第三章、陰から伸びる手

「よーんじゅ、よんじゅいーち、よんじゅに」
 幼い声が数え上げるのを追いかけるように、小気味良い息遣いが後に続く。
 腹筋が限界の悲鳴を上げる頃ちょうど五十回になり、宗太郎の姿をした美雨は大の字になって畳の上に寝転んだ。
 足を押さえていた勇次がぴょんと降りる。
「始めに比べたら随分できるようになったね兄さん」
「はあっ、たかが五十回でこれでは、はあっ、はあっ……いえ、何でも」
「今は学問の時代って言われるけど、やっぱそれなりに身体は鍛えておいた方が格好いいよねえ。男はジキュウリョクが大事って言うじゃない?」
「そうなんですか?」
 ちょっと自慢げに語る勇次に美雨は首を傾げる。母の高子が聞いたら卒倒しそうな会話だが、もちろん当人も受け答えしている方も意味は分かっていない。
「僕もどこかの道場に通ってみようかなあ」
「勇次は元々動きが機敏ですから、宗……僕よりずっと才能があると思いますよ」
「そうかな、えへへ」
 呼吸が整うと美雨は立ち上がって乱れた襟元をきゅっと引き締める。身体の節々がぴりぴりと痛み、「最近筋肉痛が酷くて堪らない」と宗太郎が泣き言を書き残していたことを思い出した。
 すると、ふすまの向こうから老女中が呼びかける。
「宗太郎坊ちゃま、本家から迎えが参っておりますが」
「本家?」
 玄関から外に出てみると、家の前には馬車が停まっていた。屋根なしの、座席は詰めれば三人くらい乗れそうなサイズで一頭立てのものだ。
 そういえばあんなんでも宗太郎は男爵家の縁者だったような、そうでないような。うろ覚えの情報をぼんやりと思い出しつつ、まさか「行けません」とも言えないので大人しく馬車に乗り込むのだった。
 しかしすぐに後悔した。
「ちょっ、まっ、こ、これは、わっ」
 現代では当たり前のアスファルトの道があるはずもない。ゆえに未整備の道が未だ多く、馬車はとんでもない振動に襲われ続けた。
 振動だけならまだいいが、時々車輪が段差を踏みつけた途端に大きく車体が跳ね上がる。ついでに尻も宙に浮く。
 安全バーやシートベルトなしで遊園地の絶叫マシーンに乗っているようなもので、うっかり油断していると車外に放り出されてしまいそうだった。
 周囲を見てもこの馬車は必要以上にスピードを出していてその分揺れも酷い。
 もっとゆっくり走って欲しい。そう伝えようとした瞬間に、以心伝心か帽子を目深に被った御者の方が先に振り返る。
 横顔が笑っていた。落ち着いて座っていられない美雨が滑稽で笑っているのとは少し違う。帽子のひさしから垣間見える目は冷たいままなのに、口元だけが吊り上ってとてもいやな笑みだった。
 背筋が寒くなった瞬間、御者は馬に鞭を入れて猛スピードで駆け出した。
 揺れるなんてものではない。がったんがったん飛び跳ねながら走り、そのうち馬車が空中分解するんじゃないかと思うくらいだ。
 そして車輪はついに特大の段差を踏みつけて、美雨は馬車の中から簡単に放り出される。
 さすがにまずいと思った。全てがスローモーションで流れる景色の中、美雨は反射的に受身の態勢になる。だが次の瞬間にどうなってしまうのか予想もつかない。
 衝撃。そしてまた打ち付けられ、転がる。全身の痛みをこらえてようやく目を開けると、目の前には忽然と山がそびえていた。
「大丈夫かい、あんた」
 山が喋った。と思ったら、身体の大きな人間である。身長だけではなく横も厚みもたっぷりの、この世界でもすでに見られなくなった髷を結った力士だった。
 美雨を落とした馬車は脱兎のごとく走り去り、すでに影も形もない。
「受け止めてやれば良かったんだが何しろいきなりで。俺の腹で勘弁してくれや、はっはっは」
「いたたたた。――腹?」
 地面に叩き付けられ転がった後なので、美雨は擦り傷だらけで服もどろどろだ。しかしどうにか打ち所悪くなく済んだのは、この力士の大きなおなかに一度ぶつかったかららしい。いきなり飛んできた人間に力士はとっさに腹に力を入れ、跳ね返された美雨は地面に落ちて転がったと。
 嘘のような話だが事実だった。相撲は土俵の中で重戦車同士がぶつかり合う戦いだ。そう考えればひょろひょろ貧弱宗太郎の体重くらいは跳ね除けてもおかしくはないのかもしれなかった。
「あ、ありがとうございます、ご迷惑をかけました。あの、お怪我はありませんか?」
 相変わらず座り込んだままで美雨は力士に尋ねたが、力士はそのまま手を振ってにこやかに歩き去って行った。
 ありがとう、このあいだは力士に例えられたことを不満に思ってごめんなさい。
 力士もまた崇高な格闘家なのだ――去ってゆく大きな背中に熱い眼差しを送る格闘マニアは、身体の痛みも一瞬忘れて忘れて小さなガッツポーズを作った。
「誰かと思ったら宗太郎君じゃないか!」
 声に振り返ると、通りの向こうから背広にネクタイ姿の男性が一人駆け寄って来る。見た感じでは三十過ぎくらいの年恰好だ。
「大丈夫かい。どこか酷く痛む所とか、痺れる所は?」
 男は慣れた手つきで美雨の腕や足を確認していく。袖をめくった時に腕の擦り傷がじんじんと痛み、美雨は無言で眉根をしかめた。
「通り過ぎていった馬車がえらく乱暴な運転だなって見ていたら、突然人が落ちただろ。びっくりして近づいてみたら君の顔が見えて、僕はもう肝が潰れる思いをしたよ。――よし、とりあえず骨に異常はないみたいだな」
 安堵したのか男は満面の笑みを浮かべる。それはどこからどうみてもお人よしの雰囲気で、へたれ宗太郎に通じるものを感じさせた。もしや兄弟か。
「うーん、しかしこのままでは家にも帰れまい。傷の手当もしてあげるからうちに寄って行きなさい、義父上も君の顔を見たら喜ばれる」
「ちちうえ?」
「菜子ちゃんも待ってるよ」
 圧倒的に情報が足りないために人物関係がさっぱり見えてこない。頭の中にはてなマークをいっぱい浮かべた美雨は、半ば強引に引っ張られてその男に立たされた。
「あ、そうそう」
 怪我人を気遣ってか、ゆっくり歩き出した男は一度振り返って眉根を寄せる。
「馬車から落ちて死んだ人間だっているんだ、あんな乱暴な乗合馬車には絶対乗っちゃ駄目だ。しかも大通りじゃなくてわざわざこんな悪路を走るだなんて自殺行為に近い」
「いえ、あれは乗り合い馬車じゃなく」
「ああ、そういえば普通の乗合馬車より随分小ぶりだったから、もぐりだったのかな。おいおい、ますます危ないじゃないか」
 本家からの迎えだった。と言おうと思ったが、美雨はそのまま言葉を飲み込んだ。
 明らかに作為的なものを感じる。美雨が宗太郎に成り代わっている時に危険な目に遭ったのは、これが最初ではないからだ。
 初めて身の危険を感じたのは鉄道馬車を眺めていた時。珍しいからとぼんやり突っ立っていたら、人ごみの中から誰かに背中を押されて危うく馬車に轢かれるところだった。
 その後も誰かに後を付けられている気配がしたり、建築中の家の横を通った時には立て掛けてあった木材が倒れてきたこともある。
 美雨が入れ替わっている時にだけ偶然このようなことが起こっているのか、それとも宗太郎が鈍くて自分の身に起こっていることに気づかないのか。どちらにしても、本人は全く危険を感じている様子がないようだった。
 だから初めは自分の考え過ぎなのかと思い、余計なことは言わずにおこうとした。しかし疑惑はぬぐうどころか深まるばかり。
 それにしても、あの毒にも薬にもならない人畜無害なだけの宗太郎が誰かに狙われる理由があるのだろうか。
 はっきりするまではせめて宗太郎を鍛えておこうと思っていたのだが――あの御者が見せた横顔のように、やはり宗太郎は何者かの悪意に晒されようとしているのは間違いなさそうである。
 考え込んだ美雨に、男は最後にこう言った。
「駄目だよ宗太郎君。君は池田男爵家の跡取りなんだから、もっと行動には慎重を来たさなければ」
「跡取り?」
 お前は分家の息子じゃなかったのか。
 ここにいない宗太郎の中身に毒づきつつ、美雨はわずかに眉を寄せた。


 ○月×日。貴族の跡取りなら初めからそう言っておいて下さい。それと宗太郎、あなた誰かに命を狙われてますよ。危うく私が宗太郎の身体で死ぬところでした。冗談じゃありません。(美)
 ○月□日。ええと、すみません。本当に僕は分家なのですが、うちの家系って少し特殊な事情がありまして。それにしても命を狙われてるなんて、やだなあ、美雨さん本の読み過ぎですよ。戻ったらいきなり体中傷だらけだったのは確かに驚きましたけど。打ち身もあって、翌朝見たら痣だらけでした……。(宗)
 ○月△日。まるで私が悪いみたいな言い方ですね。そうですか、宗太郎はそういう人でしたか。あとそれから、どなたかは知りませんが先日会ったお医者さんにお礼を言っておいて下さい。(美)

 親切で狙われていることを教えてあげたのに。と真剣に取り合わない宗太郎に美雨は憤慨する。
 様子から察するに危険な目に遭ったのは宗太郎になっている時の自分だけのようで、そう考えると余計に腹が立つのだった。わざわざ美雨が苦しい思いをして宗太郎の身体を鍛えようとしたことも、こう言われては馬鹿馬鹿しいほど無意味だ。
 その後宗太郎からの返事を受け取ったのは、学校の授業が終わってすでに二時間も経った後の図書室である。
 すでに窓の外は薄暗い。利用生徒は殆どおらず、ぽつぽつと残った者もすでに帰り支度を始めていた。
「あのー、それ借ります?」
 美雨が座っている席から少し離れた司書カウンターで、図書委員の女子生徒が困ったような顔をしていた。
 視線を下げると机の上には大判の本が幾つも広げられている。世界の巨匠画集、芸術の箱庭、近代美術全集、どれもこれも全部絵画の本だ。誰の仕業なのかは火を見るよりも明らかだった。
「いえ、もう片付けますので」
 どうして私が後片付けをと思いつつ、美雨はずっしりとした画集を抱え立ち上がった。

 混雑する帰宅電車の中で美雨はメモ帳を取り出す。筆からボールペンに替わっても相変わらず美しい文字が何やらいつもより沢山書かれていた。
 ○月×日。気のせいでしょうか、美雨さんがすごく怒っているように感じられるのは……。すみません、何だかよく分からないけどすみません。
「理由も分からないのに謝られても全然嬉しくありません」
 メモ帳の向こうで一所懸命頭を下げている宗太郎が脳裏に浮かび、美雨は一人突っ込む。
 ――美雨さんが会ったのは、僕の伯父、池田男爵の長女と結婚された田辺隆さんです。つまり従姉の旦那さんですね。伯父は帝大付属病院の副院長をしているんですが、そのお弟子さんの一人です。とってもいい人なんですよ。
 ご丁寧なことに宗太郎は家系図も書き記していた。また知らない誰かに会った時に美雨が困ると思ったのだろう。
 それによると確かに宗太郎は池田男爵の弟の子で、男爵の子供は三人全てが娘と表記されていた。
「どこも一緒ですね」
 家督を継げるのは原則男子だけ。イギリス貴族も日本華族も女子が蚊帳の外に置かれているのは、化石のごとく大昔の制度だから仕方ない面もあるのだろう。もっとも、ヨーロッパには特例として女性が家督を継ぐ稀なケースもあったようだが、日本にもそんな例外があったのかどうか美雨は知らない。
 とにもかくにも男爵の子はみな娘なので、将来は宗太郎が後を継ぐという単純な図式になったのだろうと納得した。
 ――それにしても美雨さんの世界はすごいですね、こんな貴重な本が沢山身近にあるなんて。僕の学校にも幾らかはありますが、やはり最新の物は自分で手に入れるか個人的に先生から借りることが多いです。といっても、医術の専門書ばかりで。(宗)
 何やら中途半端な感じで日記は終わっていた。苦笑交じりで何か言いたげな宗太郎が脳裏に浮かんだが、別にそこまで気にかける理由もない気がしてメモ帳を鞄にしまう。
 それにしても、さすがに美術館までは移動できなかったろうが、図書室の画集を見ようと思いつくとは機転が利いている。
 しかしすぐ、宗太郎に余計なことを吹き込んだだろう人物に思い至った。何故だか那智は妙に宗太郎を気に入っているようだったから。
「――またホモ」
 込み合う電車の中で美雨がぼそりと呟く。周囲の人々が驚いたように一瞬だけ視線を集中させたが、当の少女が全く意に介さないので、みな何事もなかったかのように受け流すのだった。

 ◇

 握っている湯飲みに入った緑茶へ美雨はふうっと息を吹きかける。
「お祖父さん、その船箪笥をくれた人って池田という名前ですか?」
「うーん?」
 書類に目を通していた早雲は顔を上げ、老眼鏡を外して孫を見た。
「いや、違うが何かあるのか?」
「別に」
 緑茶の湯気の向こうに、床の間に置かれた船箪笥が見える。宗太郎の眼鏡がずっとしまわれていたこの小物入れは、一体誰がどんな理由で後世に引き継がせてきたのだろう。
 美雨は自宅にいる時、暇な時は二階の自室よりも祖父の部屋に入り浸ることが多かった。
 引き取られてしばらくは殆ど早雲が横にいる状態で過ごしていたので、それがすっかり定着してしまったのだ。
 本当に早雲が仕事で忙しい時には隣の仕事部屋に篭るので、自然とお互いに空気を読みあって行動する。居間に大きなテレビもソファーもあるが、美雨はこの部屋にも別で小さなテレビを持ち込んで勝手に観る。
 一緒にいるからといっても積極的に仲良く会話するでもないところが、宇喜多家家風である。
「あーそういえば、くれた奴が何か言ってたな」
 思い出そうとして早雲はこめかみをぽんぽんと叩きながら宙を見た。
「元々これを持っていた貴族がお家断絶になったらしくてな。そこの使用人をしてた自分の先祖がもらったって言ってたんじゃ」
「お家断絶? 領地を取り上げられたんですか?」
 きょとんとする美雨に早雲は小さく首を振る。
「ヨーロッパで貴族と言ったら地主階級のことじゃが、日本の華族は名前の名誉だけでな。だから戦後不要になってすぱーんと制度自体をやめたんじゃろ」
 お家断絶というよりも、爵位返上が正しいと早雲は補足した。当然返還すべき領地はない。
 そうか、今の日本には貴族はいないのか。と今更基本的なことを知った美雨である。
「何を隠そう、この宇喜多家も」
「え?」
「――生粋の庶民じゃが、わしの祖父さんが商売で一山当てて立派な成金だったぞ。まあ、戦争で殆ど無くなっちまったがな」
「それは残念です」
「全くじゃ」
 感慨深げに祖父と孫は頷いた。

 ふと寝る直前に思い立ち、美雨は机の引き出しの中からあるものを取り出す。
 一本の古びた眼鏡。黒いフレームにもレンズにも細かい傷が沢山ついている。時を経た分だけ印象は変わっているが、どう見ても美雨には宗太郎の眼鏡と同じものに見えた。
 それがどうして今ここにあるのだろう。宗太郎が誰かに狙われていることと何か関係があるのだろうか。
 考えたところで答えが出るわけでもなく、軽く息をついてベッドに倒れ込む。寝転んだまま戯れに眼鏡をかけてみたが、以前のように突然あちらの世界が見えるということはなかった。いや、実際見えても困るのだが。
「度が入ってない?」
 今更レンズに度が入っていないことに気づいた。時間経過で度が消失するわけでもないだろうし、ということは伊達眼鏡か?
 やがて緩やかな倦怠感が浸潤して頭の芯をゆっくりと重くしていく。ほんの少し休憩するつもりで目蓋を閉じたが、いつしか美雨はそのまま小さな寝息を立て始めていた。

 ざあああ、ざあああ。嫌な音がする、これは雨が降る音だ。
 置いていかないで。もっと私の話を聞いて。私を見て。
 仕事で家を空けることが多かった両親。家にいる時は仕事絡みのホームパーティを開き、ホスト役の両親はやはり美雨に構ってくれる時間は圧倒的に少なかった。
 両親が出張先で亡くなった日、葬儀が行われた日。その全てにいつも雨が降っていた。
 冬のイギリスはいつも空がどんよりしていて雨と霧は日常茶飯事である。驚くほど日照時間が短く、薄暗い空を窓から見上げ、この世にたった一人残された孤独を噛み締めた記憶は、頭にこびり付いて未だ消えることはない。
 だから嫌いだ。自分の名前に使われていても、嫌いなものは嫌い。
 そうして美雨はあることに気づく。
 ああそうか、元々自分の中に「自分じゃないものになりたい」という願望があったのかもしれない、と。
 ざあああ、ざあああ。音を聞くだけで凍りそうな冬の雨の冷たさを思い出し、身も心も凍えそうになる。少しでも温まろうとして身体を丸めた時、雨音の中に違う調子のものが混じった。
 ぱらぱらぱら。軽快で不思議と心地の良い音だった。ポップコーンが弾ける時のような、こんぺいとうを机の上に沢山こぼしたような少しわくわくする音だ。ふと美雨は振り返る。
「――美雨さん?」
 下駄の足元、袴姿の番傘をさした青年が立っている。目を凝らすと少し間が抜けた印象の眼鏡と無造作に束ねた髪のしっぽが見えた。何度か見たことがある――そう、鏡に映った彼の姿を。
 ぱらぱらぱら。優しい音は宗太郎の番傘で跳ね返る雨音なのだと気づいた。紙でできた傘が、わずかな光に半分透き通る様も目に優しい。
 うずくまったままの美雨が小さなため息をつく。
「夢にまで出てくるんですか。生憎と私は今そんな気分ではないので」
「ああ、そうか。そうですよね、夢」
 困惑顔だった宗太郎は頷き、こちらにゆっくりと近づいた。美雨と同じようにしゃがみ込むと、二人は同じ番傘の中にすっぽりと入り込む。
「こんなところで座っていたら風邪ひいちゃいますよ」
 宗太郎の気遣わしげな視線に、自分は濡れていないと言おうと思った途端、何故か寒気を感じた。いつの間にか髪が濡れ、服もびしょ濡れになって身体にまとわり付く。
 結局美雨が何も言わずにまたうずくまると、額にそっと何かが触れた。
 驚いて顔を上げたら、着物の袖を掴んだ宗太郎も同じように目を丸くする。拭うものが他に見当たらなかったのか、自分の袖で美雨を拭こうとしたらしい。
「雨は嫌いなんです、だから放っといて下さい」
 分かるような分からないようなことを言って、美雨は宗太郎が拭おうとしていた手をぐいと押しやる。
「そう言われても」
「うるさいですね、宗太郎のくせに」
「ええ、何ですかそれ。……す、すみません」
 異議を申し立てておきながら結局謝るとは。憂鬱だったはずなのに美雨のどこかがふっと軽くなる。
「でも美しい雨なんて綺麗な名前をつけてもらったのに、雨が嫌いだなんてもったいないですよ」
「だから」
 これ以上無駄口を叩くようなら水溜りに転がしてやろうか、と苛立ちが瞬間的に募った。
 しかし美雨より先に宗太郎が動く。持っていた傘を不意に差し出し、美雨はよく分からずにそれを受け取った。
 宗太郎が静かな動作で眼鏡を外すと、思いのほか強い視線にぶつかる。真っ直ぐに捕らえ、放さない。そんな視線だった。
 宗太郎?
 わずかに眉根を寄せる美雨に、宗太郎は静かにするようにと口元へ人差し指をそっと当てる。
「どうせ見るなら優しい夢の方がいい」
 口元だけに微笑をたたえた宗太郎が言い、何故か心臓が跳ね上がった。彼の目から視線を外すことができなかった。
 そこまでは覚えているが、その後の意識はふわりと宙に浮かんで視界を失う。
 優しい闇に取り込まれるように、ただゆらゆらとたゆたう。
 確かなのは、どこからともなく聞こえてくるぱらぱらという音。傘に跳ね返る優しい音に耳を澄ましながら、美雨はいつまでもゆらゆらと揺れていた。


「宗太郎」
 違う名前を呼ばれて美雨はやや遅れて振り向く。自分が今どこにいるのかよく分からず、とりあえず敷地内をさまよっていたところだった。
 大きな建造物の庭らしき場所で声をかけてきたのは白衣を着た中年男である。機嫌良さそうに笑む顔には、彼の半生を物語る年季のいった皺と同じくらいの自信がみなぎっていた。
 初めて見る相手なのでどう受け答えしたものか分からず、会釈だけして早々に立ち去ろうとしたが再び呼び止められる。
「どこへ行く、こっちだ」
 手招きされて仕方なく側まで行くと、男は予告なく美雨の頭をぐしゃぐしゃとかき回して破顔した。
「相変わらず普段はすっとぼけた顔をしてるな。高子さんは元気か? まああの人が弱ってるところなんて想像もつかんがな」
 ぼさぼさになった髪はこの際気にせず、高子って誰のことだったかなとメモにあった家系図を思い出してみる。確か宗太郎の母親の名だ。
 男は美雨の肩を抱き、近づいた耳元で囁く。
「横浜でまたアレが出た。お前の方はどうなって……」
 見知らぬ親父に肩を抱かれるのは気持ちの良いものではないが、今の自分は男なのだから仕方ない。と甘んじて受け止めていると、ふと相手の言葉が途切れた。男は美雨の側から半歩離れて振り返る。
「――どうした隆君」
「ああ、ここでしたか義父上。宗太郎君も一緒とは珍しい」
 建物の陰から姿を現したのはこれまた白衣を着た男だった。この人の良さそうな笑顔には見覚えがある。不審な馬車から放り出された時に介抱してくれた、宗太郎の従姉の夫という人だ。
 その田辺隆が義父と呼び白衣を着ているということは、声をかけてきた中年男はおそらく男爵である宗太郎の伯父、池田密なのだろう。
 田辺は少し困ったように眉尻を下げて義父を見た。
「大学から次の学習会についての返答を早くいただきたいと連絡が。僕の記憶が確かなら、それ先週の締め切りではなかったかと思いまして」
「あーすっかり忘れとったな」
 声には出さないが、やっぱりと言いたげに田辺は苦笑する。男爵といっても密は病院の副院長という勤め人のせいかざっくばらんな性格のようで、後頭部を叩きながら明るく笑った。
「面倒だな。君がやってみるか、隆君」
「またそんなことを」
「ふむ、仕方ない。ちゃっちゃと片付けてくるか。先に行って書類を準備させといてくれ」
 田辺は快く頷いて建物の中に消えていく。その背中を見送り、密が美雨を振り返った。
「呼びつけたのに待たせて悪いな。そういうことでまだ一時間ほどかかるから、あとで私の部屋に来てくれ。段取りをつけよう」
 何のことやらさっぱり分からなかったがとりあえず頷いておく。そして美雨はまた一人取り残された。
「私の部屋……ということは、ここは病院?」
 少し離れて見上げた建物の天辺にはとんがり頭の時計塔がそびえている。辺り一帯は広大な緑地公園のようで、林の中に優雅な洋風建築物が点在し一見旧時代の別荘地のようにも思えた。むこうの道を立派な馬車が通り過ぎるのが見え、ますます特権階級の避暑地じみた雰囲気が濃くなる。
「まあ貴族が働いているような所だから」とあっさり美雨は結論付けたが、まだまだ生活水準の低い庶民が払える医療費ではないことは確かなので、あながち間違ってはいない。
 後で言われたとおりに密の執務室に行くかどうかは別として、今からどうするか。
 静かなこの場所にいても取り立てて見るものはなく、美雨は適当に敷地の外へ繋がっていそうな道を歩き始めた。
「もし、そちらは行き止まりですよ」
 振り向くと白い服に身を包んだ三人の中年女性が、少し離れた所からこちらを窺っていた。長袖上衣の下はスカートかと思いきや、予想外の白袴に草履スタイルである。
 巫女……にしては明らかに何かがおかしい。では一体何なのか。
「給食のおばさん?」
「んまあ」
 心外だと言わんばかりに真ん中の女性がふんぞり返った。
「まだ無知な人が多いから困るわ。私達看護婦は、ちゃんと専門の教えを受けた立派な職業婦人なんですからね」
 間近でよく見ると、彼女達が穿いているのは袴とスカートが合体したようなものらしい。だがぱっと見には袴にしか見えないし、ナースキャップを付けているわけでもなく、草履を履いた人を看護婦と判別しろというのがそもそも無茶な話である。
「ここは病院ですよ、特に用がないのならお帰りなさいな」
「大学の生徒さんでもなさそうだし」
「一番近い出口はあっちよ」
 給食のおばさん呼ばわりしたことですっかり機嫌を損ねてしまったようだ。いつの時代もこの世代の女性には有無を言わせない凄みがあるようで、美雨は矢継ぎ早に飛んでくる言葉を黙って聞くしかない。
 一番最後に「それとも誰かに用事が?」と尋ねられてのろのろと答える。
「池田密という人に呼ばれて」
 美雨ではなく宗太郎が。
 途端に看護婦達は顔色を蒼くする。
「副院長の?」
 無言で頷く美雨に、看護婦達は慌てて建物の方を指差し視線を泳がせた。
「副院長のお部屋はあそこの二階、突き当りよ」
「そうですか、どうもありがとうございます」
「いえいえ、ではごきげんよう。おほ、おほほほ」
 三人は急ぎ足で去っていく。道すがら小声で話しているつもりだろうが、興奮しているせいで離れた美雨にも何を喋っているのかが聞こえてきた。
 あれは一体誰だ、副院長の息子か。いや、息子がいないから田辺先生を婿にしたんだろう。いやいや違う。田辺先生は士族出身で、爵位を継ぐには劣るから跡継ぎは別にいるってっ噂だ。――もしかしてあの子が?
 と三人が一斉に振り返る。
 しかし黙って立つ美雨を上から下まで一通り見ると、微妙な含み笑いを浮かべてまた正面に向き直った。どうやら彼女達のお眼鏡には適わなかったらしい。
「……宗太郎、どこまでも侮られる人ですね」
 何やら複雑な気分にさせられた美雨だった。
 何だかどっと疲れ、近くにあったベンチに腰掛ける。
 手に触れた紙ががさりと音を立て、視線を落とすと文字が所狭しと印刷された紙を見つけた。サイズは随分と小さいが、一番上に新聞と書いてあるので多分そうなのだろう。
「なになに?」
 ちょっとした好奇心で覗いてみたがすぐに嫌気が差した。漢字とカタカナだけで構成された文章は激しく読み辛い。おまけに古文のような文体で書かれているせいで、文字は読めたとしてもさっぱり頭に入ってこないのだった。
「ひらがなは平安時代に発明されたというのに何故使わないんですか」
 ちょうど一番初めに見た宗太郎のメモ書きも明らかに口語とはかけ離れていた。美雨は散々文句を並び立て、読みやすいように変えさせたのだ。

 よく見ずにぺいと投げ捨てた紙面には「横浜ニテ異国人ノ遺体発見サル。急性阿片中毒ノ疑ワシキ此レ有リ、只今流通路ヲ警察ガ捜索中ナリ」という記事が、紙面の四分の一を使って書かれていた。


「あら――――電車の乗り方はちゃんと分かったかしら、宗太郎」
 ぼんやり歩いているところに声をかけられ、美雨の姿をした宗太郎は視線を上げる。
「すごいな、どうして僕だって分かったんです?」
「美雨はそんな背中を丸めて歩かないもの。いつも無駄に肩いからせて堂々と歩いてんのよ。本当、体育会系って暑苦しくて嫌だわ」
 これから帰宅電車に乗る那智。那智から電車の乗り方を教わって、午後から早退していた宗太郎。二人が駅前で偶然鉢合わせしたのは宗太郎が美雨の自宅住所を知らず、とりあえずここに舞い戻ってきたからだった。恐らく、いや確実に、勝手に早退した宗太郎の暴挙を知れば美雨は後でねちねちねちねち怒ることだろう。
「なあに、そんなにうなだれて。もしかして自分の家を見にいったとか?」
 すでに百年以上経っている。おまけに間に戦争を挟んでいるのだから、木造建築の家屋が残っているはずがないと那智はあっさり言い切る。
「仮に残ってたら文化遺産よ」
「あ、ええ」
「うん?」
 小首を傾げる那智に宗太郎はただ苦笑するだけで何も言わなかった。
「――仕方ないわね」
「え?」
「美雨の家に帰るんでしょ」
 指で付いて来るように示すと那智が歩き始める。人でごった返す夕方の駅の中、宗太郎はその後を小走りで付いていった。

 電車――電気で走る列車。この世界はいつでもどんな場所でも、暗い場所を忌み嫌うかのように明りが沢山灯っていた。
 座席は全て埋まっていたので出入り口の前にぼうっと立ち、宗太郎は車内を眺める。
「人が闇を駆逐できたということは、それだけ使える時間が沢山あるってことですよね。すなわち自由が増えて、余計なしがら……みも……」
 要らぬことまで言ってしまったとばかりに、宗太郎の語尾が小さくなって途中で消えた。隣に立つ大きな身体は共に同じ方向を向いているのでどんな反応をしているのか定かではない。
「そりゃ明治に比べれば随分と自由に見えるかもしれないわね。時間を有効に使ってるかどうかは疑問だけど」
 苦笑じみた声が意外に思えて、宗太郎はゆっくり視線を上げる。
「すみません、分かったようなことを」
「いつの時代になっても子供は横暴な大人と戦うために大変なのよう。ま、あたしの場合は嫌がらせしたら当面は諦めてくれたみたいだけど」
 穏やかでない発言に宗太郎が顔を蒼くさせると、那智はにっこりと笑んでみせた。
 会話は聞こえていないと思われるが、那智の笑みを見た周囲の女性客達が思わず息を呑む。続けて隣に立つ女子高生姿の宗太郎に、嫉妬の視線が集中砲火となって降り注いだ。
 違うんです、僕は男ですから。
 あわあわ心の中で悲鳴を上げて宗太郎は更に顔色を蒼くする。那智はといえば、人に見られることにすっかり慣れているらしく気にも留めていないようだ。
「あの、参考までに」
 少しのためらい。しかしそれを上回る好奇心と奇妙な期待感が宗太郎の口を軽くする。
「何をしたんですか?」
「ん? ――爺さまの代からやってる家業を継げ、うちに相応しい人間になれってあんまりうるさいもんだからさあ、ちょっとむかっとしちゃったの。だから、会社のパーティーでど派手なドレス着て登場してやったわよ」
 那智十四歳。といえどもすでに身長は百七十センチを超えていたので、西洋顔の中学生はずっと老けて見えたに違いない。女言葉も親への嫌がらせのつもりで使ってみたら、案外面白くて以降癖になってしまった。
 ちなみに那智が言う「家業」というのはもちろん一般的な自営業ではない。創立何○十周年記念パーティーなんてものを、有名ホテルで行ってしまうような老舗化粧品メーカーだ。
 そんな大々的な場所で創業者の孫が女言葉を喋り女装して現れたもんだから、祖父は泡を吹いて倒れるわ、代表挨拶の途中だった父親はマイクをキーンキーンドヒュルルルーンとエンドレスでハウリングさせたまま固まるわで、なかなかの惨状だったらしい。
「ふふん、その辺のモデルよりずっと美しく着こなした自信はあるわ」
「そ、そうですか」
 もしかしたら自分にも参考になるかもしれないと淡い期待を抱いたが、これは那智にしかできないことだった。いや、特に男色に否定的な明治の世界でこんなことをしたら、どこぞの座敷牢なり病院なりに閉じ込められること必至である。
 伯父の密は笑って済ましてくれるかもしれないが、母の高子なら「お前を刺して私も死にます」と懐剣でも取り出しかねない。あの人ならやる。確実に。
 どっと疲れが出てため息がもれる。やはり宗太郎の世界は横幅がとても狭くて窮屈だ。
 たまたま飛び込んだ未来の世界を羨んだところで、どうなるわけでもないのだが……。
 横目にガラスに映った美雨の顔が見えた。外はすっかり暗くなり、鏡のように車内にあるものをくっきりと映し出す。
 ガラスに映る姿を見ながらふと頬に触れてみた。ふにと柔らかくすべらかな、自分にはない感触にどきりとする。
 先日、宗太郎はとても鮮明な夢を見た。鏡越しではない美雨を初めて自分の目を通して見た時、彼女は想像よりもずっと小さく弱々しく思えた。
 実はもっと怪獣みたいな女の子を想像していたので驚いたことは否めない。
「そもそもあれは夢だし」
 ということは、深層心理ではああいう彼女を想像していたということだろうか。
「いやいや、そんな馬鹿な」
 再びガラスを見た。大きな目と長い髪の外観に、夢で見た頼りなげな印象が一瞬重なる。その斜め上にあった那智の秀麗な横顔が視界に入ると、何故か胸の奥で表現し難いもやもやしたものが湧き上がった。
 とても仲が良いようだけど、二人はどういう関係ですか。
 普通に尋ねればよいことなのに、不思議と言い出し難くて宗太郎は黙ったまま窓の外を眺めやった。

 那智さんに教えてもらって電車に乗りました。どこもかしこも変わっていてびっくりです。あの、■■いえ何でもありません。今日も晴れて良かったですね、僕は雨も結構好きですけど。夢だから関係ないかな。では失礼します(宗)

 塗り潰した箇所に要領を得ない走り書き。我ながら馬鹿なことを書いてしまったと、宗太郎は後悔した。

 ◇

 池田男爵に後で来いと言われていたのですが、散策していたらうっかり道に迷って帰れなくなってしまいました。何の用事か分かりませんが、代わりに謝罪をお願いします。
 歩き疲れて座っていたら、鶴亀寺のご住職にお茶とお菓子をご馳走になりました。鶴亀……変な名前(美)
「うわ、そう言えば呼ばれてたんだった」
 メモ書きを見ながら宗太郎は目を見開き、一拍おいた後に「迷ってくれてよかった」と呟く。
 病院には戻れなかったものの不思議と別の勘が働いたようで、美雨は宗太郎の自宅の方角へちゃんと向かっていたらしい。美雨は変な名前と言ったが鶴と亀は縁起もの。ここは池田家が檀家になっている寺の前で、自宅からもそれほど遠くない。住職がお茶に呼んでくれたのも宗太郎を見知っていたからだろう。
 間遠に建てられたガス灯の明かりは、日の落ちた暗い世界を明るくするにはあまりにも光が弱いように感じられた。
 道沿いに連なる商店も軒並み店じまいを終えた後だ。人気のない夜道の一人歩きは男でも危険が付きまとう。ほんの少し前にいた世界とは驚くほど違う、不気味な静けさに沈む闇が広がっていた。
 歩き始めてしばらくすると、後方から馬車の音が近づいてきて横で止まる。馬車の扉が半分開き、中の人物がこちらを見下ろした。
「どこに行っていた」
「おじ……」
 宗太郎は言いかけた言葉を途中で飲み込むと、表情を改めて真っ直ぐにその人物――池田密を見る。
「すみません、急に用事ができて」
「まあいい。乗りなさい、お前の家には私から遣いを出しておく」
「はい閣下」
 二人を乗せた馬車はゆっくりと走り出し、やがて夜道の闇に消えていった。


「や、やあ宇喜多美雨。今日も屋外修行にぴったりな青空だな。どうだろう私と」
 昼放課の賑やかな廊下で、プリントの束を抱えた美雨はツンドラの吹雪よりも冷たい声で「はあ」と振り向いた。
 声をかけてきたのは宇堂である。ぶっとい指には何故か一本のぺんぺん草を摘まみ、頬を高潮させて立っていた。
 しかし美雨は今非常に機嫌が悪かったので、宇堂が喋り出す猶予を与えぬがごとく素っ気ない。
「ああ、ホモ先輩。私は今それどころではないので失礼します」
「まて、まだ何も……ではない。それは大きな誤解だ、私は断じて男が好きっ、す、すす好き」
 ではない、と続く前に通りがかりの野次馬達がざわめき始める。男が好きなんだって。あれってただの噂じゃなかったの? うおお、マジやべえ。きもー。
 巨体が沢山の視線にロックオンされ、あっという間に宇堂をミイラ化させる。
「う、宇喜多……美雨。かはっ」
 廊下で討ち死にしている宇堂をあっさり見捨てて美雨は歩き去った。
 彼女が抱えているプリントの束は化学の課題で、昨日宗太郎が授業をさぼったために発生したペナルティだ。実験に参加できなかった分、資料のプリントを参考にレポート提出しろというのである。よりにもよって一番嫌いな化学を。
「今度入れ替わったら裸踊りでもしてやりましょうか」
 いかに美雨が女の子と言えども、見せるのが自分の身体ではないと思えばそれほどためらいはないらしい。
 手伝わせようと思った那智には早々に逃げられた。仕方なく夜になってから一人で格闘していたが、集中が途切れて美雨はベッドに倒れ込む。
 すると階下から祖父が呼ぶ声がする。返事だけすると、「明日はどうする」と聞かれた。
 明日は休日だ。何のことだろうとしばらく記憶を遡った後、祖父の知人が催す会に付いて行くことになっていたと思い出す。早雲は「死にぞこない集会」と言っているが、知人というのが社会的に肩書きのある老人ばかりで、その面々が集まって食事会やら茶会やらを催すのである。
 家族や友人が一緒に行ってはいけないという決まりはないからごくたまに美雨も付いて行くことがあった。何しろそこで出される料理は必ず美味しいと保障されている。おまけに美雨は、喋りに遠慮がない割には何故か老人受けが良かった。
 少し考えた後、美雨は行きますと返事をした。

 やはり止めておけばよかったかなと思ったのは、タクシーに乗って随分と経ってからだ。結局化学の課題は終わらなかったし、相変わらず道は混んでいるしで何やら時間を無駄に浪費しているような気にさせられる。
「そう言えばあの眼鏡はどうした」
 車窓から景色をぼんやり眺めていた美雨は早雲の声に我に返った。あの眼鏡とは、当然「あの」眼鏡のことだろう。
 まさかあれ以来明治時代の人間とよく入れ替わってますと言えるはずもなく、美雨は「ちゃんとしまってありますよ」とだけ答える。
「あれが入っていた船箪笥を譲ってくれた奴の家が、確かこっちの方だったと思い出してな」
「へえ」
 と何気なくまた外に視線を移した時だった。建物がひしめく景色の中に、ある一角だけぽつんと緑の多い場所があって目が留まる。
 木々の隙間から顔を覗かしているのは三角の屋根、灰色の瓦に金の装飾が陽にきらきらと輝いていた。寺だ。
 前を通り過ぎる時に寺の名前が見える――鶴亀寺。
「停めて下さい!」
 反射的に口走っていた。こんな変な名前の寺が他にあるとは思えない。個人の邸宅なら現在まで残っていることは殆どないだろうが、寺社仏閣なら話は別だ。
「美雨」
「すみません。急に用事ができたので、帰りは電車を使います」
 タクシーが停まると美雨は説明もそこそこに飛び出した。

 門や鐘楼などは印象が違ったが、よくよく見ると明治の世界でお茶を振舞ってもらった寺の面影がそこかしこに残っていた。ああそうだ、ここだ。と美雨は一人納得する。
 住職は宗太郎を知っていたようなので、もしかしたら彼の家はここから近いのだろうか。と思い至った時、何かを感じたような気がして振り向く。
 立派な松が立ち並ぶ先に背の高い建物は存在しない。ただ沈黙を守るようにして、沢山の石が遠目に見えた。


 これはいわゆる過去改変ということになってしまうだろうか。いや、なるだろう。
 ベッドの上で腕を組むパジャマ姿の美雨は、一人難しい顔をして目の前に置かれた眼鏡を見る。
 先日宗太郎が美雨のメモ帳に残した「雨」と「夢」の記述。気のせいでなければ、先日のリアルな夢は美雨だけが見たものではないらしい。
「この眼鏡をかけて寝てしまったせい……?」
 考えれば考えるほど額に汗がだらだらと浮かんでは流れ落ちる。雨のことは那智も知らない美雨の弱点だ。それを宗太郎にまるっと全部さらけ出してしまったと思うと、頭を抱えて唸りたい衝動に駆られる。
 ふいに夢の中で間近に見た、微笑を浮かべた宗太郎の顔が脳裏に浮かんだ。何故かびっくりして一瞬動きが止まり、美雨は煩わしいものを振り払うかのようにしかめっ面をぶんぶんと振る。
 今はこの「夢」という可能性を利用することだけを考えよう。これが現代にどんな影響を及ぼすことになるのかも、ひとまず置いておくことにした。

 一面、夜の空を覆い尽くすように薄桃色の世界が広がっていた。花びらを沢山付けた枝がしな垂れて、近づいた池の水面に姿を映す。
 周囲に人工的な明かりがなくとも桜が見えるのは、空で交差する枝の隙間から丸い月が静かに照らしているからだった。
 誰もいない。音もしない。しかしそう思った瞬間にざあっと風が通り抜け、幾万枚もの花びらが一斉に舞った。
「もう桜も終わりの時期ですね」
 桜色の壁の向こうから、着物に袴姿の青年が現れてまた会いましたねと笑った。
 少し間の抜けた印象の黒縁の眼鏡、後ろで一つに束ねた髪。こうして相対するのは二度目のはずだ――夢で。
「やっぱり」
「え?」
 やっぱり推測は間違っていなかった。と美雨は複雑な心境を、眉間に皺を作ることで表す。実際の自分はベッドの中でまだ眼鏡をかけたままなのだろうと思いやりながら、人差し指を宗太郎に向けた。
「ここで会ったが百年目」
 違った。確かに時期は百年以上離れているが、思わず出そうになった苦情より先に言うべきことは他にある。
「いいですか、今から私が言うことをよく聞いて下さい」
「どうしたんですかそんな怖い顔をして」
「まだこれがただの夢だと思っていたら甘いですよ宗太郎。これは夢であって夢ではない。私は自分の意思でこうして喋っているし、あなたに会うためにこの夢を見ているんですから」
 とぼけた顔で首を傾げる宗太郎に、今ある条件の下で二人が同じ夢を見ているのだと美雨は説明した。
「まさかそんなこと」
「以前雨の中で会いましたね、私と」
 宗太郎は口を半開きにしたまま黙り込み、困惑した表情に変わる。とてもまずいものでも見られてしまったかのように。
「え、ええと、あの、美雨さん」
「すっとぼけ宗太郎に伝言日記では埒が明かないと思って直接言いに来ました」
 腰に手を当て、残る片方の手をびっと伸ばして美雨は宗太郎を指差す。
「とにかくあなたは誰かに狙われているんです、身辺にもっと注意を払うように」
「もしかしてこのあいだの馬車の件ですか?」
「それだけではありません。ついでに言えば、状況的に一番怪しいのは田辺隆!」
 男爵の長女の夫であり、病院では義父と師弟関係の医師同士。普通ならすんなり田辺が池田家を継いでもよさそうなものだが、士族で血統上劣るとか、現代人から見れば馬鹿げた理由で彼は爵位を取って代わられたのだ。
「それもこんなへなちょこに奪われたとあっては、納得いかないのも道理」
「ひ、酷い」
 美雨が暴走馬車から落ちた時、ちょうどよく駆けつけたのが田辺だった。人の良さそうなあの笑みも本心から来るものかどうか他人には分からない。
 しかしこれだけ言っても宗太郎は困った顔をするばかりで態度がはっきりしない。
 どうして分かってくれないのだろう。美雨は見てしまったのだ、あの鶴亀寺で――
「もしかして美雨さん、鶴亀寺に行っちゃいました?」
「え?」
「この間僕、那智さんに電車の乗り方を教えてもらったって言いましたよね。その時」
 那智は、宗太郎が実家でも探しに行ったのではないかと言っていた。しかし実はそうではなく、
「分かってるんですか、死ぬんですよあなた」
 ――宗太郎、享年十六歳。池田家の墓石に刻まれていた小さな文字。
「まいったな」
「まいったなじゃありません。へらへら笑うところですか」
 頭をかく宗太郎に美雨は眉を吊り上げる。これではあれこれ気を回している自分が馬鹿みたいだ。
「田辺さんは本当にいい人ですし」
「じゃあ他に誰がいるというんですか」
「ええと」
 無性に腹が立つ。自分の命に無頓着な者。命は限りあるものなのに、それを全く自覚していない者。
 どうせなら全く与り知らぬところで全てが進行してくれればいいのに、どうして美雨の視界に入ってくるのか。
「私は」
 数歩近づいて胸倉を掴み、美雨は宗太郎を見上げる。入れ替わっている時は大して身長は変わらないと思っていたが、こうしてみると差異をまじまじと感じる。
「死ぬと分かっているのに、それを見てみぬふりなんてできないんです」
 いつもと同じように出張に出かけた両親。多忙な二人を気遣ったというより、良い子だと褒めてもらいたいがためにあの日の美雨は無言で見送った。
 本当はいつも家にいてと言いたかった。それが無理ならば、自分も一緒に連れて行って欲しかった。
 そしてもし自分という別のファクターがあの状況に加わっていれば、両親は死なずに済む道があったのではないかと考えてしまう。
 死ぬはずの人間が助かることは、未来という現代に何かしらの変化を与えることになるだろう。だがそんなことは今、どうでもいいと思う。美雨は自分が傍観することの罪悪に我慢ならないのだ。
「わわ、美雨さん落ち着いてくだ……うわっぷ」
 突風が吹いて桜の花びらが再び舞う。その数枚が宗太郎の眼鏡に張り付き、視界を遮ったようで彼は慌てて眼鏡を外した。
「――あ、しまっ」
 ともらしたのも数瞬。未だ胸倉を掴まれたまま硬直する宗太郎に、美雨は一体どうしたのかと眉根を寄せる。
 不意に宗太郎の視線が動いて、目が至近距離でかち合った。
「余計なお世話って言葉知ってるか、あんた」
「――あんた?」
「俺には俺の深い事情ってやつがあるんだよ。そういうところ全然気にしてないだろ、所詮平和呆けした未来人の狭い了見ってやつだ」
「俺?」
「おい、いつまで掴んでるつもりだ。いい加減に離せ」
 力任せに掴まれて、美雨は宗太郎の襟元を離し一歩下がる。
「だっ」
 誰だこいつ。
 目を丸くして絶句する美雨に、眼鏡を外したままの宗太郎は斜めな視線を投げかける。
「あんたはもうこれ以上俺に関わらない方がいい。この夢もどうやってるのかは知らないが、俺の眼鏡も壊すか捨ててしまえ」
「それで入れ替わり現象が解決できると?」
「さあ」
「さあって、そんな無責任な」
「どっちにしろ、俺が死んだらもう入れ替わりようがないだろ」
 美雨は下唇を噛み締める。瞬間的な怒りが身体のあちこちで火花を上げ、言葉よりも先に身体が動いた。
「頭を」
 手首を掴み、大きく上下に振って宗太郎の体勢を崩す。
「冷やしなさい」
 そのまま美雨が一回転すると、腕を掴まれていた宗太郎の身体が投げ飛ばされた。
「え?」
 しかし宗太郎も咄嗟に美雨のパジャマを掴んだらしく、吹っ飛ばされる宗太郎もろとも美雨もバランスを崩して足が地から離れる。
 眼前に迫ったのは闇色の水面。桜の舞い散る池のほとりで、二つの人影は派手な音を立てて水底へと沈んでいった。

 ◇

 朝日が昇り人々が活動し始める頃。まだ出歩くには少し早いはずだが、上野恩賜公園の中はちょっとした騒ぎが起こっていた。
 早朝の散歩を日課にしていた老人は朝の冷気に着物の袖へ手先を忍ばせる。目の前に現れた人だかりに視線を留め、からんころん下駄を鳴らして近づいた。
「おい、どうしたい。やけに賑やかじゃねえか」
「心中だよ」
「違うよ。死んじゃいねえから、心中未遂だろ」
「まだ随分若いようなのに色気づきやがって」
「まあ何にしても生きてるなら良かったじゃねえか」
 野次馬の批評に耳を傾けながら老人がひょいと覗き込むと、ぐったりとした二人の人間が布にくるまれて馬車の荷台に乗せられようとしていた。
「濡れてるようだが、池に身投げしたのか」
 桜並木のほとりに静かな水面を揺らすのは不忍池。遠い昔、周囲を多い隠さんばかりに茂る笹に身を寄せ、男女が忍んで逢ったというロマンスが言い伝えられる天然の池だった。
「でもさっきちらっと見えたんだがよ、娘の方は随分と変わった洋装してたぜ。男みたいにズボンなんかはいてさ」
「へえ」
 老人は何度も頷き視線を心中未遂の二人へ向ける。
「若いもんは死んじゃいけねえ。これからこの国はどんどん変わる、若いもんの時代だからよ」
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