月と太陽の詩(うた)

第一話、隣人の正体見たり


 周囲を取り囲む木立は初秋の風に揺れ、車から降りてすぐの遊歩道に俺は一人佇む。
 そこから見上げたものは、悠然とそびえ立つ五階建てのマンション。うす綿の雲が流れる青空をバックにした建物のてっ辺に視線を移すと、太陽の光が逆光になって視界を阻んだ。
 数メートル下がって全景を視界に納めると、その大きな鉄筋コンクリートマンションは中央棟のてっ辺に三角屋根が付いており、それを落ち着いた色のレンガが取り囲んでいる。
「ここの最上階だったな」
 俺が今日から住む予定の部屋は、五階の一番はしにある五〇一号室だった。しかし正確に言えば、俺自身の部屋ではない。
 一週間ほど前に引越しを考えていた時、ちょうど日本を離れると言う友人の部屋を格安で貸してもらえるという話にまんまと飛びついたのだ。
「まあ何にせよ、今までの住まいよりは格段にレベルアップだな」
 昨夜から徹夜の荷造りの疲れを感じつつ、それでも俺は意気揚々とエントランスをくぐる。
 部屋の造りは1LDKである。しかし南に面した明るいリビングはかなり広く、多分もう一部屋作られるべきスペースが合体されての事だろうと思われた。
 そして何故リビングがこれだけ広いかというと、だ。
「おお、本当にグランドピアノがあるじゃないか」
 広いリビングの窓側に設置してある、黒光りしたその楽器。艶やかな表面にそっと触れると、久しぶりの感触に思わず感嘆の声がもれた。
 昔は嫌になるほど毎日弾いていた楽器だが、一人暮らしをするようになってからはとんとご無沙汰の物である。
「久しぶりに見るとそれなりに嬉しいもんなんだな。ま、たまには仕事にこういうのを使うのも良いか」
 レンタカーに乗せた我が荷物は普通に比べれば量は少ないが、やはり五階まで全部運ぶとなるとかなりの労力だ。
 不便なことに俺の左足は酷使するとすぐに痺れたり痛み出すので、休憩を挟みながらの作業である。生活に必要な電化製品や家具は屋主が置いたままの部屋だからと、思い切って自分の家具は殆ど売ってしまったのは正解だった。
 大したものは持ち合わせていなかったが、大切な物といえば商売道具のパソコンとミキシングの機器、それにスピーカーなどの周辺機器である。
 しかし自分のものよりもずっと性能の良い一式が揃えられた部屋に越してきた今となっては、これらは次に新たな部屋へ移る時までクローゼットにしまうことになるのだろう。
 何度もエレベーターで往復し、最後のダンボールを運び込んだ時だった。
不意に部屋の中から小さな鈴の音が聞こえたような気がして、俺は玄関先でふと振り返る。
「猫?」
 開け放たれたベランダの窓の所に、何故か白い猫が座っていた。首輪に付いた小さな鈴が見え、それが鳴った音なのだと納得する。
 しかしその猫が口に咥えていた物を見て俺は思わず目を見開く。
「ちょ、ちょっと待て、その鍵を返せ。あ、こら!」
 何たることか。猫は窓側のラックの上に置いておいたピアノの鍵を咥えたままベランダの外に出て行ってしまったのだ。
 慌てて後を追ったが猫はベランダを仕切る板の下の狭い隙間を通り、あっという間に向こう側へ行ってしまう。ベランダ柵越しに隣を覗いてみると、猫がそのまま隣室の窓から中に入るのが見えた。
「あー、ったくしょうがないな」
 頭をがしがし掻きながら、仕方なく隣室の五〇二号室のインターホンを押す。
『……はい』
「あ、隣に越してきた者ですが、実はお宅の猫が鍵を持っていってしまいまして」
『……ちょっと待って』
 インターホン越しに聞こえてきた声は若い女性のものである。しかし素っ気ない雰囲気からして、あまり性格はよろしく無さそうなことが窺えた。
今後自分と関わることは多分、いやきっと無いことだろう。
「はい、これでしょ」
 ドアを開けて無造作にピアノの鍵を目の前に突き出し、隣の住人は俺を真っ直ぐ見る。そしてその顔を見た途端、俺は動きを止めた。
 何故かと言えば、彼女の容姿が並外れて美しいからという理由では無い。
 いや、かなりの美貌の持ち主であることには変わりないが、それ以上に強烈な印象を過去に二度、俺の記憶に焼き付けた人物であったからだ。それもこの一週間という短い期間の間に。
 大きな瞳に茶色の色素の薄い長い髪、身長も女性にしては高い方で日本人にしてはスタイルもメリハリがある。この風貌からして多分、日本人以外の血が入っているのだろうと思われるが……。


 ちょうど一週間前、俺はとある理由から引越し先を探していた。
しかし都合の良い物件をすぐに探し当てるのは、いかに引越しに慣れた俺でも簡単にはいかない。そんな時だった、高校からの腐れ縁である友人に呼び出されたのは。
「いやーん、龍ちゃん元気だったー?」
 高級レストランの個室などという、こいつの奢りでもなければ俺には全く縁の無い場所で、サングラス姿の高津千尋は手を振った。
「お前忙しいんじゃないのか、よくこんな暇があったな」
「何言ってるのよ、渡米する前に龍ちゃんに一目会っておきたくて時間作ったのにー」
「あー、はいはい。そりゃ光栄だ」
「もう、龍ちゃんたら冷たいんだから。でもそこがス・テ・キ」
 大きな身体をくねくねさせて、千尋は片目をつむってウインクをする。
 ウエイターがグラスに注いだ水を既に口に含んでいた俺は、それを正面から見て思わずむせ込んだ。噴出さなかっただけでもましである。
 千尋は名前も口調も一見女性のようだが、歴とした成人男性である。歳は俺と同じ二十八だ。
 しかし世間では一般的に、「チヒロ」という芸名の方が広く知れ渡っている。
 曲を出せば必ずオリコンチャート一位にのし上がり、そして現在は全米デビューを控えて準備中というモンスターバンド「カイン」のボーカル。それが千尋の仕事上の顔である。
 チヒロとしての彼はクールな美形キャラというのが売りで、真の顔がこんなカマキャラだという事実は業界でもあまり知られていない。
 やはり売り出すにはイメージが大切だというわけで、千尋の所属事務所ではいつも口を酸っぱくして注意をしているのだという。
「千尋、お前外で地を出し過ぎだ。社長の苦労が水の泡となって消えるぞ」
「やーねぇ、その為にわざわざこんな個室予約したんじゃなーい。ねね、何食べる?」
 器がでかいというか、マイペースというか。千尋は親しい人間を前にするといつもこんな感じだった。
 千尋は身長が百八十センチある俺より更に数センチ高い長身に、形の良い眉と切れ長の目。肌なんてそこらの女よりもキメが細かい白皙の美貌というやつだ。
芸能人じゃなくても女性には一生困らなさそうなその完璧な外見とは裏腹に、この乙女な性格はあまりにも勿体無いと思わずにはいられない。
 そうしてコースのメインディッシュを順調に腹に詰め込み、残り少ないワインのボトルを眺めて次はどうしようかと俺が考えている時だった。
「ねえ龍ちゃん、そう言えば最近ストーカーちゃんはどうなのよ?」
 眉毛をピクリと動かしながら、俺はパンをちぎって口に放り込む。
「どうしてお前がそれを知ってる」
「むっふふー、愛する龍ちゃんの事なら何でも知ってるわよ」
 お前こそストーカーじゃないのかと言ってやりたかったが、後が面倒くさそうだったのでそれは止めておく。
「まあストーカーって言うほどのものじゃないんだ。家がばれて、呼んでも無いのに毎日訪問を受けてるだけで」
「それを世の中ではストーカーって言うのよ」
「そうか?」
 俺には特定の女性というものはいないが、女友達はそれなりにいる。そんな彼女達とは一定の距離をとって接するのが俺のスタンスなのであるが、今回はどうやら人選を誤ったらしかった。
 自宅にはよっぽど親しい人間でないと入れることは無いし、色々と面倒なのでウチは高野山よろしく女人禁制である。
 だから毎日食材を抱えて訪問してくるその女、桃子には、玄関の扉越しに追い返すたびにいい加減うんざりしていたところだった。
 こういう時はいつものようにさっさと引っ越すに限るのだが、それが今回はなかなか次の移転場所が決まらず悶々としていた俺である。
「ねえ、私渡米したら帰ってこられるまで二年くらいはかかりそうなのよ」
「全米デビュー頑張れよ、一応応援してるから」
「まあありがと。じゃなくて、ねえまた引っ越すつもりなら私の部屋使わない?」
「は?」
「事務所の契約で借りてた方は引き払っちゃうんだけど、もう一個パパがくれた仕事用の部屋があるのよ。そこなら防音効果もばっちりだし、龍ちゃんの仕事もしやすいでしょ?」
「パパって、どこのパパだよ」
 まさかパトロンのスケベ親父とか言わないよな。
「パパと言ったら私のパパよー。家のパパ、マンション経営やってるから私専用で防音付きの特別部屋を作ってくれたの」
 天はオカマに二物も三物も与える。才能と人気と美貌、そして金持ちの実父からマンションまでもらえるとは羨ましい限りである。
「何よ、龍ちゃんだって実家はお金持ちじゃない。変わんないわよ」
「俺は実家とは縁が切れてるの。何でも恵まれてるお前と一緒にするな」
「そのくせ他人に関わってこられるのが嫌で、何回も引越ししてるくせに。引越し代がもったいなーい」
「悪かったな」
 しかし千尋はすぐに機嫌が戻ったのか、また身を乗り出すようにして話し出す。
「それでどうする? あの仕事部屋は契約とか関係ないから私が居ないと誰も住まないことになっちゃうし、それはそれで困るのよね」
「家賃は幾ら?」
「パパからもらった部屋だからそんなの無いわ。でもそうねー、部屋にあるピアノのメンテ料と曲を幾つか作ってもらうっていうのでどうかしら」
「ピアノ? お前そんな趣味あったっけ」
 昔ではよく見られたピアノを使っての作曲だが、最近はパソコンを使ってデジタル処理しながら作ることが多い。その後の編曲や音響の調整も同様に機械を使用するのが主流で、極論を言えば作曲をするだけならギター一本、キーボード一台でもどうとでもなることなのだ。
「気分転換よ、気分転換。たった一人静かにピアノを引く美しい私……ああ、考えただけでぞくぞくしちゃう」
「で、注文はラブソングでいいのか?」
 俺の反応の薄さに千尋は口を尖らせる。
「もう、冷たいわね。うーん、ラブソングはもう飽きちゃったから、たまには趣向を変えてテーマは『人生』でどう?」
「また壮大なテーマだな」
 ふふ、と千尋は含んだように笑みをこぼしてこちらを見た。
「向こうでアルバムも作る予定だから、あと二ヶ月以内に私が納得いくものを作って頂戴、皆倉先生」
「分かった、契約成立だ」
 こうして俺は、千尋が時々仕事で使っているというマンションに住むことになった。
 千尋は歌手、そして俺はというと、作詞と作曲で何とか飯を食っている人間である。そもそも高校生の時にストリートでやたらと目立ちながら歌っていた千尋に洒落のつもりで曲を作ってやったのが始まりなのだが、まさかあの時はオカマと長い付き合いになるとは全く思いもしなかった。
 今の俺は仕事の時に「皆倉リュウ」という別の名前を使い、極力メディアにも出ないようにしている。
 詩と曲を作るための取材対象である多くの女友達に素性がばれるのも避けたかったし、それ以上に自分の現状を知られたくない存在が居たからだった。

 その後デザートを平らげてコーヒーを飲んでいると、突然グラスや皿が割れる音が店内に鳴り響く。
 盛大な破壊音の後に続いて聞こえてきたのは、若い女性の怒鳴り声であった。
「ふざけんじゃないわよ!」
 それに続いて、今度はフォークなどのシルバー類が床に転がる音がする。一体何事が起こっているのだろうか。
「隣の部屋かしら」
「みたいだな」
 一般のホールに設置されたテーブル群と離れ、俺たちが今いる個室は通路を進んだ奥に三部屋造られていた。
 壁を一枚隔てた向こう側で、派手に扉を開け放つ音が聞こえる。ちょうどこの部屋にもウェイターが入ってきたところだったので、扉が開いた瞬間に大声の主が足音も高らかに憤然と歩き去るのが見えた。
 姿勢の良い女だった。
 黒いパンツスーツをキリリと着こなし、風を切って歩く彼女の茶色い長い髪がさらさらと揺れて見えない余韻を残してゆく。
 後を追うようにしてスーツ姿の男が一人、足早に駆けて行った。見たところ三十代前半といったところだろう。
「ついて来るな!」
「痛てっ!」
 しかし通り過ぎてすぐに男は廊下に倒れこんだようで、振動と共に黒色のローヒールが俺たちの部屋の前まで転がってくる。
「投げたのか」
「そして当たったのね」
 しかし投げつけた靴を彼女が取りに戻ってくることは無く、そのまま店を出て行ってしまったようだった。片足裸足のままで帰ってしまうとは、世の中にはなかなかすごい女性がいるものである。
 廊下から千尋の方に視線を戻すと、やつはいつの間にかまたサングラスをかけてコーヒーを啜っていた。
 騒動に驚いたウェイターが俺たちの部屋を開けっぱなしにして隣室に行ってしまったからだろうか、千尋にしてはいやに気が利く行動である。
「すっごい美人だったわね、今の彼女」
「確かに美人ではあるな」
「龍ちゃんも女の子達と遊ぶのは程ほどにしておかないと、そのうち痛い目にあうわよ」
「ありゃ仕事の一環だ、ちゃんと上手くやってるからいいの」
「ストーカー憑きのくせに」
 今度は飲みかけのコーヒーが変な所に入り、俺はさっきよりも激しくむせる。ようやくそれが収まると、千尋を睨みつけて吐き捨てた。
「お前んちに引っ越せばそれも終わりだ。もうこの話は終わり」
「んもう、龍ちゃんっていい男の割には女運無いのよね。寄ってくるのは自分の好みじゃない子ばっかりだし」
「終わりって言っただろ、俺はしつこいオカマは嫌いだ」
「酷い、酷いわ。龍ちゃん一筋のこの千尋に向かってそんなこと言うだなんてぇぇぇ」
 でかい身体でしなを作りながら泣きまねをする天下の有名人にそっぽを向き、溜め息をつきながら俺はタバコに火を点けた。

 話はそれで終わらない、それから数日後のことだ。
 たまたま女友達の一人と街中を歩いていると、何やら目立つ集団がいて周囲の目を惹いていた。その集団が通ると自然に人の波が割れ、何故か道ができて行くのである。
「ねえねえ、何があるのかな」
 特に興味は無かったが、連れの女性が腕を引っ張るのでそのまま引きずられて行く。そして視界の前に現れたのは、ホスト風の若い男を四人従えた、ピンクのブランドスーツに身を包んだ女であった。
 その大きく開けられた胸元には光り輝くネックレスがジャラジャラと音を立て、指には幾つも指輪が光り、手首にも細いブレスレットがお互いに擦れあって金属音を高らかに鳴らせている。
 派手なメイクと見事な茶髪が更に相乗効果を増して、何ともゴージャスな雰囲気を醸し出している女王様であった。
 これだけの迫力があれば、男の一人や二人はべらしても全く違和感は無いことだろう。
 珍しいものを見たと半ば感心しながら眺めていると、その美貌の横顔に、颯爽とした歩く姿に、俺は何やら記憶に引っ掛かるものを感じた。
「誰だっけ?」
 そして彼女と取り巻きの男達が目の前を通り過ぎたその直後にやっと気付く。
レストランで靴を投げたあの女だ。
 先日はパンツスーツでシックに決めていたのでてっきり普通のOLだと思っていたのだが、実は女王様だったということなのだろうか。
「ねえ龍、どうしたの?」
「ん、ああ。いや何でもない」
 呆けたようにその後ろ姿を見送る俺に、女友達は少し顔をむくれさせる。
「嘘、見とれてたでしょ」
「そんなはず無いだろ、ミナと一緒にいる時に」
 本当はどう思っていようと、口では何とでもとり繕えるものである。しかし見とれていたと言うよりは驚きの余り凝視していたと言う方が正しいのだから、別に俺が罪悪感を感じる必要は無い、と思う。
 彼女達は最も注文の多いラブソングを作る為の、大事な情報源だった。これしきの気遣いだけで機嫌を良くしてくれるのならありがたいものである。
 それに少し愚痴を言わせてもらえば、何故か昔から俺の周りには派手で軽いノリの女性しかやって来ない。もっと頭の切れる賢そうなタイプとか、大人しい穏やかなタイプだったら俺だってもう少し女性の見方が変わってくると思うのだが。
 大抵そういう女達はことごとく俺を素通りするか、他の友達に目の前から掻っ攫われて行くのが常である。
 周囲の人間はそんな俺を「女遊びの激しい人間」だと言う。しかし何のことは無い、距離を置いて付き合わなければならない女友達が数人と、それにオカマが一人いるだけなのだ。
 ああ、何だか自分で言ってて余計虚しくなってきたな。
 それがつい二日前の出来事なのであった。

 俺は今、その過去二回とも強烈な印象を与えてくれたその「彼女」を目の前にして、驚かずにはいられなかった。
「何?」
 目を見開いたまま自分を凝視する男に不審さを抱いたのか、彼女はあからさまに眉根を寄せて俺を見る。
 その視線でやっと我に返った俺は、慌てて何事も無かったかのように表情を取り繕った。
「いや何でも」
「ふーん?」
 一度目はOL風のきっちりとした黒のパンツスーツ、そして二度目はど派手なピンクのブランドスーツの女王様。
 見る度に極端に異なった顔を見せていた彼女だが、今は丈の長いTシャツに膝下までの黒いスパッツを穿き、しっかりメイクで武装していたその顔は以外にもノーメイクであった。それでも彼女が美人である事には変わりないのであるが。
 不意に何か柔らかいものが足元に触れて視線を下ろすと、俺の部屋からピアノの鍵を盗んでいったあの白猫がゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄ってくる。
 別に動物好きというわけでも無いがとりあえず頭を撫でてやろうとすると、遮るように彼女の手が伸びて猫を抱き上げた。
「ダメでしょルナ、……それじゃ」
 短い一言だけであっさり目の前のドアは閉まってしまった。しばし黙ってその扉を見つめていたが、一つ息を吐くと方向転換をする。
「まあいいか」 
 別に隣人と良好な関係を築かなければならない義務はどこにも無い。というか、今までどこに引っ越してもご近所さんと会話すらしたことも無かったのだから、こんなことさして問題にもならないだろう。
 しかし自分の部屋に帰ろうとしたその刹那、閉められたドアの向こうから声がして俺は歩みを止めた。
「変なオジサンについてったらダメでしょう、ルナ」
 今聞こえた単語は、俺の幻聴か。
 しばし立ち止まって考えてみたが、考えた所で事実は事実のまま変わるはずもない。そして十数秒かけて俺の神経をじわじわと侵食して行き、それはついに脳まで達した。

 誰がオジサンだ、誰がー!

 三十まであと二年もある俺をつかまえて「オジサン」とはなんと失礼な女であろう。そういうお前だって二十はとおに過ぎた顔だろう、そこまで言われる筋合いは無いっ!
 憤然と自室のドアを開け、隣まで響くように勢い良くそれを閉める。全く腹立たしいことこの上ない。
 すると部屋の奥から置きっ放しだった自分の携帯電話の着信音が聞こえ、慌ててそれを取り上げた。
 表示は公衆電話である。一体どこの誰だ、俺は今気が立っているんだぞ。 
 しかし携帯から流れ出てきた能天気な声に、俺は一瞬で脱力してしまった。
『ヤッホー龍ちゃん、お引越し順調?』
「お前かよ」
『何よー、部屋のオーナーに対してずい分じゃなーい』
 浮かれ調子で喋る千尋の声の後ろから、雑踏に混じって何かのアナウンスが聞こえてくる。
「何だ? お前どこからかけてる」
『空港よー、これからアメリカに行くの。最後に龍ちゃんの声聞いとこうと思って』
「くだらん用事なら切るぞ」
 今の俺はオカマの戯言に付き合ってやるほど心は広くないのだ。
『あん、ちょっと、ご機嫌斜めね。きっと龍ちゃん引越しで疲れてるのよ、私のお気に入りの寝室でぐっすり眠ればすぐに良くなるわ』
 千尋がそう言った瞬間、俺の脳裏に嫌な予感がよぎった。
 「お気に入りの寝室」とは一体どういうことだ。
 ここのリビングもキッチンも、この部屋があくまでも千尋の住まいではなく「仕事場」であるがゆえに、その機能は簡素にまとめられている。
 言うならば必要最低限の物だけが揃えられており、余計な装飾が無いシンプルな俺好みの部屋になっているのだ。
 しかしそう言えば広過ぎるリビングに荷物を全部積んでいたせいで、まだ見ていない一室があったのである。
 玄関を通ってすぐ右手にある、あの扉の奥。それがきっと千尋の言う
「お気に入りの……寝室?」
 自然と心臓の拍動が速くなる。
 額に汗がにじみ、恐る恐るその扉を俺はそっと開いた。
「何だこのトチ狂った部屋はー! おい、千尋!」
 その光景を見て、携帯に向かって俺はそう怒鳴らずにはいられなかった。
 そこにあったもの。
 木の鮮やかな茶色が際立つベッドフレームは全体的に丸く型どられ、白地に薔薇の小花が散りばめられたベッドカバーに、お揃いの大きな枕はカントリー調のベッドそのもの。
 壁には見事なドライフラワーが並べてぶら下げられ、額縁に入れられた小さな風景画は優しい雰囲気を更に増してくれる。
 窓にはフリフリの白いレースのカーテンがびっしりと付けられて、横のローチェストにずらりと並べられたテ、テディ、テディベアは……。
「ここは赤毛のアンの部屋か、お前一応男だろ」
『だってお仕事でたまに使うだけのお部屋でも泊まることはあるんだもの、私可愛いお部屋じゃないと眠れないのよ』
「忙しい芸能人ならどこでも寝られるようにしとけ!」
 花柄のベッドカバーを力任せに剥ぎ取りながら、俺は携帯に向かってそう叫ぶ。
 ベッドのフレーム自体はよく見てみればそれほど少女趣味に走った物でもない、カバーを変えれば何とかなるはずだ。
 壁のドライフラワーやらテディベアやらは、まとめて全部クローゼットに押し込んでやる。くそ。
 怒りのあまりそのまま電話を切ってやりたかったが、あることに気がついて俺はもう一度電話を耳元に近づけた。
「千尋、お前隣の部屋の住人があの女だってこと知ってたな」
 奴は問いに答えず、わざとらしく慌てた様子で言う。
『ああーっと、もう時間だわ行かなくちゃ。それじゃあね、また電話するわ龍ちゃん』
「あ、ちょっと待て」
 止める間もなかった。あっという間に電話を切られ、向こうが公衆電話ではこちらからかけ直すわけにもいかない。
「やられた」
 一週間前に千尋と夕食をとっていたレストランであの女を見た時、あのオカマはすかさずサングラスを掛けなおして面が割れないようにしていた。
 あれは一般人に自分の顔が見られないようにするためではなく、彼女に見られないようにするためだったのだ。
 壁にもたれた時に腕が当たったのか、ローチェストの上に並べられていたテディベアが床に落ちて転がる。
 俺はうんざりしながらそれを拾うと、ベッドに向かって投げつけるのだった。


 作詞、作曲家と言えば聞こえは良いが、現実優雅な生活をしている者はほんの一握りの人間だけである。最近は歌手が自分で作詞作曲するケースが多いし、千尋のバンド「カイン」もその殆どは千尋と他のメンバーで作曲、編曲をしていた。
 しかし千尋は俺の曲が気に入ると時々アルバムなどに使ったりするので、そのお陰で他にもツテができ、今ではテレビ番組で使われる曲なども依頼されるようになった。
 そう考えると俺は作曲家としてはかなり運が良い方だと言えるだろう。純粋に作曲のみをしている若い作曲家は、クラシックもポップスもジャンルを問わずその殆どが、副業を持っていないと生活することすら困難な状況に置かれていることが多いからだ。
 一発大きなヒットを出せばその印税額はすごいらしいが、今のところ俺にはそんな嬉しい出来事は起こっていない。
「今日は荷物を早く片付けて仕事をしないと」
 昼間で寝ているつもりが意外にも早く目が覚めてしまい、俺はテレビをつけるとそのまま洗面所に向かう。冷蔵庫には何も入っていないから、とりあえず身支度をして外で何かを食べなければ。
 歯磨きをしながら厚いカーテンを開けた。ついでにレースのカーテンと窓も開けて風を入れる。
ぼんやりベランダから外を眺めていると、マンションのエントランスから一人、制服姿の女子学生が出て行くのが見えた。
 あれは何という学校の制服だったか。学生の頃によく同じ沿線の電車で見たことがあったので、まだ寝ぼけ半分の脳みそで俺は自分の記憶を掘り返す。
 確か何とか言う有名なお嬢様学校だったような。女子高なのに千尋があの制服を着たがって駄々をこねていたのを思い出した。
「へえ、ってことはあれはお嬢様なのか」
 スラリとした歩き姿の女子高生の後ろ姿を眺めつつ、そう呟いた時だった。下を歩く女子高生がふと横を見た時に、その顔が見えたのである。
うちのお隣さんの顔が。
「バカなっ」
 しかしあの派手な顔はどうやっても見間違えるはずが無い。そこにあったのは、確かにあの女の顔だったのだ。
 レストランで見たOL風の姿も、街で見かけたゴージャス女王様も、どれも彼女の真の姿では無かった。
「高校生かよ、嘘だろ」
 そうか、確かに高校生から見れば俺はオジサ……いやいや、それをここで認めてはいけない。
 よくニュースの特番などで語られている今時の女子高生っていうのはすごいからな、きっとあれもそれ一環なのだろう。
 所詮は個人主義の現代集合住宅。昨日自分の中で思ったように、お隣の彼女とは今後関わりを持つことは無いはずである。いや、無くしてみせる。
 決意も新たに、衝撃ですっかり頭が冴えた俺は口を漱ぎに洗面所に再び向かった。
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