月と太陽の詩(うた)

第三話、突然の訪問者


 父親と母親にそれぞれ手を繋がれて歩く子供。そんなありふれた光景が昔の俺は大嫌いだった。
 大きな家にはいつも二つ年上の兄と、通いの家政婦が一人いるだけ。学校から帰るとガランとした室内はやけに広く感じられて、しかもそれが実際に広いものだから虚しさは幼心にかなりダメージが大きかった。
 成長していくうちにいつの間にか俺の周囲にはいつも数人の人間がいるようになり、たくさんの人間がやって来て、そして去って行った。
 男友達はそうでもなかったが、何故か女の友達は皆口を揃えて去り際にこう言ったものである。「あんたは一体誰が好きなのか」と。
 それなりにその相手のことを気に入っていて、だから一緒にいたつもりだったのに、俺は気付けばいつも独りだ。
 幼い頃から独りでいることには慣れていたからもう何とも思わないが、よくよく考えてみれば俺は何てつまらない人間なんだろうと小さな笑いが込み上げてくる。
 結局今も昔も変わらず交流があるのは、何を言っても動じない千尋一人だけである。
 あの少女、如月真月を見ていると、過去の自分が記憶の蓋をこじ開けて這いずり出てくるのを俺は心のどこかで感じていた。
 あれは危険だ。今の「俺」という存在を大きく揺るがす、とんでもないファクターになりかねない予感がする。
 だから今までどおりに他人に深入りするのは避け、俺は俺のテリトリーを守って生きて行く。それが一番良いことなのだ。
 俺は目の前に見える茶色の長い髪を見つめながら、そう思った。
「出てけーっ!」
「――――ふぁっ?」
 突然耳に飛び込んで来た大声に、一体何が起こったのか分からないまま条件反射で飛び起きる。寝ぼけた頭で周囲を見回せばそこは寝室、俺が使っている布団に枕。
――そうだ、俺は自室で寝ていたのだ。
 何ださっきのは気のせいかと再び布団に潜り込むと、今度はとんでもない振動と共に物騒なセリフが聞こえてきた。
「とっとと帰らないと警察呼ぶわよ、二度と顔を見せるな!」
 目蓋を閉じて、布団を頭から被ったまま俺は考える。おかしい。防音効果のある部屋なのにどうしてこうも隣の怒声が筒抜けなんだ。
 しばらくはこのまま再び夢の世界へ戻ろうと努力を続けた俺だったが、結局外の事が気になって寝付くことが出来ない。
「くそ、俺は朝方まで仕事してたんだぞ。徹夜明けなんだぞ」
 サイドテーブルの上の時計を見れば、まだ午前の十時前だった。まだ布団に入ってから二時間も寝ていないことになる。
「勘弁してくれ……」
 ふと見上げた窓にはカーテンがわずかな風にそよいで揺れていた。なるほど、また俺は窓を開けっぱなしにしていたらしい。
 結局俺は寝ることを諦め、玄関の向こうで起こっている何ごとかの原因究明に乗り出す。とっとと問題を片付けて、今度こそ心置きなく入眠に至るのだ。
 部屋を区切る寝室のドアは開けたままになっていたので、起き上がって十歩も歩かないうちに玄関のドアに辿り着く。
 そしてドアノブに手をかけたちょうどその時、呼び鈴の音が室内に鳴り響いた。
「何だ、ウチか?」
 まだ少しぼおっとする頭でいたせいか、一瞬それが隣室の呼び鈴かと勘違していた。しかしよくよく聞いてみればウチのインターホンである。
 それに気付くのが遅れたせいで、俺は覗き穴で外を確認する間もなくドアを開けてしまった。そしてそこに立っていたのは、長袖のチェックのシャツに黒のTシャツ、くたびれたジーンズを穿いた中年の男性である。
「……誰?」
 思い切り眉をしかめながら見たその顔は、下顎全面を黒い髭が覆い隠し、その右頬には斜めに大きな傷跡が残っていた。
『相手にするな、二階堂!』
 閉まったままの隣室から聞こえてきた怒声を背中に、その男性はニッと笑うと俺を真っ直ぐ見上げる。
「上がってもいいかね、二階堂君とやら」
 どうして? と聞き返す暇も無く、その男はずかずかと俺の部屋に上がり込んで来たのであった。


「ああ。俺はコーヒー、砂糖とミルク大目だから」
 リビングのソファーにふんぞり返ったまま、熊のように髭を蓄えて頬に傷を持つその男は、首だけを捻って斜め後方にいるキッチンの俺を振り返る。
 年の頃は見たところ四十代に入ったくらいだろうか。しかしあの髭と頬の傷といい、その大きな態度といい、妙に存在感のある人物であることは確かだ。
 そしてあの親父の顔は俺もどこかで見た事があるような気がするのだが、いまいちそれがどこでだったかが思い出せなかった。
 それにしてもどうして俺は、半分不法侵入のような人物の為にコーヒーを淹れてやっているのだろうか。
 俺は徹夜だったんだぞ、まだ二時間も寝てないんだぞ。こういう時は夕方まで寝て、夜から遊びに行くっていうのがいつものパターンなのに
「なあ、お茶菓子は無いのかー」
「ありません」
 本当にどうして俺は……。
 ドリップコーヒーの包装を力任せに破りながら、俺は小さく溜め息をついた。
 コーヒーの入った二つのカップを持ち、俺はティースプーンが入った方を男に差し出す。貰い物のシュガースティックがこんな所で活躍するとは思わなかったと思いつつ、それを二本テーブルに置いた。
 しかしコーヒーの芳香を楽しむのもそこそこに、熊男は不満気に俺を見る。
「ミルクは?」
「俺はブラックしか飲まないから置いてないんですよ、すみませんね」
「何だ、それじゃ女を連れ込んだ時に困るだろ」
 俺はわずかに眉根をしかめながら立ったままコーヒーを一口くちに含む。
 じゃあ何か、世の中の女はみんな砂糖とミルクを入れなければコーヒーが飲めないとでも言うのか。そもそも俺は自分の部屋に女性を入れない主義なのだから、そんな気遣いは無用なことなのだ。
「それで、あなたは何者なんですか?」
「如月偟陽と言う、写真家だ」
 カップから立つ湯気を顎下に感じながら、一瞬俺は自分の耳を疑う。
「如月偟陽って、あの?」
「何だ、知っててくれたのか?」
 そう人懐こそうに破顔する顔を見て、俺は呆然とした。
 写真家の如月偟陽とは俺が高校生の時に憧れていた写真家である。それなのにどうして気付かなかったのだろうか。
 しかし俺が昔から持っている写真集はもう十年以上前のものだし、そこに載っていた本人の写真には顔に傷も付いておらず、熊のような髭も無い。おまけに全体的に恰幅が良くなっているようなのでその印象はかなり違っていた。
 っていうか変わりすぎだろう。写真で見た如月偟陽は確か見目の良い男性で、こんな胡散臭い親父じゃなかったはずだ。
「いや、でもなあ……」
 しかしよくよく見てみれば、ぼさぼさの髪や手入れのされていない真っ黒な髭、その向こうに見える目鼻立ちは意外にも整った造りで、過去の彼の面影をしっかりと残していることに俺は気付く。
「本物だ……」
 いや本物だとしても、どうしてその如月偟陽がうちにいきなり上がり込んでくるのだろう。俺がそう思った時には既に向こうの方から喋り出していた。
「いやー、久しぶりに家に帰ったら娘もいないし、家の中がすっからかんになってたから驚いてなあ」
 そう言いながら「はっはっは」と偟陽は笑う。俺はそれを見て、真月が自宅を出る時に家財道具一切合財を売り払ったということを思い出した。
 なるほど、するとこの二人は親子なのか。
「俺のコレクションの『ライカのセット』なんかも綺麗さっぱり無くなってたのはちと惜しい気もするが、まあ無くなっちまったもんは仕方が無い」
 ちょっと待て。ライカのセットと言えば、普通五十万は下らない代物だぞ。限定商品なら軽く百万を越す高級カメラじゃないか。
 そしてその道のプロが自分で「コレクション」と言うからには、それなりの数があったはずである。真月の「売り上げ」が一体どのくらいなのか想像すると、何やら恐ろしいものを感じてしまった。
 しかし偟陽は一向にお気楽な様子で笑いながら、最後にはこう言ったものである。
「さすが俺の娘だ、やることが豪快でいい!」
 いや、だからそんなことで膝を叩きながら感心するのもどうかと思うのだが。
 タイプは違えどもさすがに親子。何とも強い個性を持ったキャラはやはり遺伝なのであろうかと、妙に感心させられてしまった。
「で、今日は娘さんを訪ねて来たって訳ですか」
 俺が昔憧れていた偟陽像とはえらい違いだ。そう思いながら呆れ顔で言うと、偟陽は大仰に頷く。
「哲朗が教えてくれたんだ、ついでに君のこともな」
「は?」
「いや、どうせ真月は部屋に入れてくれないだろうから『お隣の二階堂さんを訪ねるといい』って言われたぞ?」
「どうしてそこで俺なんですか」
「さあ」
 哲朗は一見善良そうな青年に見えて、ただネジが飛んでいるだけの人間では無かったらしい。あれは笑顔の下で何を考えているのか分からない狸だ。
 それにしてもまだ高校生の娘なのだから、俺の名前が出た時点で普通は父親として警戒しても良さそうなものである。
 しかしこの余裕は何なのだろう、さほど娘に関心が無いという事なのか。いや、しかし関心が無かったらこんなとこまで自分でやって来るはずも無いし。
 しかし俺が視線を戻すと偟陽はいつの間にかソファーから立ち上がり、リビングの隅に置いてあるピアノに向かって歩き出していた。全く、じっとしてない人だな。
「君は音楽を?」
「あ、ええ。一応そのようなものです」
「音楽も写真も、皆同じ芸術の一つだ。いつも自分の感性がダイレクトに試される真剣勝負だな」
 そう言う偟陽の顔にはさっきまでの笑顔は無かった。
代わりにギラギラと何か獲物を狙うかのような強い眼差しが俺をじっと見つめ、思わずはっとさせられる。
 彼は戦場カメラマンだ。そして彼の表現する世界は、戦争で傷つき倒れる人々の絶望などではなかった。
 その地に生きる人々のわずかな光、それを見出して生々しいまでの「生」を描き出すのである。そしてそれは当時高校生だった俺の脳を震わし、魂を震わせた。両親に低次元な反発を繰り返していた自分の小ささを思い知らされた。
 そうだこの目だ。これこそが如月偟陽なのだと俺は息を飲む。
「まあ、ところで一つ頼みごとがあるんだが」
 急に偟陽は表情を崩すと、途端にさっきまでの気迫はどこかへと消え失せてしまう。その落差に俺は目をしばたかせながら、思わず「はあ」と気の抜けた返事を返した。
 彼はポケットをまさぐると、二枚の長方形の紙を取り出す。
「今度やる俺の写真展のチケットなんだが、君から真月に渡しておいてくれないか」
「いや、俺が渡すより直接の方が」
「俺が渡したらその場で破り捨てるよ、はっはっは」
 それは十分に予想がつく展開なのであるが、どうしてこの人はこうも簡単に笑い飛ばすことができるのだろうか。鈍感なのか、それとも器の差なのか。
「俺は娘さんとはそれほど親しいわけでもありませんし、哲朗くんに渡した方が確実だと思いますよ」
「それがな、哲朗は海外ロケで今朝出発しちまってしばらく帰ってこないんだと。せっかく久しぶりにあいつで遊ぼうと思ってたのに残念だなあ」
 あいつ「と」ではなく、敢えてあいつ「で」なのか。もしかしてあいつ、久しぶりに帰国する叔父を避ける為に海外ロケの予定を組んだわけじゃないよな。
「どちらにしろ、俺は押し付けられたってわけか……」
「ん、何か言ったか?」
「いえ、何も」
 今更どうこうすることもできないし。俺はそう溜め息をつくと、偟陽に手を差し出す。
「とりあえず受け取っておきますけど、真月が行くかどうかまでは責任持てませんよ」
「ああ、いいんだ。その時は君だけでも来るといい。面白いものが見られるぞ」
「面白いもの?」
 彼は黙ったまま頷いた。それが何であるかは今教えてくれる気は無さそうである。
「立ち話も何だし座って話しましょう、如月さん」
 俺はそう促すと既に冷めてしまったコーヒーをテーブルから取り上げ、淹れ直すためにキッチンへ向かうのであった。


 結局その後俺と偟陽は色々な話をし、気付けば日も暮れる頃になっていた。
 彼は夕方から予定があったらしく時間に気付くと慌てて帰っていったが、まだまだ自分の武勇伝や失敗談などを語るネタが底をつく気配は無さそうで、それはそれですごい事なのだと俺は思う。
 そして俺がこれだけ気さくに年長者と会話をしたのは、恐らく初めてのことだろう。彼の後ろ姿を玄関先で見送りながら、俺はもう一つの背中を思い出していた。
 決して自分を振り返らない背中を。
 かつて見上げたその背筋を伸ばしたその後ろ姿からは、伝わってくるものは何も無かった。
 そして前だけを見つめているその姿勢は、もしかしたら偟陽と同じなのかもしれない。人に与えるその印象が真逆である事は、不思議と言えば不思議であったが。
 偟陽が部屋を去った後、何となく遊びに行く気にもなれずテレビを見ながら時間を潰していると、既に暗くなった窓ガラスの向こうから何かが引っ掻くような音がした。 
 カーテンを開けるとそこにいたのは白い美猫。ちょこんとお座りをしてこちらを見つめ、俺が窓を開けると嬉しそうに一声鳴いて部屋に入ってくるのだった。
「何だお前、またベランダを通ってこっちに来たのか」
 猫を抱きかかえると俺はサンダルを履いて外に出る。そしてその時、やっと仕切り版の向こう側にはみ出している仏頂面に気付き、俺は思わず口元を緩ませた。
「もう最近は涼しいからな、そんなとこに突っ立ってると風邪ひくぞ」
「あの親父、何か変なこと言ってなかった?」
「気になるなら追い返さなきゃ良かっただろ」
「別に気になんてならないわよ」
 じゃあどうして今聞いてくるんだ。そう口にしたら向こうから何か飛んでくる予感がしたので、俺は黙ったまま少女を見やる。
 月明かりに照らされた彼女の横顔は、大人と子供どちらともつかない雰囲気を醸し出し、その中間的な印象が神秘的なものに感じられた。
そしてそう見えるのは、どれだけ外見が大人びていても彼女の内面がまだ成長段階にあるせいなのだと思う。
「お前の親父、日本には今月いっぱいしかいられないって」
 俺の言葉に真月は一瞬だけ俺の方を向き、そしてすぐに顔を逸らして黙り込んだ。
少しの沈黙の後に、「そう」と短く答えたのみである。
 この少女もまた、父親の姿を追いかけ、そして傷ついていた。
 かつての自分のように。
 だからだろうか、いつもよりもずっと俺の口は不必要に饒舌になってしまうのかもしれない。
「何をそう毛嫌いしているのか知らないけど、いい親父さんじゃないか。もっと話してみればきっと」
 あの人ならばきっと俺とは違う関係を築けるはずだ。そう思って俺は口にしたのだが、真月にとっては大きなお世話だったようである。
「あんたに何が分かるのよ!」
 と大層大きな声で怒鳴られ、俺はそのまま声を無くしてしまった。
「ママはね、いつもあいつを待ってたのよ。いくら待っても帰ってこないあいつを」
 悔しそうに唇を噛み締め、真月は顔を歪める。
「でもママはもういない。私を残していなくなってしまった」
 以前哲朗は、如月婦人はドイツ人だと言っていた。そして既に亡くなったとも。
 真月の話によれば彼女の母親は、偟陽が若い頃一人で世界を放浪している時にドイツで出会ったのだという。
 彼女は何と貴族のお嬢様だったそうで、まだ無名の写真家崩れとの恋が認められるはずも無く、結果として手に手を携えて日本まで駆け落ちをしたのだそうだ。
 どうも今の偟陽の姿からは想像のつき難いラブロマンスなのだが、彼は確かに魅力的な人間に違いない。同性の俺から見てもかなり興味深い人物だし、女性から見ればそれは計り知れない魅力に感じられたのだろう。
 そして容姿についても熊のような髭と派手な顔の傷を除けば、彼はそれなりに整った顔なのである。何しろ真月の父親だし、木野哲朗と血の繋がった叔父なのだから。
 しかし日本語が不自由な彼女は、日本での暮らしにかなり苦痛を感じていたようだ。
 頼る人物も無く、夫も滅多に帰らず、次第に心が壊れていった挙句に何も食べ物を受け付けなくなって身体までもが衰弱していった。
「でも分かる? 最期にママが言ったのは私の名前じゃ無かったわ、あいつの名前だったのよ」
 コンクリートの柵に顔を突っ伏し、真月は声を掠れさせながらそう呟く。
「病院のベッドで枯れ木みたいに痩せ細ったママの手を握っていたのは私だったのに。あいつは日本にもいなくて、最後まで見舞いになんて来なかったのに」
 それなのに母親が死の間際まで求めて、待ち続けていたものは娘の自分では無く父だった。そしてその失望感は果てしなく大きい。
 真月はどうして父の偟陽にあれ程までに悪態をつくのか、そしてその原因は母親の事だけでは無いのだろう。
 寂しかったのだ。
 母親が見ているのは父の偟陽。偟陽が見ているのは仕事。
では真月は? 真月自身のことは一体誰が見つめてくれるというのか。
 大人びた外見のその中に、膝を抱えて未だに泣き続けている子供が見えるような気がした。この少女は表面で涙を流さない分だけ周囲に怒りをぶつけ、そして自分の心を守っているのである。
 そう考えた瞬間俺は自分の奥底の、蓋をしたままだった場所から恨みがましい目をした昔の自分が這いずり出て来て、自分の心臓を鷲づかみにされたような気がした。
 彼女を見ているのが苦痛だった。
 自分の傷を抉られているようで、苦痛以外の何ものでもなかった。
 しかし俺は速まる動悸を静めるために一つ深呼吸をし、気持ちを整える。大丈夫だ、俺は今一人で生きている。そう言い聞かせる。
 そうしたら少しだけ自分に余裕が生まれて、再び真月を正面から見た。
 あれはかつての俺ではない。しかし今の俺だからこそあの少女に何かできるのではないか、と余計な事を考えてしまう。
「写真展行ってみれば? ……一緒に行ってやるから」
 俺は今日偟陽と直接会って、話して彼の一面に触れた。だからこそ、あの人は娘が思い込んでるほど酷い人間では無いと思った。
 あの人は俺の親父とは違うのだから。
 真月はゆっくり顔を上げると俺を見た。「何で?」とでも言いたそうな顔でその細い首を傾げる。
 いやそんな顔をされても、俺も自分で自分が分からないし。
 俺の腕の中にずっと静かに収まっていたルナが不意に動き出すと、猫は優雅な軌跡を描いて鈴の音と共に床に着地した。そしてベランダを仕切る板の下を通って飼い主の下へと戻って行く。
 真月は一度俺の視界から消えると、仕切り板の向こうから小さい声で言った。
「仕方ないから、行ってあげてもいいわよ」
「おう」
 また一つチリンと鈴の音が聞こえる。ルナが真月に抱きかかえられたのだろう。
 今日は夜にしてはとても明るい。それは東の空に浮んでいる、あのまん丸な月のおかげだった。
「満月か。月なんて久しぶりに見るけど、綺麗なもんだな」
「私は月なんて嫌い」
 いつの間にかまたコンクリート柵にもたれて顔を覗かせていた真月が、真っ直ぐに空の月を睨みつけながらそう言った。
「何で。お前も月だろ」
「だからよ。月って自分じゃ光らないでしょ、太陽の光を反射してるだけなの」
 真月と偟陽。その名前が象徴する天体の関係が、少女の心に自分の境遇を彷彿とさせるのだろうか。
「今日は喋り過ぎた、もう寝るわ」
「あ、ああ」
 黙ったまま突っ立っている俺とは顔を合わせないようにして、真月は自分の部屋に戻っていってしまった。
 そして俺は一人ベランダの柵にもたれたまま、今もこうして何とはなしに煌々と光を闇夜に降り注ぐ月を見上げている。
「何やってんだ、俺」
 タバコに火を点けてぼんやりとしながら、何故か俺は原因不明の自己嫌悪に苛まれるのであった。


 五〇二号室のインターホンを押してみる。
ピッタリ閉じられたドアは何の気配も感じられず、返事も当然返ってこなかった。
 だからもう一回押してみる。……やはり反応が無い。
 少しムッとしたので、今度は連続で何度も押してやった。これで逃げれば立派な「ピンポンダッシュだな」などと頭の隅で思ってしまう自分が何となくおかしい。
『うるさいわね、ちゃんと聞こえてるわよ!』
 やっとインターホン越しに怒鳴り声が返ってきたので、俺はそれに向かって答えた。
「じゃあ始めから出ろよ」
『だから、気が変わったって言ってるでしょ』
「ふーん、そうか。やっぱり直前になって怖くなったんだろ。それじゃあ仕方ないな」
 そう言った後の返事はもう返って来なかった。そして代わりにドアの向こうから威勢良く廊下を歩いてくる音が聞こえ、目の前のドアが開かれる。
「誰が怖がってるですって?」
 開いたドアを再び閉じられないように手で押さえて足を一歩踏み出すと、俺は小さく笑った。
「じゃあ行くんだ」
「う……」
「俺は別にどっちでもいいぞ。お前に付き合ったせいでもう期限ギリギリになっちまったんだから、どうするか早く決めてくれ」
「分かったわよ、行けばいいんでしょ、行けば。もうっ!」
 そして形の良い眉を吊り上げたまま、真月はドンと一発俺の胸をこぶしで叩いて悔しがった。
 あの月夜の下で一度は「行く」と言った割に、あれから真月はずるずると機会を先延ばしにして結局今日が今月最後の休日である。
 写真展自体はまだひと月続けられるのだが、偟陽だけは先に仕事で日本を出てしまうため、学生である真月が父親に会えるのは今日が最終日といっても過言ではなかった。
 始めは面倒くさいから真月を置いて一人で見に行こうとも思ったが、たまに見かける真月の表情は何だかすっきりしないし、偟陽に会ったら会ったで、俺はまた色々な話も聞きたいと思っている。
 だから真月が来ないのであれば「一生懸命誘ってみたが来なかった」という、自分にとっての免罪符が欲しくてこのように彼女を引っ張り出そうとしたのかもしれない。
 まあ結局来る気になってくれたのだから結果オーライと言うものだが。
「じゃあ支度してくるからちょっと待ってて」
「できてるじゃないか、それでいいだろ?」
「だって化粧してないし」
「今からか? 時間かかるなあ。大体お前、化粧なんかしたら余計老け」
「何か言った?」
「ああ、いやそうじゃなくて、大人っぽく見えるだろ? お前はそのままで十分美人なんだから気にするな」
 真月はその大きな目で、じいっと俺を見る。何か変なことを言っただろうか?
「じゃあ、このままでいい」
「そうそう、素直が一番」
 せっかく褒めてやったのに何故か真月はムッとした顔で俺を見上げた。
「子ども扱いしないでよ」
 そうは言われても実際彼女は俺より十は年下なのだから仕方がない。そして十年も違えば、十分俺にとって彼女は理解不能なエイリアン的存在なのである。
 自覚はしたくないが、これがジェネレーションギャップというものなのかもしれなかった。

 目的地のデパートは思い切り繁華街の中にあったので、俺たちは歩いて地下鉄で行くことにした。
 そしてしばらく経ってから気付いたことがある。
 何故か必要以上に周囲の視線がこちらに向けられているのだ、俺の隣を歩くこの少女に。
「どうかした?」
 真月はこんな事は日常茶飯事で慣れてしまっているのか、それとも父親似で単に鈍いのか分からないが、複雑な表情をしている俺を不思議そうに見上げる。
 今日の真月は「取材」の時のように化粧や大人びた服装で武装はしていない。それでも彼女の容姿はこんなにも人目を惹き、そして俺は内心焦っていた。
 真月は一体何歳に見られているのだろうか、と。
 始めこそ驚かされたが彼女の内面を知り、そして慣れもあって、今の俺の目に真月は「高校生」にしか映らない。だから周囲の人々にも、しかも素顔の真月を見てそう見える人間がいてもおかしくは無いと思うのだ。
 俺はロリコンじゃない、俺はロリコンじゃない、断じてロリコンじゃないっ。
 周囲の男どもの嫉妬と羨望の入り混じった眼差しが、今の俺にとっては限り無く針のむしろに近いものに感じられた。
 謂れの無い、というか言われているかどうかも分からない無言の声に俺は必死に自己防衛の呪文を唱えずにはいられなかったのである。
 そしてそんなことに気を取られているせいで、俺はいつの間にか人ごみに紛れて離れて行こうとする真月に気付くのにわずかに遅れた。危うく逃しそうになったところをギリギリ何とか腕を掴み、声をかける。
「どこへ行くんだよ」
「やっぱり帰る。二階堂はあの親父と妙に気が合うみたいだから、あんただけ行って来れば」
「おい、真月」 
 それは暗に俺も「親父の仲間」だとでも言いたいのか。
 しかし真月の顔は意外にも真面目くさった表情をしていて、俺はそこで言葉を切らざるを得なかった。そして変わりに別の言葉をかける。
「ほら、目的地はすぐそこなんだ、早く行くぞ」
 また逃げられても困るが、街中で女性の腕を引っ張りながら歩くのも外聞が悪い。それで俺は握っていた部分を、上腕から彼女の手の平に移して道を急ぐ。
 たったこれだけのことなのに、また更に周囲の注目を集めてしまったからであった。
「あ、ちょっと待ってよ。手……」
「手がどうかしたか?」
 始めは困ったような顔で俺を見ていたが、手を引っ張られて痛いのかと真月の手ごと目の前に掲げて首を傾げる俺に、何故かその頬がいきなり膨らんだ。
「もう、いいわよ」
 よく分からないがとりあえず本人が「良い」と言っているので、俺はそのまま目的地へ向かって少女を引っ張り、まるで逃げるようにその場を急いで離れて行った。

 催事場になっている最上階に入ると、写真展の受付はすぐそこに見える。
そしてチケットを渡し記帳を済ませて中に足を踏み入れると、そこには別世界が広がっていた。
 一つ一つ展示されている写真パネルを俺は食い入るように見て回る。
 如月偟陽は有名な戦場カメラマンだから当然出品している作品も最近の不安情勢を抱え込んだ国のものが多く、そこに込められている情報はニュースや新聞では到底伝えきれないものだろうと俺は思う。
 そして理解した。かつての俺はある理由から戦場カメラマンになる夢をあっさり諦めてしまったのだが、それは多分正しかったのだと。
 これほどに強い力を、これほどに残酷な現実を赤裸々に描き出しながら、それでも見る者に光を感じさせられることは俺には出来ない。
 偟陽を目指して偟陽と同じものを求めても、それは意味を成さないだろう。俺は俺の出来ること考えることを、自分の能力の限り表現することしか出来ないのだから。
 真月を引っ張ったままその後も俺は会場内を見て回り、そしてある箇所に明らかに異質で小さなブースを見つけて立ち止まった。
「これは……」
 一歩入って右手に、漆黒の闇夜に浮かぶ黄金の満月。その向かい側の左手には昼間の青空の中、儚げに映る青白い半分の月が。
 そして正面に飾られているのは、月明かりの差し込む部屋の中で西洋人女性と幼い少女が床に座っているというものだった。
「やだ、どうしてこれ」
 一歩後ずさりしながら真月はそう呟いた。そうだ、この写真の少女には明らかに真月の面影があるのである。
 写真の中の少女は優しく見守る母親に甘えるようにして身体を預け、そして視線はこちらを向いていた。ファインダーの向こうにいるだろう人物に向けて、無邪気な満面の笑みを浮かべながら。
 何だこいつ、こんな顔もできるんじゃないか。
「いい出来だろう。自宅を整理していたら発掘してな、ここに後で無理矢理入れさせたんだ」
 呆けたように写真を見つめる俺たちは、突然後ろから声をかけられて振り向く。そしてそこにいたのはやはり如月偟陽であった。
 しかし彼はじいっと俺と真月を見比べ、そして視線を少し下げるとにんまり笑う。真月は繋ぎっぱなしだった手を慌てて振り払うと、微妙に俺の背後へ陣取った。
「それにしても君はやるな、二階堂君」
「何がですか?」
「よくこのじゃじゃ馬をここまで連れてこれたもんだ、それとコレ」
 そう言いながら偟陽は自分の右手を曲げて目の前に持ってくると、指をひらひら動かしながらまた笑う。
「ああ、それは真月が直前で逃亡しようとしたので予防策に」
「ああ、なるほど」
「逃げてなんてないったら」
 相変わらず負けず嫌いの少女は、文句を言う為に俺の背後から一歩進み出る。
 そしてその瞬間、父と娘の視線が交錯した。先に口を開いたのは真月の方である。
「ちょっと何よこの白々しい写真は。こんなことがママに対する償いとか思ってんじゃないでしょうね」
「別に大した理由は無いさ。俺が展示したいと思ったからそうした、ただそれだけだ」
 飄々と答える父とは対照的に、娘の方は元々大きな瞳を更に大きく見開く。
「あんたはママのことなんて何も分かってないのよ」
「じゃあお前に何が分かるって言うんだ?」
「分かるわよ、娘だもの!」
 真月の大声に周囲の視線が一斉に集中する。しかし偟陽だけは相も変わらず落ち着いた様子で構えているのだった。
「血が繋がっているから分かる。そういう理論ならば、お前は俺のことも分かるということになるな。でもそうじゃないだろ」
「それは」
「親子と言っても所詮は別々の人格を持った離れ小島だ。親は子供のためだけに存在するわけじゃないし、お前だって俺の付属物じゃない」
「何偉そうに説教してんのよ。単にあんたの頭は写真ばっかりで家族のことを放ったらかしにしてるだけじゃない」
「当たり前だ、俺から写真を取ったら何も残らん」
 言い切ってしまった。
 会話を聞いていた周囲の誰もがそう思ったことだろう。
 そして真月はというと、床を睨んだまま肩を小さく震わせながら黙り込んでいた。
 その顔は下を向き長い髪の毛が隠しているので見えなかったが、俺は見えなくて良かったような気もする。
「……っきらい」
 真月の呟きは小さく、始めは何を言っているのかよく分からなかった。しかし次の瞬間彼女は顔を上げると、真っ直ぐに父を睨んで大声で言ったのである。
「あんたも写真も大っ嫌い。こんなもの無くなっちゃえばいいのよ!」
 真月は視線を動かすと通路脇に置いてあった係員用のパイプ椅子を持ち上げた。そして躊躇いも無く、すぐ横に展示してあるパネル目がけて振り下ろしたのだ。
 俺が止める間も無かった。
 パネルには衝撃的な破壊音と共に大きな穴が開き、そして椅子がめり込んだのはパネルだけに留まらず、何とその後ろの壁にまで達しているではないか。
 力任せにそれが引き抜かれると、ひしゃげて大穴が開いたパネルが床に落ちてぐわんぐわんと会場内に異様な音を轟かせた。
 静かな雰囲気の会場内は、あっという間に騒然な雰囲気に包まれる。まあ二人が大声で話している時点で周囲の注目を十分すぎるほどに集めてはいたのだが。
 天下の偟陽の写真に何てことをするんだ。
 俺は顔を少し蒼くしながら偟陽を振り返った。しかしあの親父は娘の蛮行を止めるどころか、何とも興味深そうに観察しているではないか。
「一体どうなってるんだ、この親子は!」
 そして野蛮な娘の方はというと、さすがに壁をへこませたのはまずいと思ったのか、パイプ椅子を一度床に置く。
 そして壁に掛かっている別の写真パネルを掴んで次々に床に放ると、再び椅子を持って大きく振り仰いだ。
 待て真月、それも大して変わらんぞ。
「いい加減にしとけ」
 振り下ろされる直前で何とか椅子を取り上げ、俺は少女に声をかける。振り返った真月は悔しそうに口を真一文字にすると、ぷいと横を向いた。
 俺はそれで終わりだと思った。しかしその認識は甘かったのだ。
 真月は急に動き出したかと思うと、さっきの一角、真月と真月の母が写っている写真に歩み寄り手を伸ばしたのである。
「これはダメだ」
 その細い手を止めたのはさっきまで完全に傍観していた偟陽だった。娘の手首を掴み、その瞳は真っ直ぐに相手を見据えている。
「何でよ」
「言わなければ分からないか」
 低い、低い声だった。しかしその声音は怒っている訳でもなく、呆れている様にも感じられない。自分の感情を全て押さえ込んだ大人、偟陽の父親としての発言だった。
 そしてこの人もまた、甥の哲朗と同じように他人にはふざけた様に映る姿のその下で別の事を考えている人種なのだと俺は確信する。
 真月は真っ直ぐに父親を睨みつけ、そして目の前の写真に視線を移し、すぐに顔を背けた。その時一瞬だけ彼女が泣きそうに見えたのは、俺の気のせいなのかもしれないし、本当にそうだったのかもしれない。
 いずれにせよあっという間に偟陽の手を振りほどくと少女は駆け出し、俺たちを取り囲む人垣を掻き分けてすぐに見えなくなってしまった。
 思わずその後を追いかけようと動きかけた俺は、自分の肩を偟陽が掴んだので立ち止まって振り向く。
「放っておけ」
「いや、しかし」
「残念だが、今君が行ったところでやれることは大して無いと思うが」
 そう言われて俺はやっと冷静さを取り戻す。そうだ、俺は彼女のただの隣人でしかなく、家族でもなければ哲朗のように幼馴染でもない。そんな俺が追いかけていったところで真月に殴られるのが落ちである。
 俺が大人しくそこに留まるのを見て取ると、偟陽は満足したように笑った。
 彼は急にしゃがみ込むと木枠が壊れてビリビリに破れたパネルの残骸を観察し出し、その後いかにも感心した様子で言うのだった。
「あいつは意外に力持ちなんだな、逞しく育ってるようで良きかな、良きかな」
 どうしてこう、この人はいつも変なところで我が子を評価するのだろうか。
 俺の呆れ顔をしゃがんだまま見上げると、偟陽は俺の太ももをバンバンと叩きながら快活な笑い声を上げる。
「そうだ二階堂君、暇なら少し早いが夕飯を一緒に食わんか。昼飯を食い損ねて腹が減って仕方なかったんだ」
 腕時計で時間を確認するとまだ四時半だった。確かに夕食と言うにはかなり早い時間だろう。しかし実は俺も昼に起きてから大したものは食べていなかったので、腹具合は偟陽と大差は無い。
「いいですよ、でもこれはどうするんです?」
 床の惨状を指し示しながらそう言うと、偟陽は何かを探すように群集の方へ視線を向ける。そしてある人物を見つけて近付くと、両肩に手を乗せて威勢よく言った。
「ネガはある。壊れたパネルは適当に直しておいてくれ」
「え、えええ……?」
 そう言われたのは白いYシャツにネクタイ、腕に腕章を付けた係員らしき男である。
 この惨劇を目の当たりにして既に蒼白になっていた彼の顔は一旦赤くなり、そしてまた蒼くなると口を半開きにしたまま呆然と頷いた。というより偟陽本人に「直しとけ」と言われては、それ以外に答えようが無かったのだろう。
 全く、気の毒なことである。
Copyright (c) 2007 kazuna All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送