ミスルトーの贈り物 1 
  「ミスルトーにはね、不思議な力があるの。女神フリッガの愛の素敵な奇跡の力が」
 波打つ柔らかな金の髪を愛おしそうに撫でる、細くたおやかな手。少女の母はいつもクリスマスが近付くたび、ミスルトー(宿り木)の話を繰り返し聞かせてくれた。
 床に置かれたヒーターから温かな風が運ばれてくるのを肌で感じながら、母の膝に頭を乗せた少女は少し眠そうに見上げる。
「パパとママはミスルトーのおかげで仲良くなったのよね」
「ええそうよ。ママのお家に生えていたミスルトーはとびきりの幸せを運ぶ力を持っていたわ。……いつかまた、見られる時が来るかしら」
「ママ?」
「パパとママも、イギリスという国で生まれたの。いつかエミーにも素敵な幸せがやって来ますように」
 ふわりと良い匂いがして、瞬間小さな頬に優しいキスが落とされる。
「でもエミー、奇跡というものは本当はね……」
 そう言いながら母親が視線を落とすと、膝の上に頭を乗せた娘は既に小さな寝息をたて始めていた。バラ色の頬に幸せそうな笑みを浮かべ、安心しきった様子で夢の国へ旅立ってしまったようである。
 微笑を浮かべながら母子の会話に耳を傾けていた父親が、ソファーから立ち上がると小さな身体を抱え上げる。極上の揺りかごの中でゆらゆらと大きな手の温もりを感じながらベッドに運ばれるのが、エミリアの一番好きな瞬間であった。
 それはとても優しい記憶。
 大好きだった父と母が突然の交通事故で他界してしまう前の、エミリア・ハートレイにとって何よりも幸福な時間であり、大切な記憶であった。
 七年の歳月を飛び越えて、今エミリアは広大な庭の一角に生えているナラの大木を見上げる。
 冬になって広葉樹の豊かな葉は全て落ち、裸の枯れ木にぽつんと五十センチほどの球形になった常緑樹の一群だけが残っていた。このナラの木に寄生しているミスルトー、セイヨウヤドリギである。
 母が記憶の中で語っていたその「奇跡を宿す木」を遥か頭上に眺め、少女は小さな溜め息をもらす。
「ママ、幸せな奇跡って一体どんなもの?」
 当然の如く返事はどこからも返ってこない。エミリアは一人苦笑すると、ナラの木の幹をそっと撫でた。
「エミー、そろそろ時間ですよ。庭仕事はそれまでにしておきませんか」
 通い家政婦のマルタが勝手口から顔を出して大声で呼びかけ、エミリアは微笑を浮かべて振り返る。黙ってもう一度ナラの木を一瞥すると、屋敷の中へと戻っていった。
 エミリア・ハートレイ、十三歳。
 広大なハートレイ屋敷の主人ガドフリー・ハートレイ男爵のたった一人の孫であり、今年の九月からパブリック・スクール(豊かな階級の子弟を全国規模で集めている私立中等学校)に通う少女である。


 十二月になるとイギリス各地にも控え目ではあるがクリスマス・イルミネーションが見られる様になり、温かな光が街路樹を彩って厚い雲に覆われた灰色の冬を慰める。
 ロンドンから電車で一時間ほどの距離にある古い街、ケンブリッジ。ケンブリッジ大学の名称は広く人々に知られてはいるが、それは街の中心を流れるケム側を挟むように集まった三十一のカレッジを総称したものである。学校を行き来するためケム川に架けられた橋、それが街名の由来だ。
 街と言ってもいたる所に緑地公園が点在し、暖かい時期になればリスやウサギ、ハリネズミなどの野生動物が姿を垣間見せる。中世から代々時の王達が造らせたゴシック様式のカレッジは同時に歴史的建造物でもあり、勉学を志す者だけでなく世界中から観光客もやって来る「学生の街」であった。
 石畳の街から少し郊外へ行くと、公園として見かけられた緑は自然のまま姿を見せるようになる。そんな景色の中にハートレイ邸は静かに佇んでいた。
 屋敷の主人の正式名称はザ・ライト・オノラブル・ガドフリー・ロード・ハートレイ・オブ・カーディフ。「カーディフという地に所領を持つガドフリー・ハートレイ男爵」という意味である。
 老齢の紳士の眉間には深い皺が刻み込まれ、感情の込められていない灰色の瞳はいつも見る者に冷たい印象を与えた。
 ここに住んでいるのはガドフリーとその孫のエミリアのみ。他にはこの大きな屋敷の環境を整える為に通いの家政婦二人と庭師が一人、後は清掃の業者が定期的に出入りしているだけである。
「エミリア」
 食事の手を休め、不意に名を呼んだガドフリーにエミリアはゆっくり顔を上げた。一瞬の後に「はい」と返事を返すと、祖父は孫を真っ直ぐ見据える。
「私は長期の仕事でフランスへ行かなくてはならなくなった」
 かつて自分が暮らしていた国の名前を耳にして、エミリアは目をしばたかせる。
「だからお前は春学期からは学校の寄宿舎に入りなさい。この際しっかりと勉学に励むのも良いだろう」
 イギリスには公立と私立に学校が大きく分かれ、私立の中にはパブリック・スクールというものも含まれる。パブリック・スクールは中世以来の伝統を持つ中等教育学校なのであるが、実際この学校に通うのは全体の八パーセントにも満たない少数だった。
 よって充実した勉学環境もさることながら、その費用の高さからも一種のステイタスとして見られる場合が多い。当然のように祖父はエミリアにパブリック・スクールに通うことを要求し、そして少女もそれに必死に応えた。
 しかし実を言えば六歳まで自由に育てられた彼女は上流階級のクラスメイト達とはあまりそりが合わず、今年の夏まで通っていた公立中学校へ戻れたらと密かに思っている。イギリスの公立中学校は十一歳から入学するが私立の学校は十三歳からが主流であり、そのずれた二年間をエミリアは公立中学校に通っていたのだ。
「お爺様、でしたら私も一緒にフランスに」
「始めから私立の小学校に入れるところをお前がどうしてもと言うから途中までは公立に通わせたのだ、今度は我が儘は許さん。それにお前に一緒に来られては私の仕事にも支障が出る」
「……すみません」
 眉一つ動かさず祖父にそう言い切られ、エミリアはわずかに肩を竦めた。
 ガドフリーは大学の顧問も務める名高い弁護士で、何人ものスタッフを抱えた事務所をケンブリッジとロンドン両方に構えている。しかし今回は旧友の依頼を受けて長期で渡仏し、大学は信頼の置ける部下にある程度任せることにしたらしい。
 その期間この屋敷は管理を委託した人間が時々手入れをする以外、使用人には暇が出されるということであった。
 それではエミリアがここから学校に通うことはできないし、休日に帰ってくることもできなくなる。もちろん公立の中学校に戻ることなど夢のまた夢であった。
「あの」
「何だ」
 灰色の瞳の視線を受けると少女の可憐な唇は一瞬動きを止め、しかしやがて小さく首を振りながら微笑の形に変わる。
 孫に異論が無い事を確認すると、ガドフリーは満足そうに頷いた。
「では新学期に間に合うよう、自分の荷物をまとめる準備をしておきなさい」
「はい」
 小さく頷きながら、エミリアは黙ってその蒼い瞳を伏せた。

 エミリアが六歳の時、幼い彼女を残して両親が突然に他界した。そして葬儀の間中泣き止まなかった少女の前に現れたのが、初めて見る祖父のガドフリーであった。
「ハートレイ家の跡継ぎはお前しかいない。事情によって出遅れてしまったがエミリア、お前は家名に恥じぬ淑女になるための努力をしなさい」
 ガドフリーの娘、すなわちエミリアの母は父との結婚を反対されて家を飛び出してフランスへ渡ったのだと、まだ屋敷に来たばかりの時に家政婦の立ち話で初めてエミリアは知らされた。
 それ故なのかどうなのか、ガドフリーの態度は初めて会った時から距離を感じさせるものだと思ったし、今でもそれは変わらない。しかし祖父は孫に対して声を荒げたり蔑んだりするわけではない。ただ低い声音で、「家のための要求」を突きつけるのみである。
 エミリアはその要求をいつも微笑を浮かべて受け入れてきた。かつて笑顔の絶えなかった両親たちの様に、いつか祖父も自分に笑顔を向けてくれる日が来ることを一筋に信じていたがゆえに。
 午後に再び庭に出ると、エミリアは花壇や庭木の状態を細かくチェックし始める。ガーデニングの盛んなイギリスに相応しく、ハートレイ邸の庭はなかなかに見事なものであった。
 周囲を取り囲む緑の生垣は寸分の狂いも無く刈り込まれ、長方形の敷石で造られた小路には裸木のバラたちがずらりと並ぶ。所々に生えている大きな木の種類はまちまちで、その中で一番大きなものがナラの木であった。今は全ての葉が落ち、枝に寄生しているミスルトーの緑だけが目立っているが。
 今は寂しい趣を呈しているこの庭園も、春になればすみれ色のエリンジュームや白いコスモス、六月中ごろには沿道の紅色のバラがそれは見事に咲き誇り、秋には秋でピンクのダリアや優しい水色のサルビアが色を添える。
 大きな庭木や生垣は通いの庭師の担当だが、小路沿いのバラやその他の色彩豊かな花たちは全てエミリアの手によるものであった。
 ふと、生垣の向こうにエミリアはよく見知った黒い頭が通り過ぎるのを視界の端に捉える。
「ディック」
 声が届いたのかその人物は生垣の一群を通り越し、鉄格子でできた庭の門をくぐって少女の前に姿を現した。
「何か用か、エミー」
 ディックはエミリアと同い年で今年で十三歳になる。発育が良いらしく身長が百七十センチを軽く越しており、年齢の割には落ち着いた雰囲気の黒髪の少年であった。
 彼はこの屋敷の隣にあるカーター家の一人息子で、エミリアの幼馴染でもある。今までずっと同じ学校に通っていたが、今年の秋に彼女が公立中学からパブリック・スクールに進学してからは殆ど顔も合わせないし話す機会も無くなっていた。
 知性をたたえた茶色の瞳が静かに金髪の幼馴染を見下ろし、少女は笑みを浮かべながらその視線を受け止める。
「あの、もし良かったら家でお茶でもしない?」
「やめとく」
 悪い人間ではないのだが、元来ディックは愛想が良い方では無い。表情の変化も乏しく、整った容姿の割には「何を考えているか分からない」と女生徒に敬遠されるタイプであった。
「そう、残念だわ」
 苦笑しつつエミリアは首を小さく傾ける。しかしディックは意外にも気難しいガドフリーのお気に入りであり、以前は屋敷に遊びに来ては祖父とチェスをしたものだった。
 そう言えばディックがチェスもしに来なくなったのはいつ頃からであろうか。そう思いつつエミリアが視線を戻した時には、ディックは既に庭の格子をくぐって出て行く所であった。全く取り付く島も無い。
「昔はいつも一緒にいたのにな」
 閉められた鉄の格子を眺めつつ、エミリアは側の石段に腰掛けてナラの木を眺める。
 彼女がここに来たばかりの頃は気難しいガドフリーに戸惑うばかりで、亡くなった両親を恋しがってはこの庭木の下で隠れるように泣いていた。
「誰だお前」
「エミーよ」
 七年前のあの日、いつも勝手に庭に入り込んで遊んでいたディックと出合ったのはそんな時である。
 しかし泣いている少女を前に幼いディックは特に慰めるということはせず、ただ隣に座り込んだだけ。始めは自分の身の上を嘆いて涙を流していたエミリアも、次第に隣に居座る少年の存在が気になって泣くどころではなくなってしまった。
「どうしてずっと私のことを見ているの?」
 興味深そうに自分を眺めている黒髪の少年に、エミリアはとうとうそう尋ねる。
「よくそれだけ涙がたくさん出て、目が壊れないなあと思って」
 それは思いもよらない返答だった。いたって生真面目な表情でそう答えるディックを見て、少女は思わず涙で濡れた頬に笑みを浮かべる。
「変なの」
「お前だって変だ」
 それ以来、二人は何をするにもいつも一緒だった。内気なエミリアをからかう近所の子供たちから守ってくれたし、夏のケム川でパント遊び(ボート乗り)をして、二人揃って川に落ちたこともある。
 エミリアが祖父に公立の小学校に入りたいと一世一代の我がままを押し通したのも、ひとえにディックと一緒の学校に通いたいがためであった。
 しかしここ一、二年はお互い同性の友達と一緒にいることが増えてゆき、共にいる時間は自然と減っていった。そして気付けば、いつの間にか交流そのものが途絶えてしまっていた。
 新たに入学した学校はもうすぐ秋学期を終え、冬休みに入る。新年が明けたらエミリアは問答無用で学校の寄宿舎に入ることになるのだろう。
 ふと脳裏をよぎった黒髪の長身の背中に、少女は思わず一人苦笑するのだった。


「エミー、久しぶり!」
 勢い良く飛びついて来た少女の長い髪が、エミリアの鼻腔にふわりと良い匂いを運んでくる。
「本当に久しぶり、ヴィヴィ」
 街中の緑地公園で待ち合わせていた相手を見やると、エミリアは満面の笑みを浮かべた。
 学生達が休み前のテストと課題を何とか潜り抜けると十二月ももう下旬になっていた。街のクリスマス色は更に深まり、どこか浮かれたような雰囲気を行き交う人々にも感じさせる。
「知ってる? アンティークのいい店ができたのよ、さあ行きましょ」
 ヴィヴィアン・フェルトンは栗色の長い髪を翻し、嬉しそうにエミリアの手を引っ張った。彼女はエミリアの小学生の頃からの友達であり、公立中学校時代のクラスメイトである。
 エミリアよりも十センチは背が高く、伸びやかな肢体に茶色の真っ直ぐな長い髪。空色の瞳にはいつも好奇心が溢れ、華やかな雰囲気を持った美少女であった。
 冬休みに入った少女達は久しぶりにショッピングに出かける約束をしていた。一週間後に迫ったクリスマスのプレゼントを購入するのが目的である。
「あの、本当に私パーティーに行ってもいいのかしら」
「何言ってるのよ、当たり前でしょう。みんな友達なんだから気を使うこと無いわよ」
 エミリアが言うのはヴィヴィアンの自宅でクリスマス・イブの昼間に開かれる、友人だけを集めたパーティーのことである。
 イギリスでの一般的なクリスマスの過ごし方は二十四日のイブではなく、翌日のクリスマスに昼過ぎから夜にかけての長いディナーを家族で過ごすというものだ。
 こんがり焼けたターキーを真ん中に大量のご馳走を昼から食べ始め、昼のデザートにはクリスマスプディング、夜のデザートにはドライフルーツとナッツのクリスマスケーキを食べる。
 深夜になってから人々はみな教会でのミサに参加し、遠方の家族と久しぶりに顔を合わせるのもよくみられる光景であった。そしてその前日に友達だけで集まって遊ぼうというのが今回の趣旨である。
「エミーに会いたいって言ってる男の子も多いのよ」 
「え?」
「ほら、エミーはいつもディックが一緒にいたから近づけなかったって」
「でも私いつも一緒にいたわけじゃ」
「あら? 言われてみればそうだったかしら。でも何かあなた達って一緒ってイメージが強いのよ、プライマリー(小学校)の頃から見てるし」
 確かに以前はよく一緒にいることも多かったが、中学に上がってしばらく経つとエミリアのすぐ横にいた寡黙な少年はいつの間にか距離を置くようになっていた。
 特に喧嘩をしたわけではない、嫌いになったわけでもない。しかし何となく感じる寂しさをエミリアは幼馴染に真正面からぶつけることもできず、そのままパブリック・スクールへ転校してしまったのだ。 
「エミーの髪は綺麗なブロンドだし、ふわふわしてまるで天使みたい。背だって私よりずっと小さくて、可愛らしい女の子って感じでしょ。自覚してないだろうけどあなたもてるのよ?」
 エミリアは驚いたようにその深い青の目を見開いた。自分よりずっと大人っぽくてモデルのようなヴィヴィアンに、そんな風に言われるとは思いもしなかったからだ。
「ディックねー。確かにテストもいつも首席だし見た目もそれなりなんだけど、あの無愛想はどうにかならないかしら。偶然目が合ったりすると、何だか自分が睨まれてるんじゃないかって思っちゃう時があるわ」
 美しい眉を寄せながらそう語る友人に、エミリアは間髪入れずに抗議した。
「そんなこと無いわ、ディックはとっても優しい人よ。確かに無愛想だし、目つきも悪いし、何考えてるか分からない時もあるけど……あああ、そうじゃなくて」
 困ったように口をパクパクさせる天使の容貌をした友人の肩を、ヴィヴィアンはポンポンと軽く叩く。
「エミー、あなたの気持ちは良く分かったわ。でもそれじゃフォローになってないわよ」
「ご、ごめんなさい」
「私に謝ってどうするのよ、全く相変わらずなんだから」
 笑いながらヴィヴィアンはエミリアの額を指で押す。そしてわずかに首を傾げるとこう尋ねるのであった。
「あなた達って付き合ってるんじゃなかったの?」
「そ、そんなんじゃないわ」
「そうなんだ、意外ねぇ」
「ヴィヴィ!」
 頬を真っ赤に染めて大慌てする純真な友達を見て、ヴィヴィアンは小さく笑う。
「ごめんごめん。さ、行こう」
 冷たい風に火照る頬を晒しながら、エミリアは黙って頷いた。 
 ケンブリッジの商店街には殆ど車が通るスペースは無く、歩行者と自転車しか見かけられない。それはカレッジの周辺に後から街が出来上がったせいで、道も狭くカレッジの隙間を縫うように店が立ち並んでいるせいであった。
 そしてクリスマスを控えた今、「クリスマスショッピング」という言葉が頻繁に使われるほどイギリス人はこのシーズンになるとプレゼントを買い漁る。今日も人出はかなりのもので、器用に人波を縫って歩くヴィヴィに連れられてエミリアはよたよたと歩いていた。
 通りがかったテディベア専門店の店先に巨大テディベアを見つけ、頭をひと撫でして挨拶を交わす。中央広場では市場が開かれて屋台がずらりと並び、更に奥へ進んで行くと古めかしい看板が釣り下がった店が見えた。それを指差すと、ヴィヴィは友人を振り返って微笑む。
「あの店なの」
「うん」
 登下校も車で送迎なのであまり出歩いたことの無いエミリアだったが、三年前からは自分の足でクリスマスプレゼントを買いにくるようになっていた。
 プレゼントを受け取り、礼を述べる時でさえガドフリーはいつもニコリともしない。それでも一所懸命心を込めて書いたクリスマスカードを一緒に受け取ってもらえるだけで、エミリアには嬉しかったのである。
「ヴィヴィじゃないか、お前も買い物かよ」
「あらエドガー、あなたでもプレゼントを家族に贈ったりするの?」
 店に入る手前で声をかけてきたのはヴィヴィアンのクラスメイトのエドガー・マーローで、すなわちエミリアとも同じクラスだった少年だ。
 蜂蜜色の髪に、顔に浮かんだ小さなそばかす。やや細めの茶色の目は、ディックとは対照的にまだ幼さが感じられた。しかし十三歳としては、ごく普通の風貌と言えるかもしれない。
 エドガーは一緒にいた他の二人の仲間を引き連れて真っ直ぐに近付いて来ると、お目当ての少女の隣にいる金髪の少女に目を留めた。
「エミー?」
 少年が一瞬見せたその顔はあまり好意的なものとは言えない。そしてエミリアは、かつての友達のそんな表情を見るのはこれが初めてでは無かった。
 ほんの一部の人間しか通わないパブリック・スクールに転校したエミリアと彼らの間には、微妙にギクシャクしてしまう透明な壁が構築されてしまっていた。どちらかと言えば、ヴィヴィアンのように全く意に介さず以前と態度に変化が見られない方が稀である。
「こりゃ驚いた、上流階級の奴らがこんな田舎で買い物かよ。金持ちはロンドンのハロッズで買い物じゃねえのかよ」 
 そう言いながら唾を路上に吐き捨てたエドガーの淀んだ視線を受け、エミリアは口元をきゅっと閉めながら赤面した。何か言い返さなければと思いつつ、言葉を継ぐ事ができない。
 そして代わりに噛み付いたのは隣にいたヴィヴィアンであった。
「エドガー、これ以上失礼なこと言ったら引っ叩くわよ!」
 水色の瞳を怒りで煌かせ、自分よりも背の低いエミリアを庇うように一歩進み出る。しかしクラスの中でもやんちゃな行動を取るグループのリーダー的存在のエドガーは、薄ら笑いを浮かべるとヴィヴィアンの細い手首をいきなり掴んだ。
「そんなに怒るなよ、ヴィヴィ。せっかく会えたんだ、俺たちと一緒に遊ぼうぜ」
「離してよ、ばかエドガー!」
 エドガーはクラスの中でもとびきりの美人であるヴィヴィアンを気に入っていた。ヴィヴィアンは快活で聡明、おまけにその美しい容姿で学校でも多数の男子生徒の憧れの的だったが、彼女のお眼鏡に適う人間はまだいないようで今だ特定のボーイフレンドはいない。
「あ、ちょっ」
 ヴィヴィアンがエドガーに腕を引っ張られてバランスを崩す。二、三歩よろめき、それを支えるようにエミリアが恐々ながらその間に入ろうとした。
「止めてエドガー、ヴィヴィは嫌がってるわ」
「お前は向こうに行ってろよ」
 取り巻きの一人に不意に突き飛ばされ、エミリアは足をもつれさせて石畳の上にしりもちをつく。
 それでも諦めず慌てて立ち上がり、止めようとしたその瞬間、エミリアの足元に取り巻きの一人が勢い良く転がった。何者かに突き飛ばされた様である。
「お前ら邪魔」
「ディック」
 エミリアが横を振り向くと、そこにいたのはリュックを背負って青いマウンテンバイクに乗ったディックであった。先ほど突き飛ばされた少年は、どうやら彼に自転車ごと背後から突っ込まれた様である。
 黒髪の少年はマウンテンバイクから降りると数歩歩みを進め、あっという間にヴィヴィアンの腕からエドガーの手を剥ぎ取るとギリギリと締め上げた。
「痛えな、離せよおい」
「離せって言ってるだろ!」
 一緒にいた男子生徒の一人がディックに掴みかかろうとし、それを紙一重で避けると足を引っ掛けて転ばせる。
「こんな人目のある往来で警察沙汰にでもなりたいのか、退学したくなければさっさと消えろ」
 真上から見下ろす濃い褐色の瞳の眼光が、一瞬でエドガーの口を黙らせた。
 ディックが手を離して押し出すと、弾かれたように少年達は思い思いに背を向ける。
「ちっ、クソヤローめ!」
 威勢良くそう吐き捨てたエドガーだったが、しかし彼は明らかにディックよりも体躯が貧弱だったし力も弱い。それにエドガーは先日も学校で問題を起こして注意を受けたばかりだったので、いつも首席を取り教師の信任が厚い優等生ディックとここで渡り合っても不利だと覚ったのだろう。
 そうして迷惑な少年達が姿を消すのを見届けると、ディックは一瞬だけ二人の少女を振り返り、再びマウンテンバイクにまたがってペダルに足をかける。
「待ってディック」
「何だエミー、用か」
 無表情のまま、先日会った時にもエミリアは少年にそう尋ねられた。そして何度もこの台詞が積み重なるほどに、「用が無ければ声をかけるな」と言われているような気がして少女の胸を重くする。
 顔に浮かべられた微笑が消えることは無かったが、彼女の口元の動きを鈍くするには十分であった。
「あ、あの……」
「助けてくれてありがとう、ディック」
 そうしてエミリアがためらっているうちに、ヴィヴィアンが自分の言いたかった言葉を代わりに言ってしまう。行き場を失った言葉は音を無くし、そのままエミリアの口は閉ざされてしまった。
「あなたもお買い物?」
「いや、ちょっと調べ物」
 そう言いながらディックは視線を後ろにやる。商店街の上に飛び出してみえるこげ茶色の三角屋根のタワーは、ケンブリッジ中央図書館の蔵書タワーであった。入り口は商店街のすぐ隣の道の中にひっそりと造られており、まさに大学の街ならではの立地である。
「じゃ、俺もう行くから」
 ディックはまともにエミリアを見ることすらせずに背を向けた。その態度があまりにも素っ気なく、エミリアはショックを受けると同時に自分が知らず幼馴染を怒らせてしまったのではないかと思った。
 しかしそれを確かめる間もなくマウンテンバイクに乗ったディックは人混みの中に消えて行く。小さく溜め息をついたエミリアに、珍しく呆けたような声をヴィヴィアンがかけたのはその時だった。
「どうしたの、ヴィヴィ?」
「あなた達は別に付き合ってるわけじゃ、無いのよね?」
 小さく呟いた友人の声に、内心首を傾げながらもエミリアは頷く。
「じゃあ私、彼のこと好きになってもいい?」
 咄嗟に声が出なかった。エミリアは蒼い目を見開いて隣の友人を見上げるだけで精一杯であった。
 未だ少年が消え去った雑踏を真っ直ぐに見つめながら、エミリアの横に立つ美しい友人は溜め息をもらす。明るい水色の瞳に浮かぶ光は今までに無く憂いを帯び、それが大人っぽい艶っぽさを醸し出していた。
 エミリアがそんなヴィヴィアンを見たのは、初めてのことだった。
「あ、あの」
 そしてまた、その後の言葉は続かない。
 ディックのことを誰かが好きになる。
 今までそんなことを一度も考えた事も無かった自分に驚き、衝撃を受けている自分自身に再度驚かずにはいられないエミリアがいた。


「それにしてもお前本当にフランスに行くのか、ガドフリー。すぐ隣の国なんだから定期的にここから通えば良いものを」
「お前には関係無い。そして用事も無いのに毎月はるばるロンドンから顔を出してくれなくて結構だ、クライド」
 クライド・ディケンズ伯爵は暖炉の側のソファーに腰掛け、紅茶の入ったカップを揺らしてみせる。
「ふふん? 私とお前とアラン、これだけ長い人生三人とも生き永らえた腐れ縁だ。大切な旧友にそんな態度はいただけないな」
 クライドは皺の寄った口元にニヤニヤと笑みを浮かべ、それを見たガドフリーは眉間に皺を寄せて黙り込む。
 ちょうどそこに挨拶にやって来たエミリアの姿を認めると、クライド老人は旧友とは正反対に満面の笑みを浮かべた。
「やあエミリア、また美しくなったようだね」
 柔らかな笑顔を浮かべながら少女は挨拶を交わし、クライドはソファーに腰掛けたままその細い手を取る。
 この老齢の伯爵は天性の商才と先祖から受け継いだ資産を有効活用して事業を起こし、リゾート施設開発を手がける大会社を育て上げた大資産家であった。しかしそれも去年社長業を引退し、今は会長として楽隠居をして暇を持て余す身である。
 以前から年に一、二度ほどハートレイ邸に訪れていた彼だが、暇になってからは毎月のようにやって来ては煩がる友人をものともせず、こうしてのんびりお茶をしてゆくのだった。
「ミスター・ハートレイ、秘書の方からお電話が入っております」
 続けて家政婦のマルタが部屋の入り口に顔を出し、ガドフリーはゆっくりとした動作で立ち上がる。近年右膝を悪くして杖を使うようになったが、未だ背筋はピンと伸び歩き方もさほどふらつきを見せないのはさすがといった所だろう。
 旧友がさっさと部屋から出て行ってしまったのを見届けると、クライドはふと窓の外に視線をやり微笑む。
「そうか、もうすぐクリスマスだから今は冬期休暇だったな。知っているかいエミー、この家の庭に生えているミスルトーは奇跡の力を持っているんだ」
「それ、ママから聞いたことがあります」
「そりゃ奇遇だな。私も昔、まだ小さかったマリアにこっそり教えてもらったんだ」
 驚いた顔をするエミリアを見て、クライドは片目を瞑った。 
 友達同士で開いたクリスマスパーティー。そこでエミリアの両親は出会い、母が自宅から持って行ったミスルトーがきっかけで二人は結ばれたと少女は聞いている。
「でも、そんな奇跡なんて……」
「エミー?」
 言葉を途中で切り苦笑するエミリアを下から真っ直ぐ見上げると、老齢の伯爵は優しく手を叩いた。
「人は誰しも悩むものだ。何か心につかえるものがあるのならば、時には気休めに何かをしてみるのも良いな」
「え?」
 クライドの皺の寄った大きな手からじんわりと温かさが伝わってくる。いつもと同じように笑っていたつもりなのに、晴れない心中を見透かされたような気がしてエミリアは頬をわずかに染めるのだった。

 後に自室に戻ってきたエミリアは、クライド老人の言葉が頭から離れないままぼうっと窓から庭を眺める。
『明日くじを持っていくから家に居てね、エミーには一番最初に引かせてあげるわ』
 それは先ほどヴィヴィアンからかかってきた電話。
 イギリスのクリスマスでは家族同士で贈るプレゼントの他に、「セレクトサンタ」という風習がよく行われていた。それぞれ参加者の名前を書いたくじを作り、引いた相手に自分がサンタとしてプレゼントを用意するのである。比較的安価の値段設定の中でプレゼントを用意し、当日まで誰が誰のサンタなのかは秘密であった。
 ヴィヴィアンはディックのことが好き。
 明日くじを持って訪れるであろう友人は、当然その後隣のカーター家にも寄るのだろう。そこで彼女はこれ以上無い極上の笑みを浮かべるに違いない。
「誰かが気にしだしてからやっと気付くだなんて、私ったらなんて間抜けなのかしら」
 溜め息と共にこぼれる言葉は、自分自身に向けられた落胆である。
 自分にとってディックはただの仲の良い幼馴染ではなかった。こんなにも大切な人だったのに、どうして今まで気付けなかったのかと。
 庭の中でひときわ緑の鮮やかな奇跡を宿すというミスルトーを眺めながら、クライドの「気休めに何かをしてみるのも良い」という言葉をエミリアは思い出す。
「贅沢は……言いません」
 自然と両手は組まれて祈る形になり、少女はそっと瞳を閉じた。
 自分は新年が明けたらもうここにはいられず、ディックとも会えなくなるのだろう。だからせめて最後の思い出に、今までの感謝の気持ちを込めてクリスマスプレゼントを渡したい。
 友達として堂々と渡せば問題は無いかもしれない。しかし度重なる幼馴染のつれない態度が、すっかりエミリアを臆病にさせていた。
 そしてパブリック・スクールに行ってもただ一人同じように接してくれる美しい友人を、表立って裏切るような行為はエミリアにはできない。
 偶然が巡って来てくれることを願う自分は卑怯だろうか。それでもエミリアは胸の中で祈らずにはいられない。
 ディックのセレクト・サンタをどうか私にして下さい、と。


「こんにちは、ディック!」
 溌剌とした声がカーター家の玄関口に響き渡る。小さな箱を小脇に抱えた髪の美しい少女を前に、ディックは黙って頷いたのみだった。
「ちょっと、それで挨拶のつもりなの?」
 溜まらないといったふうに噴出したヴィヴィアンは、笑いで肩を小さく震えさせながらも箱を差し出す。
「セレクト・サンタのくじよ、さっきエミーの家に一番に行って引いてもらってきたの。はいあなたも」 
「行くと返事をした覚えは無いんだが」
「まあディック。クラスの殆どの子が来るのよ、あなたも参加に決まってるじゃない」
 明るくそう言い切られてディックは軽く肩を竦める。そしてしばらく無言で宙を見やりながら考え込むと、ヴィヴィアンにこう尋ねた。
「クラスの殆どって、エドガー達も?」
「呼んでないわよ、あんな失礼なやつらなんて。大体そんなことしたらエミーが可哀想じゃないの」
 友人のことを思って思わず憤慨する少女を見やり、ディックの口元がほんの少しだけ柔らかい印象になる。少年は黙って箱の中に手を入れるとくじを一枚取り出した。
「私はまだ引いてないけれど、あなたのサンタになれたら嬉しいと思ってるわ。ディック」
 満面の笑みを向ける美少女に対し、ディックは「はあ」とはっきりしない返事を返すのみである。これが他の男子生徒なら飛び上がって喜ぶところなのだが、ヴィヴィアンは特に気にする様子も無く元気に挨拶をするとカーター家を後にしたのだった。
「綺麗なお嬢さんねえ、もしかしてディックのことが好きなのかしら」
 玄関から部屋に戻ろうとしていた息子を引き止めるように、少年の母、ヘレン・カーターが笑いかける。ディックと同じ黒髪は肩の下辺りでゆったりとカールされ、優しく微笑む姿はいかにも朗らかで息子とは正反対の印象を人に与える。彼女の夫は既に他界しており、現在その細腕で一人息子を育てている絵本作家であった。
「母さん、俺はまだ怒ってるんだからな」
「あらまあ、いいお話なのに何が悪いのよ。希望通りにならなかったのはあなたの運が悪かったからでしょ」
 にこやかにそう切り返され、ディックは大きな溜め息を一つつくと頭を小さく振る。一見優しげに見えるこの母は案外肝が据わっており、息子の彼が何を言おうと簡単には陥落しないのだった。
「もういい」
 そう言いながら二階への階段を上り始めると、階下からヘレンの声が背中に投げかれられる。
「最近エミリアはめっきりこの家に遊びに来なくなっちゃったわね、あなた何かしたの?」
「何もしてない」
 わずかに苛立たしげにそう答え、ディックは自室に入ってドアを閉める。
 何もしてないんじゃなく、何もできないのか。
 思わず心の中でそう呟き、右手に持っていたくじを見ることもせず机の上に放り投げた。窓辺に歩み寄り、隣家の庭を黙って見下ろす。昨夜雪が降ったせいで眼下に見える景色は薄っすらと白い化粧が施されていた。
 そしてその中でせっせと庭で土いじりをしている金髪の小さな頭が見えると、ディックは小さな笑みを漏らす。
 専属の庭師が定期的に通っているのにも関わらず、ハートレイ家の令嬢は自ら泥だらけになってバラや他の花たちへの世話をしていた。それは彼女があの屋敷にやって来て一年後くらいから始まり、年を追うごとにその手法は本格的になっている。
「何もこんな雪の中でやらなくても良いだろうに」
 さすがに今は雪は降っていないが、イギリスの冬は殆ど晴れ間を見ることが無い。曇り空に濃い霧、冷たい風が身体を容赦なく凍えさせ、人々は春がやって来るまでこの不毛の時期をじっと耐えるのだ。
 しかしそんな寒い中エミリアはその小さな身体で土に肥料を混ぜて土壌を作り、バラの剪定をする。バラは冬の十二月に枝が伸びてくるので一本一本長さを調節してやる必要があるのだが、そんなことは庭師に全部やらせてしまえば良いことだろうと少年は半ば呆れていた。
 数年前、ディックは小さな手を泥だらけにして一所懸命頑張るエミリアに尋ねたことがあった。どうしてそこまでして花の世話をするのかと。
 するとエミリアは濃紺の瞳を輝かせながらこう答えたものである。
「いつもお仕事でお疲れのお爺様に、少しでも綺麗なものを見せてあげようと思って。ほら、綺麗な花を見ると心が和むでしょう?」
 ちょうどその時は初夏であり、ハートレイ家の庭園では深紅のバラが小路に沿って一斉に咲き誇っていた。その鮮やかな紅を指し示し、エミリアは真っ青な空の下で天使のようにそう微笑んだのである。
 ディックは自分の幼馴染が祖父と上手く関係を築くことができないことを知っていた。何故か自分はそのガドフリーとは馬が合い、幼少の頃からお互い仏頂面をつき合わせてチェスを教えてもらったりしていたので、そんな健気な姿を見ると謂れの無い罪悪感を感じてしまったものである。
「ガド、どうしてもっとエミーに優しくしてやらない」
 子供ならではの無遠慮さでガドフリーに何度となく言ってみたことはあったが、無言のまま手に持った杖で頭を小突かれるか「早く駒を動かさんか」とチェスの一手をせかされただけであった。
「それにしてもあいつ、エドガー」
 靴を履いたままベッドに倒れ込み、ディックは部屋の天井をしばし眺める。興味も無くてクラスメイトの名前すらしっかり覚えていなかったが、あの一件以来少年の頭にエドガーたちだけは強烈に刻み込まれていた。
 あのそばかすのチビ、エミーにあんなことをするだなんて。俺があの場にちょうど居合わせなかったらどうなっていたことか。
 一見冷静に対処していたように見えたディックであるが、その実は理性が吹き飛ぶ寸前であった。エミリアを突き飛ばした人間目がけ、思わず自転車ごとタックルを仕掛けてしまう程に。
 それにしてもこの一年間、これだけ我慢して努力してきたというのに今の自分の間抜けな現状はどうだろう。
「くそ、ガドにやられた」
 そう小さく漏らすと、ディックはベッドの上でごろりと寝返りをうって布団に顔を埋もれさせた。

 一般的な家庭家屋と比べてもややこじんまりした印象のカーター家は、それでも二人きりで住むには広すぎる。ここは大学の助教授であった一家の大黒柱フレデリック・カーターが四年前に亡くなった後も妻のヘレン、一人息子のディックだけで守ってきた大切な我が家だ。
 夕食の羊肉シチューを大量に黙々と食べ続ける育ち盛りの息子を、ヘレンはいかにも楽しそうに眺めていた。
「これだけ勢い良く食べてくれると、作った方も見てて気持ち良いわね」
「見てても何も出ないけど」
「もう、そういう素っ気ないところはお父さんにそっくりなんだから」
 少し拗ねたように言うヘレンの容姿は年齢よりもずっと若く見える。未亡人の彼女には今まで何人かの紳士からお声がかりはあったらしいのだが、ヘレンはその全てを朗らかな笑顔でかわしているらしいというのがもっぱらの噂だ。
 ディックの父親が生前勤務していた所と、ガドフリーが顧問弁護士をしている大学は別である。しかし人付き合いの良くないガドフリーにしては珍しく、後からこの街にやって来た実直で頭の回転も早い隣人に興味を持ったようだった。
 四年前に突然の事故でフレデリックが亡くなると、悪いことは重なるもので研究費用の不正な使い込みが発覚した。それがこともあろうに反論できないフレデリック一人に責任を押し付けようという動きがあったのである。
 カーター母子は家族を失った途端に社会の批判の矢面に立たされたが、あわやという所にガドフリーが弁護を買って出て事なきを得た。ディックは当時九歳でしかなかったが、あの時ほど自分の無力さを痛感したことは無い。
「まだ春まで長いけれど、早くお隣のお花が見たいわねえ」
 食後のコーヒーの芳香を楽しみながら、ヘレンは息子に微笑む。
 冤罪の危機はガドフリーのおかげで脱する事はできたが、当時夫を亡くした彼女の落ち込みようはそれは酷いものだった。失語症に陥り、食事もろくに喉を通らなくなった。そして自分が悲しむどころでは無くなった少年の目の前に第二の救世主として現れたのが、何とエミリアだったのである。
 エミリアは自分の育てた花を毎日ヘレンに届けに来ては他愛も無い話をしていった。一人で話し、一人で笑い、そして最後にヘレンの手を取ってこう言うのだ。
「私はヘレンおば様が大好きです、だからまた明日お話しましょう。私は必ず来ますから」
 へレンが一言も言葉を返さないままひと月が過ぎ、そしてふた月目に入った頃にはいつの間にか母の頬には笑顔が戻り、会話もできるようになっていた。
 少年はまるで魔法でも見ている気分だった。幼馴染の少女はこんなにすごい奇跡の力を持っているのかと、驚嘆せずにはいられなかったのである。
 元々花が大好きなヘレンは、それ以来エミリアの育てる花のファンになってしまった。毎年春から秋にかけて咲き乱れる様々な花を眺めては、仕事である絵本描きの原動力にしている節がみられる。
「エミーは春学期から寄宿舎だから、あの庭がどうなるか分からないだろ」
「ああそうだったわ、残念。ハートレイさんもねえ、わざわざフランスまで行って仕事することなんて無いのに」
 そう眉根を寄せた母であったが、突然両手を小さく叩き合わせると顔を上げて息子を見る。
「そうだわ、うちから通えばいいのよ」
「誰が?」
「エミリアに決まってるじゃない」
「エミーがここで暮らすわけ無いだろ。それにあいつの学校は車で送迎しても一時間以上かかるんだ、毎日電車で通うなんて無理だよ」
「そうなの? はあ、残念」
 最後に残ったパンの欠片を口に押し込み、ガス入りミネラルウォーターをぐいと飲み込むとディックは立ち上がる。
「あなたも春学期からの準備をしておきなさいね」
「分かってる」
 短く答えると、ディックは黙ってそのまま自室へ戻っていった。



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