ミスルトーの贈り物 2 
 
「あらエミー、これからパーティーですか?」
「ええマルタ。夕方前には帰るわね」
「楽しんできてくださいね」
 大きな洗濯籠にシーツを詰め込み、忙しそうに動き回る家政婦のマルタはまだ三十を過ぎたばかりのスペイン人女性である。屋敷の家事を週の五日は彼女が受け持ち、残り二日をもう一人の通い家政婦のダイアンが受け持っていた。こちらはかなり年配のイギリス女性だ。
 マルタはエミリアが抱えていた小さな包みに目を止めると首を傾げる。
「何です、それ」
「ミスルトーよ。ヴィヴィが買い忘れてしまったって言ってたから持って行こうと思って」
「ああ、こちらではよく見かけますね。スペインではツリーもあまり飾りませんから色々と興味深いです」
 屈託の無い笑顔を向けたマルタはイギリス人の男性と結婚して二年目になる。この屋敷に来てまだ一年足らずだが、くるくるとよく働くので気難しいガドフリーも特に文句をつける様子は見られなかった。
「マルタはお爺様がフランスに行かれた後はどうするの?」
 新年が明けてしばらくすれば、この屋敷の使用人は一様に暇が出されることになっている。せっかく仲良くできる家政婦と出会えたのに、エミリアはそれがとても残念なことに思えた。
「ミスター・ハートレイが次のお勤め先を紹介してくれましたから。それに実は、いつか皆さんがお屋敷に戻ってこられたら優先して雇っていただける約束も取り付けてるんですよ」
 悪戯っぽく微笑むと、マルタはそのまま洗濯籠を抱えて廊下の向こうに姿を消した。
「屋敷に……戻ってきたら」
 それは一体いつになるのだろう。一年後か、五年後にパブリック・スクールを卒業した後になるのか。自然、紙に包んだミスルトーを持つエミリアの手に力がこもる。
 ガドフリーは誰に対しても取っ付きにくい人柄であるが、クライドもマルタも、そしてお隣のカーター家の人々でさえも上手く人間関係を構築しているように見えた。彼らが付き合い上手なのか、それとも未だ馴染みきれない自分が愚かなのか。
 そうしてまた一つ、小さな陰りが繊細な心に忍び込む。しかし友人に天使と称されるあどけない顔に、その影は欠片も浮かばない。浮かべないことが自分にとっても、皆にとっても良いことなのだと信じていたのだから。


 ヴィヴィアンとクラスメイトの少女が一つの細い筒の両端をそれぞれに引っ張る。
 小さな爆発音と共にボール紙の中から紙製の王冠が出てくると、ヴィヴィアンはすかさずそれを被ってジュースの入ったグラスを掲げた。
「メリークリスマス!」
 ヴィヴィアンの乾杯の音頭に、同じ部屋にいた三十名ほどのクラスメイト達は高らかに声を合わせる。
「メリークリスマス!」
 それがこのパーティーの開始の合図だった。
 その後はみな思い思いに好きな場所に移動し、あらかじめ予定の組まれたイベントが始まるまでは料理を食べるのも良し、友達とふざけ合うのも自由である。
 窓際に置かれた煌びやかで大きなクリスマスツリー、出入り口には手製のリースが飾られ、真ん中の大きなテーブルには大皿がずらりと並ぶ。
 その上に乗せられているのはローストビーフをメインにして、付け合せの芽キャベツ、ニンジン、バースニップ(白いニンジンのような野菜)などオーブンで焼かれた冬野菜たち。
 それを取り囲むように、スナック菓子などのジャンクフードとドライフルーツで作られた甘い甘いケーキたちが所狭しと並べられていた。ややこちらの方が占拠している面積が多いのは、世代的に甘い物好きな人間が多いせいなのかもしれない。
 ヴィヴィアンの父親は小さいながらも会社経営を手がける人物であり、比較的広い空間を提供し、会費制とはいえ沢山の料理を用意できたのはそんな理由からである。
「エミー、はいクラッカー」
 先ほど自分も引っ張ったのと同じ筒をエミリアに手渡し、彼女がその端を持った途端にヴィヴィアンは自分もそれを反対に引っ張る。
 イギリスのクラッカーは一般的な円錐形のものとは違い、円柱形になっている棒状のものを二人で引っ張り合う仕組みになっていた。中身はメーカーによって様々だが、紙製の帽子や小さな文房具、なぞなぞの書かれた紙などが入っていることが多い。
 エミリアの手元でパンと軽快な音が鳴り、中から出てきたのは小さな紙切れだった。ヴィヴィアンはすかさずそれを拾い上げると読み上げる。
「何々、気の利いたジョークを一つ今から言いなさい?」
「え、そんなこと言われても」
 思い切り困ったような顔をするエミリアを見て、ヴィヴィアンは快活に笑った。
「うーん、エミーのキャラじゃないわよねぇ。じゃあマイク、代わりにあなたが言ってちょうだい!」
 たまたま彼女の視界に入ってしまった不運なマイク少年は、その間髪入れずの切り回しに口に入れたサンドイッチを喉に詰まらせる。
 その途端に室内にはどっと笑いが生じ、真っ赤な顔で咳き込むマイクに「早くジョークをやれ」と周囲からの野次が飛んだ。
「ごめんね、ヴィヴィ」
「いえいえ。私が無理矢理引かせたんだし、ミスルトーを持ってきてくれたお礼よ」
 片目をつむりながらそう笑うと、ヴィヴィアンは部屋の入り口の上に飾られているリースの方を見やる。そこにはエミリアが自宅から持ってきたミスルトーが、白い小さな実をたわわに実らせてぶら下がっていた。
「やっぱりパーティーにはこれが無いと盛り上がらないもの」
 ミスルトーは他の落葉樹が全て葉を落としてしまう冬の間でも、鮮やかな緑を保つ常緑樹である。しかもそれは地に根を張るのではなく、他の大きな木に寄生して成長をする。
 その不思議な生態と生命力からヨーロッパでは古代から不滅や豊穣のシンボルとして神聖視する風習があり、特にイギリスとフランスではクリスマスの飾りとして欠かせない存在となっていた。
「そうね」
 少女達はお互いに微笑むと、手に持ったグラスを軽く合わせて透き通った音を鳴らせる。ジュースで喉を潤してからエミリアは改めて友人の立ち姿を眺め、小さく溜め息をつくのだった。
 ワインレッドのノースリーブワンピースに、襟元に巻かれた細い毛皮のストール姿。まだ十三歳なのにパンプスを履いてもおかしく見えないのは、やはり根本的にヴィヴィアンの雰囲気が大人っぽいからなのだろう。
 艶やかな栗色の長髪は室内の照明を反射して煌き、それはまるで上質の絹糸を思わせる。ふにゃふにゃしているだけの自分のブロンドとはなんと違うことか、とエミリアは内心落ち込まずにはいられなかった。
「ヴィヴィは大人っぽくて羨ましいわ」
「あら、私だってそういう白くてふわふわした服着れなくて困ってるのよ。私達ったらお互いに羨ましがってるのかしら」
 そう言いながらヴィヴィアンは、自分が被っていた紙製の王冠を友人の頭の上に乗せる。可愛いと微笑む美少女を眺めながら、それでもエミリアは「でも」と思った。
 でも、自分の方がより彼女に対して羨ましいと思うところがたくさんあるはずだと。
 明るく快活な性格、何事にも物怖じしないそのシャンとした大人びた立ち姿。何よりも自分の気持ちを素直に表現できる真っ直ぐさは、ヴィヴィアンの一番の美徳である。
 その全てが、いつも周囲のことばかり気にしてしまうエミリアにはとても眩しく思えるものなのだった。
 ヴィヴィアンは不意に、エミリアが片手に持っている小さな白い紙袋に視線を止める。
「それは?」
「え、あ、あの」
「ああ、セレクト・サンタのプレゼントね。それ一番最後だから他の場所に置いておくといいわよ、邪魔でしょう」
「う、うん」
 ややすっきりしない返事をしながら、エミリアは紙袋を自分の後ろにある椅子の上に置く。
「ああ、そう言えば私ディックのセレクト・サンタにはなれなかったのよねえ、残念。そうだ、ねえエミー。今更なんだけど」
 気遣うような視線を向け、ヴィヴィアンはエミリアを覗き込む。
「あなたディックと付き合ってないとは言ってたけど、もしかして彼のことが好きだったり……する? そうしたら私、エミーに随分酷いことをしてしまったんじゃないかって心配になって」
 本来ヴィヴィアンは機転のきくタイプではあるが、色恋沙汰には疎いところがある。何でもはっきり言うことがモットーの彼女は、周囲の人間もまた思ったことを何でも言ってくれるものだと信じて疑わないし、実際そうしてもらわないと気付かないことが多くて困るのだ。
 エミリアはそんなヴィヴィアンの性格のことはよく分かっている。後になってエミリアの気持ちの可能性に気付き、こうして尋ねてくるのは彼女なりの誠意の表れなのだと。
 そしてそれを理解した上で、少女はやはり笑顔を浮かべた。
「そんなこと無いわ。何もないの、本当に」
 自分がディックのことを好きだということは誰も知らない。エミリア自身すら、最近まで気付かなかったのだから当たり前のことかもしれないが。
 そしてエミリアは新年が明ければ、ずっと遠くにある寄宿舎住まいとなる。屋敷も無人となり、いつ帰ってこられるのか見当もつかない。
 自分はどうやら彼のことを怒らしてしまっているようだし、今更どうするまでも無くこの想いは胸にしまっておくべきなのだと思った。
 ここで正直にこの大切な友人に話したところで何の解決にもならず、その上彼女を余計に苦しめるだけなのだと思った。
「本当に?」
 念を押すヴィヴィアンに、エミリアは黙ったまま頷く。するとヴィヴィアンは空色の瞳を晴れやかに輝かせ、ブロンドの親友に抱きつく。
「良かった、本当はエミーがどこかで泣いていたんじゃないかって心配だったの」
「……うん」
 そっとヴィヴィアンの背中に手を回し、エミリアは小さな声でそう相槌を打った。

 様々な会話が飛び交いざわつく会場内で、一人壁際の椅子に座ってその光景を眺めている少年がいた。先ほどまでは数少ない友人の内の一人が隣にいたのだが、女子生徒のご指名を受けて連れて行かれてしまい、一人取り残されてしまったのである。
 しかし元々クラスの中では浮いた存在でそんなことはいつものことだし、本人も気に留めてはいない。成績はいつも首席で、身体も大きく、そして無愛想。それがクラスメイト達のディックに対する認識である。
 最近学校でも一番の美人と評判のヴィヴィアン・フェルトンが彼のことをお気に入りだという噂もあったが、明るく話しかける彼女に相変わらずな仏頂面で対応をする様は、筋金入りの朴念仁だと周囲に囁かれていた。
 そしてディックの視線はさっきから金髪の少女に向けて注がれている。あまり凝視するのもいけないと思い、やや視線を逸らせながらの観察であるが。
 パーティー主催者のヴィヴィアンが他の生徒に呼ばれてエミリアの側を離れると、彼はその長身を起こして立ち上がる。
 残された金髪の少女から少し離れた所で、そわそわしながら熱い視線を注ぐ男子生徒が約二名ほど。その顔ぶれが小学校の頃からエミリアの周囲をうろちょろしていた面々であることに気付き、ディックは両者の間に無言で壁のように立ち塞がった。
 特に睨み付けたわけではないが無言の圧力で小物を簡単に蹴散らすと、黒髪の少年はエミリアに歩み寄る。
 ヴィヴィアンも以前に言っていたが、知らず、天使の容貌と笑顔で他の男子生徒を陥落させていた少女は、しかし気付く前にその全ての相手を専属のガードマンによって処理されていたというわけであった。
「エミー」
 思いもかけず幼馴染の少年の方から声を掛けてきたので、エミリアは驚いて思わず身体をびくりとさせる。
 濃紺の大きな瞳が、見開かれたまま少年を凝視した。
 白いレースをふんだんに使った膝丈のドレス。その胸元を縁取っていた白いボアが小刻みに揺れるのは、本人の細い肩も一緒に揺れているからである。
 その激しく緊張する様子が、ディックの目には怯えた雪ウサギのように映った。自分がそこまで警戒されているのかと内心ショックを受けないまでも無かったが、元々感情が表に出にくいタイプなので表面上にはいつもの無表情のままである。
 この間街で会った時もろくに話もしなかったしな。
 実はあの時エミリアが感じた「ディックは怒っている」というものは、あながち間違ってもいなかった。しかしそれは目の前の少女に対してではなく、もっと別の人物に憤慨していたのであって、エミリアはとばっちりを受けたに過ぎない。
 あの時にも色々と語りたいことはあったのだが、口下手なディックはなかなか言葉を見繕うことができず、しかも自分が怒っていること自体を隠そうとして逆に最悪の結果を招いてしまったようであった。
「寄宿舎に入る準備はもう済んだのか」
 そうして今も、自分の言いたい事とは遥か彼方のところにある話題を思わず振ってしまい後悔をする。
「ディック知ってたの?」
「ガドから聞いた」
 久しくハートレイ邸に出入りする事が無くなったディックであるはずなのに、どうしてガドフリーと直接彼が接触を持ったのであろうか。そう首を捻るエミリアに、ディックは短く答える。
「たまたまエミーが居ない時だったんだろ」
「そう、そうかもしれないわね。でもお爺様とまたチェスをするようになったのね、ちょうど一年振りくらいかしら」
 少し緊張も解けてきたのか、柔らかい笑顔を浮かべたエミリアの言葉をディックはやや強い語調で訂正した。
「違う、去年の夏からだ」
 少女はその口調に何か尋ねたそうな表情を見せたものの、すぐに視線を落として苦笑する。自分のつっけんどんな喋り方がまたしてもエミリアを傷つけてしまったことに気付き、ディックは小さく溜め息をついた。
 そしてしばらくの沈黙が通り過ぎた後のことである。未だ頭を垂れたままのブロンドの上に乗っている紙製の王冠に気付き、ディックはわずかにその口元を緩める。
「可愛いな、これ」
 思いの外優しげな声音が頭上から降ってきて少女が顔を上げると、整ったディックの顔と間近で視線が合い、エミリアは一瞬で顔を耳まで真っ赤に染め上げた。
「あ、あのヴィヴィがさっき付けていったの」
「そうしていると、本当にお姫様みたいだ」
 以前のような少し柔らかい印象の表情を久しぶりに見せたディックを見て、エミリアは驚き、そして花のような笑顔を咲かせる。
「何だか、こんなふうにディックとお話しするのは久しぶりね」
「ごめんな」
「え、何が?」
 言葉を慎重に選びながら話そうとしていたその矢先、突然ディックの両脇を掴む者がいて少年は両隣を振り返った。
「いたいた、ディックお前ヴィヴィに気に入られるなんてさすがだよなあ」
「ほら、みんな待ってるぜ。特にあそこにいるお姫様が」
 クラスメイトの男子二人に交互にそう言われ、ディックは何のことだと顔をしかめる。そして指し示された方角に見えたものは、ヴィヴィアンが他の女子生徒に背中を押されながら部屋の出入り口、ミスルトーのぶら下げられたリースの下へ連れられてゆくところであった。
 ミスルトーは神聖な意味だけで飾られているだけではない。その枝の下に立つ乙女には、誰でもキスをしても良いという習慣が広く知られているのだ。
「ちょ、離せ」
「いやいや、照れるな照れるな」
 普段はクールなディックでも、さすがにこういう時は照れて反抗しているのだと周囲は笑顔を向ける。何せヴィヴィアンは学校の中でもとびきりの美少女なのだ。そして人望もある彼女を拒む男子生徒などいるはずが無いと、皆は単純に思い込んでいたのだから。
 引っ張られながらもディックは身体を捻ってエミリアを振り返る。
「ヴィヴィはいい子よ、私の自慢の友達なの」
 エミリアは笑っていた。いつものようにあどけない顔に微笑みを浮かべ、小首を傾げて。
 眉を顰めながら視線を逸らすと、ディックは荒々しく身体の向きを戻す。そしてふと思い直し、もう一度だけ振り返ってみた。
 そこには微笑があった。しかし与える印象は、先ほどとは大きく違ったが。
 いつかの夏の日、祖父に美しい花を見せてあげたいと花の中で微笑んだ天使の笑顔はいかにも力を無くし、そのまま地上に失墜していきそうな寂しさをたたえていた。まるで秋を目前にしたバラの花のように、萎れて散る寸前の儚さを伴ないながら。
 驚いて目を見張るディックと思いがけず視線が合ってしまったエミリアは狼狽を見せ、慌てて椅子の上に置いてあった小さな紙袋を手に取ってくるりと背を向ける。
「私、お爺様のフランス行きのお手伝いもしたいし今日はこれで帰るわ」
 聞こえるかどうかの小さな声でそう呟くと、エミリアはそのまま駆け出した。
「エミリア、待て」
 ディックの声は届かなかった。
 白いドレスの小さな背中はあっという間に見えなくなり、ディックは黙ったまま眉根をしかめる。
 何て顔をするんだ、エミリアのやつ。
 そう心のうちで吐き捨てながら、握ったこぶしに力がこもった。


 ごうごうと音を立てながら温風を吐き出す大きなヒーター。すぐ近くの床に敷かれたふかふかの絨毯に大きなクッション。
 側のソファーには父が微笑を浮かべながらリラックスした様子で深く腰掛け、母はエミリアを抱っこして床の上のクッションに腰を下ろす。
 こじんまりした郊外のアパルトマンの一室。その小さな窓ガラスは細かい水滴が無数に付いて、外の雪景色と同じように真っ白になっていた。
「お友達のクリスマスパーティーでママは初めてパパと会ったの。もちろん、お家に生えてるミスルトーを持ってね」
 優しい旋律と共に、白い手がエミリアの柔らかな金髪をゆっくりと撫でてゆく。
「ミスルトーの下に立つ女の子にはキスをしても良いっていう言い伝えがあってね、パパったらいきなり初対面のママにキスをしたのよ」
「おいおい、それじゃ俺が襲ったみたいに聞こえるじゃないか」
「あら、私はその時それくらい衝撃的だったわ。思わずあなたの頬を殴ってしまうくらいに」
 夫に笑顔を向けながらそう語るマリアは、当時パブリック・スクールに通う名門ハートレイ家のご令嬢。一方夫であるコンラッド・ブライトンはその年に大学に入学したばかりの、一般家庭に育った真っ直ぐな気性の青年だった。
「でも、あなたを一目見たときから私は惹かれていたわ」
「なら叩かなくても良かったのに」
 苦笑しながらコンラッドは立ち上がり、妻に歩み寄ると白い頬に優しくキスをする。
「俺も一目見た時から君のことが好きだった。だからマリアが一人でミスルトーの下に立つのをずっと待っていたんだ」
「まあ」
 微笑みあう両親を見上げながら、小さなエミリアはいつか自分にも父のようなステキな王子様が現れてくれる事を信じて疑わなかった。
 母が繰り返し語った「ミスルトーが運ぶ幸せの奇跡」は、必ずあると思っていた。
「でもそんなのはまやかしだわ、そんな奇跡があるわけ無いじゃない」
 涙で滲む視界の中で、エミリアは必死に自分の感情の昂ぶりを抑え込む。目蓋を閉じると両の目じりから一筋ずつ透明な涙が流れ落ち、床の絨毯に小さな染みを作った。
 本当はほんの少しだけ、母と同じことをすることで何か起きるのではないかと期待していた。
 祖父の友人の優しい言葉も、突然以前のように優しく話しかけてくれた幼馴染の態度も、希望にすがりたいと思う少女に「もしかしたら」と思わせるには十分な理由であった。
 しかし実際はどうだ。親友に何も言うこともできず、周囲にもてはやされる二人を直視することすらできずに逃げ帰ってきただけである。何と情けないことであろう。
「これ、無駄になっちゃった」
 未だその手に握られていた小さな紙袋を出窓に置くと、エミリアは小さな溜め息を付く。
 イギリスの冬は昼が短い。午前九時に昇った太陽が十五時には沈んでしまうため、十六時半頃にはすっかり夜になってしまう。そして今は、もうすぐその日没が近付く時間であった。
 薄暗い空を窓から眺めながら、それでもエミリアの涙は止まらない。しかしそれも今だけのこと。やがて寄宿舎に入り、学校という枠の中に納まってしまえばきっといつか忘れてしまう痛みなのだと自分自身に唱える。
 小さな手で顔を覆い、一つ大きな深呼吸をした。無理矢理に涙を止め、心の震えを静める。火照った顔を冷やそうとして出窓を開けると、そこに置いてあった紙袋に肘をぶつけて窓の外に落としてしまった。
 慌てて下を覗き込んだが、既に日が暮れ始めている庭は薄暗くてここからでは良く見えない。
「どうせあれはいらないものだし」
 一度はそう呟いたものの、反射的に「でも」と心の中ですぐに少女は続きを叫んでいた。
 考えるより前に身体が動いていた。慌ててドアを開け、急いで階段を駆け下りる。
 玄関の大きな木製のドアを潜り抜けていつもの庭に立つと、エミリアは暮れなずむ木立と芝生に囲まれた空間を見やった。
 落とした紙袋をすぐに見つけられると思っていたのだが、それが意外にも視界が悪いためかなかなか見つけることができない。
「どこに行っちゃったの?」
 贈る宛てのないプレゼントの行方を探るために、エミリアは木の後ろ、生垣の中、草むらの間を必死に探し続け、その白くて細い指を傷だらけにしながら一人焦燥感に駆られた。
 いつも厚い雲に覆われたこの時期、イギリスは短い間隔で通り雨が降ることがある。ぼやぼやしていたら完全に視界は見えなくなり、明日見つける頃にはすっかり雨に打たれてしまう可能性が高いのだ。
「あ、あった」
 しかし目的の物は地面の上ではなく、まだ若木の桜の木の枝に引っ掛かっていた。
 それを下から眺めて少女は落胆する。同級生の中でも比較的背の低いエミリアでは、どんなに手を伸ばしたところでそこに届くはずも無いからだ。
 それでも幹の出っ張りに足を引っ掛け、ほんの少し近付いた紙袋に一生懸命手を伸ばす。そして指先が触れたと思った、その時だった。
 神経を伸ばした手先に集中していたせいか足元のバランスを崩し、途端に少女は地面に落下してしまったのである。
 凍った地面に、身体を思い切りぶつけると覚悟した。
 しかし思いがけずその身体を誰かに受け止められた事に気付き、エミリアは瞑ったその目をそっと開く。
「全く、何やってるんだ。危ないだろ」
「え?」
 静かな光を湛えた褐色の瞳が彼女を見下ろしていた。そして自分の背中がすっぽりとディックの大きな胸の中に納まってしまっていることに気付くと、エミリアは慌ててもがいて立ち上がる。
「ご、ごめんなさい」
「いや、別に。……あれを取るのか?」
 控え目がちに頷く少女を見て、ディックはその長い手を桜の木に伸ばした。エミリアがあんなに頑張っても届かなかった枝から、紙袋はあっけなく回収されて目の前に差し出される。
「ありがとう」
 何とも情けないと言うか、恥ずかしいと言うか。どうしてこんなところを一番見られたくない人物に見られてしまったのだろうとエミリアは受け取りながらも目を伏せる。
 そして、何故ここに居るのか聞きたかった。もしかして自分を追いかけてきてくれたのかと期待しないでもなかったが、聞いた挙句に失望するのが恐ろしくて口にできない。
 そして結果、少女はそこに居たたまれなくなってしまった。逃げ出したのである。
「待て、エミー」
 すかさず手首を掴まれて、その逃亡はあっけなく失敗に終わった。エミリアは慌てて振り向くと、眉尻を下げながら視線を合わせないようにやや斜め下の芝生を見つめる。
「助けてくれて本当にありがとう。あの、もう寒いから私」
「じゃあ俺も中で話をする」
 思ってもみなかった切り返しに、エミリアは顔をわずかに蒼くさせた。
 会いたかった人物のはずなのに、何故か今は彼から逃げ出す事しか頭に無かった。何故と言われても、自分でもその理由がさっぱり分からないのだからどうしようもない。
 そして混乱した挙句、思わず叫んでしまったのである。
「いや、離して!」
 冷たい空気を拒絶のメゾソプラノが震わし、それを言った本人の小さな心も同時に身震いをした。
 辺りは既に日が落ちて暗くなり、ディックの表情はエミリアからはよく見えない。
 数瞬の重い沈黙の後、少年が無言のままに少女の腕を開放した。その大きなシルエットからは明らかに失望の雰囲気が漂っている。
 しかし今更取り繕ったところでどうにかなるわけではないのだ。再び青い瞳に涙をにじませながらエミリアが踵を返すと、その背中にディックの声が投げかけられる。
「どうしていつも逃げる。何故もっと自分に自信を持たない」
 ずきりと心臓が痛かった。
「俺は知ってる。お前がこの花たちをどれだけ一所懸命育てているか、そしてその花がどれだけ人の心を助けているのかも。何もできないと勝手に自分を卑下するのはやめろ」
 春のコスモス、夏のバラ、秋のダリアと色とりどりに姿を変貌させるハートレイ家の庭園。
 それを楽しみにしているのは何もディックの母親のヘレンだけではない。ハートレイ家の使用人、近隣に住む多くの住人、皆この素晴らしい花を見ては顔を自然と綻ばせているのだ。
 勉強や運動ができても誰一人笑わせることができない自分より、遥かにそれは素晴らしいことなのだとディックは本気でそう思っている。
 なのにどうしてこの少女はいつも自信なさ気に微笑んでいるのか、彼には不思議でたまらないのであった。
 そして今通っている学校の授業にだってエミリアは遅れをとってはいないはずだ。それは生来生真面目な彼女の、毎日積み重ねられる努力の賜物なのだとディックは言う。それも自分を誇る理由に成り得るものなのだと。
 振り向けないままその言葉を小さな背中で受け止め、エミリアは自分がそんなふうに見られていた事にとても驚いていた。
 驚き、嬉しく思い、それでも彼女はわずかに口をぱくぱくさせるだけで声を発することができない。
 何も言わず、わずかに肩を震わせたままの小さな背中はいかにも拒絶を表しているように映るものだ。ディックもその姿を眺めやるとそう感じたのか、深い溜め息を付いてから小さく頭を振った。
「悪かった。もう何も言わないし、近寄らないから」
 エミリアはこの時ほど、自分が物事をはっきり言えない性格であることを呪ったことは無い。
 後ろを向いたまま一生懸命情報を得ようとするその耳に、幼馴染の少年が去って行くその足音が聞こえた。
 一歩、また一歩とその音は確実に遠ざかって行く。
 少しくらい歩みを緩めたっていいのに。もっと歩幅を小さくしてもいいのに。自分勝手な思いだけがぐるぐると少女の頭の中を駆け巡り、自己嫌悪に陥らせた。
 そして庭の出入り口である格子の扉を動かす音が聞こえたその時、不安に震えながら立ちすくんでいたエミリアはついに我慢できなくなって爆発する。
 動かなかったその身体を、無理にでも捻って振り向いた。
 凍っていた唇を大きく開き、息を思い切り吸い込む。
「待ってディック!」
 なけなしの勇気を振り絞った声に、長身の影が扉に手を掛けたまま静かに振り向いた。しかし言葉としては何も帰ってはこない。
「あ、あの」
 咄嗟に呼び止めたのは良いが、そこから何を言って良いのか分からずエミリアは思わず口ごもってしまった。そしてやや見当外れのことを口にする。
「あの、寄宿舎に入ったらお手紙出してもいい?」
「それだけ?」
「え、あ、あの、それからたまに電話も」
「そう」
 素っ気ない低い声にエミリアは愕然とする。しかし意外にもディックは帰らずにゆっくりとこちらに歩みを進め、それを見たエミリアも同じように数歩あるいてお互いの距離を縮めた。
 すぐ手が届く距離までになるとディックはおもむろに少女の柔らかい金髪を一房指で摘み、その口元だけで微笑する。一瞬エミリアの背後を見上げるように視線が流れたが、すぐに戻って少女を見つめた。
「他に言う事は?」
「他……に?」
 瞬間、全身を電流が駆け抜けたかのようにエミリアは身体を硬直させた。もっと核心を突いた言葉でなくては、ディックを引き止められないと覚ったからだ。
 一度は諦めたはずの気持ち。それがゆるりと、しかし確実に気弱な少女を突き動かす。
 大切なディック。大好きなディック。ここで何もかも終わってしまうには、あまりにもその存在が大き過ぎた。
 エミリアの心臓が壊れそうなほどに早鐘を打つ。
 こんなに寒い屋外なのに、焦げてしまうんじゃないかと思えるほどにその頬が火照った。
 両手をきゅっと握り、意を決し震える声で少女は口を開く。
「私……」
 一度言葉を切り、そして視線を上げると真っ直ぐにディックを見た。
「私、ディックのことが……」 
 しかしその後に続くはずの言葉は、不意に近付いたディックの唇に塞がれて行き場を無くしてしまった。
 柔らかい唇の感触が伝わり、エミリアには一瞬何が起こっているのか分からない。
 背中に回された力強い腕がしっかりと細い身体を抱え、お互いが密着する。闇に閉ざされようとしている庭園の景色の中で、二人の吐息だけが白く浮き出ていた。 
 やっとのことで開放されたエミリアは少し息を荒げ、そしておもむろに右腕を振りかぶる。しかしそれは頬に届く前にディックに掴まれてしまい、少女は抗議の声を上げた。
「酷いわ、ディック」
「何が」
 しれっとそう答える幼馴染にエミリアは眉根を寄せる。それを見たディックはわずかに口元を綻ばせた。
「気が変わった」
 今度はエミリアの方が「何が」と尋ねる。
「意地悪してエミーに言わせようと思ったけど、やっぱり自分で言いたくなった。それにキスは俺が怒られる筋合いじゃない」
 ますます眉を吊り上げる金髪の少女に、ディックは視線だけでその意味を知らせた。
 二人のすぐ横には大きな木が一本立っている。そのナラの木の上方に見える、緑の細い枝と豊かな葉の塊。
 ミスルトーの下に立つ乙女には誰でもキスをしても良い。
 飾りとして切られた枝ではなく、原木そのものを指して少年はそう言うのだった。
「エミリア、ずっと好きだった」
 再びディックの長い腕が伸びてエミリアを抱き寄せる。しかし先程とは違い、優しく真綿を包むような気遣いを見せる抱きしめ方で。
「大好き、ディック」
 柔らかい金の髪が少年の胸板に埋まり、そう幸せそうに呟いた。


「賭けはお前の勝ちか、全くつまらん」
「ふん」
「あ、今お前こっそり自慢しただろう。くそー、あの二人はどう見ても好き合ってたのにギリギリまで手を出さんとは。今時の子供のくせに律儀すぎるんだ、ディックとやらは」
「何でもかんでもお前の物差しで計るのはよした方が良いな、伯爵殿」
「いやいや、勝負はこれからだよ男爵殿」
 透き通った紅色の茶の芳香を愉しみながら、クライドは皺の寄った顔に笑みを浮かべる。長年の悪友が全く懲りない様子を認めると、ガドフリーは小さく息を吐き出しながらテーブルの上のチェスの駒を動かした。
「チェックメイト」
「しまった」
 クライドは油断したと額に手をやり、天井を仰ぐ。そしてわずかに物憂げな友人を横目にすると言葉を続けた。
「大丈夫だ。あの子はエミリアを連れて逃げたりしないし、エミリアもお前から逃げようとは思わないだろう」
「くだらん」
 面白くも無さそうに鼻からふんと一息出すと、ガドフリーはティーカップを口元に運んで熱い紅茶を口に含んだ。 
 
 それは去年の夏の終わりのこと。
 いつものようにチェスをしていたディック少年とガドフリーに、ある日ちょっとした変化が訪れたことからそれは始まった。
 エミリアがフランスからやって来る一年前からカーター家はこの屋敷の隣に住んでおり、カーター氏と親交のあったガドフリーはその息子ディックに時々暇つぶしにチェスを教えることがあった。
 当時の使用人たちは主人のこの気まぐれな行動に目を見張り「珍しい事もあるもんだ」と初めの頃は囁いていたが、やがてその少年がよく屋敷に出入りするようになると、その性格を知ってこう頷いたものである。
「こりゃ男爵にずいぶんとそっくりな無愛想な子だよ。似たもの同士で気が合うのかね」
 ガドフリーが自分と似ているからこの黒髪の少年を気に入ったかどうかは不明であるが、彼がこの屋敷で主人とチェスをする姿はこのハートレイ邸では極当たり前の風景となっていた。戦績は始めた頃からずっとガドフリーの圧勝であり、子供といえど手心を加えないのがこの老人の主義である。
 しかしそれが七年の歳月を過ぎた頃、メキメキ頭角を現しチェスの腕を上げていたディックが初めてガドフリーに勝利を挙げた。油断していたとはいえ、そのことにガドフリーは大層驚き、そしてこの少年の聡明さに素直に感嘆した。
「褒美に何か欲しいものがあったら言ってみなさい」
 自然に出た何気ない言葉であった。その言葉に、少年は迷いも無くこう答えたのである。
「エミーが欲しい」
「ふん」
 夏の午後。開け放たれたテラスの窓から入る爽やかな風に吹かれ、白いレースのカーテンがひらめいていた。
 わずかに差し込んだ日の光に晒され、少年の濃い茶色の瞳はその真摯な光をもって輝く。
 一遍の曇りも無い、まだ十二歳でしかない少年の鮮烈な感情に触れ、ガドフリーはしばし考え込む様子を見せた。やがてその薄い唇をゆっくりと開く。
「お前は将来何になりたいのだったかな」
「弁護士」
 一瞬ガドフリーは灰色の瞳を意外そうに見開いた。フレデリック・カーターが亡くなって既に三年、以来この少年は特に大人びた表情をするようになったと彼は思う。
 しかし実の父親と同じ職業ではなく弁護士になりたいと口にした少年の真意が、かつて冤罪から母子を救ったガドフリーの背中を見た結果だということは当然知りようも無い。
「ほう、また酔狂な。どうせならもっと儲けの多い仕事を目指せば良いものを」
 そのとき突然場違いに明るい声が響き、戸口から姿を見せたのはクライドであった。ちょうど現役を引退したばかりの彼は、暇を見つけてはこうやって旧友を訪ねて来ていたのである。
「また来たのか」
「ご挨拶だな、ガドフリー」
 苦い顔をする旧友を一笑すると、伯爵は少年にある提案をした。「可能性に投資をしてみよう」というのである。
 ディックもガドフリーも同じように眉間に皺を寄せる中、クライドは楽しそうに説明を続けた。
「エミリアはハートレイ家のたった一人の跡継ぎだ、この頑固者も簡単には承諾すまい。だったらお前がそれに見合う人間になれば良い」
「……勝手に話を進めるな」
「お前だってこの子を買ってるからこうして屋敷に出入りさせてるんだろう?」
 しばしガドフリーは考え込み、そしてディックを見た。
「いいだろう。しかしその話は条件付きでだ」
 条件はたった二つ。今から一年間学校のテストは全て首席を通すこと。
 それを守れる実力があると分かれば、エミリアが来年の秋から入学する予定のパブリック・スクールに彼を編入させ、その後の費用も全て自分が持つとガドフリーは言った。
 将来の大学、弁護士の資格を取ってからのこと。全てをその世界で名の知れた彼のバックアップを得られるというものである。
 しかしもう一つの条件を提示された時、ディックはいかにも不満気に眉根をしかめた。
「エミリアが別の学校に移ってから馴染めなくなると困る。お前はその間距離を置くように」
「どうして」
「元々エミリアはプライマリー(小学校)から全て私立に編入させる予定だったのだ。それをお前と同じところに行きたいからと泣くから、仕方無しに今まで公立に通わせていただけのこと。パブリック・スクールまで嫌だと言い出したら何としてくれる」 
 そしてそれを守らねばこの話は無かったことにすると言われてしまっては、少年はそれを承諾するしかない。
 なに、今からたった一年のことではないか。と何十年も人生を重ねてきた老人二人は意地悪そうにそれぞれ口に笑みを浮かべたが、まだ十二年しか生きていないディックにとっては果てしなく長い一年のように感じられたはずである。
 それから後、ディックは約束どおり一年間首席を守り通した。そして春学期からはパブリック・スクールへの編入がすでに決まっている状態である。
 一週間ほど前に老人に呼ばれて久しぶりに屋敷の玄関をくぐったディックは、ガドフリーからその詳細を聞かされた後、顔をしかめたまま部屋を後にしたのであった。

「聞いたぞ。あの少年、約束が違うと怒ってただろう」
「不可抗力だ、仕方があるまい」
「ま、こんなことでダメになるようでは先がしれているというものかな」
 しかめ面の友人がディックという少年の可能性を大層買っており、それと同時に孫娘と急接近していることに複雑な心境を抱いていることを伯爵は長い付き合いから正確に把握している。
 かつて自分の長期出張中に娘のマリアが結婚を反対されていたコンラッド・ブライトンと二十歳で家を飛び出して行き、今回のフランス行きの間エミリアを寄宿舎に入れようとしている彼の心理も。
「アランだって無理にとは言わないだろう、断れば良かったのに」
「借りは返す。親しい間柄でもワシのポリシーは変わらん」
「はいはい」
 アランとは今回の依頼主の名で、ガドフリー、クライドと勉学を共にした古い仲間である。そしてフランスに渡った娘夫婦を影から援助してくれた人物でもあることを、亡くなったマリア達も知らないし、もちろんエミリアも知らない。
 未だ口約束だけとはいえ、生まれつきステイタスを持たない人間を男爵家に迎え入れることに今や抵抗を見せないガドフリーに、クライドは口元を緩めずにはいられないのであった。
「伝統とは守り伝えてゆくものだが、その形も時代と共に変化してゆくものだ。時の止まってしまった今のイギリスには、きっとディックのような強い心を持った次の世代が不可欠なのだろうな」
「賭けは私の勝ちだ。何を言ってもディックはお前の会社にはやらんぞ」
「……弁護士よりうちで働いた方がよっぽど金になるのに。ああ、その生真面目さがお前の明るい未来を摘み取ってしまったのだなあ、哀れな少年よ」
 ディックの進学を賭けた話には更にその裏があった。約束を守れずに終わった場合、代わりにクライドが進学の道を用意し、自社の社員として養成しようという目録であったのである。
 もちろんディックはそれを知らないし、後に反発して弁護士になろうものならクライドがその全権力を持って妨害をするという大人気無いオプション付きで。
「うちに出入り禁止になりたいようだな」
「どうせ年が明けたら誰も居なくなるだろう。ああ、そうか。私もフランスのアランの所に毎週遊びにいけばいいんだな、これで問題解決だ」
「…………いい迷惑だ」

 ガドフリーの深い深い溜め息がもれる頃、庭では優しい闇に包まれた大木の下、天から音も無く落ちてくる純白の冷たい欠片を見上げてエミリアが微笑んでいた。
「明日はホワイト・クリスマスかしら」
 ひとひら手の平に乗せるとあっという間に解けて水滴に変わる。その時手首に掛けられていた小さな紙袋ががさりと音を立て、ディックが視線を移した。
「それは?」
「あ、これはね」
 嬉しそうにそれを愛しい少年に差し出すと、エミリアは極上の笑みを浮かべる。
「セレクト・サンタのプレゼントなの。ディックの名前を引くことはできなかったけど、でも強行で買っちゃった」
「それじゃ本当の相手が困るだろ」
「ううん、それが大丈夫なの。だって私自分の名前を引いてしまったんだもの」
 驚いたように目を見張るディックに、エミリアは少し困ったように眉尻を下げる。
「呆れた?」
 しかし少年はコートのポケットからリボンが付いた小さな箱を取り出すと、それをエミリアの目の前に差し出し真面目な顔で言った。
「実は俺も、自分の名前引いたんだ」
 お互いに自分の名前が書かれたくじを引き、その後もヴィヴィアンに交換してもらう事も無く、同じようにこっそりプレゼントを用意していた。それは何という偶然であろうか。
 エミリアはかつてミスルトーに「ディックのサンタにして欲しい」と願った。しかし実際はアクシデントにより自分の名前を引き当て、それでも勇気を出してディックにプレゼントを渡そうとした。
 結局それは一度失敗してしまったのだが、それを窓から落とした後も諦めずに探している時に偶然ディックが庭にやって来たのである。
 もしエミリアが庭に出ていなかったら、ディックが屋敷の中に入ってまで少女に会ったかどうかは今では分からない。
 その偶然の一つ一つを思い出し、噛み締め、その途端にエミリアの脳裏にある記憶が蘇った。
『でもエミー。奇跡というものは本当はね、ほんのきっかけでしかないの』
 それは母がミスルトーの話の後に必ず言っていた、あの言葉の続きである。
『その幸福のきっかけを本当に幸せにするかどうかは、あなたがどれだけ頑張るかにかかっているのよ』
 父と母もまた、恋に落ちた後は全てが順風満帆という訳でもなかった。
 すでにマリアにはガドフリーの決めた婚約者候補がいたし、決定的に二人の間に立ち塞がるのはあの厳しいガドフリー自身だったからである。
 奇跡は素晴らしい、しかしあくまでもそれはきっかけに過ぎない。だから自己の努力を怠ってはならないと母は繰り返しそう娘に語っていたのだ。
 そうねママ、本当にそうだわ。
 小さくそう頷くとエミリアは両手を胸に当て、母とそして奇跡をくれたミスルトーに心から感謝をするのだった。
 そうして今、二人は小さく笑い合いながらお互いのプレゼントを受け取る。
「あの、ヴィヴィとはあの後……」
「エミーの親友だからな、無碍にもできないだろ」
「えっ!」
 即答で否定してくれると思っていた少女は、その意外な言葉にプレゼントの小箱をぎゅうと握り締め思わず詰め寄る。
「だからちゃんと断っといた。『俺が好きなのはエミリアだけだから』って」
 どうして彼は、こうも全ての言葉をストレートに語るのだろうか。
 再び幼馴染に赤面させられると、エミリアはそれを隠す為にディックのコートの中に顔を埋める。そして小さな溜め息を一つつくのだった。
「せっかくまた仲良しになれたのに、春学期から離れ離れね。それに私いつここに戻ってこれるか分からないし」
「俺、春学期からパブリック・スクールに編入するんだ」
「本当に?」
 少女は期待に胸を膨らませながら輝く瞳で見上げたが、何故かそれを言った当人の表情は不満気である。
「ガドの奴、『一年間首席を取ったらパブリック・スクールに編入させてやる』って俺に去年の夏言ったんだ」
 しかしその後約束を果たして蓋を開けてみれば、彼の通うことになっている学校はかなり有名な伝統男子校であり、エミリアが通う共学とは反対方向にある学校であったのだ。
 パブリック・スクールはその定員人数が一学年数十人と、比較的その許容が狭められている。たまたま何かの理由で退学や転校があり定員に空きが無ければ、校長への推薦状があっても編入は難しいのが現状だ。
 そしてちょうどこの冬に空きができたのはエミリアが通っている学校ではなく、別の男子校だったわけである。
 それはディックの母であるヘレンとガドフリーとの間で勝手に話が進行され、全てを後で聞かされたディックは「約束が違う」と一人怒っていたというわけであった。
 まあ母一人子一人の家庭なので、転入先の学校が家から電車で通える範囲内であった事は幸いだったかもしれないが。
「ガドのフランス行きは長くても一年くらいって聞いてるから、早く依頼が片付けば半年くらいで戻ってこれるさ」
「どうしてディックが知ってるの?」
「だからこれも直接聞いたんだ、編入の話を聞かされた時に」
「そうだったの。……でも、本当にすぐ戻ってこられるかしら」
 祖父とあまり仲の良くない自分は、もしかしたら卒業まで寄宿舎に入れられっぱなしになるのではないか。
 そう不安を浮かべるエミリアを見て、ディックは微笑を浮かべながら耳元で囁く。
「もし帰れなかったら、俺が攫いに行く」
「さっ、さら……」
「エミーがうちから通ってもいいって母さんも言ってたし」
「もう、そんなのおばさまの冗談に決まってるじゃない」
 耳元で囁かれた時の吐息が妙にくすぐったく感じられて、少女は頬を染めながら言う。
 しかし息子である彼は、あながちそれが冗談ではなかったことを知っていた。ヘレンならば本当にやりかねない、彼女はそんな掴みどころの無い女性なのである。
 そうして改めて愛しい少女に視線を落とすと、柔らかい頬を押さえている小さな手を優しく剥ぎ取り、少年は頬、額、目蓋と小さなキスをたくさん落としてゆく。
「あ、あの、ディック?」
 うろたえる少女の熱い頬に自分の頬を寄せ、ディックはそっと囁いた。
「知っているか、エミー。ミスルトーの下にいる乙女にキスをしたら、その枝に付いている白い実を一つづつもいでいくんだ」
 そして枝に付いている実が無くなれば、そのキスをしても良いというルールもそこでおしまいとなるのだ。
「そしてあそこには沢山なってる」
「ディ……」
 そこでエミリアの言葉は、再び閉ざされた。
 静かな闇が、誕生したばかりの小さな恋人達を優しく包む。
 雪は相変わらずゆっくりとした様子で空から舞い落ち、二人の髪の毛やコートを少しづつ白くさせていった。


 遥かな昔日。
 少年がこの木の下で淡い金色の髪を見つけた時、彼は本当に小さな天使が孤独な老人ガドフリーの庭先に降りてきたのかと錯覚した。
 大切な、大切な女の子。もう、離したりはしない。
 華奢な肩をそっと抱きしめ、愛を囁く。
 愛の女神フリッガの祝福を受けたという不滅と豊穣を象徴するミスルトーだけが、静かに頭上から二人を見守っていた。



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