第四章、明治という世界

 どこかから声がする。さすがに年のせいで耳の遠くなった祖父が、また大音量で居間のテレビをつけているのだろうか。
 陽光を目蓋越しに眩しく感じて、ぼんやりした頭で美雨は今何時だろうと考える。
 どうして目覚まし時計は鳴っていないのだろう。
 目を瞑ったまま頭の上をまさぐったが、目当ての時計が見つからない。というかそれを置くためのヘッドボード棚そのものがなかった。
 何かがおかしいと感じ始め、身体が微妙に痛いことを自覚する。それがスプリングもへったくれもない固い寝床のせいだと気づいた時、美雨はやっと目を開けた。
「ここは……どこ」
 白い壁に大きな窓。目の前に並んでいるのは無人の狭いパイプベッドで、美雨がいるのも同様のものだった。昨夜は確かに自分の部屋で寝たはずなのに、どうしてこんなところにいるのか美雨はさっぱり分からない。
 また声が聞こえて振り向く。部屋の出入り口の向こうから流れ込んでくるようだ。
 立ち上がろうとして掛け布団を外した時、美雨はパジャマではなく和式の寝巻きを着ていることに気づいた。
「え?」
 何となく嫌な予感がした。板張りの壁と床。一見病室のように見えるのに、どうしてこの部屋はどこもかしこも木でできているのか。
心臓がばくばくと鼓動を速め、裸足も構わずに廊下へ出る。
「どうしてこんなことをなさったの?」
「ご、誤解ですよお母さん」
「まあまあ、落ち着きなさい高子さん」
「いいえお義兄様、これでは菜子さんにも申し訳が立ちません。やはりいっそのこと」
「わっ、何するんですか。助けて、うげ、うげげげげ」
 廊下を挟んで向かいの部屋には三人の人間がいた。着物姿の女性は初めて見るが、他は不本意ながら見知っている。宗太郎の姿の時に。
 ベッドの上で女性に首を絞められそうになっている眼鏡の青年は――
「宗太郎」
 一歩後ずさり、廊下の窓ガラスに薄く映る自分の姿を見た。女の顔に長い髪。決して二人が入れ替わっているわけではない。では、では……。
 呆然と見つめた窓の枠はアルミサッシではなく木で作られている。ガラスも微妙に歪んで所々気泡が混じっていた。
そこから見渡す景色には、美雨の世界に通じるものは何一つないように思われた。

「いい加減に何かおっしゃいな」
 宗太郎の病室の入り口で棒立ちになっていた美雨をいち早く見つけたのが宗太郎の母、高子だった。彼女は美雨を部屋に引っ張り込むと、どうしてこんなことをしたのか、一体お前はどこの誰なのかと矢継ぎ早に詰問してくる。
「止めて下さいお母さん」
「あなたはお黙りなさい!」
 宗太郎が美雨を庇おうとするが取り付くしまもない。美雨はといえば、顔色を失くして呆然としたまま全く反応しなかった。
 それが余計気に障ったらしい。高子の眉が更に険しい角度になるのを見て取り、白衣の密が間に割って入る。
「おやめなさい、この子も患者だ」
 密に言われてはそれ以上高子が突っ込むことができず、呼ばれた看護婦に促されてよろよろと病室を出て行くのだった。
「さてお嬢さん、名前は言えるかね」
 室内が落ち着きを取り戻すと密はにっと笑って美雨を覗き込む。しかし視線は動かすものの、やはり喋る気配のない少女に密は腕を組んだ。
「もしや失語症か」
「美雨さんです、宇喜多美雨さん」
 代わりに慌てて答えた宗太郎に伯父は好奇の目を向ける。
「何だ、逢引を重ねて心中した相手っていう噂はあながち嘘でもないようだな」
「なっ、何言ってるんですか。違いますよ!」
 宗太郎はこの上なく狼狽し密はそれをからかう。その背後で半廃人と化していた美雨が、不意に「心中?」と呟いた。
 男二人が振り向くと、やっと茫然自失から覚醒した美雨は眉根をしかめて顔を上げる。
「何ですかそれ」
 ひと気のない早朝の上野恩賜公園で二人が倒れているのが発見されたこと。それは池のほとりで、二人ともずぶ濡れになっていたことから身投げでもしたのではないかと大騒ぎになっていること。それらをさも面白そうに密は語るのだった。美雨は黙って聞いていたが、聞き終わる頃には眉間の皺が獅子の子が這い上がれぬほどの谷間へと成長している。
「私が寝ている間に」
 数歩前進して宗太郎のベッドに近寄る。
「少なくとも否定するなり説明するなり、できたのではありませんか」
 美雨の正拳突きが枕横の敷布団にめり込んだ。正式に習っているのは合気道だが、全ての格闘技を愛するマニアの会得はそれだけに留まらない。
 宗太郎は顔色を蒼くして硬直し、密は目を丸くしただけで何も言わなかった。
 茫然自失から辛うじて脱出した美雨は、突発的に宗太郎へ腹を立てている。
 こんなことなら初めから関わるのではなかった。初めてあの眼鏡を手にした時に、さっさと壊して捨てておけばよかったと。宗太郎が若くして死んだとしても、平成の世ではすでに百年以上も前に起こった事実だ。所詮美雨が気にかけたところで何が変わったと言えるだろう。
 そして今、美雨はここにいる。明治の世界に。今までのように入れ替わったわけではなく、どういうわけか自分自身が丸ごとこの世界にいるのだ。
 あの眼鏡も手元になく、どうやって元の世界に帰ったらいいのかさっぱり分からない。
「そう、さっぱり」
 改めて声に出してみると愕然とした。床に膝を着き、首がうな垂れて美雨は再び沈黙する。
 本当に一体、どうやって現代に戻ったらいいのだろう。


 二度目の放心に陥った美雨は早々に元の部屋へ戻され、その間に宗太郎と密の間で話し合いはすっかり済まされていた。
 二人はその日偶然すれ違っただけの間柄。宗太郎が公園内で馬車に轢かれそうになったところを美雨が助けた、という経緯になっていた。
 男女が反対ではないのかと思うところだが、普段の宗太郎を知る周囲の人々は特に疑問には思わなかったらしい。
 しかし馬車を避けた時に運悪く二人ともどこかをぶつけたらしく、その後の記憶は定かではないが結果的に池の側で発見されたと。
 翌日再び病院に現れた高子を迎えた時、正拳突きを見ていることも含め、密は手を叩きながら美雨は強い女子であると笑い、「つまり宗太郎の命の恩人だな」と説明を付け加えた。
 とりあえず不名誉な「心中未遂」カップルという噂は否定され、晴れて美雨は「恩人」という立場に格上げされたわけだが……。
「では美雨さん。我が家は夫、静(しずか)がお勤めで長崎にいて不在ですが、不足のものがありましたらわたくしにおっしゃって下さいな」
「はい、ありがとうございます」
 肘掛にもたれ、微妙に憂鬱な表情が見え隠れする高子。その前に正座した美雨は特に気にするふうでもなく素直に頷く。
「警察があなたのご家族をすぐに捜して下さいますよ」
「そうですね」
 絶対に見つかるはずはないのだが、しらじらしく真面目な顔で返事をした。
 美雨は事故の衝撃で名前以外の全てを忘れてしまった。
 という状況設定で周囲には説明がなされている。
 外傷はなくすぐ退院になったが帰る場所もないということで、池田家に預かりの身となったのだ。密が自分の屋敷に住まわせてもよいと言ってくれたが、息子の恩人なのだから我が家でと高子が自ら引き受けたわけである。
 だがすでに後悔し始めている気配が濃厚だ。息子二人が暮らす家に年頃の娘を預かるのは色々と困ることがあるのだと、彼女の表情や態度がありありと示していた。
「それこそ余計な心配だと思います」
「何かおっしゃいまして?」
「いいえ」
 高子が若い頃に着ていたという小袖を借りた美雨は、帯が苦しいなと思いながらよろしくお願いしますと頭を下げた。
 以前にも見かけたことのある老年の女中から案内を受け、美雨は家の中を移動する。
 平屋建てで大きさは美雨の家より少し大きい程度。各部屋へ繋がる縁側沿いの廊下をしずしず先導して歩く老女中は、目当ての部屋の前に辿り着くと振り返った。
「美雨様、こちらが……あら?」
 記憶喪失の不憫な美少女は忽然と姿を消していた。

「さあ、きりきり吐いてもらいましょうか」
 勝手知ったる何とやら。別に自分の家でもないが、宗太郎と入れ替わった時に部屋の配置は大体把握している。
 美雨は途中で進路を逸れて宗太郎の部屋へそっと入り込んでいた。そして詰め寄り、部屋の主を壁際まで追い込む。
「吐くって、あの、一体? そんなことより女性が男の部屋に入って来たら駄目ですよ」
「身体が入れ替わっていたのに何を今更」
「ああう、いやまあそうなんですけど。いえ、僕は決して不埒な真似はっ」
 大きな瞳が宗太郎を下から覗き込む。横髪を結い露わになった頬の曲線は、怒っていても少女らしい可愛さを打ち消すことはできない。いつか触れた感触を思い出し、宗太郎は頬を染め顔を逸らした。
 それを「否」という返事だと曲解した美雨は問答無用とばかりに腕を伸ばす。
「あっ」
 持ち主が抵抗する暇もなく美雨は眼鏡を取り上げた。素顔になった宗太郎から数歩離れ、身構える。
「何するんですか、返して下さいよ」
「……オレ様キャラはどうしたんですか?」
「え?」
 あれは夢の中でのできごとだった。宗太郎が二重人格というのは、もしかしてあの世界が見せたまやかしだったのだろうか。
 てっきり眼鏡を外せばまた同じことが起こると思ったのだが……考え過ぎのようである。
「まあこの件はひとまず置いておきます」
 眼鏡を宗太郎に返し、美雨は腕を組む。
「でもまだ何か隠していることがありますね、宗太郎」
「か、隠してません」
「あなたと伯父の池田男爵はすごく怪しいです。ぷんぷんです」
「ぷんぷ……」
 病院の庭で初めて会った時、密は宗太郎である美雨に何事かを言おうとしていた。人の気配を察してすぐに離れたが、横浜がなんとかと言っていたような気がする。
 美雨の身の振り方も結局宗太郎と密の間で話が済まされ、実のところ密がどこまで本当のことを知っているのか美雨は知らされていない。
 一見ぼんやりとした一学生と気の良さそうな男爵と見せかけて、実はそうではない部分を覆い隠している。それはとても巧妙で、外側から見ただけではきっと分からなかったに違いない。美雨が宗太郎と入れ替わっていたからこそたまたま気づいたのだ。
「さあ」
 ずずいと近寄る美雨に、壁を背にした宗太郎は必死で横にずれて逃げようとする。頬は湯気が立ち上りそうなほど紅潮しているし、額には滝のような汗。目には薄っすらと涙まで浮かんで殆ど半泣き状態である。
 窮地に立たされた宗太郎を救ったのは、老女中の美雨を呼ぶ声だった。滅多なところに入り込んでいたら大変と、家の中を捜し歩いているらしい。
 美雨は小さく息をつき宗太郎から離れた。出入り口のふすまを少し開けて、廊下の様子を窺った後振り返る。
「仕方ありません、ではまた今度聞かせてもらいます」
 音が出ないように閉められたふすまを見やり、一人になった宗太郎は額に手を当てて天井を仰ぐ。
「身、身がもたない」
 魂の底からもれた一言だった。

 美雨は始めに案内された部屋へ戻る途中、今いる場所とこれから行く場所はごく短い渡り廊下で繋がっていることを思い出した。途中には台所がすぐ近くにあり、このまま真っ直ぐ行こうとすれば宗太郎の部屋から来たことを勘繰られてしまう可能性もある。
 部屋に入ったから何だと思うのだが、ここでは現代人とは違う感覚が普通なのだとこの数日でいやというほど思い知らされていたので思わずためらう。
 ふと縁側の戸が開けられているのが視界に入った。こじんまりとした中庭には飛び石が配置されていて、そのゴールは美雨の目的地近辺だ。
 生憎と履物が見当たらなかったが、直接地面を歩くわけではないから構わないだろう。美雨は足袋を履いた足で飛び出した。
 数歩進んだところでふと視線を感じ立ち止まる。
 振り向くと、庭でこちらを凝視していた青年が驚いたように目を見開いた。
「え?」
 そこまで驚かれてしまうとこちらもどうしたものやら反応に困る。それに彼は美雨も知っている人物だった。
「まあ美雨さん、何てはしたないことをっ」
 運悪く、偶然廊下を通りかかった高子に発見されてしまったようだ。そして庭にいたもう一人の人物を認識すると、高子は小さな悲鳴を上げる。
「安川様のご子息ではありませんか。今玄関を開けさせますわ、さあ、そんな所にいらっしゃらないで」
「ああお気遣いなく。宗太郎君が退院したというので少し寄っただけですから」
 玄関へ向かう途中に裸足で歩く美雨を見て驚いていたのは、宗太郎の友人、安川奎吾だった。


 当然美雨はこってり高子に絞られた。日本に住むようになってまだ五年、短時間なら何とかなるが、未だ正座は克服できない課題の一つである。
「こんな血行を、妨げる座り方、絶対間違っています。突然、誰かに襲われたら、どうするんですか」
 およそ現代人とは思えない文句を言いながら、痺れる足を引き摺り壁伝いで恨めしそうに歩く。良い着物をきて一見良家のお嬢様風の外観だけに、呪われた市松人形が等身大になって動いているかのようだ。
「大丈夫ですか美雨さん」
 通りがかった客間の前には宗太郎が立っていた。
 後ろから顔を出したのは奎吾である。奎吾は興味深そうに美雨を眺め、もたれていた客間のふすまを大きく開けた。畳の上に置かれたテーブルとソファー、何となくミスマッチな雰囲気がいかにもこの時代らしい。
「さすがにそれは大変そうだ。休んでいきなよ」
 いかにも貴公子という言葉に相応しく、奎吾は爽やかに笑んでみせた。普通なら娘達が頬を染めてうっとりするところだが、美雨は何の感銘も受けることなく奎吾を見返す。
 実を言えば以前、痺れたまま無理に歩いて捻挫したことがあった。このネタで早雲に一週間笑われ続けたというおまけも付いている。美雨は素直に誘いを受けることにした。
「ええと、こちらは宇喜多美雨さん。こっちは友人の安川奎吾君」
 そうか、「殿」じゃなく「君」と呼ぶのが正解だったのかと、紹介された奎吾を見て美雨は黙って頷く。そしてテーブルに置いてあった小皿に目を留めた。
 茶色の天辺に黄金色の本体、長方形の立方体に切られたあの香ばしそうな姿は――カステラだ。
 こちらに来てから全く甘いものを食べていなかったので、甘いお菓子を見たのは随分久しぶりのような気がした。食べたい。
 甘いものに飢えた美雨が食い入るようにカステラを見ていると、奎吾は笑い、宗太郎は慌てて立ち上がる。老女中を呼んで美雨の分も用意するように告げるためだった。
 竹串で切り分けて口に入れると、甘くて香ばしい芳香が鼻の方へ抜けてゆく。
 決して分かりやすくはないが、満足そうに頬張る美雨に宗太郎はにこにこしながら言った。
「奎吾君がお見舞いに持ってきてくれたんですよ」
「長崎から送ってもらったんだ。東京で売っている物よりしっとりしていて美味しいと評判らしくてね。喜んでもらえたなら良かった」
 自分の分をあっという間に平らげると、美雨は緑茶を一口飲んで満足げに頷く。
「素朴な味は好きです」
「え?」
 小首を傾げる奎吾を見て美雨はハッとする。今この場所で、カステラは決して「素朴な味」と言われるものではない。むしろ一部の富裕層だけが食べることができる、ハイカラな洋菓子に違いないのだ。
「あーっ」
 と突然大声を出したのは宗太郎。手をぽんと叩き、奎吾の視界から美雨を遮るように間へ身を乗り出す。
「お茶がすっかり冷めてしまったね、奎吾君。新しいものを持ってきてもらおうか」
「あ、ああ、そうだな」
 これは余計怪しいのでは。そう思ったが美雨は文句を言える立場ではない。
 宗太郎が席を外すと、部屋には美雨と奎吾の二人が残される。何となく視線を巡らすと目が合ってしまった。先に口を開いたのは奎吾の方だ。
「さっきは驚いたよ。玄関に行こうとしたら、庭で女の子が裸足で歩いてるだろ。一体何事かと思ってね」
「別に泥棒をしようとしたわけではありません」
「君みたいなお嬢様がそんなことするわけないよ」
「いえ、この着物は借り物なので」
 美雨は首を振ったが、奎吾はそうじゃないよと笑う。
 手入れの行き届いた黒絹のような髪、ささくれもなく整った爪を持つ細い指。美雨のそれらは自分で水仕事をしなくてもよい、誰かにかしずかれる生活をしている者の証なのだと奎吾は言う。
 鋭い。宗太郎の友人とは思えないほど、奎吾はよく頭の回る人間のようだった。
 実際は通いの家政婦さんが週に三日来ているだけで、朝食作りや洗い物くらいは美雨だってする。もちろん全部ではないが。
 だが手が荒れればハンドクリームという強い味方もある。
 水道もなく洗濯機もなく、シャンプーもトリートメントも存在しない世の中。一人の人間が老けてゆくのは現代よりも圧倒的に早いということなのだろう。
「少し話を聞いたけど、本当に何も覚えてないのかい?」
 下手なことは言わない方が良さそうなので、美雨は黙ったままこっくりと頷いた。その時ちょうど宗太郎もお茶を乗せた盆を持って戻ってくる。
「何の話?」
「宗太郎が彼女と心中未遂したって話」
「もうやめてよ。それ散々母に突きまわされて大変だったんだ」
 心底うんざりしたため息と共に宗太郎はソファーに腰を下ろす。
「でも無事でよかった。最近じゃ阿片の中毒死体が立て続けに発見されて大騒ぎになっているし、食い扶持を失くした士族崩れが追いはぎまがいのことをしないとも限らない」
「死体で発見されるのは異人ばかりなんだよね」
 のん気そうに答える宗太郎に、奎吾は小さく苦笑した。
「夷狄憎し。外国人が死んでる分には構わないという風潮も確かにあるな。でもこれじゃいつまで経ってもうちの気苦労は絶えなくて参るよ」
 奎吾の父、安川子爵が貿易商だったことを思い出して美雨は頷いた。
「せっかく政府が不平等条約を覆すために鹿鳴館を作ったわけですし。それに清みたいになったら目も当てられません。阿片は外国人とか関係なく、もっと危機感を持った方がいいと思います」
 意外そうな顔で奎吾が振り向く。そういえば美雨は、ただ今絶賛記憶喪失中なのだった。
「う、あの、一般的な知識はちゃんと覚えているので」
「驚いたな、政治向きの話ができる女の子がいるとは思わなかった」
 テストのために覚えた知識だとはさすがに言えない。それに最近は入れ替わり現象のこともあって、自発的に近代の歴史を勉強していたのだ。
 明治政府の外交課題は、関税自主権の獲得と諸外国による治外法権の撤廃。不平等を覆すためには欧米列強国から「肩を並べるだけの文化レベルである日本」を認めさせねばならず、そのために有名な鹿鳴館は誕生した。
 父親が外交官だったこともあり、美雨はその辺りのことに妙に詳しくなってしまった。奎吾は家業を通して経済としての不平等を身近に感じているのだろう。
「――ノルマントン号事件も」
 美雨が呟いた時、がしゃんと固い物同士がぶつかる音が重なる。テーブルの端に奎吾が膝をぶつけ、乗せられていた皿と湯飲みが小刻みに揺れた。
「済まない、かからなかったかい?」
 小さな飛沫がテーブルに極小の水溜りをつくっていたが、幸い服も汚れず畳の上にもこぼれなかった。宗太郎と美雨が揃って首を振ると奎吾は苦笑する。
「良かった、じゃあそろそろ僕は失礼するよ」
 学生だが最近家業も手伝い始めたという奎吾は、これから父と用事があるのだと立ち上がった。
「ではまた」
 会釈する奎吾に美雨はソファーに座ったまま頭を下げ、男二人は部屋を出て行った。

 門まで見送りに出た宗太郎に奎吾はふと振り返る。
「少し風変わりなところはあるけど面白い子だね、美雨さんって」
 意を解せず曖昧な微笑を浮かべる宗太郎に、奎吾は破顔した。
「よかったよ、彼女が君の恋仲相手じゃなくて」
 言うだけ言って奎吾は颯爽と去って行く。その背中をしばらく無言で眺め、ようやく数分後に宗太郎は「えっ」と声を漏らした。


 ノルマントン号事件――明治十九年、十月。イギリス船籍の貨物船ノルマントン号は横浜から神戸へ航行中に座礁し沈没した。貨物船には中国人とインド人の十二人、そして二十五人の日本人が乗っていたがその全てが溺死。
 イギリス人乗組員は自過失による死者一名以外、三十七人全てが救命ボートで脱出し無事であった。
 その後同船船長は裁判にかけられたものの、イギリス人判事による判決は無罪。これに対する日本世論の反発は凄まじく、事件一ヵ月後に再審が行われ有罪になったものの、言い渡された判決は懲役三ヵ月というごく軽いものだった。
 人々は治外法権という厳しい現状に晒されていることを改めて思い知らされ、以後世論の治外法権撤廃への声が高まることになる。

 ――その事件から約半年後の明治二十年、四月も末。
「……これを本当に渡るんですか?」
 いや、「登るのか」と美雨は心の中で言い直す。
「大丈夫ですよ、そのために袴も穿いてきたんだし。ねえ奎吾くん」
「ここの藤はそれは見事なものだよ。ただし、この橋の向こう側にあるんだけどね」
 花見に行こう。そう奎吾に誘われてやって来たのは大きな赤い鳥居のある神社だった。
 花見と言っても桜は散ってしまったのにと首を傾げた美雨だが、人力車から降りて境内へ入った途端に絶句した。
 境内の入り口とその奥はある橋で繋がっている。しかしその橋がまるで壁のようにすごい角度をしていた。はっきり言ってこれは橋とは言えない。アスレチックの壁である。
 すでにこの橋を乗り越えようとしている参拝客が何人もいたが、一応浅い階段になっている出っ張りに手と足を引っ掛け、文字通り「よじ登って」いた。
 みな着物に草履や下駄で、よくもこんなアクロバットなことができるものだと感心してしまう。このため美雨も、女学生のように袴を穿くようにと言われたのだ。
「本当に橋?」
 怪訝な顔をし続ける美雨に宗太郎は可笑しそうに説明する。
「これは太鼓橋、その次に平らな平橋、最後にもう一つ太鼓橋。池と橋を人の一生に見立てて、過去、現在、未来の三つを通り抜けることで心が清められて、神様の前に辿り着くという意味合いがあるんですよ。三世一念の理です」
「ただの嫌がらせじゃないんですね」
「いやいや、幾らなんでもそれは」
 一つ目の太鼓橋の両側からは、池を挟んだ向こうに一面薄紫の景色が覗いている。確かにこの先には見事な藤棚が広がっているようだ。
 美雨は一度も行ったことはないが、現代にもこの神社は健在である。しかし木で作られていた太鼓橋は石造りに変わり、傾斜もかなり緩くなって普通に歩いて渡れる程度に作り変えられている。つまり「よじ登る橋」はこの時代にしか存在しないのだ。
 運動は得意なので美雨は早速一つ目の太鼓橋にへばり付く。袴を穿いているだけ幾分かましだが、やはり着物は袖や裾が邪魔だし動きにくい。自分が着慣れていないせいもあるのだろう。
 一つ目の太鼓橋を越え、平橋を渡り、二つ目の太鼓橋にまたよじ登る。宗太郎の説明によれば、ここは「未来」の部分だ。
 ふと見上げれば、橋の一番天辺部分で一休みしている老婆がいた。大変な割に参拝客の多い神社で、こうして登っているのも若い人間ばかりではない。昔の人はみな健脚だ。
 美雨は老婆の向こうに祖父の姿を思い起こす。ふざけたことばかり言っている早雲だが、あの古い家に一人残されて今一体どうしているだろう。それとも五年前までは一人で暮らしていたのだから、心配する必要もないのだろうか。
「未来」の橋を越えたら、元の世界に戻れないだろうか。
 この世界にやって来てからすでに一週間が経っていた。美雨は未だ元の世界に帰る方法を見つけることができない。つきんと胸が痛くなった。
 視線を伏せると、今度は逆に視線を感じてまた顔を上げる。向こうも美雨の視線に気づいたのか、先ほどの老婆がにこやかな表情でこちらを見ていた。
 そして笑う――「にっ」と。
 それは衝撃的な光景だった。老婆の口の中が真っ黒だったのだ。
 妖・怪!
 衝撃のあまり逆に声が出ず、口を大きく開けた美雨の手が緩み足元を踏み外す。
「あっ」
 急勾配の斜面から一気に落下した美雨は、背中を強打するかと思いきやそうでもない。
「大丈夫?」
「すみません」
 まだ下にいた奎吾が見事受け止めてくれたのだ。美雨はお姫様抱っこされた状態で、すっかり身を委ねているのが非常に気まずく顔を逸らす。
 奎吾は美雨を下ろすと小さく笑った。
「もうそんな年なのに、君はいつまでも破天荒なところがあってはらはらさせられるよ」
「そう……ですか?」
 美雨の方が年下だが、年齢は一つしか違わないはずだ。というよりも、どうして奎吾は美雨の年齢を知っているのだろう。宗太郎から聞いたのだろうか。
 奎吾の言葉にどこか違和感を覚えたが、もしかすれば明治の十六歳はもっと大人びているのが一般的なのかもしれない。それはどうもすみませんと口では言い、美雨は小首を傾げた。
 同じくまだ登っていなかった宗太郎と目が合うと、予想外に思い切り目を逸らされてしまう。
 落ちたのは確かに自分の不注意だが、あんなものを見たら誰だって驚いて当たり前ではないか。美雨はむっとする。
「はっ。そうです、妖怪が」
「妖怪?」
 つられるように美雨と同じ方向を見た宗太郎が事態を理解して吹き出した。
「妖怪なんて言ったら怒られますよ。さすがにもう珍しくなったけど、あれはお歯黒です。まだ年配の方はやってる人がいるから」
「おはぐろ?」
 明治政府が正式に皇族、貴族に対してお歯黒禁止令を出したのが明治二年。民間では徐々に減少しつつも、明治末期まで継承された化粧の一つだった。初めて見る現代人にとってはあまり心臓によろしくない伝統である。
 しかし宗太郎が笑ったことで二人の間にあった硬い空気が和らぐのを感じ、美雨は心のどこかでほっとする。
 祖父のこと意外で他人を気にしたことはなかったのに、何故そう思ったのか。自分でもよく分からなかった。

 橋を越えると広い地面が出迎えた。中央の道を見やれば立派な本殿が据えられ、美雨達が立っているすぐ目の前には左右に藤棚が広がる。薄紫の小さな花の房が無数に枝から垂れ下がり、葉と他の木々の緑とのコントラストが匂うように美しい。
 上ばかり眺めてしばらく呆気に取られる美雨を横目に、奎吾は宗太郎に耳打ちする。
「向こうに出店があるみたいだから、何か飲み物でも買ってくるよ」
「僕が行こうか」
「僕が喉渇いてるから行くんだよ」
「そ、そう」
 何故か卑屈な空気を漂わせる宗太郎に、奎吾は小首を傾げながら曖昧に笑う。
「まあそんなことより、あの子が上ばっかり見て転ばないように見ていた方がいい」
「うん」
 奎吾の背中を見送りながら、やっぱり格好良いよなあ、どうしてやることも気の遣い方もこんなに様になるんだろう、とぼそぼそ呟く。
 ため息をつきながら振り向くと、そこにいるはずの美雨が見当たらない。
 視線を巡らせば、ぶら下がる藤を眺めながらふらふら歩く美雨が少し離れた場所にいた。そして木の根に躓き、転ぶ。
「ああっ」
 奎吾に言われていたのに早速手遅れである。何だか自分が転んだよりもずっと情けない気分になり、宗太郎は慌てて美雨に駆け寄った。
「大丈夫ですか美雨さん」
「……不覚」
 座り込んだ美雨を引っ張り上げ、近くの赤い毛せんが敷かれた長椅子に座らせた。大きな台なので反対側には四、五人の男女が腰掛け、藤を肴にささやかな花見宴会をしているようだ。
 美雨の袴に付いた土を払ってやりながら、また一つ宗太郎の口からため息がもれた。
「すみません、僕がちゃんと見ていなかったから」
「どうして宗太郎が謝るんですか? 転んだのは私の不注意なのに」
「え、いやまあ、そうなんですけど」
 しゃがみ込んでいる宗太郎よりも長椅子に座る美雨の方が視線の位置が高い。大きな目が心底不思議そうに見下ろしてくるのを見て、思わず宗太郎は苦笑した。
 美雨は宗太郎の世界でいう一般的な女性とは違う。慎み深くしとやかに、常に出しゃばらず男の三歩後ろを歩く。そんな明治男が求める姿とは正反対に、思ったことははっきり言うし、何でも即行動する。しかしそれこそが文明開化真っ盛りの今、最も最先端の女性像なのではないかとも思う。
 婦女子の羨望を欲しいままにしてきた割に、今まで一度も浮いた噂がなかった奎吾が突然興味を示したのも分かる気がした。彼女はそれだけ生命力に溢れ、惹きつける魅力を持っている。
 しかしこんなことをぐだぐだ考えていたとしても、所詮美雨は違う世界の人間だ。戻る方法はまだ分からないが、きっといつかは消えてなくなるだろう。だから奎吾の気持ちも……。
「あああ、そうじゃなくて」
 結局自分で自分が何を言いたいのか分からずに声が漏れた。しまったと思い顔を上げると、何故かまたしても美雨がいない。
「いつの間に!」
 藤棚を抜けて、神社を取り囲む森の方へ行こうとしている女学生スタイルの後ろ姿。全く行動が読めない相手に宗太郎は振り回されっぱなしだ。
 少し森に入り込んだ辺りでやっと追いついて肩を掴む。立ち止まった場所はブナやケヤキ、様々な種類の木が生い茂って陽光を遮り薄暗かった。橋や藤棚で賑わう場所とは切り離されたように静かな場所である。
「どこに行くんですか美雨さん、迷子になったらどうするんです」
「What?」
「わ……わ?」
「Oh,Sotaro. Hahaha」
「は?」
 振り向いた美雨はまるで別人のような陽気さで宗太郎の肩をばしばし叩いて笑う。
 呆然とする宗太郎の目の前で、美雨は持っていた竹筒をぐいと仰いだ。
 さっきまでそんな物は持っていなかったのに、一体どこから。そしてこの独特の匂いは。
「お酒?」
 ほんのり頬を染めた美雨は、花が零れ落ちんばかりに笑んでみせた。

「ええとつまり、さっき長椅子で花見をしていた人にもらったんですね?」
『喉が渇いたなあって思ってたから丁度よかったわ』
「はあ」
 大きな石の上に二人腰掛け、何故か酔った美雨は英語で語り、聞き取れても自在に喋れるほどでもない宗太郎は日本語で返す。帝国大学の受験に英語が入っていて不幸中の幸いだった。
「でも何で英語なんですか?」
『イギリス育ちだからに決まってるじゃない、相変わらずボケね宗太郎は』
「うう、酔ってても酷い言いようは変わらない」
 するとまた美雨が竹筒の中の酒を飲もうとするので、宗太郎は慌てて取り上げた。
『何するの、返して』
「駄目ですよ、これ以上変になったら僕の手には負えないし」
 美雨は微妙に頬を膨らませて宗太郎を睨みつけた。しかしその表情さえ可愛らしいと思ってしまう自分は随分重症だなと宗太郎はしみじみ思う。
 その睨みつけている美雨の顔が何故かどんどん近づいてくる。
「どどどどどどうしたんですか美雨さん」
 鼻と鼻の先がもう少しで引っ付きそうになるくらい至近距離でじいっと宗太郎を見つめると、不意に美雨の口元が緩んだ。
「ぷっ」
「ぷ?」
『よく見ると興味深い顔してるわよね、宗太郎って』
 くすくす笑う美雨に宗太郎はむっとする。どうせ僕は那智さんや奎吾君みたいに格好よくないですよ、と。
『まあ宗太郎、私は興味深いって言ったのであって否定したわけじゃないわ。むしろ』
「……Just?」
 ふわりと美雨が動いて空気が流れる。頬に軽く口付けられた柔らかな感触は、逆に稲妻のような威力を持って宗太郎の脳天を直撃した。
『私は好きだけどね、眼鏡さん』
 友人の頬にキスするなどヨーロッパ文化で育った人間には挨拶だ。普段は決して見せない「イギリス育ち」の部分が抑圧され、濃縮されて酔いで一気に解放された美雨だった。
「なななな何を」
『まあ、ほっぺじゃ不満なの?』
「え、まさか」
『ふふふふ』
「ひぃー」
 そして酒癖も悪かった。

 やがて森の中へ探しにやって来た奎吾は、やっと見つけた二人を見て目を見張る。
「宗太郎?」
「――――奎吾君」
 屈んで覗き込む奎吾に、木のうろに顔を突っ込んでうずくまっていた宗太郎が振り向いた。何故かその顔は半泣きである。
「どうしたんだ一体。元の場所にいないから探したじゃないか」
「うん、ごめん。今すごく反省中なんだ……」
 と、また木のうろに顔を突っ込んでしまった。
 美雨は美雨で別の木にもたれてすっかり寝入っているし、何故か辺り一帯が微妙に酒臭い。何かあったことは確かなのだろうが、結局尋ねる相手がおらず奎吾は肩をすくめた。
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