第五章、夜会

「わあ、どうしたの。すごい顔だよ美雨お姉さん」
「ちょっと随分頭痛が痛くて」
 藤の花見から翌日、朝食を辞退して遅めに起きた美雨は変な日本語で答える。
 水をもらおうと台所へ向かう途中で勇次に出くわし、少年の高い声が割れ鐘のように頭へ響いた。そして気持ちが悪い。内臓を誰かにぐるぐる掻き回されたような気分である。
 祖父のことを思い出して少し落ち込んでいたところに、初めて飲んだ酒が想像を超える効果を発揮したらしい。というのはいつの間にか家に連れ帰られて、廊下を歩く宗太郎の背中で目覚めた時に知った。いつの間に寝てしまったのだろう。
 実を言うと何をしたのか覚えていないのだが、ぺらぺら余計なことを喋ってしまったような気がしないでもない。
「あ、そうだ。はいこれ」
 勇次は懐から紙の包みを取り出す。この五角形の形は薬の包み方だとすぐに分かった。
「兄さんが飲んでくださいって。お父様の仕事部屋から持ってきたみたい」
 この家の主は長い間不在である。今は長崎に出張しているということだが、本来は家の離れにある個人診療所で週の半分を、もう半分は兄の密と同じ帝国大学付属第一病院で働くという変則型の勤務体系をとっていると勇次は言っていた。出張というのは恐らく大学病院の仕事の方なのだろう。
「薬、ありがとうございます」
「どういたしまして。本当に大丈夫? 他に何かいるものがあったら持ってくるよ」
「大丈夫です。優しいですね勇次は」
「えへへ、綺麗なお姉さんには親切にしないとね」
 利発で人懐っこい勇次は美雨がやって来てすぐに懐いてくれた。宗太郎と入れ替わっている時から知っているせいか、何となく親戚の男の子みたいな感じである。
 ありがたいことに、宗太郎が準備してくれた薬は美雨の二日酔いに劇的な効果をもたらした。昼前にはすっかり元通りだ。
 するとやはりお腹が空いてくる。昼食の時間はまだ少し先だろうなと切ないお腹を抱えて縁側に座っていると、家の奥からけたたましい声が聞こえてきた。
「あなたには自覚が足りません」
 このキンキンした金切り声は、宗太郎の母、高子だ。


 宗太郎は今朝起きた時から、いや、昨夜なかなか寝付けず必要以上に寝返りをしまくっている時からため息が止まらない。原因は分かっているが、分かったところでどうとなるものでもなかった。
 今日は学校も休みの日だったので、これ幸いにと部屋に篭り朝から絵を描き始めた。絵筆さえ握ってしまえば、後は何も考えずキャンバスに集中できるからだ。
 普段の高子は宗太郎を呼びつけはしても直接息子の部屋まで来ることはない。そこに一言「勉強する」と言っておけば完璧だった、はずなのだが。
 こういう時に限って運悪く高子が宗太郎の部屋に現れた。そして今、宗太郎は叱られ中である。
「あなたには自覚が足りません」
 母の金切り声は脳に直接大打撃を与える神通力を備えている。だからなるべく引き伸ばさないようにただ黙って聞く、これがいつもの母子のやり取りだった。
「あなたはただ医者になるわけではないのですよ、代々医師の家系だった池田の本家を継ぐのです」
「はい」
 二人は部屋の中央で向かい合って正座していたが、高子がちらりと隅のイーゼルとキャンバスを見やる。
「来年は大学の本科に上がるというのに、こんな他所事ばかりしていてどうしますか。あなた程度の腕で画家になれるはずもないというのに」
 これはさすがに傷ついた。頭では分かっていたとしても、やはり自分の核の部分が諦めきれないからこそこうして描き続けているわけなのだから。
 膝に乗せたこぶしを爪が食い込むまで握り締め、宗太郎は口を一文字に結ぶ。
「そうですか? 案外捨てたものではないと思いますが」
 その時、明らかに室内の温度とは違う声が割り込んだ。いつの間に入ってきたのか美雨がキャンバスの前に立ってじいっと見ている。
「数ある可能性を親の勝手で潰すなんて酷い話です。明治って身分制度が廃止されて好きな職業に就けるようになったのではなかったんですか」
 これだけでも美雨の言葉は高子に対して遠慮がなく、怒らせるのには十分だ。しかし最後の止めが強烈だった。
「ですよね、『おばさん』」
「お……おばっ」
 美雨にしてみれば友達の母親を「おばさん」と呼ぶのは当たり前のことだが、高子にとっては素性もよく分からないどこぞの小娘におばさん呼ばわりされるのは侮辱に他ならなかった。そしてこの温度差に気づける美雨でもない。今まで衝突が起こらなかったのは、単に美雨が口うるさい高子を避けていたからである。
 高子がぷるぷるしているのを見て首を傾げ、少し考えた後にこう言い直す。
「――おねえさん?」
 違う、訂正すべきはその方向じゃないんだ。と宗太郎が視線で訴えかけたが無駄である。
 高子は必死に荒ぶる呼吸を抑え、搾り出す。こめかみの痙攣は相変わらず止まらないままだが。
「高子様……もしくは奥様、と呼んで頂けるかしら」
「ああなるほど。分かりました、高子様」
 勝負はより繊細な高子の方が分が悪かった。疲れたように頭を振ると、立ち上がって出入り口の方へと歩いてゆく。
「何にしても宗太郎さん、お父様と伯父様にご迷惑がかからないようになさって下さいね。でなければ許婚の菜子さんが気の毒というものですよ」
 最後の最後に、母は爆弾を落としていった。

 明治時代に誕生した華族制度は旧公家や旧大名などに身分を与えるためのものだが、国家に勲功ある者もまた叙せられ新華族と呼ばれた。
 池田家は医師の家系で五代前から長崎に移り蘭方医をしていたが、ある時宗太郎の祖父が江戸に招かれ、以来こちらに定住している。明治に入ってから祖父は医学博士、侍医頭、宮中顧問と華々しい任に就き、新華族として男爵を叙せられた。
 旧世代の大名とは違い、治める領地を持たない華族は国民の模範たる姿を求められるのが役目。模範となる「家」を存続させるためには男子の跡継ぎが必要だ。全く当てがない場合は爵位を返上したが、そうでない場合は他所の華族か身内から養子をもらう。それは大抵、娘の婿養子という場合が殆どだった。

 宗太郎に許婚がいる。
 考えてみたら在り得そうなことなのに、何故か美雨は考えたこともなかった。
 それより何より、これほど自分が驚き衝撃を受けていることがいまいち現実味がないというか、とても変な心もちだった。
 驚き過ぎたせいか頭が真っ白で上手く考えが纏まらない。自分は一体どうしてこんなに動揺しているのだろう。宗太郎が誰と結婚しようと関係のないことなのに。
 菜子という許婚は本家の三女だそうだ。さすがに三人目も女だったのを見て、密は自分で跡継ぎを生産するのをさっさと諦めて甥っ子を将来の婿養子に指名したらしい。
「でもうちは他にも事情があって……あれ、美雨さーん?」
「お腹」
「え?」
「お腹が空いたので失礼します。そろそろ昼食の時間のはずなので」
 表面上はいつもの無表情だが、ロボットのようにぎこちない動きで美雨は部屋を出る。
 何だかよく分からなかったがこの場には居たくなかった。
「待っ」
 一瞬、心臓が大きく跳ねる。予想外に宗太郎が美雨の手を掴んで引き止めたのだ。
 ひ弱だと決め付けていた手は、思いのほか力強く美雨の手をぎゅっと握る。初めてダイレクトに異性を意識したような気がして、美雨の身体が自然と硬直した。
「待ってください。あの、僕は」
「い、痛い……手」
 やっと搾り出したのは自分でも驚くほどのか細い声。宗太郎が手を離すと美雨は掴まれた場所をいたわるように手のひらで覆う。
 一度きっかけを逃してしまうと、さっさと立ち去るにも、何かしらアクションを起こすにしても何故だかとてもやり辛かった。
 どうしよう。
 実はお互い同じような表情になっているとは露知らず、二人とも額に汗を滲ませて視線を泳がせる。
 みしり、と宗太郎が廊下を一歩踏み出す音がした。
圧倒的な存在感を全身で感じ取った瞬間、美雨の頬がかっと熱くなる。頬が火傷しそうなほど熱くなるだなんて、この時になるまで全然知らなかった。
 だがその緊張感を打ち破るように、突然家の中が騒がしくなる。
 二人が同じ方向を振り返ると、玄関の方角から賑やかな空気と廊下を走る振動がどんどんこちらへ近づいてきた。
「あ、お兄様!」
 姿を現したのは煌びやかな振袖を着た小さな女の子だ。肩まで伸ばした髪の両サイドを束ね、利発そうな目鼻立ちをした美少女である。
「お久しぶりですわお兄様!」
「え、ちょっとまっ……うわっ」
 呆気にとられる宗太郎に少女は飛びついた。勢いあまり、または宗太郎が非力のせいなのか少女を抱えたまま尻もちをつく。
「お、お嬢様……お待ちを。老い先短いばあやを、一体どこまで走らせる、おつもりですか」
 必死の形相で少女を追いかけてきた老婆が床に膝を着き、見かねて玄関から付いてきたらしい勇次が背中を撫でてやる。
 勇次が宗太郎に引っ付いている少女を見て眉を吊り上げた。
「あ、何してんだ菜子。僕の兄さんだぞ、勝手に引っ付くな」
「あらちんちくりん勇次、何か御用ですの? 小さいから何を言っているのかよく聞き取れませんわ」
「誰がちんちくりんだ。ケツ毛も生えてない青二才のくせにバカナコ(馬鹿菜子)!」
「勇次、勇次。それを言うなら『尻の青い』……じゃなくて、もうその辺に」
「んまぁぁぁぁ、誰がバカナコですって?」
 瞬間的に怒りを露にした少女だったが、ふと我に返りしがみ付いていた宗太郎を振り仰ぐ。
「お尻に毛なんて生えますの?」
「お、お嬢様ぁぁぁぁっ」
「何よばあや、死にそうな声出して」
「ええと、あの、その、みんな落ち着いて……」
 半ば阿鼻叫喚と化した場で美雨は一人沈黙を保っていたが、好奇心旺盛な少女の目が美雨を捉えて煌く。びょんと跳ね起きると軽く身だしなみを整え、少女は満面の笑みで両の手を組んだ。
「なんて美しいお姉さまなの」
「――は?」
「わたくしは池田菜子、可愛いものと美しいものをこよなく愛しむ九歳ですわ。お姉さまのお名前は何て仰るの?」
 池田菜子。もしかしなくても、それはついさっき知ったばかりの名前ではないのか。
 しかし現代の誰かと似たようなことを口走る不可思議な勢いに押され、反射的に答えてしまう。
「宇喜多美雨です」
「美雨お姉さま! 名前も素敵だわ」
 何だかよく分からないまま菜子に気に入られたらしく、今度は自分がしがみ付かれてしまう。だが一人っ子の美雨には子供の体温が新鮮で、まんざら悪い気もしなかった。
「美雨お姉さんはうちのお客だぞ」
 だから気安くしてもらっては困るとでもいうふうに勇次も引っ付き、二つの大きなこぶつきになった美雨はどうしたものやら立ち往生する。
 見かねた宗太郎が立ち上がり、自分の腰辺りまでしか身長のない八歳の弟と九歳の従妹の頭を掴んで引っ張った。
「ほらほら、もういい加減にしなさい二人とも」
「離れるならあなたが離れなさいよ勇次」
「いきなり人んちに来て態度でかいぞ、お前こそ離れろよ菜子」
「どうしてわたくしがあなたの言うことなんて聞かなければならないの」
「僕だってどうしてお前のいうことを聞かなきゃいけないんだよ」
「……はあ、もう勘弁してくれ」
 ため息をつく宗太郎と美雨の視線がふと出会う。ほんの数分前にあった空気は菜子という台風にあっという間に蹴散らされてしまい、美雨はただぼそっと呟いた。
「――ロリコン?」
「意味は分からないけど、酷いことを言われていることだけはすごくよく分かるよ……」
 父親の密的に「俺の悪い所ばかり似た」という池田男爵家三女は、未だ初恋も知らぬ弱冠九歳の許婚だった。


 数日後、美雨の元に大きな箱が届けられた。送り主は密で、箱の中身は目も覚めるような青のドレスである。広げてみれば、中央の胸当てやスカートのプリーツへ白銀に光る布が使われている、どこからどう見ても高価そうな逸品だ。
 添えられていた封筒には鹿鳴館で開かれる夜会の招待状が入っていた。宗太郎が密によって強制出席させられる予定の夜会で、先日の菜子はその招待状を携えてきたのである。
「どうして私が?」
「もしかして菜子ちゃんかも」
 あの後散々周囲を大騒ぎに巻き込んでから帰った菜子だが、会話の中で美雨がイギリスにいたことがあると、ついぽろっとばれてしまったからだ。
 家人には部分的に昔のことを思い出したと取り繕ったが、それがまさかこんなことに結びつくとは。
「通訳をして欲しいということでしょうか」
「それはないですよ。美雨さんほど流暢ではないけど、伯父さんも一応英語は嗜んでいるから」
「私は宗太郎の前で英語を使ったことがありましたか?」
 首を傾げ見上げると、宗太郎は慌てて視線を逸らす。そういえば菜子と話していて美雨がイギリス育ちとばれた時も、宗太郎はそれほど驚いている様子はなかったような。
 別に隠すようなことでもないが、言ったことがあっただろうか?
「え、えっと、イギリス育ちならきっと英語も堪能だろうなと思っただけです、うん」
「――そうですか?」
 必死に何度も頷く宗太郎の態度はいささか不自然な気もしたが、自分にも記憶のないことなのでそれ以上追求することもないかと美雨も頷く。
「てっきり昨日酔った勢いで色々喋ったのかと思ったのですが、それならいいです」
「美雨さんはすぐ寝ちゃいましたから」
「でも酔っ払って記憶がなくなるなんて作り話だと思ってたのに、本当にこんなことがあるだなんて。少し驚きです」
 本当に森に入ってからの記憶がすっぽり抜けていた。何だか狐につままれたようですごく変な気分だ。
「え、ええと、とりあえずこれ着てみませんか。多分合ってると思いますけど、寸法にずれがあるなら洋装は直しが必要ですし」
「……どうして私のサイズを知ってるんですか。まさか入れ替わった時に触っ……」
 睨む美雨に宗太郎が飛び上がる。顔を真っ赤にして後ずさり、手を力いっぱいぶんぶんと振った。
「違いますよ、僕じゃありませんっ。服の上から見ただけで女性の寸法が分かるっていうのが伯父さんの特技の一つで」
 どんな特技だそれは、と美雨は目を細める。しかも宗太郎の言いようから察すると、他にもろくでもない特技が備わっているということだろうか。
「美雨さんを夜会に招待するのも多分気まぐれです。そういう人ですから」
 自信に溢れた密の顔を思い出し、分からないでもない気がした美雨だった。

 ◇

 鹿鳴館――明治十六年、英国人技師により設計、建築されたルネッサンス風の国立社交場。ここでは舞踏会や演奏会、または婦人慈善会によるバザーが催され、日本の上流階級と欧米外交官の社交場というのが一般的な認識だ。
 他にも洋服着付け、洋食マナー、ダンス講習会などが定期的に行われており、西洋文化を導入するためのカルチャースクール的な面も担っていた。
 しかしその割には、と馬車から降りた美雨は微妙に眉根を寄せる。
 同時期に建設されたという外務省庁舎の約三倍の経費で建築されただけあって、鹿鳴館の外観は一見豪華で人目を奪う。前庭に大きく広がる池と、照明にてらされて水面に姿を映すレンガ造りの本館。ベランダや窓、出入り口はアーチ型で統一されていかにも西洋風ではあるが、何かが変なのだ。
 本館の入り口近くまでやってくると不可解の理由がようやく分かった。
 二階のベランダアーチを支える柱は寸胴ではなく徳利のようにくびれ、柱頭を飾っているのは何故かヤシの葉の彫刻だった。柱と柱の間を繋ぐ柵は幾何学的な透かし彫り。中途半端にアジアンなのだ。
「折衷案が好きというのは昔から?」
 と他に聞こえない程度に美雨は呟いたが、実際の事情は少し違う。
 鹿鳴館建築を計画した当時の外務大臣、井上馨は「西洋人が驚くほど立派な西洋建築の建物を」と英国人技師に依頼したのだが、西洋文化を使いこなせてこそ肩を並べられると考える井上に対し、英国人技師は「外交の場なら西洋と日本が融合した方が相応しかろう」と勝手にインド・イスラム風の建築要素を加えたのだ。
 井上自身も正確な西洋建築を知っているわけではないから、部分的に間違っていることに気づかず許可を出してしまったのである。
「去年辺りまでは頻繁に夜会が行われていたんですけど、最近は世間の批判も多くて随分回数は減ったんですよ。このまま顔を出さずに済むと思ってたのに、そうもいかなかったみたいだ。はあ」
 慣れないタキシード姿の宗太郎がため息を漏らす。洋装が似合わないこともないが、やはり着られている感は拭えない。
 美雨は少し考えた後宗太郎に尋ねた。
「西洋の真似だから?」
「これを『猿真似』と取るか『外交手段の一つ』として取るか、うーん実を言えば僕も微妙なところですけど。でも上の人達は真剣だし、僕はそれを簡単には否定できないから」
 真似。いつも外側ばかりを取り繕おうとしていた自分と重なって美雨は複雑な気分にさせられる。西洋でもなく日本でもなく、なんとこの時代は自分と類似した部分の多いことか、と皮肉の一つも言いたくなってしまう。
 玄関を通り抜けると正面に二階へ繋がる階段が待ち構えている。その下で立ち話をしていた数人の中でこちらを振り返る者がいた。
「お、着いたか」
 輪から離れて近づいてきたのは密と娘婿の田辺である。二人とも普段から洋装を着慣れているだけあって、宗太郎よりずっとタキシードが板についていた。
 密は美雨に目を留めて破顔する。
「見立て通りよく似合ってるじゃないか」
「お招きありがとうございます、このドレスも」
 びっくりするほどぴったりで逆に気持ち悪いです。と口走りそうになるのを辛うじてこらえる。
「隆君、病院では会う機会がなかったかな。彼女が宇喜多美雨さんだ」
「ああ、話は菜子ちゃんからも沢山聞いてますよ。長女、百合子の夫で田辺隆といいます、よろしく」
「宇喜多美雨です」
 にこにこと差し出された手を取り、美雨は小さく頭を下げた。初めの印象通り、一見どこからどう見てもただのお人よしにしか見えない柔和な笑みである。
「伯父さん達だけですか?」
「うちのと百合子は上で他のご婦人方と世間話を楽しんでるよ。しがない勤務医は付き合いも仕事のうちだからそうもいかんがね」
「あれ、宗太郎、美雨さん」
 よく通る声が聞こえて振り返ると、階段の上から奎吾が降りてくるところだった。
 二階から顔を覗かせる淑女や階段の途中ですれ違う貴婦人の視線を絡め取り、しかしそれを軽やかに受け流す溌剌とした笑顔で目の前にやって来る。
「宗太郎が夜会に出るなんて初めてじゃないか?」
「いや、一応去年に一回だけ出たことはあるんだよ。……無理やり」
 と宗太郎は横目で密を見る。
「お久しぶりです、池田男爵、田辺さん」
 密達も一緒だと気づいた奎吾が頭を下げると、大人二人もにこやかに会釈を返す。
「安川子爵のご長男か。ちょっと見ない間に良い男になったなあ、女性が放っておかないでしょう」
「いえ僕なんて全然」
 爽やかに謙遜する奎吾の視線が、一瞬田辺に止まったような気がした。田辺の方もまた奎吾を意味有り気に見て――と美雨が眺めていたら、奎吾が急にこっちを向いたので目が合ってしまう。
「ドレスとても似合ってるよ。そうか、やっぱり洋装はある程度背丈があった方がやはり映えるものなんだな。異国のお姫様みたいで思わず目が行ってしまう。ほら、みんな君を見てるよ」
 奎吾が視線で促す方を振り向く。確かに一階にいる紳士も、階段に立ち止まっている淑女もみな一様にこちらを見ているような気がした。だがここにいる面子が元々目立つ人間ばかりなので、一概に美雨のせいとも言えないだろう。
 確かに現代人である美雨の体型は、和装より洋装のがしっくりくるのかもしれない。それと周囲から密やかに聞こえてくる、女性達の「大女」という言葉。微妙な悪意は彼女達が奎吾のファンだからだろうが、確かにこの世界において美雨は頭一つ飛び抜けていた。
 実は江戸時代から明治初期の頃が、縄文時代から続く歴史の中で一番日本人の平均身長が低い時期と言われている。男子なら百六十センチ前後、女性なら百四十センチ台が殆どの中で、身長百六十センチの美雨は立派な「大女」だった。
 ふと宗太郎と奎吾を見上げ、美雨は首を傾げる。那智ほどとまでは言わないが、二人とも百七十センチは越えている体格だ。
「二人はそれなりに身長ありますよね」
「池田家は蘭学の影響で、昔から牛乳も肉も食べていたせいかのっぽが多いんですよ。伯父さんもそうでしょう?」
 美雨は少し離れて田辺と話し込んでいる密を振り返って頷く。すると奎吾も苦笑しながら言った。
「地方出身者は案外背丈の大きい人が多いかもしれない。うちも元々は金沢だし」
「へえ」
 有名なところでは大久保利通や西郷隆盛などが身長百八十前後、坂本竜馬は百七十センチ半ばなど。あくまで平均は平均、ということなのだろう。
「宗太郎、合わせたい者が何人か来ているから一緒に来なさい」
「えっ」
「悪いな隆君、少し百合子達を見てきてくれるか」
 田辺は快く頷くと二階へ続く階段を登っていった。一人残った密はその場で手招きをし、宗太郎は困惑したように美雨と奎吾を振り返る。
 意を察したように奎吾が言った。
「知らない人ばかりの中で彼女を一人にはしないよ。僕は父のお供で来ただけで特に用事もないし、僭越ながら姫のパートナーに立候補させてもらおうかな」
「そうしてくれるとこちらも安心だ、頼んでいいかね奎吾君」
「はい、男爵」
 美雨も宗太郎も口を挟む間もなく会話は終わり、奎吾に手を掴まれた美雨は二階へ連れられていく。呆然と見送る宗太郎を見やり、密がにやりと笑った。
「好敵手が良い男過ぎるのも考えものだな。忘れてるかもしれんが、一応お前は菜子の婿養子予定なんだが」
「何を言ってるんですか。大体どうして美雨さんを呼んだんです?」
「面白そうだから」
 あっさり言い切る密に、予測範囲内の反応であっても宗太郎はため息をつかずにいられない。
「見た目だけ飾り立てたこの集まりの何と中身のないことよ。あんまり退屈過ぎて、ほら、余計なことに興味を示す妙な輩も出てくる」
 ちらりと密が視線で示した先にはイギリス兵が数人たむろしていた。いささか酒が入っているようで、陽気な英語が時々ここまで聞こえてくる。
「それとな、静から報告が上がってきた」
「父さんから?」
 小声で言葉を交わしながら、伯父と甥は人目を避けるように柱の陰へゆっくり移動する。もちろん、視界の端にしっかりと観察対象を収めながら。


 赤い絨毯が敷かれた階段を登りきると、廊下を挟んだ正面に扉を開け放した大部屋が現れた。下にいる時から聞こえていたオーケストラの音が、談笑を妨げない程度の音量で耳に心地よい。
 促されるようにして中に一歩踏み込めば色の洪水が押し寄せる。
 天井から幾つもぶら下がるシャンデリアのオレンジの光、女性達が纏う色とりどりの美しいドレス、重厚な深い緑色をしたビロードのカーテン。
 賑やかで優雅な雰囲気はいつか見た錦絵そのもので、自分が正に今「時代」という舞台に立ち会っているのだと美雨の胸が高鳴った。
「そう言えば君がイギリス育ちって聞いて驚いたよ。でも日本人離れしたところがあるからやっぱり、と言うべきなのかな」
「私も宗太郎の眼鏡さえなければこんなところに……」
「眼鏡?」
 途中で自分の口を押さえた美雨は何でもないと首を横に振った。
「君、ダンスは?」
「昔習ったことがありますが、今はかなり怪しいかと」
 小さなパーティーでもヨーロッパ人はダンスをする機会が多い。親が強制したわけではないが、覚えれば一緒にいられる時間が増えるかもしれないと、子供の浅知恵で自分から志願した習い事だった。しかしそれも過去のことだ。
 奎吾と一緒にいることで美雨はここでも悪目立ちしていた。さすがの美雨でも不躾な視線を前にしては、ブランクが少々気になるというもの。
 しかしそんな美雨に構わず奎吾は手を取りダンスの群衆へと飛び込んだ。
 右手を掴まれ、腰を抱かれる。すると身体が覚えていたのか反射的に美雨の背筋が伸び、残った左手を奎吾の腕に添えれば美しいホールド体勢が完成した。
「ほら、大丈夫だ」
 子供のように笑った奎吾が音楽に合わせて動き出す。少し強引とも思えたリードは予想外に動きやすかった。段々と昔を思い出し、馴染み始めた身体が華麗な舞いを紡ぎ出す。
 楽しい。昔習った時には義務感ばかりが先行してこんなふうに思う余裕はなかった。だからとても新鮮だった。
 動き続けてわずかに紅潮した頬で、美雨は真っ直ぐ奎吾を見た。言葉こそないが自然と笑みが浮かぶ。まるで、ぎりぎりまで綻ぶのをためらっていた蕾が花開くように。
 安川子爵の継嗣が連れて来た「背が高く風変わりな少女」は、その瞬間に野次馬達の認識を一変させた。
 高過ぎる身長は「均整の取れた肢体」に、女性の慎みが足りないという印象は、「物怖じしない誇り高き女性像」に。
 見た目にも初々しい組み合わせだと、まるで手の平を返したように噂話の評価が逆転する。
もっとも、美雨は知らない人間が何を言おうとあまり気にならない。
 ここでは己が課した規範は存在しないから。どんな自分でも、祖父に迷惑がかかることは有り得ないのだ。だから好きな自分でいればいい。
 子供の時も両親を気にしていた美雨は、ようやく今自分の中にある何かを掴み取ろうとしていた。自分がしたいからする、楽しいから続ける。だからこそ自然と表情が柔らかくなることには、未だ無自覚なままであったが。
 すっかり人々の注目を奪った二人もさすがに息が上がり、一休みしようと奎吾は近くの給仕係を呼び止めた。
 ワインの入ったグラスを取ろうとしているのを見て美雨が首を振る。
「お酒はいりません。ソフト……水かお茶を頂けますか」
 また記憶が飛んでは敵わない。渋面を作る美雨に、酔って寝てしまったことを知る奎吾は笑った。
 のんびり食べ物を摘んでいると、その時を狙っていたように複数の女性達が次々に押し寄せてきた。それはあっという間に両者の間に垣根を作る。
 恐らく意図的に押しやられたであろう美雨は、依然もりもりと食べながら女性達の壁を眺めた。奎吾は美雨を気遣わしげに見るも、彼女達を強引に押し退けるわけにもいかず立ち往生だ。これが那智なら「邪魔」とか「どきなさい子豚ちゃん達」など平然と言いのけて、モーゼの如く道を切り開くところだろうが。
「もてる紳士は大変です」
 親友の恩人だからといって、ずっと自分のお守りをさせるのも気の毒だろう。先ほどのダンスはとても楽しくて少し後ろ髪を引かれる思いはあったが、美雨なりに気遣って奎吾に小さく手を上げその場を離れた。
 しかし一人で壁際に立っているのも不必要に声をかけられて居心地が悪い。結局流れ着いたテラスで涼んでいると、室内の方から早口の英語が聞こえてくる。
『全くあいつらもよくやる。こんな田舎のカジノみたいなダサい所で社交だなんてよく言えたものだ』
『おい、日本政府の人間も来てるんだぞ』
『何、早口で喋ってりゃ分からないさ』
 ここに分かる奴が一人いるぞ、と美雨は黙ったまま窓越しに目を細める。
『未開の野蛮人が西洋文化を真似ようなんて土台無理な話だろ』
『条約を改正しろだなんてとんでもない。先だってのノルマントン号が難破した事件から特にうるさくなって敵わんな。俺達の同胞を野蛮人の法で裁かせる? それこそとんでもないことだろ。ハラキリをさせられたらと思うだけで胸が悪くなるね』
『だがノルマントンの奴らはいただけない。いくら乗客に言葉が通じなかったからって、他にもやりようがあっただろう』
『お、出たな。同じ海の男として許せねえってやつかい?』
『お前だってそうだろ。大体、避難しろという言葉が通じなかったなんて実際は言い訳にすらならないさ』
『俺は自業自得だと思うな。言葉も分からないのに異国の商船に乗った方が悪いのさ』
 持っていたグラスの水でも引っ掛けてやろうかと思ったが直前で思い止まる。
 ノルマントン号の乗客が全員不幸に遭ったという事実には、そんな側面もあったのだ。
 グラスを置いてからそっと中を覗き込んだ。海軍の白い軍服を着た金髪男や、煙草をふかしながらしきりに笑うタキシード姿の青い目をした男。ダンスホールと区切られたサロンで、異国人の彼らはソファーに深々と腰を沈め好き勝手なことを未だに言い合っている。
 野蛮人野蛮人と言うが、現代人の美雨からしてみればその英国人達だって十分に野蛮人の範囲に納まる。異なる文化を頭ごなしに否定して理解しようともしない態度は、それこそ文化人とは言えないではないかと。
 やはり一言文句を言ってやろうと踏み出そうとした時、誰かに肩を掴まれた。
「酷いな置いていくなんて。こんな所にいたら身体を冷やしてしまうよ」
 いつの間にあの人垣を脱出してここまでやって来たのか、奎吾がすぐ背後に立っていた。
「いえ、あの無礼な人達に文句の一つでも言おうと思いまして」
「それは止めておいた方がいい。ここに君を連れて来た男爵にも迷惑がかかってしまうから」
 そう言われてしまってはぐうの音も出ない。憮然とする美雨をテラスの端まで移動させると、奎吾は笑った。
「君の率直さは愛すべきところではあるけれど、僕はずっと前からそれに翻弄されっぱなしだ。まあそれも愉しみの一つなんだけど」
「――? はあ、それはどうもすみません」
「初めて会った時――君が大学生相手に議論を吹っかけているのを見た時は、正直本気で驚いたけどね」
 惰性で相槌を打とうとした美雨は、ふと言葉を止めて眉根を寄せる。――大学生?
 しかし美雨の困惑に構うことなく、奎吾はずいと近づき少女の黒髪に指を絡ませた。
「僕は君の夢を尊重するつもりだよ。だけど、もう少しお転婆を控えてくれると嬉しいな。いつも僕が側にいて守ってあげられるわけではないから」
 本当に心から心配しているような声で奎吾は極上の笑みを見せた。
 ぞくり、と背中を駆け抜ける第六感。
 美雨は反射的に下がって距離を取ろうとしたが、奎吾の手の方が早くて腰を抱かれる。彼はあくまでも夢見る貴公子のように、まるで恋人に愛を囁くかのように、甘い表情で美雨を見下ろした。
「酔ってるんですか、離して下さい」
「はは、君はいつまで経っても恥ずかしがりなところは変わらない。大丈夫、君の嫌いなお酒は飲んでないよ」
 異なる主張を湛えた目が至近距離でぶつかる。不意に、形の良い唇が近づいた。
 額に触れる奎吾の前髪の感触、直に感じる体温。
「――誰と間違えてるんですか?」
 間髪の差で奎吾の口元を美雨は手で押さえていた。
 興が削がれたように目を見開いた奎吾は、美雨の手をゆっくり剥がし取って苦笑する。
「酷いな、幾らあと一年は周りに隠しておこうって約束したとはいえ、君を他の誰かと間違えるはずがないだろう――千代」
 間違えているじゃないか、ものすごくしっかりと。
 この世界で数少ないまともな人種だと思っていたのが大きな間違いだった。
 弾かれたようにその場を離れると、美雨はドレスの裾を抱えて走り出す。
 一度だけ振り返ったが奎吾が追いかけてくる様子はなかった。それがかえって不気味に思えたが、今何より優先されるのはここから一刻も早く立ち去ることだった。


 中庭の茂みから出てきた宗太郎は、折角の衣装に付いた葉っぱや土埃をため息をつきながら払い落とした。
 見上げた本館の二階からは未だ楽しげな音楽と人の声が聞こえてくる。それなのに自分ときたら、と考えれば更にため息が出た。
 奎吾と美雨はまだ上のダンスホールにいるだろうか。入り口から正面に見える階段に向かおうとすると、左の通路を横切る青い服が一瞬横目に見えた。
 まさかと思い応接室が並ぶ廊下を覗いてみれば、見覚えのある青いドレスを着た少女が一人奥へ奥へと歩いてゆくではないか。
 廊下の突き当りには扉がある。それすらも開けて美雨はどんどんと進んでいく。確かその先にあったのは、と記憶を掘り起こした宗太郎は大きく口を開けた。
「大変だ」

 奎吾から逃げてきた美雨は真っ直ぐ一階に下りたが宗太郎も密も見当たらず、かといってよく知らない夜道を歩いて帰るわけにもいかなかった。
 結局沢山ある部屋のドアを一つ一つ確かめて、鍵が開いていた一つに入り込む。しかしそこも人が近づく気配を感じて三十分程で出てしまった。
 他にどこかやり過ごせる場所はないかとうろうろしていたら、廊下の突き当たりに新たなドアを発見した。進んだ先に現れたのは何やら怪しい雰囲気の大部屋である。
 まばらに見える人は全てが男。大きな台が幾つも等間隔で並べられていた。硬い物同士がぶつかる音に視線を巡らすと、細長い棒を持った男達が視界に入る。
「ああ、ビリヤード」
 やったことはないがどんなものかくらいは知っている。どうせすることもないし見学でもしようかと思ったが、黒服の給仕係も客の異国人達も一様に驚いたような顔でこちらをちらちらと眺めていた。
 自分の格好がどこか変なのだろうかと小首を傾げた時、後ろから声がかけられる。
「何て所にいるんですか」
 振り返ればずっと探していた宗太郎がそこに立っていた。しかしほっとして口元が緩みかける美雨に構わず、宗太郎はいつになく強引に手を掴んで引っ張る。もと来た道を戻り、側の書庫と札が付いた部屋へ入り込んでからようやくこちらを振り向いた。
「あそこは女子が行くような場所じゃありません。駄目ですよ、一人で変な部屋に入り込んじゃ。奎吾君はどうしたんです?」
「襲われたので逃げました」
「は?」
 目を見開く宗太郎に美雨は憮然とする。
「何だかよく分かりませんが、誰かと混同されてキスされそうになったので」
「キスっ? え、美雨さんが襲ったんですか」
「この耳は余程性能が悪いみたいですね。何で私が襲うんです」
 問答無用で耳を引っ張ると、宗太郎は呻きながら「すみません」を連呼した。
「それにしても何ですかあの人、完全にいっちゃってますよ」
 意味を掴み損ねたらしい宗太郎が瞬きするのを見て言い直す。
「普通そうに見えましたが、あの奎吾という人は精神病か何かじゃないですか。完全に私を千代とかいう自分の恋人と間違えていたようですし」
「千代」
「長い付き合いなら知っているでしょう?」
 すると宗太郎は少し照れたように笑い頭を掻いた。
「奎吾君と知り合ったのは半年前なので」
 奎吾にそんな存在がいるとは全く知らなかった、と言うのだ。
 たった半年の付き合いで「親友」!
 短期間でそれだけの関係を構築できるならある意味最高の相性なのだろうが、結局のところ奎吾のことを大して知らずにへらへらしていたということではないのか。
 他人事なのに妙な苦々しさを噛み締め、美雨は腹立ち紛れにでこぴんをお見舞いしてやる。
「あいてっ」
「大体今までどこにいたんですか。お陰でずっと隠れなければいけなくなったじゃないですか」
「ええと、その」
「そう言えば先日の質問に答えてくれないままでしたね。ちょうど良いからここではっきりさせましょう」
 ずずいと美雨が近づけば焦る宗太郎が下がる。だがすぐ本棚にぶつかり、行き場をなくした。
「あなたと伯父の男爵は何を隠しているんですか」
「ちょ、ちょっと落ち着いて下さい。落ち着いて」
 タキシードの襟を掴む美雨の手を押さえ、宗太郎は困った顔をし、次に蒼くなり、思い悩むように苦悶の表情になって最後は弱々しく頷いた。
「入れ替わってたし、これ以上隠すのは無理……かな……うーん。あの、絶対内緒にして下さいね」
 美雨は深々と頷く。
「池田家は代々医術を生業としてきましたが、ある時から別の仕事も兼任するようになったんです。甥っ子の僕が池田の本家を継ぐことになったのも、ある程度早い時期から後継者を決めておかねばならなかったという事情がありまして」
 そう言えば宗太郎は何度も「自分が後継者になったのには特殊な家の事情がある」と言っていたことを美雨は思い出す。
 真剣な顔で真っ直ぐ見上げる美雨と目が合った途端、宗太郎の頬が染まった。うっと詰まると目を逸らし、小さな声で暑いなと呟きながら窓を開ける。
 何かの仕切りなおしだろうと美雨は黙って次の言葉を待っていたが、それがない。
 この期に及んでまだ言い淀んでいるのだろうか。美雨は窓の外を向いたままの顔を覗き込み、驚く。
 月の光を反射した眼鏡の奥に、厳しい色を纏った瞳。今までの宗太郎からは考えられない程、ぴんと張り詰めたものを感じさせるその横顔。
「このにおい」
「におい?」
 美雨も宗太郎の横に立って外を見やったが、特別これといったにおいを嗅ぎ取ることはできない。一体どうしたのかと尋ねようとした時、宗太郎が黙って自らの眼鏡を外した。
 そして何を思ったか、窓枠に登ってすぐ下の芝生に飛び降りる。
「どこに行くんですか」
 振り向いた宗太郎は厳しい表情でこちらを見返す。この顔つきは以前どこかで見た記憶があるような。
「うるさい、ついて来るな」
 やっと答えたかと思ったら何と酷い受け答え。呆気にとられた美雨は、それでもすぐに思い直して同じく窓枠を飛び越えた。
 ドレスの裾を持ち上げて草の上を歩く。ふと見上げると、木陰の間から二階のテラスに人影が見えた。暗くてはっきりとは分からないが、あれは奎吾と――田辺隆?
 あれから一時間ほど経過しているのに同じ場所に奎吾が居ることの方がおかしいではないか。多分あれは見間違いだろうと美雨は頭を振る。
 駆け寄った美雨に宗太郎はいかにも迷惑そうな顔で振り返った。
「ついて来るなって言ったろ。それともあんた耳が遠いのか」
「まだ話が途中ですよ。あなたの方こそ突発的に健忘症にでもなったんですか」
 オレ様宗太郎め。
 こないだは眼鏡を外しても何も起こらなかったのに。やはり夢の中で見たもう一人の宗太郎は現実だったのだ。
 臆せず睨み返す美雨と討論するより、先を急ぐことをとりあえず優先したらしい。宗太郎は一つ息を吐いて美雨の頭を指でぐいと押す。
「余計なことはするなよ」
 口調には棘があっても、頭を押す指には元の宗太郎の名残りを感じた。山のように尋ねたいことを一まず押さえ、美雨は頷いた。

 それは案外早く見つかった。庭の茂みに隠れるように倒れていた一つの人影。上等なタキシードを着ているから夜会出席者の一人だろう。
 近づいても男は目を開いたまま微動だにしなかった。口の横からだらしなく唾液を垂れ流し、喉元には自分で掻きむしったようで幾筋もの血が滲んだ傷がある。
「死んでる」
 すぐ横に跪き、倒れた男の頚部に触れて宗太郎が呟いた。
 美雨は身体をびくりと揺らし、一歩下がってから唾を飲み込む。
「……少し遅かったか、また出たな」
「何がですか」
「急性阿片中毒だよ、それで死んだんだ」
 以前奎吾と三人の時に話題になった事件だ。外国人ばかりが何人も急性阿片中毒で死んでいると。
「急性中毒だなんて、よくそんなこと分かりますね」
 美雨の言葉に宗太郎は不敵な笑みを見せた。本当にこの二重人格は一体どうなっているのだろうか。
 死体と思うと直視したくはないのだが、顔をしかめながらもちらちら見ていたら美雨はあることに気づいた。
「その人、さっき二階で」
 サロンで煙草をふかしながら、散々日本をこけ下ろして笑っていたイギリス人の一人だった。夜の庭なので目の色まではよく分からないが、いかにも傲慢そうなこの顔つきはよく覚えている。
「これだけの量の阿片を手に入れられる人間は限られてる。しかし……まさか」
 美雨の話を聞いた宗太郎は暫く思案顔で黙っていた。だがその沈黙を一つの発砲音が切り裂く。
 弾丸は逸れて足元の地面を抉った。何が起こったのか分からない美雨の腕を掴み、宗太郎が木の陰に引っ張る。
 背中からぎゅっと抱きしめられて動きを封じられた美雨は、不本意にも宗太郎の上着にしがみ付く。一体何がと尋ねようとした瞬間、三発立て続けに発砲音が聞こえて身体を強張らせた。
「すぐに警備の人間が飛んでくる、それまで」
 それまであともう少しここで持ちこたえるんだ、と言うのかと思いきや、宗太郎は美雨の頭を上から押さえて自らも中腰になった。
「それまでに、この場所からずらからないと」
「ええ?」
 木陰から飛び出してすぐ横の茂みに飛び込む。何だかよく分からないまま引っ張られて走り続け、気がつけば建物を挟んで反対側まで移動していた。
 速度が緩み、やがて止まったのはここが到着場所だからではない。美雨も慣れない服装で走って息が上がっていたが、先導する宗太郎がそれ以上に疲労困憊で足を止めたからだ。どうやら性格が変わっても、都合よく身体面まで変身するわけではないらしい。
 美雨は宗太郎の手を振り解く。
「あれは何ですか」
「何って、あの異人を殺した奴らに狙撃されたんだろ」
「だったらもっと人がいる方へ逃げればいいじゃないですか、どうしてこんな人がいない方へ」
 言いかけてはっとする。こちらに来たショックですっかり忘れていたが、元々宗太郎自身も命の危険に晒されていたではないか。もしや単なる跡目争いだけではなく、こうして逃げるからには他にも理由があるのではないか。
 次第に声が大きくなってきた美雨の口に宗太郎の手が被さった。
「どっちに見つかっても困る。よって静かにしてくれないと非常に困る、分かったか?」
 黙って頷くとすぐに手が離れる。しかし唇に触れた手の感触が生々しく居残り、美雨の心臓はうるさく跳ね回った。どうにも調子を狂わされてばかりで、自分のことも相手の態度もどう対処したらいいのか分からない。
 周囲を見渡せば、誰かが追ってくる気配はないようだ。もう疲れた、家に帰りたい。宗太郎の家ではなく現代の自分の家に。
 美雨は一人歩き出し、本館に戻ろうとした。あの裏側には馬車停まりがあるはずだ。
「おい、ちょっとま……」
 近道をしようと茂みを突っ切ろうとした時、何か柔らかいものを踏んで美雨はバランスを崩す。
 人だ。
 ここにもまた茂みに隠すようにして男が転がっていた。白い軍服を着た外国人が。
 転んだ美雨はそのすぐ横にしりもちをついた。
「あ……あ……」
 さすがにストレスの限界値を越えようとしていた。いきなり明治の世界に連れて来られて、帰り方も分からなくて。奎吾には襲われるし、死体は間近で見るし。おまけに狙撃されて命を狙われて、折角のドレスも泥まみれで擦り切れだらけだ。
 ひゅうと息を吸い込んだ瞬間、美雨の視界が全て遮られる。
「そいつは死んでない、だから叫ぶな」
 へたり込んだ美雨の頭を宗太郎が胸に抱え込んでいた。
かすかに香る薬と彼自身のにおい。
細いと思っていた身体は、こうして抱きしめられると美雨が簡単に閉じ込められてしまう広さを有していた。確かに彼は「男」なのだと思い知らされる。
 お陰で叫ばずに済んだが、これはこれでまた心拍数が上がって落ち着かない。やっとのことで深呼吸を一つし、美雨はもぞりと顔だけ動かして倒れた男の横顔を見る。目を閉じたまま動く様子はないが、言われてみれば先ほどの死体よりずっと生気に満ちているように見えた。
「生きてるんですか?」
「深く寝てるだけ。俺がやった」
「え?」
 首にちくりと何かが刺さる痛みを感じた。宗太郎の胸に頬を引っ付けたまま、美雨は水が流れ落ちる速さで意識が遠のいていく。
「ごめん、また痛い思いをさせた」
 また、とは一体何のことだろう。
 ――でも約束だから今度は消さない、終わったら後で全部話すから。
 夢うつつで聞いたその言葉は、何故かとても苦しそうな響きを持っていた。
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