月と太陽の詩(うた)

第二話、俺はピアニスト


「ねえ聞いてる、龍?」
「ん、ああ。はいはい」
「もう、聞いてなかったでしょ」
「聞いてるよ」
「本当に?」
 聞いてると言っているのに、返事が少し遅れただけでどうして女ってやつはこうしつこく食い下がってくるのか。
 しかしここで感情を顕わにしてはいけない。人間関係を長続きさせるには大人の態度が何より大切なのである。
「カインが渡米したって話だろ?」
「そうなのよー、私チヒロのファンだったからこれからしばらくテレビで見れなくなると思うとすっごく寂しくて」
 その「チヒロ」のメディアでよく知られている人物像は、超絶美形の冷静沈着なボーカリストだ。まさかカントリー系のブリブリ寝室で寝るのが趣味のオカマだとは、きっと誰も想像だにしないだろう。
 もちろん全ての女友達には俺の仕事のことは秘密にしてあるので、そのチヒロが高校時代からの腐れ縁などという事は誰にも言えないし、言いたくもない。
 今日から公開だと言う前評判の高い映画を見るために、俺は今長蛇の列の中に並ばされていた。
せめて一週間ほど待ってからならもっと楽に見られるだろうに、どうして公開第一弾で見る必要があるのだろうか。
 いくらイベントがあるからといっても、ここまで苦労をしなければならない理由が俺には分からない。というか、VIPゲストがあるとかその準備だとかで開場すらしておらず、路上で待たされているのだ。せめて建物の中に入れろというに。
 しかし俺以外の周囲の人間は何が楽しいのか、映画に出演している俳優の話で盛り上がっていたり、キャラクターのコスプレでやって来た奴ら同士で写真撮影なんかをしている。
 今一緒にいる女友達でさえ俺との会話が途切れると友人にメールを送ったりして時間を潰し、不満を漏らしながらも何とか待ち続けていた。もし俺がここで「帰りたい」なんて言い出したら、一体どんな顔で怒ることだろう。
 彼らの情熱は全く不可解な心理なのだが、分からないからこそこうやって直に知る機会が必要だった。
 それにずっと一人で部屋にいるのも、何となく息がつまる気がするし。
 今隣にいる女性、ユミは、比較的大きな会社の窓口嬢をしているのだという。普段は制服をきっちりと着こなしてにこやかに座っている彼女も、プライベートの素顔はすこし我が儘なお姫様でしかなかった。
 見た目は可愛いからな、きっと今まで色んな男どもにちやほやされてきたに違いない。
 しかし開場まではまだかなりの時間がある。おまけにもうすぐ夕食の時間なのに何も食べていないから腹もすいた。自分の前と後ろに連なる人の列を改めて眺めると、俺はうんざりせずにはいられない。
 そんな時だった、視線の先にどこかで見たことのある顔が歩いてくるのが見えたのは。
「どうしてこう、縁があるんだか」
 嫌だ嫌だと思うほど、俺はどつぼに嵌りやすいタイプなのか。
 映画館の前の歩道を向こうから歩いてくる人だかりの中に、明らかに周囲とは違ったオーラを放つ人間がいた。
 今日は白のブラウスにロングスカート、淡いピンクのストールなんぞ肩にかけて、いかにも清廉そうな雰囲気のお嬢様スタイルだ。横に並んで歩いているのは真面目そうな大学生風の男である。
 うちのお隣りの女子高生は一体幾つの顔を使い分けているのか知らないが、ここまで完璧にこなされるといっそ拍手でも送りたくなってしまう。
 彼女は俺たちの並ぶ列の横を通り過ぎる時、チラリとこちらの方を見たような気がした。しかしすぐに視線を逸らすと、またすまし顔に戻って何事も無かったように歩き出す。 
 今日の相手は今までとは少し雰囲気が違うから、上品に振舞う必要があるのだろう。そう思ったら何となくおかしく思えて、俺は小さく笑ってしまった。
 その笑い声が聞こえたのか、彼女は首だけで振り向いてわずかに顔をしかめる。すごい地獄耳だ。
「知り合い?」
 俺たちと女子高生との距離は三メートルほど。彼女はこちらに向けたしかめ面を元通りに戻すと、今まで見せたことも無いような顔で隣の男に微笑んだ。
「いいえ、知らないわ。あんなオジサン」
 ちょっと待て。
 その演技力は認めてやろう、様々な男どもを手玉に取るのも個人の自由だ。しかし今の暴言は見逃すわけにはいかないぞ。
 そしてそのセリフはこれで二度目だ、この小娘が。
 十代の頃は周囲とぶつかりがちだったが大人になってからは何事も円満に、平和的にがモットーの俺である。
 しかしそれもここまでだ。
 俺は一社会人として、大人をバカにすると痛い目に遭うという事をこの女子高生にきっちり教えておかねばならない。
 これは社会的貢献だ、道を踏み外そうとしている青少年を更生させるきっかけを大人の俺が与えてやらなければならないのだ。
 だから決して今から言うことは、「オジサン」と言われたことに対しての大人気無い報復などでは無い、決して。
 そのまま通り過ぎようとしていた彼女の背中に向かって、俺は言ってやった。
「こないだは男に靴を投げつけたまま帰って大丈夫だったのか、あんた」
 ともすれば俺の投げつけた発言をそのまま無視して通り過ぎるとも思ったのだが、彼女はおもむろに立ち止まって俺を見上げる。
「何であんたが知ってるのよ、それにそれで脅してるつもり?」
 大きな瞳で真っ直ぐに睨みつけ、彼女はこちらに数歩近付いた。しかしそんなことで動じる俺様ではないのだ。
「今日はお嬢様じゃなかったのか、化けの皮が剥がれてるけど」
 小さな声でそう言ってやると、彼女は慌てたように自分の連れの男を振り返る。
「な、何でもないのよ。何でも」
 怪訝な表情でこちらを窺っている大学生風の男に誤魔化すようにそう言うと、彼女は悔しそうな顔で再び俺を見た。
「何よ、あんただってこないだ別の女と一緒にいたくせに」
「何でお前が……」
 知っているんだ、と言いかけた自分の口を思わず俺は手で塞ぐ。
 こないだ道ですれ違った時の事、こいつは全く気付いてないと思ってたのに俺のこと覚えてたのか。
「龍?」
「嘘に決まってるだろ、こんなやつの言ってることなんて」
 服の袖を引っ張りながら眉をしかめるユミを振り返ると、俺は愛想笑いを浮かべる。
「こんなやつとは何よ、こんなやつとは」
「うるさいな、お前ちょっと黙ってろ」
「オヤジのくせに私に命令する気?」
「誰がオヤジだ、俺はまだ二十代だ! お前こそ年長者をもっと敬え、このなんちゃって女子高生が!」
「何よそれ」
「高校生に見えないってこと。まあ老けてるってことか」
「なんですってー?」 
「親のスネかじってホスト遊びするのも大概にしとけよ」
「あんただってお金に任せてとっかえひっかえ女替えてんじゃないわよ」
「俺は自分の稼いだ金で遊んでんの、お前に言われる筋合いじゃない」
「私だって別に親のスネでやってんじゃないわよ、舐めないでよね」
 そしてそこまでいがみ合ってから、お互いにふと我に返った。
「龍、どういうことかしら」
「いや、これはだな……」
「真月ちゃん、ホストってどういうこと?」
「ああ、あのねそれはそのう……」
 顔を引きつらせて仁王立ちしているユミ。蒼白の顔で呆然と立ち尽くしている女子高生の連れの男。
 その二人に挟まれて、俺と女子高生は一瞬だけお互いに顔を見合わせた。
 どうやらいつに無く感情的になった挙句、お互い随分余計な事まで喋ってしまったようである。
「参ったな」
 頭に手をやり、俺は誰にも聞こえないように小さくそう呟いた。


 ざわつく夕方の店の中、俺の向かい側に座っている人物はいかにも不満足そうな表情でテーブルの上を眺めている。
 狭くて白いテーブルの上には茶色いトレーが二つ。その上に乗せられている紙包みが、今日の俺たちの夕食だった。
「ねえ、どうしてハンバーガーなの」
「うるさい。文句があるなら食べるな女子高生」
「女子高生女子高生連発しないでよ、私には如月真月っていう名前があるんだから」
「はいはい、そうですか」
 溜め息をつきながらハンバーガーの包み紙を開けると豪快に喰らいつく。俺だって今日はこんな安メシを食べる予定ではなかったのだ、誰のせいだと思ってるんだ。誰の。
 結局あれから俺たちのパートナーはそれぞれ怒り、または傷心で弁解する間もなく帰ってしまい、今日の予定はぽっかりと空いてしまったのだった。
 だから仕方なく一人で夕飯を食って帰ろうとしたところを、俺はこの真月と名乗る少女に捕まったのである。
 素性がばれている俺には既に取り繕う必要なしと判断したのだろう。
「あんたのせいでデートがダメになっちゃったじゃない、どうしてくれるのよ!」
 とギャンギャン街中でわめかれ、おまけにお詫びに飯まで奢れときたもんだ。
 あまりにも大きな声だったのでそのまま無視して帰るわけにも行かず、こうしてお互い面白くも無い顔を突き合わせて飯を食っている次第である。
 店を考えるのももう面倒くさかったので、帰り道にあるうちのマンション近くのファーストフード店で俺は夕食を済ませることにした。
 そしてその選択は、このお姫様にはよっぽどお気に召さなかったようだ。
「あーあ、今日はイタリアンを食べる予定だったのに」
 文句が多い割には、なかなか思い切りよくチキンバーガーに喰らいついているように見えるのは俺の気のせいか。まあ変に上品ぶってちまちま食べる女よりは、よっぽど見ていて気持ち良いが。
「で、あんたは?」
「は?」
「名前よ名前。私が名乗ったんだからそっちもちゃんと名乗りなさいよ」
 自分から勝手に名乗ったくせに、どうしてこいつはこうも偉そうに要求するのだろう。わずかに眉根を動かしながらもとりあえず名乗ることにする。
「二階堂龍」
「ふーん、漫画に出てきそうな名前ね。変なの」
 自己紹介してこんなに後悔したのは、俺の人生の中で初めてだ。
 それにしても俺は一体こんな所で何をやっているのだろうか。考えれば考えるほどアホらしく思えてくる。
「そんなに高い飯が食いたきゃ自分で食えばいいだろ、それくらいの甲斐性はあるんだろ真月さんよ」
 彼女は自分でホスト遊びは親のスネかじりではないと言っていたのだから、俺が言っていることに間違いはないはずだ。
しかし真月は意外にも真面目な表情で、たった一言こう言ったのだった。
「一人で食べるのは嫌いなの」
「じゃあ家で食べりゃいいだろ、子供は家族揃って食べるのが一番だ」
「いないわよ、そんなもの」
 一瞬、しまったと思った。
 触れなくても良い領域にまで、俺は知らず知らず踏み込んでしまったらしい。しかし少し考えた後、あることに思い至って俺は再び尋ねる。
「ちょっと待て、お前あのマンションにまさか一人暮らしなのか?」
 すでに自分のハンバーガーを平らげた真月は、ジュースを飲みながらきょとんとした目で俺を見た。
「違うわよ」
 何だそうか、俺の早とちりか。と安堵しかけたその時、真月が再び口を開く。
「ルナが一緒だもの」
「……猫は人数のうちに入れないだろ、普通」
「そう?」
「当たり前だ」
 真面目に話をしようとしたら、何だかこっちが頭がおかしくなってきそうな気がした。
 この少女はとんでもなく不安定な場所に何とかバランスを取りながら毎日を送っている。そんな危険な雰囲気がありありと感じられて、意味も無く自分まで得体の知れない不安を煽られるのだ。
「ま、今度は何かいいものご馳走してよね」
「何で俺が奢らなきゃいけないんだよ」
「近所付き合い」
 そんな近所付き合いなど、こちらから願い下げである。
 不意に、まだ飲みかけのジュースの容器を持ったまま真月が立ち上がった。
「ルナが待ってるし、私もう帰るわ」
 しかし秋口に差し掛かった屋外は既に日が落ち、周囲に街灯があるといえども暗い夜道はやはり危険が多い。
 まだ二個目のハンバーガーを食べかけていた俺が腰を浮きかけると、真月は少し子供っぽい顔で笑いながら言った。
「ああ、一人で帰れるわよ。うちまですぐそこだし」
 確かにここから歩いて五分とかかる距離ではないが、と一瞬逡巡している合間に真月はさっさと出入り口の方へ向かってしまう。
 俺は再び座りなおすと、彼女が店の外へ出て行くのを見送りながらナゲットを一つ口に放り込んだ。
「ま、確かにあいつなら痴漢に遭っても返り討ちにしそうだしな」
 マンションで一人暮らしをする高校生。
 それが自分の昔の記憶を揺り起こしそうな予感に、俺は無理矢理厚い蓋をして夕食の残りを機械的に詰め込んだ。

 そんなことがあってからはしばらく真月と顔を合わせる機会も無く、俺はまた自分の生活のペースを取り戻していった。
 作曲が波に乗ってくると殆ど部屋から出ないことが多いので、それが自然のことだったのかもしれない。
 しかしどんな時でも腹は空くわけで、不定期にコンビニなどに出かける時に偶然俺は見てしまったのだ。
 真月の部屋に入って行くスーツ姿の男を。
 あれはどう見ても俺より年上のように見えた。そして高校生の父親にしてはあまりにも若すぎる。
「乱れてんなあ、最近の高校生は」
 ニュースやドキュメンタリーの世界が、今俺の住んでいる部屋の隣で繰り広げられているのだろうか。ああ、現代社会は本当に病んでいるのだ。ん、これネタに使えるかもしれないな。
「いや、バカなこと考えてないで、早くあと一曲仕上げちまわないと」
 飲み物とタバコの入ったビニールの買い物袋を下げながら、俺はマンションのエントランスをくぐる。そしてエレベーターが止まってドアが開いたその時、正面に続く五階通路の先に人影が見えた。
 既に夜だったので薄暗い照明の下にいる人物は遠目にはっきりとは見えなかったが、長身のそれから男なのだとすぐに分かる。
 一瞬自分の部屋の前に立っているのかと思ったが違った。一番奥の俺の部屋の一つ手前、つまり真月の部屋の前にそいつは立っていたのだ。
「一体どうなってんだ、あいつの私生活ってやつは」
 そいつは以前見たスーツ姿の男では無く、ジーンズにTシャツ姿で明らかに二十歳前後の若い男である。キャップを目深に被り、眼鏡をかけて何気に人目を避けるような雰囲気が、変と言えば変なのであるが。
 ゆっくりとした歩みで俺が自分の部屋へ向かって行く間に、キャップの男は中から開けられたドアに迎え入れられて室内に吸い込まれていった。その時、男がキャップを外してその素顔が顕わになる。
「木野哲郎?」
 思わず大きくなりそうな声を、慌てて俺は自分の中だけに押し留める。
 その横顔はあまりにも有名な人物のものだった。
木野哲郎と言えば、今若手で最も売れている俳優の内の一人である。しかしどうしてそんな有名人が真月の部屋に?
 しかしあれは俺の見間違いだったのかもしれない。自分の部屋に戻った後もそんなことが頭をぐるぐると回り、壁一枚隔てた隣室という異空間で繰り広げられている「何事か」が、俺の思考の隅から離れてはくれなかった。
 そもそも、中途半端に情報を知っているから余計気になってしまうのだ。しかし見てしまったものを今更記憶から消去することができない以上、俺は自分の好奇心と闘うしかない。
 こういう状況の場合、余計なことに足を突っ込むとろくなことが無い。他人とは距離を持って接するのが俺のポリシーなのだ、だから気にしない、気にしない。
「って、気になるわー!」
 まだ書きかけの譜面を上に散乱させたまま、俺はピアノの鍵盤を指で弾いた。
「参ったな、締め切りが近いのに」
 大きく息を吸い込んで吐き出すと、ほんの少しだけ頭がすっきりとしたような気がした。そして俺の指は自然とある曲を弾きだす。
「SORA(空)」。俺が初めて作った曲であり、自分のスキルアップと共に編曲を重ねて変化し続けてきた曲。そして千尋のバンド「カイン」がインディーズ時代に歌っていた曲でもある。
 それなりに思い入れのある曲なので、集中したい時、何かの節目なんかにいつも自然と弾きたくなってしまう曲なのだ。
 そうしてしばらく弾いてからのことだった。どこかから声が聞こえたような気がしてふとピアノの手を止める。
それは気のせいではなかったらしく、ベランダの窓を見るとそこが少しだけ開いていた。これではせっかくの防音効果も全く意味が無い。
 既に夜の八時を過ぎたあたりだったので騒音の抗議を覚悟してベランダに出ると、隣の部屋との仕切り板を越えて、テレビで良く見知った顔が笑顔で言った。
「二階堂さん、こちらでお茶でもどうですか?」
 その声も容姿も、やはりそれは紛れも無く俳優、木野哲郎本人に相違なかったのである。


 俺は一体ここで何をしているのだろうか。
「あ、どうぞどうぞ。今お茶淹れますから、そこに座ってて下さい」
 ニコニコしながらそう言うと、木野哲郎はキッチンの方へ消えて行く。俺は彼が指し示した一人掛けのソファーに素直に腰掛けると、まじまじと部屋の中を眺めやった。
 インテリアもモノトーンの家具や小物で統一されていて、すっきりとした普通の部屋だ。若い女性の部屋にしてはかなり味気無いとも言えるが。 
 ここで悪いことが行われていたような雰囲気はやはり感じられないのであるが……。
「哲ちゃん、私もお茶ちょうだい」
「はいはい」
 向かい側の長いソファーに腰掛けた真月は、全くリラックスした様子で白猫のルナを抱いてテレビを見ていた。
 ここは一体誰の部屋だ。どうして家主が何もせずにテレビを観ていて、しかも有名人が女子高生の言うなりになって茶を淹れている。
 しかし木野哲郎と言えば、俺の記憶が正しければもっと男くさい正統派二枚目俳優だったような気がするのだが、今そこにいる人物はどうも少し雰囲気が違うようだ。
 緑茶と煎餅を乗せたトレーを持ってリビングに戻ってきた木野哲郎を不思議そうに眺めている俺を見て、真月が可笑しそうに言った。
「哲ちゃんはね、仕事とプライベートじゃまるっきり人格違うの。仕事中はカッコいいのに、普段はこんな感じでジジくさくなっちゃうのよね」
「あ、そう言えばまだ自己紹介してませんでしたね、木野哲朗です。今『僕の恋人』っていうドラマに出てますので良かったら見て下さい」
「音で聞くと『きのてつろう』で同じだけど、最後の『ろう』が本名と芸名で違うのよ。そうした方が雰囲気に合ってるでしょ?」 
 宙に指で本名の「朗」と芸名の「郎」の文字を書きながら、真月はそう決めたのは自分なのだと少し自慢げに言った。まあそんな些細なことは、目の前の大きな衝撃に比べれば取るに足りない情報なのであるが。
 真月の隣に座ってのほほんと緑茶を幸せそうに啜っている青年が言うそのドラマとは、友情と愛に熱く生きる悩み多き青年が主人公の話である。確か今クールのドラマの中ではかなり視聴率が高いはずだ。
 そしてその熱い主人公を、この木野哲朗が演じているのである。ホントかよ。 
「いやー。昔から児童劇団に入ってまして、いつの間にか自然と切り替わるようになってたみたいです。僕は特に自覚症状は無いんですけど、そんなに違います?」
「ん、ああ。いや、まあ」
 本人を目の前にしてどう答えたものだか答えを濁す俺に、哲朗は名前の通り朗らかに笑うのだった。
「それでですね、さっきの曲なんですが」
「は?」
「さっきあんたがピアノで弾いてたやつよ、二階堂」
「こら、二階堂さん、だろ」
「いいわよねえ、別に。ねえ二階堂?」
 別に良くも無かったが、こいつに「さん」付けで呼ばれるのもうそ寒いような気がしたので仕方なしに頷いてやる。
「あの曲が何か?」
「ええ。その曲の名前と、できれば誰の曲か知っていれば教えていただきたくて」
「SORA(空)」はカインが歌っていた曲だが、デビューする前のもので実はどのアルバムにも入っていない。インディーズ時代からの熱烈なファンならもしかして自分で録音して持っているかもしれないが、一般的には殆ど知られていない曲なのだ。
「カインって言うバンドの、デビュー前の曲なんだ」
 さり気なさを装うように短く答える俺に、真月が少し身を乗り出しながら尋ねる。
「カインって、あの有名なカインよね。じゃあ、カインの誰かが作った曲なの?」
 一瞬言葉に詰まったが、とりあえず「いいや」とだけ答えた。
しかし一体何にこだわっているのか、真月は更に突っ込んで聞いてくるのである。
「じゃあ誰? 作曲者は誰、有名な人?」
 有名かどうかは自分じゃよく分からないが、とりあえず作詞作曲を本業にしている人間です。と自己紹介するかどうか悩んだその時、哲朗が真月の足らない会話の情報を補足した。
「四年ほど前にこの子が偶然ラジオでその曲を聞いたらしいんですけど、それが始めの方は集中して聞いていなかったせいで誰が歌ってたか名前を聞きそびれてしまったそうなんですよ」
「誰が歌ってたかが問題なら、もうカインって分かったんだから解決したじゃないか」
「違うのよ、その時は作曲した本人がラジオで即興で歌ってたの。まあ上手いかどうかって言われたら微妙なところだったんだけど」
「悪かったな、歌うのは微妙だって事くらい昔から知ってる」
「え?」
「ああ、いや何でもない」
 俺はその「四年前」という過去を慌てて振り返る。
 表のメディアに全く顔を出さないようにしている俺だが、確かにたった一度だけラジオに出演させられたときがあったのだ。
 まだ今のようにまとまった収入が得られなかった当時、俺は迂闊にも千尋に金を借りたことがあった。その金額は五万円とそう大した額では無かったのだが、その返済が滞っていた俺に奴はこう言ったのである。
 今日のラジオのゲストがドタキャンして困っている。だからその借金を今すぐ返済できないなら、代わりにラジオに出てもらう、と。
 今考えればこんなに都合良くゲストがドタキャンすることなど考えられないし、仮にあったとしても代行役は他にもたくさん居たはずだ。それにカインのメンバーだけで進行したって問題は無かったはずである。
 そう、俺は千尋にはめられたのだ。たった五万の金で。しかも放送中に「微妙な」生歌まで歌わされて。
何故よりによってそのたった一回の放送を覚えている人間がいるんだ、しかも同じマンションに。
 いよいよ名乗り辛くなった状況に、とりあえず俺はこう答えた。
「作ったのは皆倉リュウって作曲家だ…………確か」
 自分で言っていて胡散臭いことこの上ない答え方だが、これ以上どう言えば良いのか思い浮かばなかった。しかし真月は特に気に留める様子も無く、ただ嬉しそうに黙って頷く。
 それを見て内心首を捻らずにはいられなかった。あのラジオの一件は既に俺の中では抹殺されている記憶なので詳しいことは覚えていないのだが、そんなに特別なことでもあったのだろうか。
「で、何でその曲を作った人間を知りたかったんだ?」
 真月は目を見開きその大きな瞳で俺をじっと見、そして言った。
「何であんたに言わなきゃいけないのよ」
 ああそうかい。
 言いたいことなら山ほどあったが、その気力すら奪う小娘の一撃に俺は黙って眉間に皺を寄せた。
 しばらくすると真月はルナと一緒に奥の部屋へ行ってしまい、後には二人の男がリビングに残される。
何となくのんびりとした雰囲気の中、俺は哲朗に尋ねた。
「真月はこの部屋に一人で住んでるって聞いたけど」
「ええ、そうなんですよ」
 そう答える哲朗の顔は苦笑気味である。
「本当は別で自宅があるんですけど、どうしてもそこに住むのが嫌だって出てきちゃったんです。本当に困った子で」
 溜め息をつきながら彼が説明するところによると、真月の母は既に他界しており実の父は仕事で殆どが海外暮らし。
 そして滅多に家に帰って来ない父と娘の仲は、あまりよろしくないらしい。
 真月はある日突然家中の家財道具一切合財を売り払い、マンションを借りて住み始めたのだという。全く不可解な話である。
「それにしてもよく未成年にマンションが借りられたな」
「あ、それはうちの父が保証人になってくれたので何とか」
 さらりと答える哲朗を見て、俺は今更ながらにふと思った。そう言えばこの二人の関係は何なのだろうかと。
始めは恋人なのかとも思ったが、どちらかと言えば兄妹のような雰囲気のが強いようにも感じられる。
 それが顔にも出ていたらしく、哲朗は柔らかな笑顔を浮かべて俺を見た。
「真月は僕の母方の従兄弟なんです。家も近かったからよくうちで彼女を預かることも多かったし、まあ殆ど兄妹みたいなものですね」
 なるほど、この美貌は血の成せる業なのか。
ここにいる木野哲朗は確かに天然な雰囲気の青年であるが、その外観は千尋とはまた違った爽やかな印象を与える美形だった。真月はハーフっぽい外観なのでまた異なるタイプなのだが、この二人が目の前に揃っていたら誰でも一度は息を呑んでしまうことは間違いないだろう。この性格を知らなければ、の話だが。
 哲朗の話を聞いて更に驚いたことには、真月は実家を出てこの方、父嫌いが高じて父の仕送り金にも手をつけなくなったということだった。
 学費はどうなっている、生活費は、ここの家賃は? 
「学費はもう全額払い済みなんだそうです。それと真月は実は小説を書いてまして、ええっと二月御影っていう名前だったかな。それの収入も少しはあるし、後はお母さんが残してくれた自分名義の貯金と、家財道具を売ったお金で」
 父親の仕送り金には手を付けたくないくせに、父の金で買った家財道具の売上金は何故OKなのか。
それは「私が売ったんだから私の稼ぎで何が悪い」という素晴らしく自己中心な考え方に基づく行動心理らしい。
「小説家?」
「はい、小説家です」
 それで合点がいった。この部屋に入るのを見かけたスーツ姿の男、あれは出版社の人間だったのだ。
「でもなんで小説家なんだ。手っ取り早く生活費を稼ぐならあんたと同じで女優か、それともモデルでもした方がよっぽど早いだろ」
 俺の疑問に哲朗は少し眉尻を下げながら小さく息を漏らす。
「彼女の母親はドイツ人でして、まああの外見を見れば何となく分かると思うんですけれど。それで小さい頃からよく苛められてたみたいなんです」
 だから自分の外観を利用すること、または多くの好奇の目に晒される事を彼女はあまり好まないらしい。
 昔からあまり友達もおらず本ばかり読んでいたから、自然と小説家になることを思い立ったのだそうだ。それで実際なれたのだから大したものだが。
 そしてそこで、俺はあることに思い至って眉をしかめた。
「もしかして真月が色々な男と一緒にいるのは……」
「あれ、そこまで知ってらっしゃったんですか。さすがだなあ、二階堂さん」
 何がどう「さすが」なのかよく分からないが、偶然が重なった結果見てしまったのだから仕方が無い。
「真月はあまり人付き合いが上手じゃなくて、始めはどうにも小説にリアリティーが無かったんですよ。ですから、分からないことは当事者に聞けばいいじゃないかと」
 つまり人付き合い=恋愛経験の乏しい真月が情報を得る為にしたこと。
 それは様々なシチュエーションに分けて筋書き通りに行動を起こし、その上で相手がどのような反応をするかを見ることであった。
 俺が曲のために女友達と一緒にいる理由と同じ、いやそれ以上である。
やり過ぎだ、手が込み過ぎだ、はっきり言ってふざけているとしか思えない。
「演技と化粧の仕方は僕が教えたんですよ」
 含みの無い穏やかな笑みでそう言われても困るのだが。
 真月に比べれば遥かに常識人に見える哲朗も、その実は頭のネジが二、三本は外れているのではないかと俺は思った。
「哲ちゃん余計な事まで喋らないでよ」
 別室に消えていた真月が再びリビングにやって来ると、眉根を寄せ、猫を抱いたまま仁王立ちして彼女はそう言う。
「いいじゃないか、半分ばれてたようなものなんだし。変に誤解されたままでいるよりはずっといいだろう?」
「そういう問題じゃないの、もう」
 しかし口で言うほど怒っているわけでも無さそうで、猫を一度床に放すとまたソファーに腰掛ける。
「そうそう、カインって言えば二階堂の前に住んでた人が、チヒロによく似たお兄さんだったの」
 思い出したように真月は首を傾げ、そしてくすくす笑った。
「お姉さん言葉を使う変な人だったんだけど、面白い人だったわ。滅多に見かけなかったけど、そう言えばいつの間に引っ越したんだろ?」
 何も疑問に思わない真月の顔を見ながら、俺は内心焦っているのを必死で隠していた。
 千尋の迂闊者め、お前バレバレじゃないか。しかもこいつの口ぶりからすると、素のオカマ言葉でこの二人は会話したことがあるらしい。
 チヒロの素顔は極秘ではなかったのか。あいつは一体何を考えてるんだ。
「ねえ、その『SORA(空)』って曲はCDとかになってるのよね?」
「なってない」
「えー、そんなあ」
 あからさまに落胆した顔を見せられると、何だか俺が悪いような気になってくる。隣に住んでたオカマに歌ってもらえば良かったなとも言ってやりたかったが、さすがにそれは大事になりそうなので黙っておいた。
「楽譜ならあるから、それをやるよ」
 しかしせっかく俺が厚意から言ってやった言葉に真月は余り良い表情を返さない。
「私楽譜読めないもの」
「真月、歌詞が分かるだけでもありがたいと思わなきゃ」
 そうそう、ありがたく思ってもらいたいものだ。と俺が心のうちで頷いたその時、真月がおもむろに両手を叩く。
「そうだ、二階堂がピアノで弾いて録音してよ」
「何で俺が」
「いいじゃない、二階堂はピアニストか何かなんでしょ?」
 部屋でピアノを弾いていたことで、真月は俺の職業を安直に「ピアニスト」と連想したらしい。いや、この際安直発想大歓迎というところなのだが
「そうだな、そんなもんだ」
 どう答えようか。そう考える前に口の方がするりと答えてしまっていた。
 そして俺は心に誓う。今日から俺は「ピアニスト」。こいつらの前では何があっても「ピアニスト」。
 結局俺があやふやな態度をとっている間に録音の約束は了承したことにされてしまい、真月は機嫌良さそうにテレビのリモコンを手に取った。
 スイッチが押され、先ほど彼女が別室に行く前に消されたリビングのテレビは再び音声と共にその画面に映像を浮かび上がらせる。
『――――デパートで開催が予定されている如月偟陽の写真展の準備が……』
 ちょうど電源を入れた時に映ったニュース番組のキャスターの言葉に、俺は思わず振り返った。
「如月偟陽(きさらぎ こうよう)?」
 来週から大手デパートで写真展を開くというその写真家は、世界的にも有名な戦場カメラマンである。
 実を言えば俺はかつて彼に感化されて戦場カメラマンを志したことがあり、そしてある事情によってあっけなくその夢を諦めたという過去があった。
 興味津々でそのニュースを見ていると、突然真月が立ち上がる。
「ばっかみたい!」
「は?」
 呆気にとられる俺を一瞥すると再びテレビを消し、少女は大層憤慨しながらまた別室へ消えていってしまった。
 今の今まで上機嫌だったはずなのに。
 一体彼女が何を怒っているのか、俺にはさっぱり分からなかった。

 真月の部屋からの帰り際、ドアの外まで見送ってくれた哲朗が呼びかけに振り向く。
「演技でもなければ真月はあんなふうにしか喋れない子なので誤解されやすいんですけど、本当はいい子なんです」
 まあ、確かに喋り方は丁寧ではないな、と小さく頷いた。
「真月も二階堂さんのこと気に入っているみたいだし、もし良かったら時々様子を見てやって下さい。僕も仕事が忙しくて、なかなかこっちまで来れない事が多くて」
 それは大きな誤解だ。目を見開きもの言いたげな俺の顔を見て、哲朗は笑う。
「まあ、そのうち分かると思いますけど」
 分からないままでいい、と俺は心の中で溜め息をつき、何故か随分と疲れた足取りで俺は自分の部屋に帰って行ったのだった。
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