ぷろろーぐ
 明治。
 長く続いた武家社会から、全ての民が一つの「日本人」となった始まり。
 男はまげを切ってざん切り頭になり、女は袴を穿いて学校に通い出す。夜の街路には文明の象徴といわんばかりにガス灯が煌々と輝いた。
 西洋文化導入の奔流に押し流されるように、かつて江戸と呼ばれた場所はあっという間にエキゾチックな街「東京」に変貌したのである。


「――――お願いします」
 畳の上にちょこんと正座した少年は両手をつき、深々と頭を下げる。満で十歳になったばかりの座り姿はあまりにも小さく、着物の袖から出た指は緊張のためか強く押し付けられて爪先が白くなっていた。
 広くもなく狭くもない和室内は薄暗く、ランタンが一つぶら下げられていたが部屋の隅々まで照らし出すには光が弱い。
 少年の前に座っていた中年の男は、着物の袖に突っ込んだ腕を相変わらず組んだままで一つ息をつく。
「本当にそれがお前の望みなら、聞いてやれないこともない……が、本当にそれでいいのか」
「はい、伯父さん」
 上げた顔に収まる瞳には、幼い者だからこそ持ち得る純粋さに満ちていた。普段はちょっとしたことですぐ泣いてばかりの甥っ子が、実は小さな頑固者だと伯父は知っている。だから頷いた。
「相分かった。この池田密、宗太郎と男同士の約束として承ろう」
 少年――宗太郎はほっとしたように表情を和らげる。それを見て口元を綻ばせた密は襖の方を振り返った。
「さて、次の話を詰める前に一度風を入れるか。宗太郎、そこと廊下の窓を開けてくれ」
「はい」
 宗太郎は急いで立ち上がろうとする。だがあっという間に尻もちをついて転がった。焦ってすぐ立ち上がろうとするも、思い通りに身体が動かないようでついには半べそになり伯父の方を見る。
 極度まで緊張したのが一気に抜けて腰を抜かしたのだろう。密は自らの後頭部をぽんぽんと叩きながら苦笑する。
「肝が据わってるのかそうでないのかよく分からん奴だな。あー、泣くな、話が全部終わってからにしろ」
「ごっ、ごめんなさ……」
 言いかけた小さな口がしゃっくりのように何度も息を吸い込んだ。ぼたぼたと落ちる涙は留まることを知らぬように、あっという間に少年の頬一面を濡らす。
 ――これでは先が思い遣られる。密は微妙に眉根をしかめて立ち上がり、襖を開け畳敷きの廊下へ踏み出した。まだ東京でも珍しいガラス戸を開けた時、湿った空気のにおいとささやかな音に気づいて空を見上げる。雨だ。
「暗いと思っていたがついに降り出したか」
 そして振り向けば、室内でも降っていることに気づいてため息が出た。密は甥っ子を呼び廊下に並んで立つと、小さな頭に手を乗せてがしがしと乱暴に撫でる。
「あっちもこっちも今日はよく降る日だ、なあ宗太郎」

 外から流れ込む冷たい空気が上気した幼い頬を癒すように撫でる。
 規則的に響く沢山の雨音が、廊下のすぐ外にある場所を別世界のように作り上げていた。
 それに気づいた時にはもう、宗太郎の涙はいつの間にか止まっていた。
 黙ったままじいっと、降り続ける雨だけを見ていた。


第一章、不思議な世界

 平成二十年、四月。
 古めかしい木の門をくぐり、置石と砂利の庭を少女は真っ直ぐ進む。少し冷たさを残した春風が背中に垂れた黒髪を揺らし、宇喜多美雨はうるさそうにそれを手で押さえつけた。
 もう一つ新たに現れた門の木戸を開ければ、苔むした石灯篭や見事な枝振りの松が出迎える。
 制服の薄茶ブレザーにチェックの短いスカートは、有名ブランドメーカーのデザインというのが学校の売り文句だった。カタログ写真のようにリボンまで一部の乱れもなく着こなす美雨は、モデルのように長く伸びた足であっという間に玄関に至る。
「ただいま戻りました」
 日光の遮られた昔ながらの玄関に踏み込むと、外気より低い温度の独特な空気が頬に触れた。すると、ちょうど目の前の廊下を横切ろうとしていた人物が足を止める。
「ああ、お帰り美雨」
 視線を上げた美雨の口元は、一度開きかけて引きつる。
 目の前にいるのは美雨の祖父、宇喜多早雲である。齢七十一の少し元気過ぎる老人だ。
 だがその老人が、胸元の大きく開いた開襟シャツに細身のダークスーツ、屋内だというのに真っ黒なサングラスをかけていた。
 とうとう呆けたか。美雨はわずかに目を細めたが、結局何も言わずに靴を脱いで廊下へ進む。
 孫の無反応くらいで簡単にへこたれる祖父ではない。指を顎元に添え、微妙にへたったポージングをしてみせる。
「イメージチェンジに『ちょいワルおやじ』で攻めてみたんじゃが」
「今更ですか。……おやじという年齢も過ぎていますし、どちらかと言えば『ちょいボケじじい』と思われるのが妥当な線かと思います」
「いつもながら丁寧な喋り方の割に、内容に容赦がないのう」
「早雲先生、そろそろ出発しませんと展覧会に間に……きゃぁぁぁっ」
 奥の方から廊下をどたどたと走ってきたスーツ姿の女性が、早雲を見るなり仰天した。
「な、何ですかその格好。いつものお着物はどうなさったんです?」
「おお、百合ちゃん。いいじゃろう、ちょいワルおやじファッション」
 またしてもへたったポージングをする早雲の横で、美雨は「ちょいボケじじいです」と訂正するのを忘れない。
「誰が『百合ちゃん』ですか。高橋と呼んで下さい、高橋と。私は先生の秘書であってお友達ではありません! あ、美雨さんお帰りなさい」
 美雨が頷く間に、早雲は着替えのため秘書の高橋に引き摺られていった。人格はあんなだが、祖父の早雲は多くの弟子を抱える有名な書道家である。
 粛々とした雰囲気の書の展覧会に、しかも成りきれていないちょいワルおやじファッションで登場したら多分大変なことになるのだろう。芸術も普及のためにはイメージが大切なのだ。
「では行って参りますね。あ、家政婦さんは先ほどお帰りになりましたが、夕飯は冷蔵庫の中だそうです」
 秘書の高橋はあっという間に衣装換えした早雲を引っ張り、再び美雨の前を通り過ぎる時にそう告げる。
「分かりました、行ってらっしゃい」
 玄関の戸が閉まると途端に家の中から音が消え去った。
 ――年代物の大きな日本家屋は、祖父と孫娘二人きりにはあまりにも広過ぎる。

 ◇

「お、おはよう、宇喜多さん」
 黙々と登校中の美雨は、校門に差し掛かった辺りで声をかけられ振り返った。
 黒目がちの大きな瞳がじっと見上げると、男子生徒は緊張した様子で背筋を伸ばす。
 数秒の間をおき、美雨は「おはようございます」と小さく頭を下げた。そしてまたすたすたと歩き出す。
 置き去りにされた男子生徒は「あ」と小さな声を漏らしたが、それ以上食い下がって来ることはない。代わりに別の手が美雨の肩を叩いた。
「おはよう美雨」
 途端に視界が暗くなったのは相手の長身で日光が遮られたからだ。美雨の身長は百六十センチで特に小さくはないはずだが、目の前にいる同級生は百九十センチの巨人高校二年生だった。
「おはようございます、那智」
 肩にかかる色素の薄い茶髪を一つに束ね、同じく色素の薄い琥珀色の瞳をしたやたら美形な青年である。美雨と高校一年の頃からくされ縁の衣川那智は、好奇心を隠そうともせず振り返った。
「さっきの三年生よね。なに、知り合い?」
「いえ、全く知らない人です」
「可哀想に、もっと話したかったみたいよ彼。美雨はほんと男心が分かってないわねえ」
「男心……」
 口を半開きにし、微妙に眉根をしかめて見上げる美雨に那智は憮然とする。
「何度も言うけど、あたしはおかまじゃないわよ。ちょっと可愛いものが好きなだけの健全な男の子なんだから」
「はあ、そうですか」
「きいい、可愛くないわね」
「那智の図体ではどうやっても可愛くなれませんから、心配いりませんよ」
「なんですってえ」
 片や黒絹のような長い髪と黒目がちのつぶらな瞳をした大和撫子美少女。隣にいるのは、長身で天然茶髪な洋風美形王子様。
 二人の会話はとても残念なしろものだが、遠巻きに眺める他の生徒達までには詳しく聞こえない。那智君今日もカッコいいーとか、宇喜多さん可愛いなあ、くそ、衣川の野郎がまた一緒にいやがる――とか、事実とはかけ離れたところでそれぞれに感想を漏らすのである。
 すると、後方から怒涛の勢いで近づく足音に美雨の目が一瞬細まる。カバンを那智の方へ放り投げると軽く身構えた。
「宇喜多美雨ぅぅぅぅーっ」
 半歩下がって身体を開き、美雨は向かって来た男子生徒の太い手首を掴む。
「はっ」
 流れるような動作で相手ごと腕を大きく旋回させると、重心の軸を崩された男子生徒がぐるんと宙を舞う。合気道の投げ技の一つだ。
 地面に地響きをあげて倒れたものの、しっかり受身を取ってすぐに起き上がった男子生徒は高らかに笑った。
「素晴らしい、さすが宇喜多美雨だ」
「いちいちフルネームで呼ばないで下さい、ウド先輩」
「ウドではない、宇堂だ。う、ど、う。合気道部の宇堂先輩と呼んでくれ」
 朝日に白い歯を輝かせ、合気道というより総合格闘技でもやった方がいいんじゃないかと思わせる厚い胸板が薄茶のブレザーの下でうなりを上げる。
「ぜひうちの部に入りたまえ。その格闘センスは類まれなものだ!」
「遠慮させていただきます」
「なぜだ宇喜多美雨っ、君の奥には燃える闘魂が……」
 合気道部の部長、宇堂が全てを言い終える前に美雨と那智はすでに歩き去っている。
 こんな感じで、本人の意思に関わらず美雨の周囲は微妙に騒がしい。そして様々な要素が複合した結果、美雨と那智は学校中の生徒に一目置かれる存在――平たく言えば浮いていた。

「燃える闘魂。何も考えてないようで、案外鋭いのかもねえウド先輩」
 放課後のひと気のなくなった教室、那智の長い指は器用に美雨の髪を梳く。毛先をカットする音が、静まり返った室内にこだまする。
 地蔵のようにケープ代わりのビニールを首元に巻き、真剣な面持ちで雑誌を読みふける美雨は「そうですか?」とやや上の空で答えた。
「可憐な」と他の男子生徒に表現される美雨の手に握られているのはファッション雑誌ではない。文芸雑誌でもなければ、乙女必須の占い系でもなかった。
 滅多に表情を崩さない人形のごとき小さな顔がわずかに綻ぶ。その様子を横目で眺め、那智は盛大なため息をつきながら首を振った。
「ちょっと、そんなもの見て満足気に笑わないでくれる? 見てるこっちが萎えるわー」
「失礼ですね、格闘とは神聖な魂と魂のぶつかり合いです。勝つために鍛え上げた鋼の肉体、極限まで研ぎ澄まされた技。あえて限界に挑戦する格闘家の姿ほど崇高なものはありません」
 いつになく力強く語る美雨が握り締めているのは格闘雑誌だった。表紙の写真は、試合直後に撮られたであろう流血と汗まみれになった有名格闘家である。可愛いものと美しいものが全ての那智にとっては、はっきり言ってただのくさそうなおっさんにしか見えない。
「合気道は日本に来てから始めたのよね。そんなに格闘好きならもっとアクティブな系統を習えばよかったのに」
「特に、理由はありません」
「ふーん?」
 はさみを置いて微笑を浮かべる那智に、美雨は黙ってそっぽを向いた。
 見た目は可憐な大和撫子だが中身は毒舌の格闘マニア。しかしその奥に、美雨が必死に隠そうとしている部分があるのを那智は知っている。
 知っているが、特に指摘しようとは思わない。彼らはそういう友人関係の距離だった。
「さ、できたわよ。さすがあたしのスタイリングね、がさつなあんたの中身を見事にカバーする大和撫子スタイル。完璧だわ」
「実験台に使われた挙句、その言われようは何やら納得しかねるのですが」
「真のスタイリストは本人が表に出していない気持ちも汲んで実現化させるのよ」
「余計なお世話です」
「もう、意地の張りすぎはいざって時に困るんだから」
 毛を払ってケープを外し、那智は教室の隅に設置されたロッカーに歩み寄る。中から掃除道具を出そうとした時、ようやく美雨がぼそりと呟いた。
「私はこれが普通です」
 可愛らしい顔はますます憮然とし、眉間にできた小さな皺が言葉の真偽を代弁していた。


 日曜の午後。特に用事もなく買い物にでも出ようかと思った美雨は、縁側で寝転んでいる早雲を発見して一瞬ぎょっとする。
 すぐ横まで来て覗き込む。手を伸ばし、祖父の鼻をぎゅむっとつまんだ。
 十数秒の沈黙。早雲は苦悶の表情を浮かべ、ついには死にそうな形相で飛び起きる。
「ぷはぁっ」
 黒目がちの大きな瞳が、きょとんとして肩で息をする祖父を見た。
「死んでたらいけないと思って」
「たっ、たった今……危うくそうなりかけたところじゃが」
「なら良かった」
 美雨の表情は硬く、悪戯っぽい笑みはどこにも見当たらない。途中まで開きかけた早雲の口は紡ぐべき言葉を逃し、代わりにわしわしと孫の頭を撫でた。
 美雨はぼさぼさになった髪を特に気にするわけでもなく、廊下に置かれた木製の箱に目を留める。
 両手で抱えられる程度の大きさで、漆の茶色と黒い金具で装飾された正方形の立方体。部分的に色が褪せて小さな擦り傷も多く、見るからに年代物のようだ。
「何ですか、その汚いの」
 汚い呼ばわりされて一瞬がくりとした早雲だったが、すぐに気を取り直すと古びた鍵束を取り出す。
「これは船箪笥という物でな、からくり仕掛けの小物入れじゃよ」
 江戸中期から明治初期にかけて、北陸から大阪を中心に活躍した商船に乗る商人のために開発された金庫である。複雑な仕掛けの引き出しには帳簿や現金、印鑑などを入れ、驚くべきことに海難で海中に投げ出されても浮くように設計されているという。
「水に浮くなんてヴィトンのトランクみたいですね」
「ああ、美雨はそっちの方が馴染みがあるかもしれんな。……よし」
 早雲は一番太い鍵で正面の一枚扉を開ける。すると五つに区分された引き出しが現れ、更に施錠されている用意周到さだ。
「古い友人が気まぐれに譲ってくれてな」
「同世代で形見分けしても、またすぐ形見に……」
「勝手に殺すでない」
 そう言いながらも鍵束の中から鍵穴に合うものを探し、早雲は引き出しを順々に開けていく。まるでお気に入りのおもちゃを手に入れた子供のように真剣だ。
 ふと覗き込んだ美雨が首を傾げる。
「お祖父さん、引き出しの奥にもう一つ何かあるみたいですが」
「うん?」
 引き出しを引っ張り出した奥に、もう一つの引き出しがあった。二重構造の隠し扉だ。
 取っ手もなく小さな穴一つの引き出しを引っ張るには少々骨が折れたが、やっとのことで引っ張り出す。
 もらい物であるし他の引き出し同様何も入っていないと思っていたら、二人の予想は外れた。
「眼鏡?」
「ふむ、こりゃまた年代物じゃな。多分わしの親父……明治あたりの代物か」
「明治ですか、へえ」
 一見普通の眼鏡と形は殆ど同じだが、黒っぽい鋼だけで作られたフレームは細かな傷が沢山ついている。
 眼鏡を使ったことはないが、ないからこそ好奇心はわくものだ。手にとり、日にかざし、美雨はそっとかけてみる。
 果たして度の合わない視界は、全てのものをぼんやりと――――していない?
 ざわり。雑踏のざわめきが頭の中に響いた。
 すれ違う沢山の人間、道を通り過ぎる馬車。突然映画の世界に頭だけが飛び込んでしまったかのように、映像と音がリアルに美雨の脳を刺激する。
 一体自分はどうなってしまったのか。
 目の前に展開されている景色はどこか「異様」だった。
 レンガで舗装された歩道と、隣には土がむき出しの大通りが広がる。両サイドにそびえるのはヨーロッパ風の建築物だが、行き交う人間はみな着物姿なのだ。
「宗太郎」
 不意に誰かに肩を掴まれる。びくりと身体を揺らし、我に返った美雨の眼前にいるのは早雲だった。いつの間に外したのか、美雨がかけていた眼鏡が祖父の手に握られている。
「どうした、急にぼうっとして」
 美雨は慌てて周囲を振り返り、自分が確かに自宅の縁側にいることを再確認した。さっきのは何だったのだろう。
「白昼夢?」
 頭をがんがんと叩いてみるものの、何の異常も感じられない。ただ叩いた箇所が痛いだけだ。
「その眼鏡……」
「欲しいのか?」
 じいっと眼鏡を見つめる美雨を見て、祖父は笑みを浮かべた頬を指さす。
「爺のほっぺにチュッとしてくれたら考えてやってもいいがのう」
「色ボケじじい」
 美雨の冷ややかな視線を真っ直ぐ受けた祖父の手から、素直に眼鏡が渡されたのは言うまでもない。

 美雨が出かけた後、船箪笥を抱えた早雲は廊下の途中でふと立ち止まった。
 廊下の窓から差し込む日光が途中までしか届かない仏間は薄暗い。宇喜多家歴代当主のいかめしい写真が壁に飾られる中、仏壇に置かれた小さな遺影は唯一の笑顔写真だ。
「お前はいつもそうしてお気楽に笑いおって、この親不孝ものが」
 早雲の一人息子とその妻、つまり美雨の両親は五年前に揃って他界している。
 落ち着きのない息子は、外交官になって以来さっぱり日本に帰ってくることはなかった。美雨は十一歳までイギリスで育てられた帰国子女なのだ。
 出張先の国で息子夫婦はテロに遭い、五年前、早雲は遺体を引き取るために異国へ渡った。嫁は他に身寄りがなかったので、親族として出向いたのは彼一人である。
 写真でしか見たことがなかった孫娘は、沢山の大人達の中で一人泣きもせずに座っていた。
 両親がいなくなったことを悲しんでいないわけではない。感情を失くした瞳が物語るものはそれ以上の慟哭なのだと悟った時、早雲の胸は締め付けられるように痛んだ。
「それにしてもあの子は、いつまで経っても敬語が抜けんな」
 幼少時からの家庭教師に教科書的な日本語を教わっていたかららしい。
 祖父と孫、いびつな関係の二人暮らしも五年も続けば立派なものである。まあ成るようになるだろう。明るい窓の外を見やり、早雲は再び歩き出した。


 美雨はふらりと立ち寄った書店の棚から、一冊の本を手に取る。
「……明治」
 江戸の後にやって来た時代。文明開化、鹿鳴館。特に興味を持ったことがなかったので、学校の授業で習った情報は所詮そんなものだ。
 先ほど自宅で見た白昼夢は一体何だったのだろうか。
 祖父から譲られた眼鏡は家に置いてきた。ふと脳裏に蘇る、和と洋が入り混じった極彩色の世界。
 そっと本を開くと、色鮮やかな錦絵が視界に飛び込んできた。
 レンガ造りの洋館が立ち並び、整然と並ぶ街路樹とレトロな風情のガス灯。構成しているものは西洋風であるのに、それは確かにどこか日本的なのが不思議だ。
 美雨は食い入るようにして本を見る。どうしてこんなに興味を惹かれるのか自分でも分からなかった。
「大丈夫か宗太郎。そうやってぼんやり立っていると、またあらぬ因縁をつけられて面倒に巻き込まれるぞ?」
 突然後ろから声をかけられて美雨は反射的に振り返る。
 ――誰?
 背後に立っていたのは白シャツに黒いズボンをはいた青年だった。爽やかな笑みを湛えた瞳がこちらを覗き込む。整った顔の造作をしているが、全く知らない顔だ。
 青年は一瞬目を見開き、眉根をしかめる。
「大丈夫か宗太郎」
「だから、私は宗太郎という名前では」
 後ずさりし、伸びてきた青年の手を振り払う。だが美雨は二つのある事実に愕然とした。
 声が明らかに自分のものではない。おまけに、振り払った自分の手がどう見ても男の手だった。腕にかかっているのはもしかしなくても着物の袖か。
 唐突に世界が広がる。
 通り過ぎる馬車の車輪が壊れそうなほど軋んで轟音を鳴らす。歩道の端では大声を張り上げる男が、担いだ箱から紙を取り出して売り歩いていた。かいつまんで聞き取った分ではどうやら新聞らしい。
 急に現実感を伴った世界に美雨は信じられなくて顔を覆う。それで初めて、自分が眼鏡をかけていることに気づいた。髪を触る。背中の中ほどまで伸ばした髪は、縛った束が片手で全部覆えるほどに短い。
 何だか落ち着かないと思ったら視界がいつもより高かった。
「そんな馬鹿な」
「銀座で会うなんて珍しいな。時間あるなら付き合えよ、何か美味いもの奢るよ」
「銀座?」
 銀座とはどの「銀座」だ。所狭しとビルがひしめいて人も自動車もやたら多い、アスファルトとコンクリートでできたあの「銀座」ではないことは確かだ。
 だってここは空が広い。せいぜい二階建ての小ぶりな建物群は空間を不躾に占領しない。異国情緒溢れるレンガの街並みは、どこかのテーマパークか映画のセットだと言われた方がよっぽど自然に思えた。
「つかぬことをお聞きしますが……今、何年でしょうか?」
 ぐらぐらとする頭をかろうじて手で押さえ、美雨は恐る恐る目の前の青年に尋ねる。青年は怪訝な顔をしつつも、返答は明快だった。
「二十年」
「――平成?」
「は?」
 ここで「そうだ」と言ってくれたら、映画撮影だったとか理由をこじつけられるのに。そんな美雨の期待に反して青年は言った。
「何言ってるんだ。明治だろ、明治二十年。まさか慶応に戻ったとか冗談を言うんじゃないだろうな」
 そもそも慶応がいつだか知らないし。
 テストに必要なのは西暦なので、江戸時代最後の年号など美雨は知らない。
 色々な意味で軽い眩暈を感じ、美雨の足元がふらつく。もちろん履いているのは靴ではなく下駄だ。もう美雨と呼べる部分は一欠片も残っていなかった。
「あっ、ちょっ、待て宗太郎」
「え?」
 あくまでも美雨のことを「宗太郎」と呼び続ける青年が止める間もなく。
 踏んだ。
 柔らかい何か。この悪寒は――――と思考停止した美雨の横を、再び馬車が走り抜ける。
 道路に馬の「落し物」が落ちているなんて、一体現代人の誰が想像しようか。
 いや、少なくともイギリスでも日本でも都会育ちの美雨にとっては青天の霹靂。藪から棒、ん、これは少し違う。
「いえ、この際そんなことどうでも」
 呆然と呟きながら、美雨は突然訪れた妙な脱力感に再び身体をふらつかせた。
「おいおい、大丈夫かよ」
 肩を支えられる手の感触。ふと見上げて飛び込んできたのは鼻にピアス、ニット帽から金髪をはみ出させた青年の顔である。また知らない顔だ、もうわけが分からない。
 瞬間的に眉根を寄せ、今度こそは不覚を取らないようにと美雨は素早く立ち上がった。
「だから私は」
 言いかけて気づく。美雨は元の自分自身の姿に戻っていた。今立っているのは地下のショッピングモール街で、始めにいた本屋からそれほど離れていない場所である。
 鼻ピアスの男は美雨の手を掴むと軽く引っ張った。
「ほら、行こうぜ」
「どこに?」
「は?」
 怪訝な顔で振り返る鼻ピアス男と、憮然とした表情の美雨。数秒お互いの視線のやり取りで探り合いをする。
「俺が誘ったら、あんた断らなかっただろ?」
 そして言われるがままについて行こうとしていたらしい。そんな馬鹿な。
「どうして私があなたみたいに怪しげな人について行くんですか。誘拐魔?」
「はあ?」
 表情の険しくなった鼻ピアス男が一歩近づいた。美雨も負けずに睨み返して身体に緊張をみなぎらせる。するとその時、美雨の頭を第三者の手が突然ぐわしと掴んだ。
「どうした美雨、待ち合わせ場所にいないから探しただろ」
 頭越しに聞こえたのはよく知っている声である。
「那智」
 美雨の頭にもたれ掛かるように優雅に立つ長身。茶色がかった髪のやたら綺麗な顔をした闖入者は、鼻ピアスの男を見下ろした。
「で、あんた誰?」
 元々低い声を更に低くして那智は見えない凄みを声に乗せる。すると鼻ピアス男は何か言いかけたが口ごもり、結局捨て台詞を吐いて去ってしまった。
 人ごみにまぎれて姿が見えなくなるまで見送ると、途端に美雨の頭上にある手から力が緩む。
「ちょっとあんた、何であんなのにいきなり絡まれてんのよ。ナンパされる相手もちゃんと選びなさい?」
 乙女を魅了する美形騎士の仮面をあっという間に脱ぎ捨てて、那智は美雨の頭をゆすった。
「私は那智と待ち合わせの約束をした覚えがないのですが」
「ああ、そりゃそう……って、突っ込むのはそこじゃないでしょ、このぼけなす娘っ。あたしが通りかからなかったらどうなってたか分かってんの?」
 合気道で追い払うこともできただろうが、実際では何が起こるかは分からない。妙な因縁をつけられて後をつけられることだってあるかもしれないのに、と那智はくどくど説教を続ける。
 しかし美雨は、どこか気の抜けたような顔でため息を一つ吐くだけだった。
「はあ。でも私も何がどうなっているのかさっぱりなので」
「はあ?」
「何だかとても疲れたので今日はもう帰ります」
「ああ、そう」
「今日はありがとうございました、那智」
 いつになくよたよたと歩き去る美雨の背中を、那智はしきりに首を傾げながら見送った。


 最近、自分の頭はすっかりおかしくなってしまった。美雨は眼前に繰り広げられる光景を眺めてそう思う。
「馬がレールの上を走っている……」
 いつもの発作、幻覚、いや白昼夢。
 ついさっきまで、美雨は昼食後の余った昼放課の時間を自分の席でうとうとしていたはずだった。しかし気がついたらここにいた――明治の世界に。
 正しくは鉄道馬車というのだが美雨は知らない。道のど真ん中に敷かれたレールの上を、二頭の馬に牽かれたトロッコ列車がのろのろと通り過ぎるのを呆然と見送った。
 するとその時、不意に背を押される。二、三歩たたらを踏み、思い切り身体を仰け反らせてその場にようやく踏み止まる。
 眼前すれすれを馬車が怒涛のように走り去った。あと半歩でも前に出ていたら、馬に跳ね飛ばされるか車輪に巻き込まれるかして死んでいたかもしれない。
 すぐ後ろを振り返ってみたが、他人には興味なさそうな群集がいるだけ。
 ――気のせいか? ただ、すれ違う人の肩や腕がぶつかっただけなのかもしれない。美雨は頭をぶんぶんと振った。
「兄さん何してるのさ、早く行こうよ」
 幼い声が聞こえて視線を動かすと、人ごみの中を掻き分けるようにして袴姿の少年が近づいてくる。
「ちゃんと付いて来てくれないと困るなあ。振り返ったらいないんだもん、兄さんが迷子になったらどうするのさ」
 スキップするようにぴょんぴょん歩く少年は生意気な口ぶりでこちらを見上げる。
 美雨は例のごとく「宗太郎」になっていて、彼の弟だという池田勇次と一緒に歩いている途中だったらしい。
 実は勇次と会うのはこれで三度目で、すっかり顔も名前も覚えてしまっていた。微妙に状況に慣れつつある自分が恐ろしい。
「これは呪いです。きっとあの眼鏡に『宗太郎』の呪いが」
「早く早く。チャリネが始まっちゃうよ」
 チャリネとは何のことだろう。と美雨が尋ねる前に、勇次が通行人にぶつかって転んだ。
「なんだぁ、くそガキ」
 ぶつかった相手はいかにも柄の悪そうな風体の男だった。着物を着崩した胸元から刀傷らしき痕が幾つも覗いている。
 すかさず美雨は間に入って勇次を背に庇った。
「すみません」
「ああ?」
「すみません、と言っています」
 謝罪の言葉とは裏腹に、美雨は臆することもなく相手の目をじっと見る。いつかの那智のように声をできるかぎり低め、威勢のいい脅しにも全く動じる様子は見せない。
「いいとこのお坊ちゃんが気取りやがって」
 そう言いながら男の手が伸びた。美雨はすかさずそれを掴み取り、簡単に投げ捨てる。
「謝っているじゃないですか。日本語が不自由なんですかあなた」
 受身を取り損なった男は背中を強く打ちつけ、地面に転がったままなかなか起き上がることができない。そうこうするうちに、笛の音と「こらー、何をしておる」という怒鳴り声が聞こえてきた。
 黒い制服に腰のサーベルをがっちゃがっちゃと鳴らしながら駆け寄る男の姿を見て、勇次が飛び上がった。
「巡査だ。大変、兄さん早く逃げないと」
「え、『巡査』って警察でしょう。どうして私達も逃げるんですか?」
「何言ってるんだよ、あいつらは威張り散らすだけでいちゃもんつけるのが仕事みたいなもんだろ?」
「えええ?」
 昔の警察は随分と鼻つまみ者だったらしい。この世界に来るたび驚かされることが多くて、美雨は開いた口が塞がらない。
 小さな手に引っ張られて路地裏までやって来ると、勇次は目をきらきらさせて美雨を見上げた。
「さっきの兄さんすごく格好良かったよ、梅ヶ谷みたいだ。いつものんびりして見せてるのは、世を忍ぶ姿だったんだね」
「いえ、それほどでもありません」
 あまりに手放しで賞賛してくれる勇次に悪い気はしない。ちょっと照れつつ美雨は尋ねてみる。
「で、梅ヶ谷って?」
「相撲取りの梅ヶ谷だよ。やだなあ兄さん、最近いきなり物忘れが酷くなるんだから」
 力士に例えられた現役女子高生はちょっと気分を害し、黙って眉根を寄せた。
 しばらく勇次の後をついていくと、巨大なテントの天辺が見えてくる。現代にも通じる既視感、それが何だったかを思い出そうとしている間に遠くから象の鳴き声が聞こえた。側の板塀に貼り付けられたチラシ絵を見てようやく合点がいく。
「ああ、チャリネとはサーカスのことなんですね」
「もーしっかりしてよ。伯父さんに券をもらってきてくれたの兄さんじゃないか」
「そ、そうですか」
 今までの情報を整理すると、宗太郎という人物は比較的大人しいというか、ぼんやりしていることが多い人物のようだった。せっかく男として生まれたのだからこの身体ももっと筋肉隆々になるまで鍛えればよいのに、と平らな胸板を一叩きする。
 実を言えば美雨は実物のサーカスを一度も観たことがない。過去の人間に成り代わるという奇妙な現象は迷惑以外の何ものでもなかったが、折角だから観ていこうかと歩き出す。
 だが、その時にはすでに全く別の場所に立っていた。
「――何てタイミングが悪いんでしょう」
「何が?」
 目の前には変な生き物でも見るかのような那智の姿があった。
「何ですか那智」
 平静を装ったふりをして美雨は周囲を見渡す。リノリウムの白い床、静まり返った細長い通路。すぐ横の扉は保健室で、奥には職員室と校長室しかなく生徒はあまり縁のない場所である。
 まただ、と美雨は思う。強制的にあちらに意識が飛ばされると、元に戻った時には決まって始めと違う場所にいた。
 単に記憶を失っているだけなのだろうか。しかしまるで知らないうちに誰かに身体を動かされているようで非常に気持ち悪い。
 あの古びた眼鏡の呪いならば、やはりすぐにでもお祓いをしてもらうべきかもしれない。無駄に顔が広い祖父のコネを使えば、宛ての一つや二つはすぐ見つかるだろう。
 腕時計で時間を確認すると、すでに五時限目は終わっている頃だった。今は放課時間なのだろうか。どうして今ここを歩いているのだろうと頭を捻っていると、那智が話し始める。
「あーもう、安田ったらあんなに重い教材あたし達に運ばせるだなんて。ほんと教師って横暴よね」
 五時限目の現代国語教師の名前だった。それを聞いて、自分達は奥の職員室から教室に帰る途中なんだと美雨は納得する。
 素直に相槌を打ってみせると、ふと那智が立ち止まった。
「ねえ、あんたあたしに何か隠してるでしょ」
「何のことですか?」
「あたし達は教材運びなんてしてないわ。さっき現国の時間にあんたは倒れたのよ。それはもう、可憐で儚いお姫様みたいにね」
 美雨が軽やかに倒れる姿に胸を射抜かれた数人の男子生徒が「自分が保健室に」と立ち上がったが、かろうじて保健委員に肩を借り、美雨は自分の足で保健室に向かったという。
 次の六時限目は自習だったので、早退するなら鞄を持ってこようと様子を見にきた世話焼き那智なのだった。
「これは、その」
「どうせ最後の授業は自習だから他所に場所を移しましょ。もちろんあんたの奢りでね」
 いやみなほど長い足で先を歩く那智の背中を黙って眺め、美雨は複雑な表情を浮かべてのろのろと後に続いた。

 一つのきっかけがあれば、美雨はこの数日間起こっている不思議な現象を洗いざらい那智に話していた。那智なら信じてくれる、というよりも、何を話しても許されるという友人間の気安さゆえである。
 何しろ突発的に明治時代へ、しかも全く知らない男性に成り代わっているだなんて、冗談話としても突飛過ぎて一笑に付されるだけだ。話すだけ話して最後に那智に笑われたら、無駄に長い足を腹いせに蹴飛ばしてやればいい、そう思っていた。
 人のざわめきや店内に流れるBGMで賑やかなファーストフード店。時折トレーを持って通り過ぎる女性客がちらりと視線を向けるが、目の前に座る那智は全く意に介さない。
 しかしコーヒーの入った紙コップを口元に近づけ、立ち上る芳香をかぐ表情は意外にも難しそうである。
「元々変だとは思ってたけど、あんたってあたしの予想を超える変人だったわ」
 目いっぱい大きな口を開けてハンバーガーに食らいついていた美雨は、眉根をしかめて那智を見る。笑われるどころか、どうやら病気か何かだと思われてしまったらしい。
 口の中のものを飲み込んで美雨が反撃しようとすると、わずかに那智の方が早かった。
「でも完全否定もできない。だってその記憶のない間のあんた、まるで別人だもの」
「え?」
 美雨の記憶が飛んでいるうちの半分は学校にいる間のことである。必然的に一緒にいることの多い那智が、その現場に居合わせることが多い。
「あの乙女ぶりは逆立ちしても美雨には真似できないわね」
「余計なお世話です。大体、何で私がそんな別人みたいに……」
 途中まで言いかけて、言葉が途切れる。
 知らないうちに誰かに身体を動かされているようで非常に気持ち悪い。
 その直感は、まさに回答そのものではないのか。
 他人に成り代わるのが美雨だけとは限らない。
「あたしもあんたの話を聞くまではそんなこと考えもしなかったけど、まあつまり」
 那智がゆっくりと首を傾げる。
「――入れ替わってる?」
 美雨は呆然と那智を見やる。紙コップを掴んでストローを咥えると、周囲もはばからず音を立てて残りのジュースを一気に吸い上げた。
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