夏の少年、私の麦わら帽子 2
  第二話、森の主と蛍の光

 人間、意外なところで意外な能力を発揮するものなのね。

 おばあちゃんの家に来てから、もう四日が過ぎていた。
 ここは狭い田舎町だから、当然私が地元の子に出会うことも多いじゃない?
 それで気づいたの。
 颯太は同級生じゃなくても出会う子全部が仲の良い知り合いで、それは子供だけじゃなく、その辺のおじさんやおばさんもみんな親しげに話している。
 祐司は祐司でやっぱりいつものようにニコニコ笑っていて、そういう時は颯太と一緒に愛想をふりまいていた。
 一緒にいる私はというと、そういう場に慣れていなくて、知らない人に気軽に話しかけることが未だにうまくできないでいるんだけれど。
 まあ、その点では認めてやるわよ。
 私は他人と交流を持つのが致命的に下手で、従兄弟の颯太には全く敵わない。
 でも一番不思議だったのは、何故かこの二人は女の子たちにも密かに人気があるということ。
 おかげで私は地元の女の子たちから冷ややかな視線を受けることもしばしば。なるほど、こういうところは都会も田舎も変わらないということね。
 確かに見た目は二人とも悪くは無いかもしれないけれど、でも私に言わせれば颯太は健康的っていうよりただの野生児だし、祐司は一見上品にみせてその実、ただの天然だし。
 それによ? 蝉を爆発させて遊んでいるような男の子たちよ? 
 まあどれくらいの人がそれを知っているのかは私も知らないけれど。
 私はあの日の帰り道で、こんこんと二人に説教をしてやったわ。
 蝉は何年も土の中で暮らしてやっと空に飛べるようになった後、たった数週間しか生きられないんだから。
 ついこの間「よいこの理科」っていう番組で見たんだから、間違いないわ。
 でも「仲間」の私がちゃんと教えてやったことだし、これからはそんなことはしないでしょう。
 ああ私、随分といいことをしたわ。
「すずな、すずな」
 おばあちゃんの声が聞こえるけれど私は今日も颯太たちと遊びに行ったせいか、晩ご飯を食べた後急に眠くなってしまった。
 ちょっとだけのつもりで目を閉じたら、何かもうすごく重くなっちゃって全然開かなくなってしまう。
 体がふわりと浮き上がったような感覚がして、ほんの少しだけ瞼を開いた。
 すぐ上に見えたおばあちゃんの顔は何故だか笑っていて、そのまま私を布団の中まで運んでいってくれる。
「子供は子供らしいのが一番だね。おかげで発作もあれ以来でなくなったし」
 肌布団をかけながらおばあちゃんが小さく言った、その独り言。
 そうね、そう言えばこんなに外で遊んだのは今まで無かったのに、どうして発作が出ないんだろう。
 でもその疑問も、体が床に吸い込まれていきそうな深い深い眠気におそわれて、私はそのまま眠りに落ちてしまったのだった。



「蛍?」
「そう、蛍。お前見たこと無いのか?」
 秘密基地の洞窟の中、私と颯太の声が木霊した。
 どこから持ってきたのか、むき出しの地面の上には古びた小さいござが敷かれ、その傍らにはお菓子のカンカンの箱にたくさんのメンコやビー玉が乱雑に入れられている。
 三人で向き合って座っているその中央には平べったい石が置かれていて、そこにそれぞれ家から持ち寄ったお菓子やジュースが置かれていた。
 ここは私たちだけの秘密の基地。
 だからここで交わされた話は大人には内緒だし、この場所も絶対に秘密なのだ。
「テレビでしか見たこと無いわよ、蛍なんて」
 私の家の近くは特に最近建物がいっぱい造られていて、それまであった小さな空き地や公園もどんどんなくなっていた。
 大体夜に外に出ることなんて殆んど無いから、仮に蛍がいたとしても分かるはずがないんだけど。
「嘉子ん家の近くに小さな川があるだろ?」
「うん」
「そこにね、夜になると結構たくさん蛍がいるんだよ。すずなちゃん」
 颯太に続いて祐司がそう笑う。
「もう蛍の時期も終わっちまうからさ、今日の夜に見に行こうぜ」
「え? でも夜でしょ?」
「嘉子さんにも一緒に行ってもらえば大丈夫だよ」
「ばっか祐司、こういうのは大人に黙ってやるのが面白いんじゃねーか」
「え、そういうもの?」
「そうだって」
 自信満々にそう言い切る颯太に、結局私と祐司は何となく押し切られてしまった。
 まあ家のすぐ近くっていうことだし、大丈夫だとは思うけれど。 
 その後詳しい時間なんかを決めて、私たちは早々に帰ることにする。夜に備えて、こっそり懐中電灯とかを探しておかなければいけないからだ。
 秘密基地を出ると、森はまだ夕方に入る前の様子のまま、相変わらず蝉がこれでもかっていうくらい大音量で鳴いていた。
 ふと視界に入ったその大きな木―――森の主を大きくのけぞりながら見上げ、私は颯太に尋ねる。
「ねえ、何でこの木『主』っていうの? 昔からそう言われてるとか?」
「違うよ、主っていうのは俺がつけたんだ」
 ちょっと自慢げに颯太は言い、それを見ながら祐司が可笑しそうに笑った。
「何かね、この木、暗くなると光るんだって」
「……は?」
 驚いた顔を向ける私を見つつ、祐司はそのままクスクス笑っている。
 それが気に入らなかったのか、颯太はわずかに口を尖らせながら声を張り上げた。
「嘘じゃないからな。俺小さい時に見たんだよ、夕方に暗くなった森の中でこの木が青白く光ってるの」
「何でそんな『小さい』っていう頃に、暗くなった森の中にあんたがいるのよ」
 でも私のその問いかけに、颯太はガンとして答えようとしない。
「ほら、颯太のおばさんって結構怖いでしょ?」
 祐司のその一言で、私は何となくその理由が分かったような気がした。
 颯太のおばさんって言うのは私のお父さんのお姉さんで、つまりおばあちゃんの娘っていうこと。
 この二人がまた見た目も性格も良く似ていて、颯太はいつもこの二人に怒られているのだ。
 きっとおばさんに叱られたか喧嘩でもして、ここにやって来たか、道に迷ったんだろう。
 私も何となく笑いが込み上げてきてそれを我慢していると、颯太は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
 でも頭が単純なのか颯太はあっという間に気を取り直すと、また私たちに向かって話し始める。
「あの時はどんどん周りが暗くなってきててさ、帰り道が分からなくなってたんだよ」
「なるほど。あんたやっぱり道に迷ってたのね、その時」
「……うるせえな。んでこの木の光を見つけて、何故かその途端何となく帰り道が分かったんだな」
「何それ、何となく分かった?」
「急にさ、ぱあーって道が開いたんだって」
「木が動いたの?」
「動くわけないだろ、バカだなーすずな」
 こんな突拍子も無い話をわざわざ聞いてやってるっていうのに、颯太は呆れたように私を見た。
 私は黙って眉根を寄せ、頬を少し膨らませたまま颯太を見返す。
 バカにバカにされるほど屈辱的なことって無いわ。
 何かすごくむかつくんだけど、こういうの。
「木が動いたわけじゃないんだけど、何となくそこに道が開いたように見えたんだよね、颯太?」
「そうそう」
「何よ、それ」
 寝言は寝てから言いなさいよ、あんたたち。
 私は一つ溜め息をつくと、「森の主」の太い幹をポンポンと軽く叩く。
 それはどこからどう見てもただの一本の木。
 そんな不思議な事が起こるはずも無い。
 私ははるか頭上に枝を広げるその姿を眺めながら、もう一回大きく息を吐き出したのだった。


 
 それに気づいたのは、帰り道も半ばまで来た時だったわ。
 家を出てくる時はよく晴れてたのに、さっきから空は曇りぎみで日が全く差してこない。
 だからうっかりしてたんだけれど、気が付けば私の頭からはいつもかぶっていたあの麦わら帽子が無くなっていた。
 家から出る時には確かにかぶっていたから、どこかで落としたか、忘れてきたに違いない。
 颯太と祐司のどっちかが気づいてくれてもよさそうなものなのに、よっぽど私の事に関心が無いってことかしらね。
 一瞬そう思ったけれど、「ダメよすずな、それは八つ当たりだわ、大人気ないわ」と自分を抑えることにした。
 歩む足取りを緩め、私は自分がどこまで帽子をかぶっていたかを思い出す。
「――あ」
 思わず出てしまったその声で、前を行く二人が振り返った。
 私は慌てて首を横に振ると、二人にこう答える。
「ちょっと私寄ってくところがあるから。じゃあね」
「え? どこ行くんだよ、すずな」
「すずなちゃん?」
 私はくるりと向きを変えると早足で歩き出した。
 確か一度、私はあそこで帽子をはずしていた。帽子はあの秘密基地の中に忘れてきたに違いない。
 でもここからは少し距離がある場所だし、たった一つの帽子のためにみんなに戻ってもらうのも、何だか悪い気がするじゃない?
 それに何だか最近颯太たちに頼りっぱなしのような気もするから、それも私としては少ししゃくだったのだ。
 だから私は一人で取りに戻ることにしたの。
 空を見上げれば、灰色の厚い雲が広い空一面を覆っている。
 どんよりといかにも重たそうなその雲は、明らかに夏の雨雲だった。
 急激な夏の空の変化に驚きつつも、私はその歩く足を速める。
「急いで行かないと」
 もしかしたら今夜、雨が降るかもしれない。
 そうしたら今日は蛍を見れないかもしれないわね。
 いくらか歩いたところで、私はふと後ろを振り向いた。
 もうそこには既に颯太たちの姿は見えなくなっていて、私は黙ってまた前を向く。
 そして一人、私は秘密基地へ向かって早足で歩き始めるのだった。


「あったー、良かった」
 洞窟に入ると、入り口のすぐそばに赤いリボンの付いた麦わら帽子が落ちていた。
 私はそれを拾い上げると、すぐにもと来た道を引き返そうと振り返る。
 その瞬間、突然頬に大きな水滴が一つ当たって弾けた。
 それに気づいたか気づかないうちに、次の水滴が頭のてっぺんに当たって次に私は空を見上げる。
 途端に、まるで洗面器をひっくり返したような勢いでたくさんの雨が降ってきて、私はたまらずまた洞窟の中に戻った。
「どうしよう、すごい雨だわ」
 地面を叩きつけるように、数え切れないくらいの雨粒が空から落ちては跳ね返る。
 周りの木々が茂らせた緑の葉っぱも雨粒に打ち付けられて、地面と頭の上、両方からものすごい音が辺りを包み込んでいた。
 これは通り雨なのかな、それとも違うのかな。
 ちょっと濡れてしまったおさげの髪をなでながら、私は空を見上げる。
 でもそこは雨のカーテンに遮られて、空の様子なんてろくに見ることなんかできなかった。 
 このままやまなかったらどうしよう。
 ほんの少しだけ私の心に弱虫の悪魔が入り込んできた、その時。
「……ひゅぐっ」
 それは私の喉から発せられたきっかいな音。
 その音を聞いた途端、私は背筋が凍る思いがした。
 ―――発作だ。
「ゲホッ、ゲホゲホッ……ぐ……」
 たて続けに喉が破れそうなひどい咳が出て、思わず私の体は前のめりになって湿った地面に膝を着く。
 確かに私は天気の変わり目とかになると、発作が出やすい傾向があった。
 でも本当に最近は調子が良かったし、大丈夫だと思ったのに。
 どうしよう、ここにはお母さんもいないし、おばあちゃんもいない。
 発作がすぐに収まればいいけど、こんな誰もいないところで倒れたら私、本当に死んじゃうかもしれない。
 心臓がいつもの三倍くらい大きくなっちゃったと思えるくらい、その音が頭にドクドク響いた。
 息が苦しい。咳が止まらない。
 こんなにも一生懸命吸い込んでるのに、全然空気が喉を通っていかない。
 どうして?
 どうしよう?
 どうしたらいいの?
 怖くて怖くて、思わず涙がぽろぽろと零れ落ちた。
 誰か助けを呼ばないと。
 でも、今の私は普通の会話さえ出来ない。どうやって呼べばいいのよ!
 こんなことなら麦わら帽子なんて放っておけば良かった。
 せめて意地を張らず、颯太たちに一緒に来てもらえば良かったとも思った。
 そしてその時だった。
 涙で歪んだその視界の先に、大きな木が見えたのは。
 ―――森の主。
 激しい雨音が轟く森の中で、主だけが静かに居座っていた。
 しかも何故か主は青白く淡い光に包まれていて、私は苦しいながらも一瞬自分の目を疑う。
 森の主が光っている。
 颯太が言ったとおり、本当にその大樹は青白い光を放っていたのだ。
 颯太は主に帰り道を教えてもらったって言っていた。
 じゃあ、私のことも助けてくれるの? 颯太みたいに?
 ヒューヒュー喉を鳴らせながら、私は何とか立ち上がった。
 洞窟の壁の土を必死で掴み、爪を立てるとその中に土が入り込んで指先に軽い痛みが走る。
 助けて。
 洞窟を出て一歩、雨の中に踏み出す。
 あっという間に大粒の雨に叩きつけられて、私のおさげ髪も、服も、何もかもが濡れて重みを増していった。
 息が苦しい体にそれがどんどん積み重なって、まるで鉛の服でも着ているかのように、私の動きは鈍くなってゆく。
 助けて。
 よろよろとしながらも何とか辿り着きかけたその時、私は主の地面から浮き出た太い根っこに足を取られて転んでしまった。
 幹のすぐ根元に倒れこんだ私は、しばらくそのまま動けないでいる。
 顔も全身もぶつけたはずなのに、もうどこが痛いのか分からなかった。
 頭が朦朧として、全身の感覚が麻痺していたのかもしれない。
 それでも私は必死に右手を伸ばす。
 反対の左手には、あの麦わら帽子が握られていた。
 変だわ、どうしてこんな時にまで私こんなもの持ってるのかしら。
 大体これを取りに来たせいで、今こんなに酷い目にあってるっていうのに。
 体を引きずって、ようやく右手が青白く光るその幹に触れた。
 こんなことしても、何の解決にはならないかもしれない。
 大体、木にお願い事をしようだなんてバカバカしいにもほどがあるわ。
 それでも、私は必死に主にお願いをしたの。
 ―――私を助けて、と。


 雨が降っている。
 たくさん降っている。
 私の命もこうして流れ出てしまうのかしら。
 森の中に木霊するのは、雨の音と私の乱れた息の音。
 主に触れた右手から何となく不思議な温かさを感じたような気がしたけれど、私は既にもう、首を動かすこともできなくなっていた。



 この国が日本って言う名前になるよりも、ずっとずっと前からあの木はあそこに生えていて、その立派な姿からいつの間にか人々から敬われるようになっていた存在。
 それがあの森の主の言い伝え。
 森の主はずっと昔から、この土地の守り神だったんだって。
 でもいつの間にか人間たちに忘れられて、その木は今も森の中でひっそりと私たちを見守っているって。
 何をするでもなく、ただ見守っているだけ。
 でもその大樹はいつもあの森の中で長く広く枝を伸ばし茂らせて、「その時」をじっと待っているんですって。

 私はあの後の記憶がすっぽり抜けていて、気が付けばおばあちゃん家の布団の上で寝かされていた。
「……『その時』って何?」
 枕元でゆっくりとお話ししてくれるおばあちゃんに、私はぼんやりした頭でそう尋ねる。
「あの木は昔から人間が大層お気に入りって逸話があってね、だから人間に頼られるのが嬉しいんだってさ。変な木さ」
 森の主は人々から忘れ去られた今でさえ、人間に頼られるその時を待ちながらひっそりとそこに佇んでいるのだと、おばあちゃんは笑った。
 そして私の喘息発作はそんなに大したものではなかったらしく、私はおばあちゃんの言うところの「的確な処置」ってやつで病院にも行かずに済んだんだって。
 結局、使わないって決めていたあの携帯吸入器のお世話にはなっちゃったんだけれど。
 でも変ね、あれは確かに大きな発作だと思ったんだけどなぁ。
 こう見えても喘息歴は長いんだから、自分の発作の程度くらい経験で分かるのよ。
「じゃあどうして……?」
「何か言ったかい、すずな」
「ううん、嘉子さん。何でもない」
 おばあちゃんは氷枕を私の頭の下に入れると、もう一つタオルにくるまれた小さいものを私のわきの下にも入れた。
「ひゃあ、冷たい」
「氷枕よりこっちの方が体温を下げるのに手っ取り早いんだ。まあ我慢しなさい」
「うん」
 喘息発作はそれで何とかなったけれど雨に打たれたせいで風邪をひいてしまい、今私はこうして高熱で寝込んでいる。
 熱で少しぼおっとする頭で、私はおばあちゃんの顔を見上げた。
「ねえ嘉子さん、本当に私の発作って大したことなかったの?」
「そうだよ、まあお前が倒れてる所を見た時はさすがに私も慌てたけどね」
 私が意識を失ってしまった後、雨が降っても帰ってこない私を心配したおばあちゃんが、颯太の家に電話をかけたらしい。
 それで颯太は慌てておばあちゃんと一緒に私を探しに出て、森の主の根元で倒れてる私を発見したんだって。
 でもおばあちゃんが森の主の事知ってるなんて、本当にびっくりだわ。
 もしかしてあの木は、結構有名だったりするのかしら。昔守り神だったって言われてるくらいだし。
「ねえ、嘉子さん」
「なんだい?」
「森の主って、この辺の人はみんな知ってるの?」
「森の主……?」
 一瞬変な顔をしたおばあちゃんだったけど、すぐに「ああ、あの大きな木のことかい」と言うと、こう続けた。
「私が小さい頃は、あの木の側の洞窟でよく遊んだものさ。まあ今となっては知ってる人間もそういないだろうけど、私はよく知ってるよ」
 じゃあなに?
 おばあちゃんは私たちよりもずっと前からあの秘密基地で遊んだ事があって、だから当然よく知ってるわけで。
 つまり私たちの「仲間だけの秘密」っていうのは、始めからおばあちゃんにバレバレだったってこと?
「……はあ」
「なんだい、子供が溜め息なんかついて」
 だっておばあちゃん、私たちこれじゃ何かバカみたいじゃない。
 声に出さずにそう呟いて、私はもう一回溜め息をつくのだった。

 天井を見つめて色んな形をした木目を視線でたどりながら、私は森の中の出来事を振り返る。
 それにしても、あれは今でも思い出すだけでぞっとする経験だった。
 本当に息が止まりそうで、このまま死んじゃうのかと思ったほどよ。
 やっぱり、森の主が助けてくれたのかな……?
 雨が降りしきる中、悠然とそこに佇んでいたあの大きな木。
 青白い光をまとったあの不思議な木が、私の発作を治してくれたのかもしれない。
 人間に頼られるのを待っているという、お人よしで、大きなずうたいの森の守り神が。
「ほら、あんたは大人しく寝てなさい」
 おでこを軽く突かれて、私はわずかに首をすくめた。
 この熱が下がったら今度、森の主にお礼を言いに行こう。
 うん、そうしよう。
 ふと壁際に掛けられている麦わら帽子が視界に入って、私はそこで視線を止める。
 私がこうして寝込んでもう二日。
 結局蛍も見れないままだし、あれ以来颯太と祐司の顔は一度も見ていなかった。
「……薄情なやつら」
 肌布団を頭までかぶりながら、私はおばあちゃんに聞こえないように小さな声でそう呟く。
 家だって近いんだから、お見舞いくらい来てもいいと思うのよ。
 まあ、来たら来たでうるさいんだろうけど。
 おばあちゃんが出てゆくと、私の寝かされているこの部屋はあっという間に音が消えてなくなってしまった。
 聞こえてくるものと言えば開け放たれた窓から蝉の声が時どき入ってくるくらいで、本当に何の音もない空間になってしまう。
 いつも病院で、東京の自宅で、一人ベッドの上で寝込んでいる過去の自分が思い出されて私は思わず顔をしかめた。
「やだな……」
 早く風邪が治らないかな。
 外に遊びに行きたいな。
 森の主にも、早くお礼に行かなきゃ。
 こないだ颯太が「蛍はもう終わり」って言ってたから、私はこのまま見れずに終わっちゃうんだろうなぁ。
 寝てるだけで他にやる事がないから、私の頭はこんな事ばかり考えてしまう。
 自然と目に涙が浮かんできて、私はそれを肌布団の柔らかい布でぐいぐいと黙って拭った。 



 コンコンと窓を叩く音がして私が目を覚ましたのは、もう夜になってからのことだった。
 部屋の中は真っ暗。眠っている間に、いつの間にか夜になっていたみたい。
 ぼうっと天井を見ていると、また窓を叩く音がしたので私はそちらの方を見る。
「……誰?」
 おばあちゃんの家は平屋の一階建てで、私の部屋も普通に誰かが窓を覗ける高さにある。
 窓は昼間のまま開けっ放しだったので、そこにいる人影は網戸を開け、少し身を乗り出すようにして私に話しかけてくるのだった。
「まだ熱あるのか、すずな?」
 聞き覚えのあるその声に、私は上半身を起こして目を見開く。
「颯太?」
「すずなちゃん、大丈夫ー?」
 驚いたことに、そこにいたのは颯太だけじゃなく祐司もいた。
「ちょっと、あんたたちこんな遅い時間に何やってるのよ。ちょっと待ってて、今電気つけるから」
 二日寝ていたおかげで、私の体は昼間よりも随分身体も楽になっていた。
 でもゆっくりとした動作で起き上がろうとする私を、颯太の声が押しとどめる。
「あー、待て待て。電気つけるな」
「何で?」
「いいからいいから。すずなちゃんはそこで座っててよ」
 二人が何を言いたいのかよく分からなかったけれど、結局私は布団の上に素直に座ることにした。
 そのうち暗がりで二人が何かごそごそしだしたので、一瞬私に不安がよぎる。
 蝉爆破の件もあるし、この二人がこんなふうにやってる姿を見ると、やっぱりろくなことをしていないんじゃないかって思っちゃうのよね。
 これって偏見かしら。
「すずなちゃん、ちょっと目をつむってて」
「えっ、何で?」
 一瞬全身で拒否反応を示した私に、颯太が苛ついたように言った。
「何だよお前、俺たちのこと何か疑ってんのか?」
「うう、別にそういうわけじゃ……」
 今までの私なら「当たり前じゃない」と啖呵を切るところなのに、変だわ。
 こんな弱気なことしか言えないなんて、熱でよっぽど身体が弱ってるのね私。
 仕方無しに素直に目をつむり、私はそのまましばらくじっと待つことにする。
 本当に真っ暗闇の中でも、やっぱり二人が何かをしている音だけが妙に耳について、私は何だか居心地が悪かった。
 大丈夫よね、変なことしてないわよね。
 いまいち私が信用しきれないのは私のせいじゃないわよ。うん。
「もういいぞ、すずな」
 颯太の声がして、私はそっと目を開けた。
 そしてそこにある光景はまさに別世界。
 暗い部屋の中で、たくさんの光が舞っていた。
 ゆっくりゆっくりと目の前を通り過ぎてゆく、ぼんやりとしたその小さな光。
 点いては消え、消えては点いて、空中を浮遊するその淡い色。
 森の主の不思議な青白い光と違って、それは透き通った黄緑色の光で、私はそれに視線が釘付けになってしまった。
「これが、蛍?」
 私の部屋の中に飛び交う蛍は、ちょっと数えただけでも十匹以上いた。
 すごい、これが全部本物の蛍なんだ!
「きれい。蛍の光って、こんなにきれいなのね」
 一所懸命その光たちを目で追いながら、私は笑みを浮かべた。
 もう今年は見れないと思ったのに、颯太と祐司が私の為に捕まえてきてくれたんだ。それもこんなに。
「じゃあ、今日はこれで帰るわ。嘉子とかーちゃんに見つかったらうるせーし」
「じゃあね、すずなちゃん。おやすみー」
 蛍に見入っていた私は、その声でやっと我に帰って窓の方を見た。
「あ、うん、おやすみ」
 でもそう言ってからすぐに「あの」と言って、私は二人を思わず引き止める。
 薄情なやつだなんて思って、ごめんなさい。
 まず始めにそう心の中で呟く。
 そして一息つくと、私はできる限りの勇気を振り絞って二人に向かってこう言った。
「本当に、ありがとう」
 今まで同い年の子にこんなに素直になったことなんて無かったから、言った瞬間思わず自分でも赤面してしまった。
 窓の向こうの二人がどんな顔をしてるのかは暗くて分からなかったけれど、別に変な雰囲気では無かったと思うわ。
 でも何故か、素っ気無い短い返事だけで二人とも帰っていっちゃったんだけれど。

 一人になった部屋で、私はまた元の通りに布団の上に横たわった。
 でも見上げたそこにはたくさんの蛍が飛んでいる。
 一人って事は変わらないのに、ここはさっきとは全く違う素敵なお部屋だった。
「何だか夢みたい」
 ううん、これは夢じゃない。
 本当にいま自分に起こっている奇跡みたいなものなんだ。
 一つは、いま目の前で飛んでいる宝石のような黄緑色の光たち。
 もう一つは、私を助けてくれた森の主の青白くてきれいな光。
 私はここに療養に来て、その二つの光の奇跡に出会った。
 ここに来れて良かった。
 颯太と祐司と仲良くなれて、本当に良かった。
 私は部屋の中をゆっくりと舞う蛍の光を眺めながら、またまぶたを閉じて静かな夜の音に耳を澄ませるのだった。


5  
 東北の小さな町に、清々しい朝がやって来る。
 朝の空気はまだひんやりとして、気持ちの良い青空が広がる、そんな静かな朝の光景の中。
 私はとても気持ちよく目覚めた途端、とんでもない悲鳴を近所中に轟かせた。
「きゃあああああ――――っ!」
「なんだい、どうしたっ、すずな!」
 朝ごはんを作っていたらしいおばあちゃんが、包丁を持ったまま慌てて廊下を走ってくる。
 そして私の部屋を見た途端に、おばあちゃんはその目を見開いた。
「なんだいこりゃ」
 そこにあったのは、私の布団の上に転がる無数の小さな黒い点。
 よくよく見渡せば、それは布団の上だけでなく、部屋のいたる所にまんべんなく転がっていた。
「ん? 蛍かい、これ?」
 屈みこんでその黒い点―――蛍の死骸を片手で摘み上げると、おばあちゃんがもう片方の手で持った包丁と蛍の死骸両方が私の目の前に突き出される。
「きゃー! 嘉子さん私を殺す気?」
「ああ、悪い悪い」
 全然悪いと思って無さそうな顔でそう言うと、おばあちゃんは立ち上がる。
「颯太たちが捕まえてきたのかい?」
 一瞬どう答えていいか分からなかった私の複雑そうな表情を見て、おばあちゃんは溜め息をついた。
「もう蛍も時期が終わる頃だからねえ。せいぜい一、二週間しか寿命が無い虫だから、ここで一気に死んじゃったのかもしれないねえ」
「ええっ! 蛍ってそんなにすぐに死んじゃうの?」
「まあ大抵は捕まえた次の日には死んじまう事がおおいかね」
「本当に!?」
「短い間に一所懸命光ってつがいを探して、その上卵まで産まなきゃならんのに、こんなとこで死んじまうとは不憫な蛍たちだねぇ」
 頭を軽く振りながらおばあちゃんはそう言っていたけれど、本当に蛍を可哀想だと思っているのかどうかは疑問だったわ。
 だってさっきまで摘んでたあの蛍、おばあちゃんはいとも簡単に窓の外に投げ捨てたんだもの。
 でもちょっと待って。
 それじゃあ、もしかしてこの部屋のどこかに蛍が卵産んでるかもしれないってこと?
「ちょっと、冗談じゃないわよ。この蛍の死体だけでもとんでもないっていうのに!」
「おやまあ、随分と今日は調子がいいみたいじゃないか。すずな」
 おばあちゃんがいかにも面白そうな様子で、怒り爆発な私の顔を見やる。
「もう何とも無いわよ。もうっ、もうっ!」
 立ち上がって肌布団を持ち上げると、私は力任せに大きく横に振った。
 布団の上に乗っていた虫の死骸がバラバラと畳の上に落ちていって、それを改めて見ると私は心底うんざりする。
 前言撤回よ。
 やっぱりあんな野蛮人どもを信用した私がバカだったのよ。
 もう絶対許さないんだから、覚えてなさい、バカ颯太、アホ祐司!
 泣く泣くほうきで動かない蛍たちを集めながら、私は心の中でそう誓うのだった。



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