夏の少年、私の麦わら帽子 4 
  第四話、かけがえのないもの

 縁側から見える庭の囲いの向こうには電灯が一つも無く、明かりと言えば空に浮かんでいる頼りない三日月の光と、縁側の奥から届く部屋の明かりだけ。
 その少し暗い場所に私とおばあちゃんと颯太は三人揃って腰掛け、三角に切られたスイカを食べている。
 颯太は種を勢い良く庭の方へ向かってぷっぷっと飛ばし、既に四切れ目を手にとってかぶりつこうとしていた。
 どうして夜に颯太がこの家に居るかというと、貴子伯母さんとすごいケンカをして、その勢いで家出をしたかららしい。
 本当に颯太ったら、今も昔もやる事が変わらないというか、何と言うか。
 でも颯太の家とおばあちゃんの家は歩いて五分もかからない所にあるから、これで家出になっているのかどうかというのはとっても疑問なところだった。
「颯太、そんなに寝る前にたくさん食べると寝しょん便しちまうよ」
「誰が寝しょん便なんかするかよっ、ガキじゃあるまいし」
「ほうほう、言うじゃないか。聞いとくれよすずな、颯太は小学校一年の……」
「わーっ!」
 面白そうに私に何かを話そうとしていたおばあちゃんの声を遮るように颯太は大声で叫び、慌てておばあちゃんの服の裾を引っ張る。
「嘉子大明神様、そればかりはご勘弁を」
「仕方ないねえ、じゃあ明日の朝みんなの布団をたたんで仕舞うって事で手を打とうじゃないか」
「あ、ちくしょう。きたねーな」
 私の向こうにおばあちゃん、そのまた向こうに颯太が座っていて、私はその会話に入るために身体を乗り出して割って入る。
「ねえ、結局颯太は小学校一年の時に何だったの?」
「何でもねえっ!」
 おばあちゃんではなく颯太が慌ててそう答えて、私はちょっとだけびっくりして目を見開いた。
 そして颯太と近い距離で急に視線がばちんと出合ってしまって、お互い慌てて目を逸らす。
 一昨日の病院へ行く時に手をつないで以来、何だか私たちの間には微妙な雰囲気が漂っていた。
 そして祐司は未だに入院したままのお母さんの所に通っていて、それは私にとってわずかながらも救いといえる状況だったのかもしれない。
 だってここに祐司まで加わったら、もう私の頭はパンクしちゃうかもしれないもの。
 右手と左手、それぞれを握った男の子を同じように意識しちゃうだなんて、私ったら気が多いのかし……
「はっ、違うわ。違うのよ、そういうんじゃないのよーっ!」
 思わず心の声が口をついて出てしまった私を、おばあちゃんと颯太は眉間にしわを寄せて窺い見る。
「すずな、どうかしたのかい?」
 私は思いっきり首を横にぶんぶん振ると、そのせいで視界がふらつくのを必死でこらえながら言った。
「何でもないっ!」
 おばあちゃんは一瞬だけ目を見開くと、やがて呆れたように言う。
「うちの孫は変な子たちばかりだねえ」
 どういう顔をしていいか定まらない中、私は「颯太と一緒にしないで欲しい」と内心そう思った。

 スイカを食べ終わった後、まだ赤い部分が少し残っているものを選んで私は居間の方へ向かう。
 飼育ケースを開け、古くなって干からびてしまったウリを取り出した。
「ここに置いておくわよ、カブ」
 カブはのそのそ動き出して、やがてスイカの赤い部分に頭を持ってゆき、そこにじっと止まっている。
 全く動いていないように見えて、これでもちゃんとカブは蜜を吸っているのだ。
 始めの頃はそんなこと全然分からなかったけれど、じっくり観察しているうちに微妙に小さな口が動いていることに私は気づいた。
「何だお前、せっかくのカブト虫なのに遊んだりしないのか?」
「遊ぶって、どういうこと?」
 いつの間にか私の横でカブを見ていた颯太に、私はそう問い返す。
「カブト虫に紐を付けて何かを引っ張らせたり、他のカブトやクワガタと戦わせたりするんだよ。あ、こいつ一匹じゃ戦わせるのは無理か。今度また取ってきてやるよ」
「いい。そんなことカブにさせても私は面白くないし、第一、私虫に触れないもの」
「は?」
 口を半開きにして間が抜けた声を出す颯太に、私は続ける。
「虫に触れないの。だからカブもこうやって眺めてるだけでいいのよ」
「変なやつだな」
「私からしたら、何でもつかめるあんたたちの方がよっぽどおかしいわ」
「私から見たら、あんたたちはみんな、いつ何をしでかすか分からない変な子たちだけどね」
 一番最後にそう言ったのは、食べ終わったスイカの皮を載せたお盆を持って台所へ向かう、通りすがりのおばあちゃんだった。
 私と颯太は思わず無言で顔を見合わせ、そしてお互いに自然と笑いが込み上げる。
「嘉子さんひどーい」
「そうかい?」
 そうして私たちの小さな笑い声が部屋の中にささやかに流れる、その時だった。
 不意に廊下に置いてある電話がけたたましい音で鳴り出し、私は思わずその大音量にびくりと身体を揺らす。
「何だろうね、こんな夜に電話だなんて」
 台所からそのまま廊下に向かうおばあちゃんの足音が居間にいる私の耳にも届いて、まるで電話の音が全身に絡みつくような妙な錯覚を覚えた。
 ジリリリン、ジリリリン、ジリリリン。
 夜の静かなおばあちゃんの家の中、その電話の音だけが、妙に不吉なほどに響き渡っている。
 ジリリリン、ジリリリン。
 何故このベルの音が、こんなにも私の胸を重くさせるのだろう。
 私は訳も分からず、ただ自分の手の平を胸にあててじっと耐えていた。



 黒と白。その二色だけが周りを取り囲む大広間。
 正面に置かれた立派な台の上には、祐司のお母さんの微笑んだ写真が置いてある。
 その台を囲むように、たくさんの花が一所懸命支えるように寄り添っていた。
「すずな、これを」
 そう言っておばあちゃんが私に渡したものは、小さな珠がいっぱいつながった輪っかだ。
 その数珠を握り締めて、私は呆然としながら一歩一歩畳の上を歩いてゆく。
 黒い服を着たおじいさんとおばあさん、それにおじさんが一列に並んで座っているその端っこに、祐司が黙って座っていた。
 下を向くでもなく、泣いているでもなく、ただ、前だけを見つめている。
 ゴショウコウっていうのをやる人が頭を下げると、そこに座っている皆も頭を下げるので、祐司も機械的な動きでそれに習っていた。
 いつものニコニコした祐司はどこにも居なかった。
 ただ、祐司の抜け殻だけがそこに居た。

「佳代さん、生まれつき心臓が弱かったんでしょう?」
「一度は良くなりかけたらしいんだけどね、身体が弱いのに無理を押して子供を産んで、それでまた身体を壊しちゃったらしいのよ」
「そう、可哀想にねえ」
「前日にお見舞いに行った人から聞いたんだけど、すごくニコニコしてらして急にこんなことになるなんて思わなかったって」
「急な発作でしょう? 本当、人間なんていつどうなるか分からないわよねえ」
 無神経な大人たち。
 庭先で四人くらいのおばさんが集まって話しているのを聞きながら、私は黙って立ち尽くしている。
 祐司のお母さんは、本当に死んでしまったのかしら。
 お見舞いに行った時はあんなに笑っていたのに。
 お棺の中で横たわる祐司のお母さんの顔は綺麗に化粧されていて、かえってあの時よりももっと生き生きと、そして綺麗な顔をしていた。本当に、ただ、眠っているだけじゃないかって思えるほどに。
 そうだ、きっとおばさんは眠っているだけなんだ。
 私はぼんやりと顔を上げる。
 横目に涙でぐちゃぐちゃの顔をした颯太が見えたけれど、私は気にしないことにした。
 おばさんは寝てるだけなんだから、颯太がこんなに泣く必要はないのに。
「最後のお別れをしてあげてください」
 部屋の中にある花、庭先に並べられていたもっとたくさんの花を首元でちぎり、それを集めて入れた箱がみんなの前に差し出される。
 私も白い菊の花を手に持たされて、もう一度お棺の中で横たわる祐司のお母さんを覗き込んだ。
 病室の窓から差し込む日差しの中で、透き通るように白い肌をして微笑んでいた女の人。
 私の耳元で、優しくひそひそ話をしてくれた柔らかなくすぐったい声。
 その温かくて柔らかい手で、私の手を握ってくれた祐司のお母さん。
 既にたくさんお花が積み重なっている中、私も持っていた菊を何となくそこに置いた。
 その時花を置いたすぐ側にあった、祐司のお母さんの組んだ手がふと視界に入る。
 おばさんの手は元々白かったから、見た目にはそんなに変わらないような気がした。
 ほら、やっぱり眠ってるだけじゃない。
 私は自然と手を伸ばし、その手に触れる。

 ひやり、とした。

 まるで陶器でも触っているかのように、それは温度を持たなかった。
 柔らかいはずの肌は、少し固めの粘土のような感触がする。
 ――――それは、命を持たないものの「手」だった。

 私は口を小さく震わせ、数歩後ずさりをした時に足をもつれさせてしりもちをつく。
「すずな?」
 横にいた颯太の涙声が、気遣わしげに私に問いかけた。
「どうして」
「……え?」
 私はそう一言だけ呟いた後、そのまま祐司の家を飛び出した。
 信じたくなかった。「人が死ぬ」っていうことを、どうしても認めたくなかった。
「どうしてっ!」
 一所懸命走りながら、私は大きな声で叫ぶ。
 どうして祐司のお母さんは死ななければならないの? 
 どうしていつか人は死んでしまうの?
 どうして?

 おばあちゃんの家に着くと当然ながら玄関には鍵がかけられていた。
 しばらくそこで座っていると、後から追いかけてきただろうおばあちゃんがやって来る。
「すずな、一体どうしたんだい」
 でも答えようとしない私を見て、おばあちゃんは一つ溜め息をつくと玄関の鍵を開けてくれた。
「こんな所に座ってないで、とりあえず中に入りなさい。すずな」
 両脇を持たれて引っ張り上げられると、私はそのまま促されるように家の中に入る。
 何だか身体に上手く力が入らなくて、私は頭がどうかしてしまったんじゃないかって自分でも思った。


 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
 おばあちゃんが夕飯を作り始めて、包丁の音とお味噌汁のにおいがした。
 テレビでは夕方のニュースが始まっていて、いつもならアニメを見るところだったけれど、何故かチャンネルのダイヤルを回す気にはなれない。
 居間の畳の上に座り、私は何となく飼育ケースの中を眺める。
「……カブ?」
 いつもは木の枝か餌の辺りにいるはずが、カブは何故か飼育ケースの隅っこで固まっていた。
「どうしたの、ねえ」
 カブがいる辺りを、ケースの外側からコンコンと叩いてみる。でも、カブは全く動こうとはしなかった。
 だから今度はケース自体を大きく横に振ってみる。
 その振動で、カブの身体が横に倒れた。そして倒れたまま動かない。
「カブ!」
 カブは死んでいた。
 何故かカブも死んでしまった。
 どうしてみんな死んでしまうのだろう。
 声を聞きつけたおばあちゃんが台所からやって来くると、私の頭を優しくなでながら言う。
「カブト虫の成虫は冬を越せないんだ、これが寿命だったんだよ」
「でも、でも……」
「この子がいた森に返してやりな、それが一番の供養だ」
 私が黙ったままでいると、おばあちゃんはまた静かに続ける。
「どんなものにも命はたった一つしかない。かけがえのないものだからこそ、こんなに愛しいものはないんだろうねえ」
 たった一つの命、かけがえのないもの。
 おばあちゃんの声が私の心に染み入ってくるようだった。
 ゆっくりと、静かなその声がだんだんと私の頭を鮮明にさせてゆく。
「……うん、分かった」
 そううなづいた時に、私の目から大きな涙の粒が幾つも幾つも零れ落ちた。
 一度流れ出すとその涙は止まる事がなくて、私は身体を大きく震わせながら息を吸い込む。
 祐司のお母さんも死んじゃったんだ。
 今やっと、初めてその事実が私の心の中にすとんと入ってきたから。
 もう会えないんだと思ったら、余計にたくさんの涙が溢れた。
「すずな、ゆっくり息をして」
 ひゅーひゅーという息の音を、私は久しぶりに聞いたような気がした。
 息が苦しい、胸も苦しい、何もかもが苦しい。
 窓の外に見える空は真っ赤に染まっていて、もう太陽が山の向こうに沈み込もうとしていた。
 明日になったら、カブを森に連れてゆこう。
 生まれた森に、返してあげよう。



 それを思いついたのは、お布団に入ってから大分経ってからのことだった。
 何となく寝付けなくても無理に目を閉じていた間に、私はあることを思い出したのだ。
 森の主。
 私を発作から救ってくれた森の主なら、祐司のお母さんもカブのことも何とかしてくれるかもしれない。
 どうして今までそのことに思い至らなかったんだろうと私は思ったけれど、今はそんなことより、これから起こるだろう奇跡のことですぐに頭がいっぱいになってしまった。
 早く朝になれ、朝になれと唱えたけれど、よく考えてみれば主が光るのっていつも暗くなり始めてからのことだ。
 もし主が太陽の出ている間は力を見せてくれないとしたら、朝になってからじゃ遅いんじゃないかしら……。
 そう思った途端に私の心臓はまたドキドキと言い始める。
 壁に掛けられた時計はコッチコッチ言うだけで全然進んでくれなかった。
 私はもう我慢しきれずに起き上がると、カーテンを少しだけ開けて外を見る。
「まだ暗いなあ」
 真っ暗というほどでもなかったけれど、街灯も無いこの田舎では何か明かりが無ければ外を歩くことはできそうになかった。
 そのままパジャマを脱いで服を着替え、ポシェットを肩にかけてそっと自分の部屋を出る。
 おばあちゃんの部屋まで足音が届かないように気をつけながら廊下を進み、居間の棚にある懐中電灯を手探りで探し出して明かりをつけた。
 蛍は見に行けなかったけれど、いつか使う時が来るかななんて思って、何気にチェックしておいたのよね。さすがだわ、私。
 部屋の隅に置いてある飼育ケースに懐中電灯の光を向ける。
 静かにケースのふたを開けると、横倒しになったままのカブがそこにいた。
 一度はためらい、でも心を決めて私は自分の手を中に突っ込む。
 そっと左手でカブを掴むと、硬くてつるりとしたその背中に触れた。
 背筋に気持ち悪い緊張が一瞬走ったけれど、私は何とかそれを押さえ込んで大事に大事にポシェットの中にカブを入れる。
 そのまま玄関まで行き、靴を履き、鍵を開け、音を立てないように玄関の戸を開けた。
 一歩踏み出した外の夜は、物音を立てるのがはばかられるほどに静かな暗闇で、昼間と違ってひやりと心地良いくらいの温度の空気が漂っている。
 目が慣れれば何となく道は見えるし、懐中電灯があればきっと大丈夫。
 さあ、行こう。
 祐司のお母さんとカブのために、少しでも早くお願いに行かなくちゃ。
 いつものあぜ道はさすがに通ることはできないけれど、私はこうして主のいる森に向かって、意気揚々と歩き始めたのだった。


 ガサガサいっているのは、きっと私が踏みしめている木の葉や草のせい。
 あっちにもこっちにも真っ黒い影がお化けの形に見えるのは、木のウロや枝に茂る葉っぱ、それに無駄にたくさん生えている大きな草のせいよ。絶対そうよ。
 時どき風が吹いて木の枝や草がザワザワ音を立てると、そこから何かが飛び出して来るんじゃないかと私は思わずびくびくしてしまう。
「ひゃあ!」
 うっ、何が肩に触れたかと思えば、木の枝じゃないの。もう。
 真っ暗な中で見る森はいつも昼間に見る時とは全然違っていて、私は一瞬お化けの国に迷い込んでしまったような気分にさせられた。 怖いけど、ここで引き返したらダメなのよ、すずな。
 私は一所懸命自分にそう言い聞かせて、ゆっくりだけれど何とか主のいるところへ向かう。
 幸い主の居るところまでは途中まで道が造られていたから、暗い森の中でも早々に迷うことは無かった。
 問題はその道が全く無くなってからの、いわゆる獣道を草をかき分けて通らなきゃならないってことなんだけど。
「やだなあ、こんなとこで変なものに会ったらどうし……」
 その時、私は急に近くの藪の中から何か大きなものが出てくるような音がして思わず振り向く。
 その途端に顔に眩しい光がまともに当てられて、一瞬で視界が真っ白になった。
 私は反射的に叫び声を上げる。
「きっ……」
 上げたつもりだったんだけど、それは誰かの手に口を塞がれて不発に終わってしまった。
 代わりにとんでもなく大きな緊張が私を襲い、手と足の先から波のようにさあっと血が引いて行く。
 心臓がバクバク言い出して、その動きまでもが今の私にはありありと感じられた。
 怖くて怖くて思わず手足をめちゃくちゃに動かすと、肘が何かに当たってその途端に聞き慣れた声が聞こえる。
「痛って、バカ俺だってすずな。暴れるな」
「え、颯太?」
 解放されて振り返った私が見たものは、右のほっぺを痛そうにさすっている颯太だった。
「大丈夫、颯太?」
 もう一度もとの方に視線を戻した私が見たものは、懐中電灯を持って立っている祐司だ。
「な、何だ。脅かさないでよ二人とも」
「俺だってびっくりしたぞ、何でお前がここにいるんだよ」
「颯太、颯太。ここにいる理由は一つしかないでしょ」
 その祐司の声はいつもと変わらない柔らかな口調で、昼間見た時のような無機質な感じはしなかった。
 ただ、まだ元気は無さそうだったけれど。
 結局私たち三人は同じことを考えて、同じように夜中になってから抜け出し、そしてここでばったり集結したというわけだった。
 颯太と祐司は森の手前で先に合流していて、先の方をのろのろ動く怪しげな光を見て近づいてきたらしい。
「何よ、その『怪しげな光』って、私の懐中電灯のこと?」
「てっきり人魂じゃないかと思ったんだけどなあ。人魂の正体は、生意気ないばりんぼう女だったのか」
「誰がいばりんぼうよっ!」
「すずなちゃん、大きな声を出すと響くから」
 しーっと口元に指を一本立ててそう私に言う祐司の小声に、私は思わず自分の口元を抑える。
 いくらここが他の家から離れている場所でも、こんな静かな夜中に森の中から悲鳴や大声が聞こえてきたら、誰かが聞きつけて何事かと思うかもしれない。
 ああそうか、だから颯太も咄嗟に私の口を塞いだのね。
 そう納得はしたけれど、それでも私の心臓はまだ元気に跳ね上がっている。
 三人に増えたのはいいけれど、結局この先の獣道を行くことには変わりないし、この夜の森が私にとってお化けの国に思えることには違いないのよ。
 先を行こうとする颯太と祐司がふと後ろを振り返り、何となく立ち止まっている私の方へ戻ってきた。
 以前はこの森の中であっさり私を置いていった二人も、さすがにそこまで鬼じゃなかったみたいだ。
 でも私がびっくりしたのは、颯太と祐司、ふたりが同時に私の方に手を差し伸べてきたことだった。そして驚いたのは私だけじゃなかったみたいで、颯太と祐司はお互いに顔を見合わせる。
「あ、あの」
 私がどう反応していいか分からずに困っていると、二人はいきなりお互いの肩をバシバシと叩き合った。微妙に含み笑いっていうのか、苦笑いっていうかよく分からないような顔をして。
 何なのよ、何が言いたいのよ。ちゃんと言ってくれなきゃ私には分からないじゃない。
 何だか二人だけで盛り上がってるのを私が眉をひそめて見ていると、いきなり二人の手が同時に私の右手と左手、それぞれを持ってぐいと引っ張った。
「ひゃっ」
「さあ、行くぞ」
「うん、行こう」
 何がどうなったのかは分からないけれど、こうして私たち三人ははぐれないようにしっかり手をつなぎ、主の元へ歩いて行ったのだった。



 神様っていうものは本当にいるのかしら。
 大晦日や新年のお参りで人に揉まれながら必死に歩くのをテレビで見るたび、私がいつも呟くその独り言。
 世の中にはこんなに健康な子供が溢れかえってるのに、私だけに喘息って言う病気をくれて治してくれなかったり、休みがちの学校の行事に出られなかったりする時にも私は思ってたわ。
 神様なんてこの世にいる訳がない、って。
 でも私は森の主だけは信じているの。
 本当に私のことを助けてくれたんだもの、疑ったりしちゃ失礼よね。
 人間のことが大好きな、大きな大きな木の神様。
 きっと叶えてね、私たちの想いを聞いてくれるよね。
 そしたら私、来年の夏休みもここに来て森の主にお礼を言うわ。
 その次の年も、その次の次の年も。大人になってもずっと。

 私たちが主の前に辿り着いたのは、あれからしばらく経ってからの事だった。
 危うく道を間違えそうにもなったけれど、颯太が小さな頃からこの森で遊んでいたおかげで何とか迷わずにここまで来る事ができたのだ。
 危ない、危ない。あのまま私一人で歩いていたらどうなってたか分からなかったわ。
 だってもう、本当にここは真っ暗な世界なんだもの。
 夜の森の中で見上げる森の主は何だかとっても異様な雰囲気で、私は思わず唾を飲み込んでのどを鳴らせる。
 主がそこかしこに広げた枝に茂る葉っぱがザワザワと音を立てるたび、どこからか主の声が聞こえてきそうな気がして私は緊張した。
 ポシェットの中からカブを取り出し、私は主に向かって語りかける。
「ねえ、主さんお願いします。祐司のお母さんとカブの命を元に戻して下さい」
「あれ、そのカブト虫死んじゃったのか」
 颯太が小さな声で言うと、私は無言でうなずいて答える。
 真っ直ぐ主を見上げ、私はもう一度お願いした。
「お願いします、主さん」
「お願いします、森の主」
「頼むよ、主」
 三者三様の言葉から発せられる気持ちは、みんな同じもの。
 大切なものを取り戻したい、それだけを一心に願って私たちは森の主を必死で見上げた。
 でも、どれだけ待っても主が青白い光を放ち始めることはない。
 時おり吹く夜風に、主は小さく枝の葉っぱを揺らしているだけだった。
「どうして?」
 あの時は雨の中であんなに光っていたのに、どうして今主は全く反応してくれないの?
「ねえ、主さん。どうしちゃったの、ねえ?」
 カブを持っていない方の手で、私は軽く主の幹を叩く。
 主と言ってもやっぱりそれはただの木で、だんだん叩く手に力を込めて行く私の手の平に、その時何かが刺さった。
「痛っ」
 主の樹皮のささくれ立った所が刺さったのだ。指で挟んでそれをゆっくり抜くと、幸いとげは皮の中に残らず取り除く事ができる。
「大丈夫?」
 心配げに覗き込む祐司に、私は笑ってみせた。
「うん、平気。血だってちょっとしか出てないもの」
 そういいながら私は手の平の刺さった部分をぺろりと舐める。
「でも、どうして?」
 どうして主は光ってくれないんだろう。
 段々と期待に膨らんでいたはずの心が、あっという間に不安の色に染まってゆく。
 お腹の奥がきゅうって苦しくなってきて、私は思わず顔をしかめた。
 もしこのまま森の主が願いを叶えてくれなかったら、祐司のお母さんは二度と戻ってこない。
 あの温かい優しい手は、二度と触れることはできない。

 どんなものにも命はたった一つしかない。
 かけがえのないものだからこそ、こんなに愛しいものはないんだろうねえ。

 その時、おばあちゃんが夕方に言っていた言葉が、急に私の頭の中に蘇った。
 ダメなのだろうか。一度亡くした命は、やはり二度と戻っては来ないのだろうか。
 ――――たとえ、森の主にお願いしたとしても。

 私はカブをポシェットにしまい、今度は両手でコブシを作って主を叩きつける。
「ねえ、お願いします。主さん!」
 声を上げ、何かをしなければ不安で不安で押しつぶされてしまいそうだった。
 主を叩きつける私の手が真っ赤になっても、たとえ皮が剥けたとしても私は黙って立っていることなんてできなかった。
「ねえ森の主、聞こえてるんでしょ? どうして答えてくれないの!」
 思い切り力を込めて主を叩きつける。
 酷いと思った。
 こんなに信じていたのに、聞き入れてくれない主はなんて酷い神様なんだろうと思った。
 やっぱり神様なんていないんだ。
 世の中はなんて不公平なんだろう。
 健康な人と、病気で苦しんでる人。両親がいる人と、祐司のように居なくなってしまった人。その分かれ道を選択された理由は何? 
 私はどうしても納得がいかなかった。
 信じていたのに。
 主だけは裏切らないって信じていたのに。
「信じてたのに!」
「やっぱり、ダメなのかな」
 その声に横を振り向くと、祐司が顔を下に向けて立ち尽くしている。
 その無気力な姿がどうしても気に食わなくて、私は思わず祐司に怒鳴りつけた。
「どうしてあんたが一番先に諦めるのよ、どうしてあんたはいつもそうやって大人ぶってるの!?」
「別にそういう訳じゃ……」
 祐司はお葬式の時も泣かなかった、そして今も泣かない。なのに、
「どうして私がこんなに一人で怒って、必死で泣くのを我慢しなきゃならないのよ。あんたおかしいわよ!」
 興奮して目をしばたかせた瞬間に、私の目から大きな涙の粒がたくさん零れ落ちる。もう人前で泣くのがどうとかいうこだわりは、この際どうでも良かった。
「僕だってずっと前からお母さんの病気が治るようにお願いしていたよ!」
 急に今まで聞いたことも無かったような大きな声を上げて、祐司は私にそう怒鳴りつける。
 私は思わず声を無くし、祐司を見つめた。
「何度も、何度もお願いしたさ。でもお母さんの病気は治らなかった、主は叶えてくれなかった!」
 そう言われてから私は今更ながらに気が付く。
 そうだ、祐司は以前森の主のことをとても真剣な目で見上げていた。あの時にきっと彼はお母さんのことを胸の内でお願いしていたのだろう。
「僕……お母さんが、『笑って』って最期に言ったんだ、僕の笑顔が大好きって」
 唇を噛み、眉根を寄せ、一所懸命そうなることを祐司は必死にこらえていた。その小さく震える肩がまるで寒さに震える小鳥のように思えて、私は自分がどれほど彼に酷いことを言ってしまったのかを知って顔を歪ませる。
「だからまだ上手く笑えないけど、せめて泣かなければお母さんも寂しくないと思っ……」
 祐司の声は、そこで絶句した。
 のどの奥から込み上げてくる嗚咽。あっという間に目頭に溜まる涙は祐司の頬をつたい、流れ落ちてゆく。
「僕、泣いちゃダメだって……ひっく、でも……ひっく」
 腕でグイグイと顔を拭っても拭っても、祐司の涙は止まることは無かった。
「祐司、ごめんね、ごめんね」
 そう謝りながら、私ももう我慢できなくなってついに大声を上げて泣き出す。
 気が付けば、颯太も一緒になって大泣きしていた。
 私たちはみんな揃って、森の主の下で一緒に泣いていた。
 どうして私たちはこんな夜中に、しかも偶然に三人揃ってここまでやって来たのだろう。
 きっと泣くことのできない祐司を心配した森の主が、私たちをここに呼んでくれたのではないかと私は思った。
 かけがえのないものだからこそ、こんなに愛しいものはない。
 おばあちゃんの言葉の通り、私たちはそれを今日身を持って知ることになったのだ。
 祐司のお母さんはもう帰ってこない、カブももう生き返ることはない。
 だけど私たちはまた笑えるようにならなきゃいけない。だから今、みんなで泣いておこう。
 明日のために。


 大きな木の下で、私たちは泣き疲れて猫の子供みたいに身体を丸めて寄せ合って眠る。
 その夜に見た夢の中にまで森の主が出てきて、私たちの頬にひとしずくごと朝露をこぼしていった。
「ごめんね」
 主がそう言っているようで、私は夢の中でこう答えたの。
「とんでもないわ、私たちをここに呼んでくれてありがとう」と。
 その時どこかでかいだことがあるいい匂いがしたけれど、私はそれが何の匂いだったか思い出すことができなかった。
 ふんわりとした、どこか優しいその匂い。
 頭をなでてくれたような気がしたけれど、それが夢の中のことなのか、それとも現実のことだったのかはよく分からなかった。
 私たちはここで夢を見る。
 ステキな、ステキな夢を……。



「すずな、すずな」
 軽い振動で私はぼんやりと目を覚ました。
 そこにいたのはおばあちゃんと颯太のおじさんとおばさん、それにうろ覚えだけど多分祐司のお父さんだった。
 颯太は貴子伯母さんに頭を叩かれて文字通り叩き起こされ、祐司はお父さんに声をかけられる前に颯太の大声で目を覚ます。
「痛ってーな、何すんだよ暴力ババア」
「何生意気なこと言ってんの、どんだけ心配したと思ってるんだ、このバカ」
 もう一つ頭を叩かれて颯太は顔をしかめ、その場にいる他のみんなからは笑い声が漏れた。 
「もう、お母さんが大丈夫って言い張るから先にここにやって来たけど、そうじゃなかったら警察に電話するところだったんだからね!」
 そう言いながらぎゅうと颯太を抱きしめる伯母さんは大きな息を吐き出す。
 そうね、夜に出かけるなんて絶対許してもらえないから黙って出てきちゃったけれど、そりゃ大人からしたらびっくりするわよね。朝になったらいなくなってるんだもの。
「嘉子さん、心配掛けてごめんね」
 おばあちゃんの服の裾をきゅっと掴み、私はそう呟いた。
「まあ懐中電灯とカブがいなくなってるのを見て、大抵予想はついたけどね」
 背中をポンポンと叩きながら、おばあちゃんは優しくそう言ってくれる。
 横目に、伯母さんに抱きしめられる颯太を微笑みながら眺めている祐司が見えた。
 祐司は笑っていた。でもきっと、まだ辛い気持ちはあるに違いない。
 そう思って見ていると、お父さんが祐司の手を取って何かしら話し掛け始め、私はそのまま視線を逸らした。
 でもきっと大丈夫。私たちのこれからは、全部が全部辛いことばかりでは無いはずはなのだから。
「さあ、帰って朝ごはんにしようかね」
 立ち上がろうとするおばあちゃんの服の裾を引っ張り、私は慌てて言う。
「待って、カブをここに埋めてあげなきゃ」
 ポシェットからカブを取り出すと、私は周囲を見回してちょうど良さそうな枝を探す。
 草むらに転がっている枯れ枝を掴むと、また主の根元に戻ってきて盛り上がった根っこの間にある土の空間に穴を掘り始めた。
「今までありがとう、カブ」
 最後は三人で心を込めて土をかけて、私たちはこうしてカブを森に還したのだった。

 その時、私の目の前をすいと通り抜けてゆく何かの影が一つ。
 それを目で追うと、羽をピンと広げて飛んでゆく大きなトンボだった。
「あれを見ると、もう夏も終わりだなって毎年実感するねえ」
 トンボはそのまま木々が密集した向こう側へ真っ直ぐ飛んで行く。
 見えなくなったところでそのまま視線を真上まで移すと、そこにある空は淡い水色で、ずい分と高いところにあるように見えた。
 もうそこまで秋が近づいている。
 それは夏がもうすぐ終わるということに他ならなかった。



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