夏の少年、私の麦わら帽子 1 
  第一話、田舎と私

 えんえんと続く、電車の窓から見える田んぼの緑。
 ムカつくくらい空はぴーかんに晴れわたっていて、わた菓子をめいっぱい集めたような真っ白い雲が、そのすぐ向こうにふんぞり返る大きな山の上を、ゆっくりゆっくり通り過ぎようとしていた。
 ガタタン、ガタタンと規則的に揺れる硬い座席に座らされること数時間。
 私はそんなのどかな風景を、中途半端に開け放たれた窓からこうして眺めている。
 長い電車の旅じゃそれくらいしかする事がなかったし、そうでもしなければこの私の絶望感はどうにもならないというものだった。
「すずな、もうすぐ着くから降りる準備しておきな」
 そう言って私の着替えの入った大きなボストンバッグを上の網棚から降ろしているのは、私のおばあちゃんだ。
 でも「おばあちゃん」って言うととても怖い顔で怒るから、私たち孫はみんな「嘉子(よしこ)さん」って呼ばされている。名前で呼んだところで若返るわけでもないのに、全く大人げないったらこの上ない。
「ねえ、おばあちゃん」
 イライラしてわざと私はそう呼んだけれど、おばあちゃんは私の方を見向きもしなかった。
 三十秒くらいじっとその横顔を眺めていたけど、結局私の方が根負けして改めて呼びなおすことにする。
「嘉子さん」
「何だい、孫娘」
 しらじらしいくらいその顔には何の表情も浮かんでいなくて、おばあちゃんは視線だけで私を見返した。
 大体ね、自分で「孫」って言うくらいなら、その孫がおばあちゃんって呼ぶことくらい認めなさいよ。全く。
「ここにはデパートとかスーパーは無いの?」
 さっきから車窓から見えるものは一面の緑。
 その内わけは、田んぼ、畑、山に森。正に大自然万歳って感じだ。
 時おり見えるのは小さな家ばかりでお店らしいお店が全く見られないことに、私はとっても不安を覚えていた。
「バカだねあんた、こんな田舎にそんなものあるわけ無いだろ」
「うそ、じゃあみんなどこで買い物するの?」
「小さな日用雑貨の店なら一つあるから、それで十分さ。車でいくらか行けばスーパーもあるし」
 でもおばあちゃんは車の運転もできなければ持ってもいない。
 スーパーが遠くにあっても、それじゃ全然意味無いと思うんだけど。
「ご飯は?」
「米も野菜も家にある。必要なものは、その雑貨屋に何でも置いてあるから問題無い」
 呆れたようにそう言い切るおばあちゃんを見て、私は思いっきりしかめっ面をした。
 信じられない。小さい雑貨屋が一個だけ?
 しかも米と野菜って、それじゃ私はこれから肉は食べられないってこと?
 そんな自給自足の生活、原始人じゃあるまいし冗談じゃないわよ。
 私がおばあちゃんに向かって文句を言おうとしたその時、電車は大きな機械音を立ててその速度を急に緩め始めた。
 その振動と一緒に、私とおばあちゃんの身体が一瞬、前後に大きく揺れる。
「お、着いたみたいだね」
 電車が完全に停まる前にせっかちなおばあちゃんは立ち上がり、私にもそうするように目で促した。
「待って、おば……嘉子さん!」
 でも背筋のピンと伸びたおばあちゃんの細い背中は、一度も振り向かずにとっとと出口の方へ行ってしまう。
 そうして私は結局納得できないまま、その後を追うしかないのだった。



 人類が初めて月に行ったって大人たちがニュースにかじり付いていたのは、つい数日前のこと。
 アポロだか何だか知らないけれど、テレビでそれを見てうちのお父さんが何て言ったと思う?
「やっぱりウサギはいなかったのか」
 ですって。小学生の私だって、今更そんなこと信じちゃいなかったわよ。
 ―――いや、私が言いたいのはそんなことじゃなくてっ!
「嘉子さん、どうしてここは駅なのに、駅員さんがいないの?」
「そりゃ使う人が少ないからじゃないの?」
「そんなのありえないわよ、駅に人がいないだなんて!」
 ううん、いないのは駅員さんだけじゃなかった。
 この小さな駅に降りたのも、私たち二人だけなのよ。
 これが駅?
 本当に駅なの?
 駅っていうものは、いつも人がいるもんじゃないのー?!
 今はもう、人が月に行けちゃうような時代なのよ。ここが駅だなんて、絶対に私は認めないわ。
 しかも東京から何時間もかけて大変な思いをしてやってきたのが、この何も無い田舎だなんて……。
「ねえ、嘉子さん。どうせなら私、噂の新幹線っていうのに乗ってみたかったわ」
 せめて乗り物くらい面白そうなものだったら、今の私のこの最低の気持ち、もう少しましだったと思うの。
 でもおばあちゃんは私のボストンバックをひょいと肩に担ぐと、私の頭に手を軽く乗せて言った。
「その噂の新幹線っていうのは、東京から京都の方へつながってるやつだよ。あいにくとこの東北地方には来られないね。まあ、これからできるって話みたいだけど」
 どうせなら東北じゃなく、京都に行きたかったわ。
 でも私のその心の声をまったく気にかける様子も無く、おばあちゃんはまた一人で勝手にずんずんと歩き始める。
 全く、こんなデリカシーの無い人が元は大病院の婦長やってたって言うんだから、本当に世の中どうかしてるわよ。
 私は唇をぎゅっと噛みしめ、すぐ横にあった立て看板を思い切り蹴りつけてやるのだった。


 あれは、ちょうど夏休みが始まる数日前のこと。
 おばあちゃんこと「嘉子さん」が東京の私の家に遊びに来た時、たまたま私は数日連続で学校を休んでいた。
 生まれつき身体が弱くて喘息持ちの私にとっては、何日か続けて学校を休むのはよくあること。
 でも学校を休みがちだからといって、勉強に遅れたりするなんてヘマは私は絶対にしないわ。
 家庭教師の先生だってちゃんとつけてもらってるし、自分でやることはちゃんとやってるんだから。
 生まれつき身体が弱いのは、私のせいじゃない。
 だけどそれを理由にして、他ののほほんとしてる子たちに負けるなんて絶対に嫌だった。
 そんなの私のプライドが許さないんだから。
 それで自宅療養している私を見て、おばあちゃんは突然こう言ったの。
「あんた、私の家に来て療養しな。東京より全然空気もいいし、もうすぐ夏休みに入るからちょうどいいだろ」
 おばあちゃんの息子のお父さんは元々この人に頭が上がらないところがあるし、私のお母さんはどうも物事を深く考えないのほほん系の人だ。
 元看護婦の嘉子さんがそういうなら、そうした方がきっと娘のためになる。
 だなんてあっという間に話を承諾しちゃって、なかば強引に、私は東北に帰るおばあちゃんに連れられてこんな何も無い田舎まで来る羽目になったのだ。
 私はか弱い病人なのよ、喘息持ちの薄幸の美少女なのよ?
 いくら空気が良いからって、こんな遠くまで移動させるなんておかしいと思うの。もっと丁重に扱うべきだわ。
 どうせなら三つ下の弟も道連れにしてやりたかったけれど、まだ学校があるし、お母さんまで一緒に来なきゃならなくなるから、と言われてしまった。
 でもそれって、私だけならおばあちゃんにあずけっ放しでも問題ないって事なのかしら。
 お父さんを放っとけないからなんてお母さんは笑ってたけど、こういう場合、中年の夫よりも娘をとるもんじゃないの?
 大体私はまだ、小学四年生のいたいけな少女なのよ?
「そうよ、私は捨てられたのよー!」
「すずな、バカなこと言ってないで早く来な」
 不幸に浸る暇も無くおばあちゃんにそう怒られて、私はあっという間に辛い現実に引き戻されてしまった。
 ああ、本当に私って可哀想だわ。
 そう溜め息をついたまさにその時、私の横をすごい勢いで走り抜けて行く男の子が二人。
 自分を挟むようにその子たちが後ろから追い抜いていった直後、私は思い切り叫び声を上げた。
「きゃぁぁぁぁぁ!」
「Oh! モーレツ!」
 そう叫びながらそいつらはすれ違いざま、私のスカートを思い切りめくっていったのだ。
「何がモーレツよ! ふざけるんじゃないわよ、このバカ颯太(そうた)!」
 私は前にいるおばあちゃんの方へ向かって走る男の子の片割れに、そう怒鳴りつけた。
 足を止めて振り返ったそいつは、真っ黒に日に焼けた顔で白い歯をむき出しにして笑う。
「何だよ、お前知らないのか? 今流行ってるんだぜ?」
 そんなこと誰も聞いてないわよ!
 私は眉を思い切り吊り上げてその野生児をにらみつける。
 そいつはおばあちゃん家の近くに住んでいる私の従兄弟であり、昔から何となく苦手な同い年の野蛮人だった。
 大体このスカートめくりとその言葉、流行ってることくらい私だって知ってるわ。
 テレビのコマーシャルで女の人のスカートがめくれるのを見た幼稚なアホどもがそれを真似して、ムカつく事に今うちの小学校でも流行ってるんだから。
 まあ第二小のか弱い美少女代表の私に、堂々とやってくる愚か者はいないけどね。
 それなのにこの野蛮人め、なんてことするのよ。同級生の男子って、どうにも幼稚で付き合ってられないわ。
「おや、颯太に祐司じゃないか。こんな所までどうしたんだい?」
 おばあちゃんが振り向いてそう言うと、颯太は車道の方を指差しながら大声で言った。
「とーちゃんと一緒に迎えに来たんだよ、嘉子」
 その指差した方向を見ると、確かに一台の車が停まっている。
 遠目に見えたその運転手席には、親戚の集まりで良く見知った伯父さんの顔が見えた。
 しかしそれには目もくれず、おばあちゃんは数歩大股で颯太に歩み寄ると、いきなりその丸刈り頭を派手に引っ叩く。
「おばあさまを呼び捨てにするとはいい度胸じゃないか。お前、覚悟はできてるんだろうね」
「いってえ、何だよ、このクソばばあ。何かっちゅーとすぐにパンパン叩きやがっ……」
 全部言い終えないうちに二発目のおばあちゃんのしばきがまた脳天に飛んで、颯太はそのまま絶句した。
 ふっ、バカは所詮バカってことかしらね。
 頭叩いた時の音も、何か中身が入ってなさそうな軽い音だったもの。
「分かったよ、俺が悪かったんだろ、嘉子さん」
 口をとがらせて颯太はしぶしぶそう言い、その横に立っているもう一人の男の子がその時私をじっと見た。
 初めて見る顔だから、多分この野蛮人の友だちなんだろう。
 でもその子は颯太に比べてあまんまり日焼けもしていなくて、何となく品の良さそうな雰囲気も漂っている。
 うちのクラスにもこんな感じの男の子はいるけれど、こんな田舎でこのタイプにお目にかかれるなんて意外だった。
「すずな、この子は颯太の友だちで武部祐司(たけべ ゆうじ)っていうんだ。颯太よりはまともな神経してるから、仲良くしてもらいな」
「よろしく」
「……よろしくお願いします」
 颯太と違って美容院で整えたらしき髪をなびかせながら、ニコニコした顔でその子は私に近づいて来る。
 不意に祐司が何かを差し出すので思わず受け取ると、何やら湿ったような、ひんやりとした感触の物が私の手の平に乗せられた。
 そしてそれを見た瞬間、私は今日二回目の叫び声と共に思いっきりそれを振り落とす。
「何っ、何よこれっ! どうしてカエルなのっ!」
 祐司が私の手の平に乗せたのは、なんと小さな緑色のカエルだったのだ。
「カエル可愛いでしょ? あれ、嫌いだった?」
「大っ嫌いよっ!」
 未だカエルの感触の残る手をぶんぶん振りながら、私は大声で祐司にそう怒鳴った。
 危うく見てくれに騙されるところだったわ。
 野蛮人の友だちなんかに一瞬気を許してしまった私がバカだったのよ。
 おばあちゃんは既に伯父さんの車の方へさっさと歩き出していて、私は黙ってその細い背中を恨めしそうに見た。
 ちょっと、おばあちゃん。
 これのどこがまともな神経してるっていうのよ、私にはついていけないわ――っ!

 私の手から放り投げられたカエルは元気良く側の茂みにぴょんぴょん飛んで行き、まんまと人間たちの手から逃げてゆく。
 そして私は伯父さんの車がおばあちゃんの家に着くまで、その手を洗うことを必死で我慢しなければならないのだった。 
 


 突然息が苦しくなる感じって、どんなだか分かる?
 それはもう、本当に自分はこれで死んじゃうんじゃないかってくらい鬼気迫るものよ。
 だって吸い込もうとしても吸い込もうとしても、まるで喉の奥が閉じちゃったみたいに、全然空気が通って行かないんだから。
 私は四歳の頃からずっと、その気管支喘息っていう病気に悩まされていた。
 今は随分良くはなってきたけれど、小学校に入ったばかりの頃は入院したことだって何回もあるわ。
 自宅に「携帯」とは名ばかりの、私がやっと抱えられるくらいの大きな携帯吸入器をいつも常備しておかなければならないことは、私にとってとてもくやしいことだった。
 だってさ、世の中にはこんなに子供で溢れてるのに、どうして私だけがこんな大変な思いをしなければいけないんだろう。
 同じ親から生まれたくせに弟は何とも無くて、体育の授業も休んだことだって無い。
 私だってこんな病気さえ無ければ、運動会もマラソン大会も活躍してみせるのに。
 元々運動神経はそんなに悪くないと思うのよ、従兄弟には野生児がいるくらいだし。
「すずな、ちゃんとウガイしたかい?」
「したよ、嘉子さん」
 布団を敷きながらそう声をかけてきたおばあちゃんに私は答える。
 畳の部屋に入った瞬間、天井から吊るされた大きなアミが視界に入ってきて、私はすごくびっくりしてしまった。
「嘉子さん、このアミは何?」
「蚊帳だよ。蚊取り線香を焚くとお前の喉に良くないだろ」
「へー、初めて見た」
 突然部屋に現れたその蚊帳の中に入ると、不思議とそこが特別な空間のように感じられる。
 まるでテントの中にいるような気がして、キャンプ気分で訳も無く私はうれしくなってしまった。
 でも気まぐれにふっと廊下の方を見ると、そこには誰もいなくて真っ暗な闇が続いている。
 それは本当に真っ黒な闇で、実はそこに何かが隠れていそうな気もして、私は何だか怖くなってしまった。
 おじいちゃんはずっと前に亡くなってるし、颯太の家も別にあるから、今この家にいるのは私とおばあちゃんしかいない。
 そう思った途端、私は不覚にも東京のお父さんとお母さんのことを急に思い出してしまった。
 あっという間に心細い思いが大きくなって、お腹の奥の方がきゅうっと苦しくなってくる。
「すずな、ゆっくり息を吸うんだ」
 気がついたら私の呼吸は急に苦しくなっていて、ヒューヒューとみっともない音を立てながら息を吸い込んでいた。
 おばあちゃんが私を布団の上に座らせてくれて、座布団をいっぱい積んで背もたれを作ってくれる。
 こういう時、寝転ぶと余計苦しいのよ、不思議なことに。
「大丈夫だ、発作って言うほどのものでもない。ゆっくり深呼吸すればすぐに収まるから」
 私はヒューヒュー呼吸音を立てながら、黙ってうなずいた。
 こういう時はさすがにベテランの看護婦。頼りになるおばあちゃんで良かったわ。
 でもこれしきのことは、私にとって何でもない。
 視界の隅に入る、東京の自宅から送られて来た携帯用吸入器を横目に、私はあんなもの使わなくてもこの夏を越してみせると自分に誓った。
 最近は本当に調子が良いし、飲み薬だって、すごく痛い注射だってせずに済んでるんだから。
 そしてその時、おばあちゃんが私の背中をゆっくりさすりながらこう言ったの。
「あんたのそういう負けん気の強さは認めるけどね、そんなにいつも気を張ってたら、治るもんも治らなくなっちまうよ」
 未だにヒューヒュー喉を鳴らしながら、私は黙っておばあちゃんを見上げる。
 この時おばあちゃんが何を言いたかったのか、私にはよく分からなかった。
 この病気に立ち向かわなければならないのは昔から当たり前だと思ってたし、その延長でちょっとだけ、何に対しても意地っ張りになる癖がついてしまっていたから。
 それなのにこれを今更変えるなんて、私には無理な話だわ。ねえ、おばあちゃん。
 


「すずなー! 早く来いよ!」
「すずなちゃーん」
 東京じゃ考えられないほどのたくさんの木が回りを囲む中、私は今何故か、右手に虫取り網そして左手には虫かごを持って草むらの中を歩かされている。
 全く、本当にここは日本なの? どっかのジャングルにワープしちゃったんじゃないのーっ?! てくらいここは緑が深かった。
「ちょっと待ちなさいよ、私はこんな大自然には慣れてないんだから」
 嘉子おばあちゃんみたいにさっさと私を置いて先に進む男の子二人に、私はしかめっ面でそう答える。
 そうよ、私は今どきの都会っ子なのよ。しかも療養でこんな田舎まで来たのよ。
 それがどうしてこんな森の中を歩き回らなきゃならないのよ。
 今日はちょうど小学校の終業式の日だったみたいで、午前早々に学校から帰宅した颯太と祐司が、突然私を遊びに誘いに来たのだった。
 もちろん始めは冗談じゃないと思って断ったわよ。
 でもそれを見ていたおばあちゃんが「子供は外で遊ぶもんだ」って突然言い出して、何とその後、私は家から追い出されてしまったのだ。
 元看護婦のくせに何考えてるんだろう、全く。

「ほら、これもあげるからとっとと行っといで」
 出かける間際、縁側から庭に立っている私にそう言いながら、おばあちゃんはちょっと古ぼけた子供用の麦わら帽子を私の頭にかぶせてそう笑った。
「おお、良く似合うじゃないか」
 私は帽子をちょっと手でつまみながら、首を傾げる。
「これ誰の帽子?」
「楓(かえで)の帽子だよ。ま、殆んど使ってないから古くても新品みたいなもんだ。別にかまわないだろ?」
 楓というのは颯太の年の離れたお姉さんで、今年で中学三年生になる人だ。
 庭の池を覗き込むと、私の麦わら帽子姿がそこに映っていた。
 ちょっと古めかしいけどそれは中々に可愛いデザインの麦わら帽子で、頭の周りに赤くて太いリボンがついているのが何よりも人目を引く。
 そのリボンの赤が、ちょっと茶色っぽい私の長いおさげと良く合っていて、お気に入りの白いワンピースを際立たせていた。
 うん、結構いいかもしれない。

 そう、そこで気を良くしたのがいけなかったのよ。
 その直後から私は引きずられるようにしてあっちの川原、こっちの森と、その後颯太と祐司に引きずりまわされ、今半死半生の状態なのだ。
「もうダメ、もう疲れたわ」
 歩くのを止め、わずかに弾む息遣いを一瞬止めて、私は大きく息を吸い込んだ。
 その瞬間に森のにおいがして、私の喉の奥をやんわりと刺激する。
 すっきりとして少しひんやりとした新鮮な空気が、胸いっぱいに送り込まれた。
 立ち止まった私の耳に聞こえてくるのは、耳をつんざくような大音量の蝉の大合唱。
 そして時々蝉の声をかいくぐって聞こえてくるのはホウ、ホウっていう正体不明の鳥の声。
 ああ、大自然って癒されるわ……って、小学四年生にして既に私おばさんくさいかも……。
 その時少し離れたところから小さな破裂音がして、ふと私は我に返った。
「何?」
 しかたなしに歩いてゆくと、少し行ったところはもう川原になっている。
 川沿いの大きな岩の上に颯太たちは腰掛け、何かをしているようだった。 
 虫かごを傍らに置いて、二人はちまちまと何かを作っている。
 何やってるんだろう?
 私が黙ってそれを眺めていると、やがて颯太の手から何かが空に飛び立った。
 蝉だ。
 でもぼんやりとその蝉が大空に飛び立って行くのを眺めていた、そのせつな。
 突然小さな破裂音が空に鳴り響き、私は思わず目を見開いた。
 破裂したのは、空に飛んでいったあの蝉だった。
 パンって軽快な音一つで、それは空中で木っ端みじんに吹っ飛ばされ、その残骸は川原の石の上にむなしくぽとぽと落ちて行く。
「ちょっと……なにやってるのよ」
 颯太と祐司の手には、爆竹とライター。そして今また、新たな蝉に手を伸ばそうとしているところだった。
 こいつらはあろうことか蝉のお尻に爆竹を突め込んだ後、火をつけて空で爆発させて遊んでいたのだ。
「やめなさい! このアホども!」
 私は急いでその岩の上までよじ登ると、颯太と祐司の後頭部を思いっきりはたいてやる。
 全くもう、全く全く!
「何て遊びしてるのよ! 蝉がかわいそうじゃない!」
「いってー。何しやがる、この暴力女!」
「あんたこそ何やってんのよ! この野蛮人!」
「ちょ、ちょっと、颯太」
「止めるな祐司」
「何よ、やる気?」
「お前が俺に敵うもんか! 大体今日だって嘉子に言われたからお前を……」
「颯太!」
 初めて見たときからいつもニコニコしていた祐司が、意外なほどに強い声音で颯太の名を呼んだ。
 颯太もそれは意外だったのか、びっくりまなこで動きを止める。
 私も同じように目を見開いたまま、しばらく黙って突っ立っていた。
 そう、そういうこと。
 おばあちゃんに頼まれたから私と遊んでくれたってわけね、ありがたいことだわ。ふん。
「別に無理に私に付き合ってくれなくてもいいわよ、私は元々殆んど家の中にいることが多いんだし」
 急に自分が惨めな気がしてきて、私は視線を逸らして太陽の光を反射している川面を見つめた。
 私は昔から学校を休みがちだったから、いつもクラスで少し浮いた存在だったのは自覚していた。
 ついでに身体が弱いからって、なかなか放課後に遊びに誘ってくれない回りの雰囲気も分かってたわよ。
 だから私もそれにあえて何も文句も言わず、「それが当たり前のことだ」ってまるごと飲み込もうとしていたのに。

 ―――なのに何で今更、それがちょっと胸に痛いのかしら。

 不覚にも目に涙が溜まって溢れそうになった。
 泣き顔なんて最近親にさえ見せてない私は、体の向きを変え、その岩を降りて走り出す。
「帰る」
「あっ、すずなちゃん!」
 祐司の声が後ろから聞こえたけれど私は振り向かなかった。
 こんなやつらに泣き顔をさらすなんて、女の恥よ。
 あいつらやクラスの子達と違って、病気と闘わなきゃならない私は大人にならなきゃいけないんだから。


 私はそのまま真っ直ぐおばあちゃんの家に向かって帰るつもりだったんだけど、初めて来た所でしょ、ここ。
 森はどれも似たような木がいっぱいで、私は間違えたつもりはなかったんだけど、でも結局道を間違えてしまったようで。
 ―――まあ、道に迷う人は大抵そういうもんだと思うけれど。
「わあ、大きな木」
 うろうろしている間に出会ったその大きな木は、私が五人くらいいたらやっと手で囲めるくらい太い幹を持っていて、妙に存在感のある太い根っこが地面から所々盛り上がっていた。
 両手をめいっぱい広げたようにその木の枝は広範囲にわたっていて、濃い緑色の葉っぱをたくさん茂らせて青い空を覆い隠している。
 今までこんなに大きくて立派な木を見た事は無かった。
 その感動があまりにも大きくて、さっきまでのくやし涙なんていっぺんにどこかへ飛んでいってしまったわ。
 その時、後ろの方でガサガサと草をかき分けるような音がして、私はちょっと驚いて振り向く。
 何か変な動物でも出てくるかと身構えたけれど、そこにいたのはもっと嫌な生き物だった。
「やっと見つけた、良かったね颯太」
 そこに現れたのは颯太と祐司。今この世の中で一番見たくない顔ぶれだわ。
 祐司は元のニコニコ顔に戻っていたけど、颯太はまだ半分怒った様子で私を見る。
「勝手にどっか行っちまうからびっくりしたじゃねーか、すずな」
「だから、ほっといてよ」
 溜め息をつきながら私がそう言うと、颯太はむっとした顔で声を荒げた。
「何でだよ」
「だから、無理に私と遊んでくれなくてもいいって言ってるの。気を遣われたら私の方がかえって疲れるわ」
「別に気なんて遣ってねーよ、お前に色んな遊びを教えてやろうと思って俺は……」
「まあ、まあ」
 一気にまくし立てようとしていた颯太の口を手で塞ぎ、祐司が私ににっこり笑った。
「嘉子さんからすずなちゃんがこっちに来るって聞いてから、颯太はずっと楽しみにしてたんだよ」
「なっ、俺は別に……もがっ……!」
 口を塞がれたまま、颯太が慌てた様子で祐司を見る。
 何なのよ、一体。
「東京の従兄弟のすずなちゃんの話はたまに聞いてたから、僕も会うのが楽しみだったんだ。思ったとおりのカワイイ子でびっくりしちゃった」
 カワイイ。
 大人からは言われ慣れたその言葉も、同年代の男の子から言われることに私はあまり慣れていなかった。
 そのせいで不覚にも、ちょっと面食らってしまったじゃないの。
「それは、どうも」
「僕も三年前に東京からこっちに引っ越して来たからさ、何か親近感もあったりね」
「へえ、そうなんだ」
 それにはちょっと驚いたけれど、確かに祐司はこの土地では少し異質な感じがしていた。
 颯太みたいな野蛮人とも少し違うし、随分大人だわ。  
 祐司が手を放し、やっと自由になった颯太が、さっきまで私が眺めていた大きな木に歩み寄る。
「お前もこの『森の主』を見つけたのか。じゃあ、お前も今日から俺たちの仲間だ」
「仲間?」
 首を傾げる私に、さっきまでの怒りはどこへ行ってしまったのか、颯太は日焼けした顔で満面に笑った。
「じゃーん、これを見ろ!」
 大樹のすぐ横にあった茂みを颯太がどかすと、そこには小さな洞窟が現れる。
 そこは子供が四、五人入っても余裕のある大きさで、目をこらして見ると、薄暗い穴の中に何故か色々と物が置いてあるのが見えた。
「俺たちの秘密基地だ。すずなは自力でここに辿り着いたから、俺たちの仲間に入れてやるよ。まあ仕方ない」
 何が、「仕方ない」よ。
 偉そうにふんぞり返る従兄弟を見ながらそう呆れたけど、私は大人だからあえて声には出さないでおく。
 でも何故かその時、言われ慣れない「仲間」という言葉に胸が少しだけときめいた。
 「秘密」というその言葉に、自然と心臓がドキドキし始める。
「僕たちの秘密基地へようこそ」
 洞窟の方へ手を伸ばし、祐司がそう笑った。
「他の奴らに言うなよ、特に嘉子には絶対に秘密だからな」
 そう念を押す颯太の顔も、何故か嬉しそうに笑っていた。
 だから、私も自然に顔がほころんでしまう。そして私は二人にこう答えたの。
「分かったわ。私たちの『秘密』なんでしょ?」
 森を通り抜ける風に吹かれて、私の麦わら帽子の赤いリボンが帽子のへりにあたってパタパタと音を立ててはためいた。
「すずな、早く来いよ!」
「分かってるわよ」
 帽子が飛ばされないように一度しっかりとかぶり直した後、私は颯太たちの後へ続いてその秘密基地に入って行く。

 昭和四十四年、夏。
 私たち小学四年生三人の夏休みは、こうして始まったのだった。



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