千の風

モクジ
 澄んだ天上の蒼穹にたゆたう薄く伸びた雲。
 初老の女性が立ち尽くす丘の上には、横に大きく枝を広げた木が一本ぽつんと立っていた。
 既に冬の気配を含んだ風は頬に冷たく、白髪の混じった茶色のほつれ髪が木枯らしに吹かれて揺れている。
「戦争が終わったらしいわ」
 眼下に見える石碑の群れ。後に第一次世界大戦と呼ばれる戦争が四年続いた結果、町からは男達の姿が消えて代わりに墓標が増えた。
 既に夫に先立たれていた彼女の息子の名前もまた、あの中の石に刻まれてからそれほど日は経っていない。
 戦争から騎士道が消え、機関銃や手榴弾、戦車という大量殺戮兵器が飛び交うようになった戦場に行った息子の遺体は彼女の元へは戻らなかった。
 死亡通知と、遺品として届けられた壊れた万年筆が一本だけ。
 壊れた万年筆と衣服しか入っていない軽過ぎる棺は、葬儀の間も彼女の中でどこか現実味の無い出来事として通り過ぎていた。
「戦争が終わったのよ、息子よ」
 戦いが終わり青い空はこんなにも美しく、鳥もさえずっているのに彼女の息子は永遠に帰ってくることは無い。
 生まれ育った牧場を継ぐこともなく、夕食後にランプの小さな明かりの下で陽気に歌うことも無い。
 もう二度と、「お母さん」と元気な声で呼んでくれることは無いのだ。
 彼女は丘の下まで降りて、真新しい石碑の前に立った。涙は出なかった。ただ空しく冷たい石の表面を撫でては溜め息が出るだけである。
「あ、お母さんそこにいたの」
 温かい手が腕を掴み振り向くと、空と同じ色をした瞳が気遣うように微笑んだ。
「お兄ちゃんと同じ隊にいた人が送って下さったの、今届いたところよ」
 差し出された手帳は表紙が擦り切れて色が剥げ、水に濡れた名残なのか中のページもよれて沢山の染みが付いた代物であった。
 母はそれを受け取り、無理にめくると破れそうな紙を一枚一枚慎重にめくり始める。
 そこにあったのは紛れも無く息子のぶっきらぼうな綴り文字であった。

 ――――クリスマスまでには終わるといわれたこの戦争も、もしかしたら四回目を迎えることになるのかもしれない。母や妹は今どうしているだろう、僕がいなくなってからも牧場は上手く切り盛りできているだろうか。
 ここにいると故郷で過ごした日々がまるで幻だったかのように思える時がある。だからそれを忘れてしまわないよう、できるだけ思ったことはここに記しておこうと思う。
 
 読みこぼしの無いように、瞬きも忘れて彼女は震える手で手帳の文字を目で辿る。まるですぐ目の前に彼女の息子が座り、語りかけてくるような錯覚に浸りながら。
 しかしそれも半分以上読み進めた辺りから、その筆跡が徐々に乱れてくるのが分かった。

 ――――部隊が移動になった、明日から更に北上するらしい。
 ――――余計な事を考えるな。僕は悪くない、間違っていない。

 紙の中の季節はあっという間に春から夏へ移り、日々の他愛ない事の記述が無くなって短文が並ぶ日が続いた。
 すると突然に緻密に書き込まれたページにぶつかり、母は息をのみながら視線を走らす。

 ――――いちばん親しくしていた仲間を目の前で失った。塹壕から脱出するのにほんの数瞬遅れただけで、神は僕たち二人の運命を大きく変えなさったのだ。
 手榴弾で散らばったあいつの遺体はきっと大地に戻り、この世の全ての根源となるべく消えてゆくのだろう。
 僕もいつか同じようにして命を落とすかもしれない。その魂は神の元へ導かれるのか、それともこの罪深き手は既にその資格を失っているのだろうか。
 許されることならば、僕はまっすぐ故郷に戻りたい。
 大人しく土の下に納まっているよりも、海岸の方から吹き付ける千の風になって緑の丘を駆け回ろう。
 僕は風であり、空であり、大地になる。沢山の中に溶け込んで、懐かしい風景の中の一つになりたい。ほんの少しだけ、人間であることに疲れたから。
 今年のクリスマスはきっと大切な人達皆で過ごそう。
 僕が生きて帰っても、帰らなくても。

 丘のずっと向こうには光る海が見渡せた。そこから吹き付ける風は相変わらず母親の白髪混じりのほつれ髪を揺らしている。
 風になって、空になって、大地になって。
 遠い場所で息絶えた彼の亡骸は遂に故郷に戻ることは無かったが、繋がっているこの空を通じそれはやがて回帰する。
 本当にそこに息子がいるのだろうか。見えなくても、触れることができなくても。
「お母さん、そう言えばお兄ちゃんあの木によく登ってたね」
 先刻まで母親が立っていた丘の上の大きな木を指し示し、娘が呟いた。
 何度注意しても見晴らしの良い景色を見たいと登っていた太い枝の上。
 羊を追って走った、小さな足音が残る草原。
 中途半端に覚えた歌を、何度も同じフレーズばかり繰り返して歌っていた狭い我が家。
 亡くなった夫の葬儀の間、この墓地の中でずっと黙ったまま母のスカートを握り締めていた小さな手の感触。
「ああ、ああ……」
 耳を澄ませ目を見開けば、そこにもあそこにも息子の欠片が潜んでいた。湧きいずる泉の如く母の目から熱い涙がとめどなくこぼれ落ち、大地に吸い込まれてゆく。
 すると突風が吹きぬけて、彼女の頬から涙の雫が掬い上げられて空へと舞い上がった。
 泣かないで、ここにいるから。
 そんなふうに言われているような気がして、墓の前で泣き崩れていた母はふと顔を上げる。
 蒼穹から降り注ぐ日の光を頬に受け、視線の先にある全ての風景に向けて彼女は小さく呟いた。
「おかえり。今年のクリスマスには間に合って何よりだわ」
「千の風になって」著者:メアリー・フライ(訳:オーママミアさん) 私のお墓の前に立ちつくして泣かないで
私はそこにはいない、私は眠らない
私は吹きわたる千の風の中で
やさしく舞い落ちる雪になり
おだやかに降りそそぐ雨になり
稔り豊かな畑となる
私は朝の静寂の中で
優雅に円を描いて空を駆る
美しい鳥たちの中にいる
夜には星の輝きになる
私は咲き誇る花々の中に
静かな部屋の中に
歌う鳥たちの中に
愛しき全ての物の中にいる
私のお墓の前に立ちつくして嘆かないで
私はそこにはいない、私は死なない
 
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