第二章、とんでもない世界

 明治二十年、春。
 畳の上に大きな布を広げ、その上で三脚イーゼルに立て掛けたキャンバスへ青年は一心に筆を動かす。
 短い尻尾のような縛った髪の房、知的なのか間が抜けているのか微妙な印象の黒縁眼鏡。
 よく言えば穏やかな、悪く言えば貧弱な印象の青年は、開け放った窓から入ってきたモンシロチョウが頭上でひらひら舞うのをいっとき目を細めて見上げた。
「兄さん、お母様が呼んでますよ」
 無遠慮にふすまが開けられると今年八歳になる弟が顔を覗かせた。しかし幼い顔はあっという間に怪訝な表情へと変わる。
「またそれ着てたの? 幾らなんでもそれはどうかと思うよ」
「ああ、勇次」
 弟を振り返り、次に視線を自分の服に落として池田宗太郎はへちゃりと笑顔を作る。彼は絵の具が付かないよう、着物の上に白い割烹着を着ているのだった。一見すればただのおばちゃんである。
「服が汚れるだろ? 油絵の具は一度付いたらなかなかとれないからね」
「天下の帝大予科生が何て格好してるのさ。帝大生っていったら、町娘の憧れでもてもてなんでしょ? イレグイなんだよね」
 ぶっと思わず吹き出し、宗太郎はずれた眼鏡の位置を黙って戻す。割烹着を脱いで立ち上がると戸口に立つ弟の頭に手を乗せてため息をついた。
「全くお前は、一体どこでそういう情報を仕入れてくるんだ。生憎と僕はそれには当てはまらないから、お前の期待には応えられそうもないよ」
 後に京都、東北などにも高等教育機関として設置されるが、現時点で帝国大学は東京にただ一つである。予科は大学の本科進学を前提とした付属校のようなもので、十四歳で入学して三年課程を修める。十六歳の宗太郎は今年最終学年に上がったばかりだった。
「こないだの兄さんは梅ヶ谷みたいに格好良かったのになあ。こう、怖い人を簡単に投げ捨てちゃってさ」
「それはまたすごい名前が出てきたもんだ」
 二年前に引退した横綱だが、生涯二百二十二戦して負けたのがたったの六回という常勝力士である。伊藤博文からまわしを贈られたり、迫力ある熱戦を繰り広げて明治天皇を喜ばせたなど華々しい話題が多い。
「――あれ?」
「何?」
「前に言った時はあんまり嬉しそうじゃなかったのに……まあいっか」
 小首を傾げる弟を置き去りにして宗太郎は足早に廊下を進む。彼の母親は待たされた分だけ小言が増える傾向にあるので、のんびりしている余裕はないのだ。
「怖い人を投げた……ねえ」
 考えていたことが思わず呟きとなって口からもれる。ここのところ、宗太郎は奇妙な現象に幾度も出くわしていた。自分が女になっているのである。
 しかも周りは見たこともない大きな建造物が所狭しと並び、みんな変わった洋装をしていた。誰一人着物をきていないし、顔の中身だけ日本人ふうの異国人も多くいたのである。――金色の髪をしていたから、間違いはないはずだ。
 もう何度あの奇妙な世界に引っ張り込まれたことだろう。一番初めは気がついたら本屋らしき場所にいて、慌てて外に出たら鼻に輪っかを付けた男にどこかへ連れ込まれそうになった。
 馬や牛のように鼻に輪っかを付けるだなんて、あの男は誰かの所有物ということなのだろうか。奴隷制が存在するとはなかなかに厳しい世界である。
 やっともとの自分に戻ったと思ったら、あろうことか馬の糞を踏みつけた直後だった。偶然通りかかった友人に散々笑われ、まさに踏んだり蹴ったりだ。
「宗太郎さん、ちゃんと聞いていらっしゃるの?」
 考え事にすっかり浸っていた宗太郎は、棘のある声にやっと我に返る。目の前にいるのは母の高子であり、おそらくこの家の中で最も生命力のありそうな人物だった。生活能力の有無は別にして。
 着物の衿に乱れなどあるはずもない、ぴしりと背筋を伸ばして正座する高子は小さくため息をもらす。
「お父様が遠い長崎にいらっしゃる今、この家を守るのは長男のあなたなのですよ。自覚はございますの?」
「はあ」
 気のない返事に高子の目が鋭く光って威嚇する。
「あなたのお父様は、侍医頭と宮中顧問官を勤めた栄誉ある池田男爵の次男。宗太郎さんも、お父様や伯父様のように立派な医師になってもらわねばなりません。これは絶対です、分かっていらっしゃいますか」
「それはもう、身に沁みるほどに」
「またろくでもない西洋画など描いていらっしゃらないでしょうね」
 間髪いれずの鋭い突っ込みに、宗太郎は「描いていませんよ」と答えるつもりで舌がもつれ、おまけに噛んだ。
 どうにも頼りない長男の様子に再び母の口元からため息がもれる。
 だが宗太郎は現実、帝国大学の予科入学を果たし成績も常に上位につけている。やればできる子なのに、普段はどうも気が抜けているというか真剣みが足りないと、高子は少々不満なのである。
 すると老年の女中がふすまの横からそろりと顔を覗かせた。
「あの、宗太郎坊ちゃまのご友人がお見えになっておられますが」
「どなた?」
「いけない、奎吾君だ。そういえばすっかり約束の時間を過ぎて……」
「まあ、安川のご子息との約束を忘れていたですって?」
 のんびり語る宗太郎に反し、高子は目と口を大きく開く。母の小言はそこで中断されて、宗太郎は早々に家を追い出されてしまった。
 どこからどう見ても慌てて支度をしてきましたといった宗太郎に、訪問者は屈託のない顔で笑う。
「やっぱりまだいたか。どうせお前のことだからこんなこったろうと思ったよ」
 短めに刈った髪と板についたシャツとズボンの洋装。先日画材を買いに宗太郎が銀座へ出た時――もっと分かり易く言うなら、馬の糞を踏んだ時に居合わせた青年が立っていた。

 2
 ほんの一瞬の意識の途切れ。ふと気がつけば、宗太郎は馴染みのない場所に立っている。
 ああ、まただ。と内心嘆息した。
 宗太郎は自身の姿ではなく見知らぬ少女の姿になっており、このとんでもない世界の中にいた。
 とんでもない世界――いや、未来か。と小さく呟く。
 自分の「日本」とどこか通じるものを持つ、全く別の国のような未来の「日本」。そう気づくまでには少々時間がかかったが、事実を知っても未だに自分の「日本」と元が同じとはどうも実感し辛い。
 大体こうして別人に成り代わり、自分がここに居ること自体が有り得ないことなのだから。
 ふと周囲を見渡せば、同じ格好をした同世代の人間が建物の入り口へ向かって歩いている。何度か見た覚えのある光景に、ここが「美雨」の学校なのだと宗太郎は認識した。
 自覚した途端に足元がすーすーして、膝上丈の、宗太郎にとっては「とんでもなく短い」スカートを抑える。下にぐいぐい引っ張ったところで伸びるはずもないのだが、そうせずにはいられない何ともし難い心もとなさに襲われるのだ。
「宇喜多美雨ぅぅぅぅーっ」
「え、な、何だ?」
 ただならない雰囲気の野太い声に思わず振り向く。動転して眼鏡の位置を正そうとしたが指は空を切り、別の姿になっているのだと改めて駄目押しをされた。
 もの凄い勢いで迫ってくる巨漢が一人、真っ直ぐこちらへ突っ込んでくる。
 宗太郎はとっさに避けることもできずに身をかがめ、反射的に目を瞑った。だが、当然次に来るであろう衝撃がない。
「あれ?」
 恐る恐る目を開けてみると、目の前に迫ってきたあの巨漢の顔があった。身をかがめて覗き込んでいたのだ。
 宗太郎は叫び声を上げることもできず口をぱくぱくさせる。そうして目を白黒させていると、巨漢が怪訝そうに首を傾げた。
「どうした宇喜多美雨。何やら今朝は覇気が足ら……」
 悪意はなさそうだが、どう答えたものか分からず宗太郎はただ見上げる。わずかに涙で潤んだ瞳で。おずおずと、下から窺い見るように小首を傾げて。
 どきゅーん、と不可解な音がしたようなそうでもないような。
 目の前の巨漢は声を詰まらせたかと思うと、みるみる茹でだこのように顔を真っ赤にする。赤面したでか顔というのもある意味非常に怖い、というか、不気味以外の何ものでもない。
「宇喜多美……」
「ひー」
 大きな手が伸びてきて宗太郎が顔を蒼くさせると、誰かに首根っこを掴まれて後ろに引っ張られた。
「はーいそこまで」
 陽気な声に振り向くとやたら美形の青年が立っていた。「美雨」の時に何度か見た顔だ。
「朝から女生徒を襲うなんて紳士じゃないね、ウド先輩」
「――はっ! あ、いや、そうではないっ。私は宇喜多美雨と燃える闘魂について魂と魂の語り合いを……うにゃうにゃ。それと何度も言うが、ウドではない、宇堂だーっ!」
 突然現れた青年は慣れた様子で巨漢が喋り終える前にさっさと歩き出す。宗太郎も腕を引っ張られ、後に続いた。
「あ、あの」
「なに」
「危ないところを助けていただいて、どうもありがとうございます」
 困ったような微笑を浮かべて宗太郎は頭を下げる。黙ってそれを眺めていた青年は立ち止まり、盛大なため息をついた。
「なるほど、『それ』にウド先輩は殺られちゃったのね。やっぱり中身が大事よねえ、美雨ったらがさつを体現したような子だし」
「は?」
 きょとんとする宗太郎に、青年は秀麗な横顔に不敵な微笑を浮かべる。
「あんたには聞きたいことが沢山あるの。あたしは那智よ。ええと、宗太郎?」
 まさかここで自分の名前を呼ぶ人間が存在するとは。宗太郎は驚きを隠すこともせず、呆然と那智を見上げた。


 べちり。資料室と表札のある部屋へ連れて来られた早々、宗太郎の額に紙がぶら下がる。
「あ、あの」
「――何ともない?」
「はあ」
「まあ、そりゃそうか」
 小さく息をつく那智。額にぶら下がった紙の横から見上げる宗太郎にはわけが分からない。
「悪霊退散の御札ですって。どうせ信じてもいないくせに、一体どこから持ってきたんだか」
「悪霊? 何がですか」
「だから、あんたが」
 那智の指は真っ直ぐこちらを指していた。数秒の間をおいて、やっと「悪霊」が自分のことなのだと分かって宗太郎は素っ頓狂な声を上げる。
「ぼ、ぼぼぼ僕は死んでませにょ」
 おまけに噛んだ。またしても。
「さすがに今は死んでるでしょ、西暦二千年はとうに過ぎてるわよ」
「に、二千年ですか。ええと、西暦というと……」
 宗太郎がいる世界から約百二十年は経っていることになる、これでは日本国が全く別世界になっているはずだ。何せ宗太郎のいる世界とて、たった二十年前までは徳川幕府が世を治める武士世界だったのだから。
 ひらひら揺れる御札を未だ額に引っ付けたまま、美雨の姿をした宗太郎はしんみりと呟く。
「そうですか……僕はもう死んでるんですか」
「……やだわ、これじゃあたしが苛めてるみたいじゃない」
 那智は役立たずの御札を剥がしてやると立ち上がり、鞄を持って戸口の方へ歩き始めた。
「御札も貼ったし変な行動をする前に隔離もした。というわけで、頼まれたことは済ませたからあたしはもう行くわね」
「え、どこへ行かれるんですか?」
「教室に決まってるでしょ、もうすぐ始業時間だもの。あんたはしばらくここにいなさい、一限が終わった時に戻ってたら出してあげるから」
「そ、そんなっ」
 詳細は分からないが、少なくとも那智はこの世界でただ一人宗太郎を認識しており、この奇妙な現象を知っている証人だ。もっと情報が欲しい。
 那智の腕に掴まってぶら下がり、宗太郎は情けない声で懇願した。
「置いて行かないでください、お願いします」
「いやよー」
「そこを何とか」
「えええええ」
 すったもんだの末、宗太郎はしぶる那智を留めることに成功した。
 そのうちぽつぽつと情報交換する中で、実は美雨も宗太郎に成り代わっている現象が起きているのだと知った。それは彼女が古い眼鏡を見つけた時から始まっており、自分の意思とは無関係に突然「飛ばされる」のだと。
「僕だけじゃなかったんだ」
「美雨は『宗太郎の呪いに違いない』って言ってるけど」
「そ、そう言われましても、僕自身も非常に困っているので」
「みたいね」
 まるで捨てられた仔犬を見るような目で那智は宗太郎を見下ろす。見た目が美雨のせいなのか宗太郎自身が馴染みやすいタイプなのか、不思議とまったりした空気が二人の間に流れていた。
「これじゃあたしまで変人の仲間入りにならないかしら」
 ここに美雨がいれば「一番の変人が何を言ってるんですか」と突っ込むところだが、彼女の姿をした宗太郎は大きな目をぱちくりするだけである。
 きっかけは偶然手に入れた古い眼鏡。
「美雨が言うには、あんたが使ってる眼鏡と全く同じだって言ってたけど」
「はあ」
「何だっけ……船箪笥? っていう小物入れに入ってたらしいわよ」
「へええ」
 ぼんやりぽややんと答える宗太郎に、那智の表情が段々と苛々し始める。
「全っ然埒が明かないわね」
「す、すみません」
 肩をすぼめた宗太郎だが、しばらくすると何か言いたげにもじもじし始めた。
「なに?」
「ええと、この時代では女性もズボンをはかれるのでしょうか」
 予想外の質問だった。それがどう関係あるのかと那智は小首を傾げる。
「それはまあ、普通にはくけど」
「ああ、なるほど」
 と頷いて腕を組み、宗太郎はぶつぶつ呟き始める。「未来の人間の発育が良いのは、政府の意向通り肉食を推進した結果に違いない」とか、「女性でもここまで大きくなれるなら、日本男児とて異国人の体格を遥かに凌ぐ勢いになっているのでは」とかもごもごと。
 何とはなしに聞いていた那智は、にこやかな表情のまま宗太郎の頭をぐわしと掴んだ。
「何か、双方に大きな誤解があるようね」
「うわっ。た、助け」
 とっさに逃げようとした宗太郎だったが、那智に頭上から抑え込まれて動くことができない。どすの利いた声が上から降ってきた。
「誰が女だこるぁ。どっからどう見てもただの良い男だろ」
「ひいっ」
「なーんてね。あたしの美貌は性別を超えるってことを言いたかったのよね?」
 口調も戻り相変わらず顔はにこやかだが、頭の上に乗せた手は未だ健在だ。「ね」と再び念押しされた宗太郎は必死に何度も頷いてアピールし、やっとのことで難を逃れた。
 この世界は何とも恐ろしい。性別の境界が曖昧になり、一見しただけでは男女の区別すらままならないとは。
 初めに見た時はもちろん那智のことを男性と思ったが、言葉遣いで迷いが生じ、時代も変われば体格も変わるのではと変に勘繰ってしまった。無理やり柔軟に考えようとして墓穴を掘ってしまった宗太郎である。
「あたしの喋りはまあ癖みたいなもんね。もっとも、その他大勢と話す時は詮索されるのが面倒だから普通に喋ることが多いけど」
 とはいえ必死に取り繕っているわけでもないので、那智の喋りを聞いたことがある人間は校内にも少なからずいる。だが不思議とそれほど話題にはならない。
 とりわけ那智を遠くから眺めて「王子認定」している女生徒達は、都合の悪い情報を自然排除する機能を備えているらしかった。それならそれでいいか、と放置しているえせ王子なのである。
「なるほど。では那智さんがその言葉遣いをされるということは、すなわち仲間認定されているということなんですね。僕の場合は、見た目が美雨さんだから」
「んー、まあ……そうなのかしら?」
 そう言いながらも何か引っかかりを感じているように那智は首を傾げた。そして何を思ったか、美雨の顔をした宗太郎の頬をぐいーんと引っ張る。
「なにひゅるんですか」
「あんたって何か和むわー。顔は美雨なのにすっごい不思議」
「あう、やめてください」
 はたから見れば、美少女と美青年が睦まじく戯れているように見えたかもしれない。
 だが実際は男同士だと考えると、景色の色が違って見えてくるのは致し方なし。


 現代とは違い、宗太郎の世界で学校の講義は基本的に午前だけである。まだ学生という言葉も存在していないから「書生」と呼ばれ、その書生になれるのはほんの一握りの裕福な家庭の子息に限られていた。
 課題があれば午後にも時間を割いて学校にいることもあるが、今日の講義を終えた宗太郎はやや浮かれた顔で校門を出る。他の同級生とは違い滅多に寄り道をしない宗太郎だが、今日は特別な用事があるのだ。
「あいたっ」
 少し早足で歩こうとしただけで身体に痛みが走り抜ける。
 今朝起きたら何故か全身が筋肉痛だった。自分では全く身に覚えがないので、美雨と入れ替わっている間に起こっただろうことが原因だと思われる。昨日は那智と話すことで色々情報を得ることができたが、都合二時間ほども元の世界に戻ることができなかった。
「うう、回数を重ねる毎に入れ替わりの時間が長くなってるような」
 ぎしぎしいう身体をなだめながら歩いていると、道端で所在なげに立っていた女学生が不意に目の前へ立ち塞がった。
「え?」
 書生が良家の子息ならば、女学生は良家の子女の代名詞である。着物に袴姿の彼女達は流暢に英語を使いこなし芸術面にも精通している。宗太郎も一応裕福な部類の人間とされてはいるが、気弱さゆえに異性とまともな交流をとんともったことがない。だから今、自分の目の前で一体何が起こっているのかさっぱり分からなかった。
「先日はどうもありがとうございました。あの、つまらないものですがよろしかったらどうぞ」
 女学生が両手に乗せて差し出したのは紙袋である。ここに至っても未だに事態が把握できない宗太郎は、女学生の勢いに押されて思わずそれを受け取ってしまった。
 紙袋からはほんのり甘く良い香りが漂う。中を見ると入っているのは平べったい円形のパンである。
「やあ、これは木村屋のあんぱんですか。僕大好きなんですよ……じゃなかった。あの、どうしてこれを僕に?」
「先日のっ」
 のほほんとしている宗太郎に対して、お下げの根元を留めるリボンと同じ色に頬を染めた女学生は、意を決したように俯かせていた顔を上げる。
「せ、先日のお礼です。不貞な輩から助けていただいて、本当にありがとうございました。宗太郎様」
 思わずあんぱん入りの紙袋を落とすところだった。
 それもそのはずだ、全く覚えがない。そもそも宗太郎に「不貞な輩」から乙女を助けるなんて芸当ができるはずもないのである。他に思い当たるのは当然美雨しかないのだが。
「一体どんな子なんだ」
「何かおっしゃいまして?」
「あ、いえ。じゃあ僕は急いでいるのでこれで。あんぱんありがとうございます、気をつけて帰ってくださいね」
 へちゃりと笑うと、路地の向こうで心配そうにこちらを窺っている女性にも会釈する。お嬢様は一人で出歩かないのが常識なので、きっとあれがお付きの人なのだろうと当たりをつけたのだ。
 そそくさとその場を歩き去りながら、宗太郎は大きなため息をつく。
 宗太郎は宇喜多美雨という少女の姿は知っている。だが実際に会ったこともなければ話したこともない。
 鏡に映る彼女はあんなにも華奢で可愛らしいのに、やくざ者を投げ捨ててみたり女学生を不貞の輩から助けてみたり。そしてこの筋肉痛の原因は一体何をした結果なのか……想像するだけで空恐ろしい気がする。
「うーん、でもこのままじゃやっぱり色々困るしなあ」
 ふと肩からぶら下がる、紐で縛られた本と筆記用具が視界に入った。
「そうか、書けばいいんだ」
 いつ入れ替わるか分からないから、書いたものはなるべく身に着けておくようにしておけばいい。
 立ち止まって早速矢立てを引っ張り出す。一見大きなキセルのような姿をしたそれは、先端のでっぱりが墨つぼ、柄にあたる細長い円柱が筆入れになっている。
「えーと、まずは……あいてっ」
 筆を片手に帳面を見ながら歩いていたら、早速側の木塀にぶつかった。だが絵の構図を考えていたり、本を読みながら歩くことが多い宗太郎にはよくあること。本人は特に気にする様子もなく、そのままよたよたと歩き続けた。

 ◇

 豪奢な革張りのソファーにちょこんと腰掛けた宗太郎は、落ち着きなさそうに室内を見回す。
 ぴかぴかの大理石のテーブルや暖炉など、まだまだ畳の上で一人ずつお膳を並べて食事をする家庭が多い中、ここまで西洋的な住居に住む者はほんの一握りしかいない。
 居間の続き間から大きな板を抱えて現れたのは、シャツにズボンの洋装が板に付いたこの屋敷の長男だ。
「本当にいいの、奎吾君?」
「見るだけなんだ、別に構わないさ」
 心配そうな声音の割に目を輝かせている宗太郎を見て、安川奎吾は破顔する。
 奎吾は貿易業を営む安川子爵の継嗣で、姉は三人いるがただ一人の息子だ。利発な若様と世間の評判も高く、見目も良いため宗太郎と違って非常に婦女子にもてる。
 宗太郎が通っているのは帝国大学予科、一つ年上の奎吾が通うのは華族の子弟が通う学習院。全く接点がなさそうなのに不思議と一緒にいることが多いと、互いの友人達はよく首を傾げることが多い。
 奎吾が持ってきたのは父が外国から買い付けてきた絵画の一つである。日本には外国のように美術館などの設備がないので、優れた美術品にお目にかかるには有力者の家に招かれるか売り元でお目にかかるしかない。
 丁寧に梱包された布を奎吾が外すのを眺めながら、自然と宗太郎の身体が前のめりになっていた。
「それにこれは買ったものじゃないんだ。まだ無名の画家らしいけど、うちの人間に浮世絵とこの絵を交換してくれって向こうから言ってきたらしい」
「へえ、浮世絵と」
 未だ数多くの浮世絵師が存在し、大衆娯楽の一つである浮世絵の芸術的価値は当時の国内でそれほど高く評価されてはいない。幕末時代、日本から輸出された陶器の包み紙に古い浮世絵が使われていたというのは後世で有名なエピソードである。
「結構色使いが面白いんだ……って、宗太郎?」
 数瞬前まで期待満面の顔をしていた宗太郎は不意に硬直したかと思うと、目の前で広げられた絵を食い入るように見始めた。
「――つかぬことを窺いますが、これは本物ですか?」
「どこかで見覚えが」とぶつぶつ呟きつつ、途端に挙動不審になった友人に奎吾はきょとんとする。
「そりゃ画家本人から譲り受けたんだから、そうなんだろ」
「絵画史はよく知りませんが、そうですか。この時代の人だったんですね」
「は?」
「いえ、何でもありません。でもこの絵は大事に取っておいた方がいいかもしれません……よ」
「ふーん? やっぱり絵心のある人間が見ると違うものなんだな」
「そういうわけでは」
 と、わざとらしく咳き込んでみたりする。
 瞬間的に入れ替わった美雨が見た絵には「フィンセント」とサインが書かれていた。フィンセント・ファン・ゴッホ。「ひまわり」でよく知られているが、全く評価されることなくこの世を去り、生前に売れた絵はたった一枚だったという不遇の画家である。
 美雨は黙って周囲を見渡した。雰囲気から察するに、どうやら目の前にいる人物の家らしい。見覚えがある顔なのだが、どこで見たのだったか。
「ああ、あの『踏んだ』時の」
 と思い出してすぐに顔をしかめる。記憶の彼方に封印しておきたかったのに、余計な感触まで思い出してしまったからだ。
 ドアをノックする音がして、二人揃ってそちらを振り返る。
「どうぞ」
 奎吾の許しを得るとドアが静かに開けられて、着物に白エプロンをつけた女中が顔を覗かせた。
「奎吾様、旦那様がお呼びでございます」
「来客中だぞ」
「そう申し上げたのですが、どうしてもということでして」
「ええ、本当に? 参ったな」
 すまなそうにこちらを見る奎吾という青年に、美雨は気にするなと手を振ってみせる。その時、袖口から折りたたんだ紙片が零れ落ちた。
「済まない、なるべくすぐ戻ってくるよ」
 立ち上がった奎吾は女中に飲み物を用意するように言いつけ、そのまま出て行こうとする。
「あの」
 美雨は自分の(正確には宗太郎だが)袖から落ちた紙片を広げて見やった後、視線を上げた。
「何か書くものを貸してくれますか、奎吾……」
 敬称は何だろう。名前まで言わなくても話は通じたのにと後悔したが今更である。
「君」か、いや「さん」か。呼び捨ては……とここまで考えて、美雨の頭に閃くものがあった。そうだ、これなから時代的にも完璧ではないか。美雨は自信満々で呼びかける。
「奎吾『殿』」
 スマートな歩き姿が一瞬躓いた。どうやら選択ミスのようである。
 奎吾は怪訝な表情で振り返ったものの、表面上は全く動揺を見せていない友人を見て言うべき言葉を飲み込んだようだった。
「分かった。それも用意してやってくれ」
「はい、奎吾様」
 ほどなくして美雨の目の前には立派な硯に筆、和紙と、美雨の自宅でよく見かける道具がずらりと用意される。
「……む」
 一瞬だけ眉間に小さな皺を作り、美雨は黙ってそれらを眺めやった。


「――――はっ」
 宗太郎が自分の身体に戻ってきた時、そこはすでに屋外だった。
「絵! 絵は!」
 僕はまだ見てないのに、と叫んだところで今更だ。
 謀ったかのようにちょうど良く入れ替わってしまった宗太郎は力なく膝を着く。通行人が変な目で見ようが何だろうが、今の彼にすぐ立ち上がるだけの力は残っていなかった。
「酷い、ずっと楽しみにしてたのに……」
 知らず握り締めていたらしい紙袋ががさりと音を立てる。昼間女学生にもらったものだ。
「あれ、でも妙に軽い?」
 中を覗いてみると空である。恐らく、いや間違いなく一つ残らず食べたのは美雨だろう。元々これは彼女がもらうべきものなので、宗太郎が文句を言う権利はないのだろうが。
 甘いあんぱんの香りが残る袋の中には折り畳んだ紙が一枚入っている。始めにしっかり確認しなかったが、女学生のお礼状かと思い広げてみるとそこには衝撃的な字……絵? はたまた未知の古代文字かとおぼしきものが紙の上でのたくっていた。
 たっぷり百数え終わる時間をかけた後、ようやく日本語らしき形状をかろうじて有していることに気づく。
「ええと、何々」
 読めん。と書いてあるらしい。
 それを言うならこの文字の方がよっぽど読めないと思うのだが。と順々に解読していった結果、どうやら宗太郎の文字と文体が難解過ぎて読めないという文句らしかった。
「あ、もしかして美雨さん気づいてくれたのかな、僕の手紙」
 ぱっと明るくなった宗太郎の顔が、次の瞬間驚きで見開かれる。
「――――えっ、美雨さん?」
 破壊的文字の主は美雨だった。
 あの、見た目はいかにも大和撫子然とした少女が……いや、文字の良し悪しだけで人を評価するべきではないのだろうが。

 ◇

 美雨は自宅で、手にしていた筆をじっと見る。
「ど、どうしたんじゃ美雨」
 床に正座していた美雨は、横に立っていた祖父を見上げてからもう一度視線を戻した。
 目の前には書道用の白い和紙が置いてあり、そこに書き込まれているのは何だか色々繋がっている、いわゆる「達筆過ぎて読めない文字」である。
 自分が読めないのに美雨が書いたはずがない。あのメモ書きと同じ、このにょろにょろした文字は宗太郎に違いなかった。
 早雲はよほど驚いたのか、目をまん丸にしたまま文字に見入っている。
「ちゃんと文字になってるばかりか、こりゃ大したもんじゃぞ」
「いつもは文字になってないとでも?」
「ま、あれはあれで面白いとは思うがな」
「――筆はぐにゃぐにゃして書き難いんです」
 笑い飛ばす祖父に憮然としつつ美雨は筆を硯の上に置く。
 書道家の祖父を持つ宇喜多美雨がこの世で何より不得手としたもの、それが書道だった。


 ○月△日。今日はウド先輩という方にまた襲われました。とても怖かったです(宗)
 ○月×日。ウド先輩は放って置いて大丈夫です。それより、どこかの剣術道場の方からうちで修行してみないかと誘われました。家の側の道場と言っていましたが、折角だから入ってみたらどうですか(美)
 ○月□日。それって士族が徒党を組んでる、厳しくて有名な道場じゃないですか。無理、絶対無理です。絶対承諾しないでくださいよ美雨さん。本当にお願いします(宗)

 登校中、美雨は歩きながらメモ帳に視線を走らせる。
 書面にしたためて持っていればお互い元に戻った時に情報を得やすい。一番初めに試みた宗太郎のメモ書きは全く読めずに意味を成さなかったが、あれ以来互いに必ずメモ帳と筆記用具を携帯するようになっていた。
 必ずしもメモ書きを残してから戻ってこられるとは限らないので、そういう時は自分自身が持っているメモに書き込んでおく。そうすればそのうち相手も情報を得ることができるからだ。
 よって片方だけを見ると記載内容には欠落が多く、両方を読んで初めて威力を発揮する伝言日記だった。
「折角男に生まれたんだからもっと身体を鍛えればいいのに」
 一人呟くと、宗太郎が全力で辞退するだろう姿が頭をよぎる。
 ふ、と人形のような可愛い顔が口元だけわずかに綻んだ。遠巻きに眺めている男子生徒達は「大和撫子の微笑だ」と心を打ち震わせる。
 すると突然に、前方から人波を真っ二つに割りながら猛烈な速さで何かが直進してきた。
「うーきーたーみーうぅぅぅぅぅーっ」
 美雨は斜め後方にさらりと半身を捻り、掴まんとした宇堂の手を空振りさせる。すれ違いざまに袖口を引っ張ってバランスを崩し、足払いをしてやるとあっけなく巨体は地響きをたてて地面に転がった。
「毎朝懲りませんね。私は部活に入る気はありませんと何度も言っているのに」
「君は燃える何かを内に秘めている、何ゆえに抑えようとするのだ。さあ、我が部で鍛錬を重ね、仲間と共に汗を流し、その魂を解放しよう!」
 宇堂の言葉に美雨は一瞬だけ不快そうに眉を動かした。だが表面上だけはすぐにいつもの平静を取り戻す。ふと宗太郎の「襲われた」というメモ書きを思い出し、美雨は転がったままの宇堂に言った。
「しつこい男性は嫌われますよ、ホモ先輩」
「ホ……っ」
 ホモ? 宇堂ってホモだったのか。と途端に野次馬の生徒達がさざめきだす。
 いわれのない疑惑の視線に晒されるホモ先輩を残し、美雨はさっさと進行方向へと再び歩き出した。
 教室に入ると、明るい髪色の長身がすぐ視界に入る。
「何怒ってんの?」
「那智、私はそんなに我慢しているように見えますか」
 何ゆえに抑えようとしているのか。
宇堂が偶然口走ったに過ぎない言葉に、過剰反応している自分がいた。
 那智はしばらく観察するようにこちらを見ていたが、ようやく返事が返ってくる。
「誰に図星指されたのかは知らないけど、自分がやりたいからやってるんでしょ。無駄な努力も何かの足しにはなるんじゃない? 八つ当たりするんじゃないの」
「友人なら少しくらいフォローしたらどうです」
「あたしは何もしないより、みっともなく足掻いてるお馬鹿さんの方が好きよ」
「私は馬鹿じゃありません」
 フォローしたでしょと笑む那智を面白くなさそうに睨みつけ、美雨は力いっぱいそっぽを向いた。
 美雨は両親が亡くなるまで十一年間をイギリスで過ごした。
 忙しい両親は不在がちで、家に残された美雨の話し相手は学校の友人を除けば家政婦と家庭教師だけ。どうやって両親に「寂しい」と伝えたらよいか分からず、そして分からないまま両親が亡くなると、美雨はたった一人イギリスに取り残された。
 頼るべき親戚も皆無だと思っていたので、本当にこの世界にたった一人放り出されたと絶望した。だから薄情かもしれないが、両親の葬式でも泣く気力さえ出なかった。
 早雲がやって来て息が止まるかと思うくらい強く抱きしめられた時、やっと美雨の身体は緊張がほぐれて気絶するように眠ってしまったくらいだ。
 この場所は絶対に失くしてはいけない。早雲の胸の中で、美雨は本能的に覚った。
 その後連れて来られた初めて見る国。知識として知ってはいても、使い慣れていない日本語。ちょっとした習慣の違いや感覚の違い、それらが正面に立ちはだかるたびに美雨は違和感に苛まれた。
 日本人であって、日本人ではない。
 早雲はああいった人なので全く気にする素振りも見せないが、大人に囲まれて育った美雨だから色々と変に勘繰ってしまう。
 不安が一つ浮かぶたびに、たった一つ残った「早雲の孫」という安全な地を守るため美雨は自分を律した。
 身に染み付いた英語は絶対に使わなくなった。言葉は文化や習慣と密接に関わりのあるものだから、共に西洋人的な立ち振る舞いも全て自分の中から追い出した。
 そんな自分に反発するように、美雨は自分がやりたいことも言いたいことも率直にさらけ出そうとする。しかしよくよく見ると、些細なことで「早雲の孫として相応しいと見られるかどうか」を自然と気にしていた。
 沢山ある武術の習い事の中で合気道を選んだのも、那智の好きなようにさせていかにも日本人形的な外観を保つのも。
 口では好き放題なことを言っているくせに、本当はとても臆病で卑屈な自分に美雨は気づいている。那智にはばればれだ。おまけに動物の勘なのか、ウド先輩にまで言い当てられて簡単に心がささくれ立った。
 何となく理由は分かっている。宗太郎が美雨の身体を借りて、不器用な美雨が到底できないようなことを簡単に成しえてしまうからだろう。
 こんなことは絶対口が裂けても誰にも言えない。言わない、言いたくない。多分那智に言わせれば「無駄なプライド」で損をするばかりなのだろうが、上手に以心伝心できるようなら今も昔ももっと上手く立ち回っていただろう。
 両親に存在を忘れられ、いつも一人留守番をさせられるようなことはなかっただろう。
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