその刺さった物――矢じりの代わりに吸盤が付けられている矢を引き抜く。
 そう、何とマサルは弓矢を持って登場したのである。しかも奴は徒歩ではなく、あるモノに乗って。
「マ、マサル、それ……」
「ああ、ササニシキ号か。オレ様のペットだ、可愛いだろう?」
 そう言ってマサルが小さな手で頭をポンと軽く叩いたのは、体長一.五メートルはゆうにあるとんでもなく大きな土佐犬だった。
 マサルを背に乗せたササニシキ号は大きな口から白い牙を剥き出しにしてハアハアと息を吐き、目蓋の肉が垂れ下がった下から見えるその目は、恐ろしいほどに据わっている。
 可愛くない、どこをどうとっても可愛くない。というか、むしろ怖い。
「まさかこの犬に田淵のおじさんを食べさせるとか言うんじゃ……」
 あんな鋭い牙で噛み付かれたら、中年のおじさん一人などあっという間に殺られてしまうだろう。
「ふむ、なるほど。そう言う方法もあるな」
「待った、今のは無し。無しだよマサル」
「何だ、ひろしにしてはなかなか良い思いつきだと思ったのに」
 ひろしにしてはって、そりゃ一体どういう意味だよ。
 でもボクはその言葉を、喉もとの辺りでぐっと我慢する。
 これ以上マサルを刺激してはいけない。今のうちに何とか宥めて、今回のミッション(?)がなるべく穏便に済まされるように持って行くのがボクの使命なのだ。
 前回エアガンをまともに喰らった田仲は、気絶させられてそれがトラウマになってしまったほどである。今回こんな恐ろしい犬までいたら、一体どんなことになるかしれたものではない。
「エアガンはもうやめたの?」
 一期から先端に吸盤の付いた矢を受け取って、ボクはまじまじとそれを見る。これなら人に加えられる危害は随分と少なそうだ、ちょっと安心かな。
「最近オレ様は時代劇にはまっていてな、人間国宝の職人にこの弓を作らせたのだ。さっきの矢は挨拶用だ、用途別に他にも準備してあるから心配はいらん」
「へー、人間国宝かあ。……って、え? 用途別って、どういうこと?」
 それはつまり色々な種類の矢があるっていうことで、だからボクが持ってる吸盤付きのやつだけじゃなくて……。
 どんどん不安が湧いて出てくるボクを不思議そうに見ながら、マサルは落ち着いた様子で答えた。
「残念ながら皆に反対されて矢じりの付いたものは作れなかったのだ。馬も公道で走らせてはならんと言うのでな、こうしてササニシキ号に乗っている」
 そうなのか、天王寺家にも良識を持った人がいるんだ、良かった。とボクが胸を撫で下ろしたその時、マサルが再び言葉の補足をした。
「だからちゃんと代わりに矢の先っぽに火薬が仕込んである、問題は無い」
「だからそれが問題なんだってばー!」
「小玉くん、しーっ」
「あうっ」
 またののかちゃんに注意をされて、ボクは再び慌てて自分の口を塞いだ。
 それにしても火薬が仕込んであるだなんて、ゴム弾を発射するエアガンよりも性質が悪い。何とかマサルの背負っている矢筒を取りあげようと、ボクは足音を忍ばせて横から近付いた。
「グルルルル」
「うわっ」
 しかしササニシキ号のドスの効いた眼力に阻まれ、ボクはあっという間に後退する。
 すみません神様、ボクは無力な弱虫です。
 前回幼稚園児の眼力に負けたばかりか、ボクは犬畜生にもあっという間に負けました……。

「ひろし」
 一期がボクの肩を持って小さく促す。その視線の先に見えるのはジャージ姿のおじさんが一人。
 朝の爽やかな風に吹かれて、少なくなった頭のてっ辺の髪が何ともか弱げになびいているのが印象的だった。ぱっと見いかつい顔をしていて、何とも怖そうなおじさんである。
「あれが田淵さんなの」
 ちょっと悲しそうな顔でののかちゃんがそう呟いた。
 ボクたちがいる場所はちょうどたくさんの木に阻まれていて、向こうからは見えなかったらしい。
 おじさんはボクたちの方には全く気付く様子も無く公園の一角に立つと、ポケットから何かを取り出してゴソゴソし出した。
 田淵のおじさんの数メートル先には既に鳩が集まってきていて、鳩はおじさんの存在を気にしつつも、距離があいているためか飛び立つ様子も無く地上を歩き回っている。
 不意に、おじさんがそれを鳩に向かって投げつけた。
 長さにして十センチにも満たないそれは、放り投げられて地面に落ちる前から破裂音を轟かせながら小さい煙を上げて鳩たちを強襲する。
「爆竹?」
 それも一束丸ごと火をつけたらしい。全く、中国のお祭りじゃないんだから。
 鳩は激しい羽音と共に一羽残らず慌てて飛び去り、後には小さな羽根が数枚空中を舞う。
 この辺一帯は住宅街なので土曜日の朝はとても静かだ。その飛び去る鳩の羽音もうるさければ、爆竹の破壊音に至っては公園だけでなく周囲の家々にもかなりの音量で響いていることだろう。
「耳が痛ーい」
 ののかちゃんが耳を押さえながら顔をしかめた。ああ、でもこんな顔も可愛いなあ。
 こんな状況なのに思わずにやけそうになった顔を両手で軽く叩いて気を引き締め、ボクは慌てて表情を元に戻す。
 それにしてもボクの家はここから距離があるから知らなかったけど、これを毎朝、毎夕やられたら苦情も出るのもうなずける。
「うーん、こりゃ想像以上にすごいおじさんだ。ねえ……」
 マサル。と名前を呼ぼうとして横を見たボクは、そのまま固まった。
 居ない、いつの間にかそこに居たはずのマサルが忽然と居なくなっている。
 嫌な予感がしてまた視線を前方に戻すと、そこには何といつの間にかササニシキ号にまたがったマサルがいるではないか。
「そこのハゲ親父、大人のくせに鳩をいじめて何が楽しいのだ」
 ビシリと人差し指をおじさんに向け、マサルはそう言い放つ。
「しまった、出遅れたー!」
 ボクと一期も慌てて木陰から躍り出し、二人の方へ駆け出した。
 二、三歩踏み出してからボクは残されたののかちゃんを振り返り、危ないからそこで待っているように告げて彼女がうなずくのを見てまた走り出す。
 視線先では大型犬にまたがったおかしな幼稚園児にいきなり罵倒を浴びせられたおじさんが顔を真っ赤にさせ、ついでに面積の広くなったオデコまで真っ赤に染めて怒鳴り散らしている。
「誰がハゲじゃー! そもそも大事な盆栽コレクションにフンをひっかける鳩を追い払って何が悪い、このション便たれ坊主が!」
 その怒声はまさに雷。学校で一番怖いと言われる体育の先生よりも、ずっと凄みのある声だった。
 しかしマサルはその怒声に全く怯む様子は見せず、すっと目を細めたかと思うと矢筒から一本の矢を取り出して弓に番える。
 その矢の先端に付いているのはあの吸盤ではなく、明らかに怪しい黒くて丸い物体だ。
 マサルが言っていた、攻撃用の火薬入りの矢である。
「マサル待っ……」
「セイバイ!」
 すぐ側まで辿り着いて手を伸ばしたけれど、ボクが制止の言葉を最後まで言い切る前に弓弦が解放されて、乾いた音を鳴らす。
 それにしてもマサルは「成敗」ってちゃんと意味分かって言ってるのか? まさかそれってとんでもない殺傷能力があるとか言わないよね。
 打ち放たれた矢は田淵のおじさん目がけてまっしぐらにすっ飛んでいった。
 それはおじさんの右胸に当たると、さっきの爆竹より低い爆発音を上げて破裂する。
 飛んできた矢の衝撃なのか爆発の衝撃なのか、とにかくおじさんは後ろに倒れこんだ。そして胸に刺さった矢を両手で持ちながら……って。え、矢が刺さってる? しかも服に付いているあの色は……
「血、血だぁぁぁぁぁ!」
 ボクの大声で自分の胸元を見たおじさんも、同じように目をひん剥いて叫ぶ。
「ぎゃぁぁぁぁ、死ぬー! 誰か救急車を呼んでくれぇぇぇ!」
「た、大変だ、電話、電話。ああ、どっかの家に知らせに言った方が早いかも」
 走り出そうとしたボクの腕を、その時一期が掴んで引き止めた。
「あれは刺さっているのか?」
「何言ってるんだよ、あんなに血だってどばーって出てるじゃないか」
「そうだぞ、ワシは瀕死の重態なんじゃ!」
「ばか者、そんなピンピンした重態があるはずないだろうが」
「え?」
 落ち着き払ったマサルの一言に、ボクと一期は顔を見合す。そして田淵のおじさんを見ると、おじさんも同じように驚いたような顔をしていた。
「だって矢が刺さって……無い?」
 確かにおじさんのジャージは真っ赤に染まっていた。矢も胸に突き刺さっている様に見えた。
 でもよくよく見てみると、それは矢の先に付いているトリモチの様なもので服に引っ付いているだけだったのである。
「特別に開発したスーパー粘着剤だ、爆発と同時に敵に引っ付くようになっている」
 どうだすごいだろう、と小さな胸を張る幼稚園児に、ボクは心底うんざりした顔を向けた。
「じゃああれは血のり?」
「消えるインクだ」
 だからどうしてお前はそこまで変なことにこだわるんだ、ボクにはさっぱり分からないよ。
 でもすぐにインクは消えるものでもないらしく、田淵のおじさんはさっきまで青くさせていた顔を服と同じように再び真っ赤にして立ち上がる。
 片手で矢を取ろうとぐいぐい引っ張ってはいるけれど、接着力が強力でなかなか取れないらしい。
 結局力任せに引っ張った挙句、おじさんのジャージの一部を破りとってそれはやっと剥がれたのだった。
「ふがあっ、ワシのお気に入りの一張羅がー!」
 一張羅って言葉、ジャージに使ってもいいのかな。
 でもおじさんは本当にカンカンに怒っていて、マサルを捕まえようと歩み寄る。
「ガウッ」
「ひいっ」
 でも手を伸ばそうとしたその瞬間、さっきのボクみたいにササニシキ号に牙を剥かれてあっけなく敗れ、数メートル後ずさりした。
「くそう、くそう」
 そう言いながらポケットをまさぐり、さっき鳩に向けて投げつけた爆竹の束を取り出す。そしてライターで火を点けると、おじさんは迷いも無くマサルに投げつけた。
 ちょっとおじさん、幾らなんでも幼稚園児にそれは大人気無さ過ぎだー!
「マサル危ない!」
 思わずボクの足がマサルの方へ動いた。
 ああ、ボクって虐げられてもこんな時には放っておけないだなんて。
 なんて思っていたら、マサルの乗ったササニシキ号はひらりとその場を移動するではないか。
 その瞬間に大量の爆竹が飛んできて、その場に一人取り残されたボクは思わず叫び声を上げずにはいられなかった。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!」
 パンパンパンパンパンと絶え間なく破裂音が轟き、小さな爆発が起こる度にボクは鉄のハリセンで叩かれているような衝撃に襲われる。
 し、死ぬ、死ぬー。
「ひろし、大丈夫か」
 全ての爆発が過ぎ去った後、未だ地面にうつ伏せになったままピクピクしているボクに一期は抑揚の無い声を投げかける。
「うう、大丈夫じゃない……よ」
 それに一期、友達の危機にはもう少し慌ててもいいと思うよ……ボク。
 少し離れた場所に移動したマサルはまたしてもおじさんを挑発するかのように、こう大声で怒鳴る。
「きさま、よくもオレ様の下僕を殺ってくれたな!」
「黙れがきんちょ!」
「うううー、ボクは下僕じゃないー」
 田淵のおじさんはまた爆竹を取り出すとそれに火を点ける。そしてそれを投げつける前に、マサルの方も火薬仕込の矢を何本も立て続けにおじさん目がけて打ち放った。
 爆竹の破裂音、マサルの矢の爆裂音。
 矢が爆発するたびにおじさんは奇声を上げて倒れ、吹っ飛び、転げまわって朝の静かな公園はあっという間に戦場と化す。
 そして一方的に攻撃を喰らっているのは田淵のおじさんだけで、マサルはササニシキ号が華麗にかわし続けたおかげで全くの無傷のままなのであった。
「ここは危ない、とりあえず離れよう」
 お互いの武器が飛び道具でしかも火薬を使っているので、側にいるボクたちにも火の粉は当然のように降り注ぐ。っていうか、既にボクは直撃を喰らったんだけど。
 一期が半ば引きずるようにその場からボクを引っ張り出し、ののかちゃんがいる木陰まで後退した。
「ぎゃぁぁぁ! ぐぁぁぁぁ!」
「はーはははははは!」
 ああ、目をつむっていてもどっちがどっちのセリフを言っているのか分かってしまう自分が悲しい。
 当然のことながらものの数分で田淵のおじさんの爆竹は底をつき、その時のおじさんは十数本の矢が身体のいたる所から生え、赤インクで染め抜かれたその立ち姿は、まさに討ち取られる寸前の落ち武者そのものと言えた。
 だっておじさんの頭はてっ辺髪の毛も薄いし、見た目もそんな感じなんだもん。
「何だこれで終わりか、ハゲ」
「うう……む、は、はげ……ハゲだとおぅ!」
 爆発の余波で半分別世界に意識が飛んでいたおじさんは、マサルのその声で我に返ると口元をわなわなさせながら頭を掻きむしる。
「くそう、くそう、くそーうっ!」
 しかもあまりに強くガリガリとやったせいなのか、頭から離したその両手にはおじさんの抜け毛がごっそりと絡まっていた。
「あ……」
「何かいっぱい抜けちゃったみたいね」
「ハゲ更新……」
 既に傍観者と化しているボクたちがそう呟いているのが聞こえたのかどうかは分からないけれど、おじさんは全身をプルプルと震わせ、抜けた毛をもう一度頭の上に乗せてから叫ぶ。
「よくもワシの大事な髪の毛を抜きおったなぁぁぁぁぁ!」
 理不尽極まりない逆切れではあるけれど、何となくその悲痛さは分からないでもない。
 でもおじさん、一度抜けた髪の毛を頭に乗せたからってどうなるものでもないよ……。
「フンガーッ!」
 矢がいっぱい生えたジャージの上着を脱ぎ捨てると、おじさんは雄たけびを上げる。
 一体これから何が起こるのかハラハラしながら見ていると、おじさんはおもむろに身体の向きを変えて走り出した。
 公園の出口に向かってまっしぐらに。
「に、逃げた……?」
 おじさんは猛烈な勢いで公園から出て行くと、ぐるりと公園の周囲を半分回って自分の家に入ってゆく。
 そして玄関を乱暴に開けて家の中に入り、大量の荷物をその両腕に抱えてまたすぐに出てきたのであった。
 その抱えている物が何なのかよく見えなくて、ボクは今まで避難していた茂みから出てくるとマサルのすぐ横に並んでじいっと見やる。
 おじさんは庭越しに公園にいるボクらをじろりと睨んだけれど、再びこちらまでやってくる素振りは見られなかった。
 でもなんだろう、すごく嫌な予感がするんだけどボク。
 おじさんは抱えていたジュースの空き瓶を、五本ほど塀の合間に作られているアルミサッシの枠に手早くはめ込む。そしてその中に棒の様な物を入れたかと思うと、次々にライターで火を点けた。
「ふっ、家に逃げ帰るとは腰抜けが」
 マサルは勝ち誇った様子でそう言うと、ササニシキ号の頭を軽く叩いて向きを変えさせる。
 そしてその時だった、ボクの嫌な予感が的中したのだ。
「マサル、後ろ!」
 田淵家の庭から公園にいるボクらに向かって、一度に五本のロケット花火が真っ直ぐ飛んできたのである。
 それがロケット花火だと分かったのは、ヒューゥという独特の発射音が聞こえてきたからだ。
 それにしてもおじさん、ロケット花火は空に向かってうつもんであって、人に向けてやるもんじゃないよ。
 ああ、でも今はそんな事を冷静に考えている時じゃないー。
「わあぁぁぁぁぁ!」
 パーン、パンパンパンパーンと、あっという間にロケット花火は火薬の部分を破裂させて地面に落ちた。
 運の良いことにロケット花火はボクたちを逸れて後ろの方まですっ飛んで行ったので、ぶつかって直接の被害というものは無いようである。
「マサル大丈夫だった?」
 頭を抱えてしゃがみ込んでいたボクが立ち上がって振り返ると、何故かそこにはササニシキ号しかいなかった。
「あれ、マサル?」
「……ここだ」
 押し殺したような声が聞こえて視線を落とすと、ササニシキ号の巨体の向こう側に小さな身体が見え隠れしている。
 直接花火が当たることは無かったけれど、思わず避けようとしてなのか音に驚いたせいなのか、マサルはササニシキ号の背中から見事に落っこちてしまったのだ。
「ひゃーはははは、それ見たことか。これに懲りたらもう余計な真似するんじゃないぞ、くそガキ!」
 マサルが落ちたことを確認するとおじさんはそれがよっぽど嬉しかったのか、狂喜乱舞しながら自宅の中に戻って行く。
 でもおじさんが家の中に入ったということは、火薬の攻防戦は一応これで終わったのだろうか。
 ああ、良かった。
「大丈夫? どこか擦りむいたりしてない?」
 幼稚園児ならば普通ここで泣いてもおかしくない。
 そしてマサルは顔を俯かせたまま、小刻みに身体を震わせていた。
 もしかしてこいつでも泣くことがあるのかと内心驚きながら、ボクはマサルを立たせて服についた土を払ってやる。
「……マサル?」
 マサルは未だに顔を俯かせて肩を震わせていた。でも何か雰囲気がおかしいような。
「ふっ、ふふふふふふふ」
 突然湧き出たその不気味な笑い声に、ボクは思わずびくりと身体を揺らした。
「はーっはははははははは!」
「な、何?」
 ついには顔を上げ、腰に手を当てて高笑いをし出した幼稚園児にボクは真面目に恐怖の眼差しを向ける。
 そして声は笑っているのに、明らかにその幼い目元は笑ってないのだ。
「高城(たかしろ)、高城はいるか!」
「は、ここに控えております」
 マサルの声に応じて、どこからともなく大柄の黒スーツにサングラス姿の男の人が現れて駆け寄ってくる。
「この辺り一帯の道を封鎖しろ、邪魔者は入れるな。あと、アレも準備しておけ」
「マサルさま、まさか」
「口ごたえはゆるさん、早く行け」
「は、はい」
 アレって何、アレって。
 道を封鎖してまでやることって、一体何ですか?
 ついに人死にが出てしまうのか。
 そしたらボクは、やっぱりテレビで「少年A」として報道される運命は避けられないのか。
 何だかよく分からないけれど大変なことになりそうな雰囲気に、ボクは慌ててマサルに諭すように話しかけた。
「マサル、そう言えば今日は様子を見に来たんだったよね」
 そう、今日は本来、様子伺いが真の目的だったはずである。もうそれ以上のことは十分起きてしまった後だけれど。
「田淵のおじさんだって盆栽を大事にしたい一心で、皆に迷惑をかけるのが目的だったわけじゃないだろうし」
「そうだな、あのハゲはこの辺りの人間にとっては迷惑な存在なのだ。ふふふ」
「うっ、余計な事言っちゃった」
「しかし今はそんな事はどうでも良いのだ」
「は?」
「気に食わない奴は徹底的に叩く、オレ様を地に着かせた罪は万死にあたいする。はーっはっはっは!」
 ボクの声は届かない。というか、始めから一度も聞いてくれたためしもない。
「行け、ササニシキ号」
 ひらりと犬の背にまたがると、真っ直ぐ公園の中をマサルは田淵家に向かって進んで行く。
 公園と側道を隔てる低いフェンスの近くまでやってくると、田淵のおじさんの家はすぐ目の前である。マサルは既に誰もいなくなった田淵家の庭を一瞥すると、おもむろに背中の矢筒から一本の矢を取り出した。
「何だ、あれ?」
 マサルが番えたその矢は、今までの火薬入りのやつとは明らかに違っていた。
 矢の柄の所が普通より数倍太ければ、その先端に付いている黒い物体も大きい。そもそも、そんな矢が飛ぶのかどうかがまず疑問な所だったけれど。
 でもボクのそんな予想は見事に外れて、マサルの放った矢は田淵家の庭目指して放物線を描くようにして飛んでいった。
 そして驚いたことに、庭の上空でその矢が分裂する。
「さ、炸裂弾!」
 現代の弓矢はここまで進化しているのか。そしてそんな矢ですら飛ばしてしまうとは、さすがは人間国宝が作った弓。
 そうして五、六本に分かれた矢は庭に万遍なく等間隔に落下し、その瞬間、爆音と土煙、それに黒い煙も混じって辺り一面の景色を一変させた。
 さっきまでおじさんに対して使っていた矢とは明らかにその火薬の威力は段違いである。
「……あれ?」
 そして黒い煙のその下に、赤い火が見えるのはボクの気のせいだろうか。
 でも次の瞬間に鼻の奥まで物が炭化する強い臭いが張り付いて、ボクは叫ばずにはいられなかった。
「も、燃えてるー!」
 田淵家の庭に所狭しと置いてあった盆栽は、始めの爆砕で植木鉢は粉々に吹っ飛び、小さな世界から突然自由になった植木たちはあっという間に次々に火にまかれる。
「ふっ。問題の盆栽が無くなってしまえば、もう鳩をいじめる理由もあるまい」
 なんて満足げにマサルは言っているけれど、これって放火って言うんじゃないんですか。器物損壊って言うんじゃないんですか?
「うわああああ、やっぱりボクは少年Aの道まっしぐらだー!」
 青い顔をして頭を抱えるボクの視線の先で、爆音に驚いた田淵のおじさんが玄関から飛び出してきた。
 着替えの途中だったらしく、白いステテコとランニングシャツのままである。
 そして庭の惨状を見た途端におじさんは頭の血管が切れそうなほど大声で叫んだ。
「何じゃこりゃあっ!」
 毎日鳩を追い払ってまで大事に慈しんできた大切な盆栽が、今自分の目の前で盛大に燃やされているのだ。その衝撃はきっとものすごいのではないかとボクにも簡単に予想がつく。
 そして雄叫びを上げているおじさんの頭に、風に飛ばされた火の粉が無数に舞い降りた。
 頭頂部が薄くなって柔らかい毛になっていたそれは、いとも簡単にチリチリと小さな煙を上げながら燃え始めたのである。
「あつ、あつ、熱いっ!」
 一所懸命に両手で髪の毛を叩きつけ、おじさんは頭上の消火活動に躍起になった。庭で燃えさかる盆栽も気になるけれど、「それ以上に大切なのはこの髪なんだ」と言わんばかりに必死の形相で。
「ねえねえ、ちょっとやばいよマサル」 
 横を向くといつの間にか後ろの木陰にいた一期とののかちゃんも、フェンスのすぐ側までやって来て呆然とこの惨状を眺めていた。
 マサルは一人だけ落ち着き払ったまま、ポケットの中から小さな笛を取り出して口にくわえる。
 つんざく様な高い音が秋の空に鳴り響いた。
 するとやっぱりどこからともなく出てきた黒ずくめのスーツの男の人たちが、赤い消火器を持って田淵家を取り囲んだのである。
 その人数は総勢約二十人。本当に今までどこに隠れていたんだろう、おじさん達。
 もう一度マサルが笛を吹くと、その人たちは一斉に燃える盆栽に向かって消火器を噴射させた。
 辺り一面が薄ピンク色の粉で覆われて何も見えなくなる。
 ついでに庭の隅に立っていた田淵のおじさんも、煙幕の向こうに姿が見えなくなった。
 薄ピンクの向こうからゲフゲフ咳き込んだような声が聞こえるけれど、すぐには粉の煙幕は消失しない。
 少しずつ透明度を増す景色を凝視しながら、ボクは心臓がうるさく鳴る音を聞きながらその場に立ち尽くしていた。
 そして見えてきたその光景は、ボクが予想していたよりもすごいものである。
 全て粉々に砕け散って跡形もない、かつては庭一面に置かれていた盆栽の鉢の残骸。
 そこに植えられていた松やもみじ、他にも種類はいっぱいあってどれが何て言うのもなのかはボクにはよく分からないけれど、それがまた見事に薄ピンク色に装飾されてまるで全く違う何かのオブジェのように奇怪な姿で転がっている。
 全ての盆栽の鉢が無くなった田淵家の庭はとてもすっきりしてしまい、こんなに広かったのかとボクは更に驚いてしまった。
 そしてその時、この世の終わりのような雄叫びが聞こえてきてボクは思わず小さな声で「ひえっ」と漏らす。
「ぎゃあああああ、ワシの髪が、ワシの髪がーっ!」
 両頬を押さえて半分白眼になったおじさんは、そのまま口から白い泡を吹き出しながら後ろにひっくり返ってしまった。
 その途端にまたおじさんの周囲だけ、薄ピンクの粉がもうもうと舞い上がる。
 田淵のおじさんの髪の毛は薄くなっている頭頂部の大事な部分が焦げて、全部チリチリパーマになっていたのだ……。
「あれ、もうダメだよね。全部抜けちゃうのかな?」
「そのまま残しておいても変よね」
「チリチリ……」
「一期くん、とりあえず単語じゃなくて普通に会話しようよ」
「すまん」
「いや、ボクに謝られても困るけど」
「永島くんは寡黙な所がチャームポイントなのよね」
 ふふっと天使の笑顔でさらりと言ったののかちゃんを見て、ボクは目と口を大きく開いたまま固まった。
 ま、まさかののかちゃんは一期狙いー?
「ね、小柳くん?」
 そう可愛く首を傾げてののかちゃんに微笑まれたボクは、心の中で血の涙を流しながら小さく答える。
「うん。でも、ボクの名前は小玉なんだ……」
 所詮ボクの存在なんて、こんなものなのだろう。うん所詮ね……。
「これにて一件落着!」
 破壊しつくされた田淵家の庭の惨状、庭に泡を吹いて気絶しているおじさん。それをバックにして、マサルは胸を張って高らかにそう宣言した。
 終わった、確かに終わった。
 しかし一体何について「一件落着」したのかはボクにはよく分からない。
 おじさんの鳩いじめを阻止したということだろうか、近所一帯への騒音の原因である盆栽を全滅させたことなのだろうか。
 それとも、ひとえに「マサルを怒らせた報いを受けさせた」ということなのだろうか。
「一番最後のがクサイよな」
 未だに高らかに土佐犬の上で笑っている幼稚園児を横目に、ボクは疲れた顔で深く深く溜め息をついたのだった。
 こうして田淵のおじさんの壮絶な最期をもって、この戦いは終結した。

 *

 前もってマサルが近辺の道を封鎖したのが功を奏したのか、結局今回の件は警察にも消防署にも連絡されることは無かった。
 もしかしたら元々迷惑者の災難を、近所の人々は皆見てみぬ振りをすることで憂さを晴らしたのかもしれない。
 しかしあの田淵のおじさんはどう考えてもそのまま泣き寝入りするキャラでは無いし、何も騒動が起こらないのを不思議に思っていたところ、その詳細は以外にもうちのお母さんが例の井戸端会議で数日後に仕入れて来たのだった。
「あの田淵さん、最近大人しいって評判じゃない?」
「へえ、そうなんだ」
 微妙に裏返りそうな声を必死で抑えつつ、ボクは何でもないような顔で答える。
 お母さんは妙に神妙な表情になるとこう話を続けるのだった。
「あそこの盆栽が誰かに全部壊されちゃったみたいなんだけどね、誰がやったのか分からないそうなのよ。なんでも、大事な髪の毛が無くなっちゃったショックで田淵さんの記憶が飛んじゃったとか何とか」
「……は?」
「しかもあんなに偏屈で怖かった田淵さんがすっかり毒気抜かれて、今じゃただの隠居爺さんなんですって。驚きよねー」
 結局あの後ボクたちは田淵のおじさんを庭に放棄したまま帰ってしまったのだけれど、上手いことに燃えたのは庭の盆栽だけで、家屋には全く被害が無かったのである。
 それを見て驚いているボクに、マサルは「当たり前だ、オレ様のやることに抜かりは無い」なんて威張ってたけれど。
 盆栽とおじさんの髪の毛は燃えてしまったけど、家に被害が無かったんだから別に大したことではないのだろうか。ちょうど上手い具合におじさんの記憶も飛んで、性格まで変わっちゃったみたいだし。
「うう、何だかよく分からなくなってきた」
 常識って何、正義って何ですか。
 小さな悪魔に毒されて、とうとうボクまで正しい判断ができなくなってきているのかもしれなかった。


 そして今日も学校の掃除を終え、ボクと一期は何事も無かったかのようにのん気に下校の道を歩く。
 ホームルーム終了と共にののかちゃんは今日も飛び出していったから、きっとあの公園で鳩に餌付けをして「伝書鳩」への夢を叶えようと頑張っていることだろう。
 秋晴れの空。
 薄くなった白い雲を見ながら、時おり吹く涼しい風に揺れる草の擦れ合う音を聞きながらボクは思った。
 やっぱり日常は平和が一番だ。
「ん? でも結局マサルがやったことは結果的に良かったっていうこと?」
 思わず眉間に皺を寄せながら、ボクは「それだけは認めてはいけない」と自分の頭を抱える。
 そして今回痛感したこと。
 教訓、花火を人に向けてやってはいけません。
 直撃したら痛いんです、いや真面目に。 
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