月と太陽の詩(うた)

第四話、母の思い、父の気持ち


「おーい、生をもう一杯とマグロのほほ肉のみぞれ和え。あとそれに伊勢えびのお造りも」
「如月さん、もうジョッキで十杯目ですよ。飲み過ぎだ」
 そして食い過ぎだ。
 俺はテーブルの上にずらりと並んだつまみの皿が、どんどん空になってゆくのを半ば呆然と眺めていた。ここに運ばれてきた中ジョッキの黄金色の酒はあっという間にこの親父の腹の中に納まり、そしてまた注文されるということを繰り返している。
 俺はと言えば、まだ一杯目のビールすらまだ終わっていない。まだ夕方の五時を過ぎた所でそれほど飲む気にもなれないし、酔っ払ってしまう前に色々と彼と込み入った話がしてみたいと思っていたからである。
 それにしても「夕食」と言って連れて来られたのは、何故か偟陽が最近気に入っているという居酒屋であった。それほど大きな店舗ではないが昭和を意識したレトロなディスプレイが見る者に時間の流れを緩やかなものに感じさせ、薄暗い店内は静か過ぎずうるさ過ぎないという丁度良いあんばいである。
 一見気安い店のようにも思えるが料理のメニューに並んでいるのは有名ブランド国産牛や高級魚など、何気に高そうな素材のものばかりだった。もちろん味は料亭などに引けを取らない腕である。
 しかし驚いたことに、これだけの酒量を持ってしても彼はまだ酔っ払ったような素振りが殆ど見られなかった。このザルな様子からするとこれが彼のいつもの夕食スタイルなのかもしれない。つくづく常人離れした人である。
「あの、如月さん」
「ん、何だ?」
「真月はあのままでいいんですか?」
 店員がやって来て先ほど注文をした二品をテーブルに置いていった。新しいビールのジョッキを偟陽の目の前に置き、空いた皿と空ジョッキを代わりに下げてゆく。
 その間二人の間には沈黙が訪れ、俺はじっと自分の飲みかけのビールの残り少ない白い泡を見つめていた。そしてやがて偟陽が口を開く。
「それは誰と重ねて見てる、自分か?」
 ずしりと来た。ジョッキを持っている手の先から血の気が引いて指先が冷たくなる。
 一瞬にして乾いてしまった口腔を宥める様に、それでも俺はゆっくりと口を動かした。
「どうしてそう思うんですか」
 疑問に疑問で返す俺に偟陽は特に嫌な顔を見せることは無い。ぐいとビールを一飲みすると落ち付いた様子で俺を見た。
「俺も昔は無闇に周りの人間に楯突いたもんさ、真月のあれなんか可愛い方だぞ?」
 公衆の面前で展示物を破壊し、写真展をぶち壊したあの行為が「可愛い」? 
変な顔をする俺を見て彼は笑う。
「相手に直接文句を言えるだけあいつは根が素直なんだな、俺の場合は問答無用で絶縁しちまったからどうにもならん。しかも自分が落ち着いた頃には親はいなくなってたから、今更どうしようも無い」
「もしかして」
 黙ってうんうん頷く偟陽に俺は呆れてしまった。
如月家の人間は親子揃って家出をした経験があるというわけだ。ドイツ人の母親だって駆け落ちしてここまでやって来たのだから、そう考えてみれば家族全員が前科持ちということである。俺が偉そうなことを言える立場では無いのだが。
「元々家族の中からはみ出しているのが当たり前だったから、あの頃はそれで良いと思ってたんだよなあ」
「後悔しているんですか」
 偟陽は数秒考えた後、ゆっくりと頭を振った。
「結局俺にはそうすることしか出来なかっただろう。自分の決めた道しか歩けない人間だからな」
 そう答える彼の瞳には、揺ぎ無い光が宿っていた。
 正直俺はそれを羨ましいと思う。これ程に胸を張って歩いている彼の生き様が。
「俺は真月はもう少しあそこで頑張るのも良いと思っている。頼りになるお隣さんも居ることだし」
 にんまりと表情を崩す偟陽に俺は慌てた。まさか俺はまんまとお目付け役にされようとしているのだろうか。
「そう言えば二階堂君はピアニストなんだっけ?」
「いえ、俺は作曲をしているんです」
 考えるよりも先に、俺の口は自分の仕事のことを素直に喋っていた。理由は自分でも分からない。だがこの人にはもう少し自分を見せてみたいという欲求を感じたのは確かである。
「あ、できれば真月には……」
「内緒か? 口止め料は高いぞ」 
 秘密を共有した子供のように瞳を輝かせて偟陽は笑う。俺はその表情に妙に安心感を覚え、そして途端に自分の中に溜まったものを吐き出すように饒舌になっていた。
 学生の頃からの連れしか知らない、自分の両親のことについて。
「実は俺の両親はクラシックの音楽家なんです」
 父の二階堂修造はベルリン・フィル・ハーモニー管弦楽団の客演指揮者を務めた事もある大物指揮者。母の百合子はバイオリニストで、二人とも国内に留まらず海外でも名の知れた音楽家夫婦である。
 そして彼らは殆ど海外を拠点として活動し、昔から家に居ないことの方が多かった。
 公演は世界各国に渡る為、海外の両親の居宅に俺たちが住むことは無い。確か五歳くらいまでは兄と母方の祖母とで三人で暮らしていたのだが、その祖母も急な病で亡くなった後は二つ年上の兄と家政婦だけの暮らしを余儀なくされた。
 しかし幾ら海外で活動しているといっても、さすがに両親もずっと家を空けっ放しにしておくわけではない。数ヶ月に一度纏まった休みを取っては帰国し、途端に俺の家はぎこちない家族ごっこをしなくてはならなくなるのだった。
 二つ年上の兄、保は本当に優秀な人間だった。
 たまに顔を合わす両親に対しても礼儀正しくにこやかに接していたし、幼い頃から習わされていたピアノもバイオリンもそつなくこなして、最終的にはウィーンへ留学中に指揮者コンクールで賞まで取った秀才である。
 当然普段あまり口数の多くない父も兄を褒めたし、誇りにも思っていただろう。しかし俺の場合はそうではない。
 同じように習わされているピアノもバイオリンも、生来手先が器用だったのでそれなりにまでは行くのだが、コンクールで入賞するにはどうにもあと一歩足りない。そして海外はおろか国内の小さなコンクールでさえトップになれなかった。
 当時の俺には父の眉間に皺の寄った顔は、何も語らない背中が、「二階堂家の人間として恥じぬ結果を残せ」と俺に無言のプレッシャーを与えているように感じられた。それなのに粗末な俺の結果に対して、父は何も言わなかったのだ。
 叱られなかった事。それが逆に年を重ねる毎に父との溝を深める原因となり、俺は次第にピアノもバイオリンも手にすることが無くなった。いつの間にか、気付けば俺は父に反発することしか考えなくなっていた。
「ほう、今は落ち着いて見えるが意外にやんちゃ坊主だったのか」
「まあそこそこと言いますか」
 そして毎日馬鹿な反抗ばかり繰り返して友人と騒ぐ事だけが日課となっていた頃、俺は偟陽の写真集に出会ったのである。偟陽のような戦場カメラマンになることを志し、その時点で俺は人生の軌道修正をするはずだった。
 しかし所詮俺の運命というか何と言うか。ある日友人のバイクの後部座席に乗っていた俺は、事故に巻き込まれて突然左足に後遺症を持つ身となってしまったのだ。
 日常生活には全く問題は無いのだが急な気温や気圧変化、激しい運動などで左下腿に痛みや痺れが出たりする。これでは常に危険に晒される戦場カメラマンなど務まるはずも無い。
 その後に千尋と出会い再び俺は音楽の世界に戻って今に至るのであるが、この辺りのことも偟陽に関することも、さすがに羞恥を覚えたので俺は話から割愛して話をした。
「お兄さんは、今?」
「ドイツで父と同じ指揮者をしてます」
「ほう、ドイツか」
 曖昧な表情でそう呟く彼を見て俺は思い出す。偟陽の妻はドイツ人だったはずだ。
「ドレスデンのゼンパーオペラ、ライプツィヒのゲヴァントハウス・オーケストラ。あの辺りのヨーロッパはどこも音楽が溢れていたな、そう言えば」
「詳しいですね」
「まあ昔一年くらい住んでいたからな」 
 そう言うと偟陽はふと黙り込んでしまった。何かを思い出しているのか、その視線はどこか時間を越えた所を見つめているようにも思われる。
 そして小さく呟く。どこの戦場で付けたのかは知らないが、その右頬の傷を何とはなしに触りながら。
「手元に隠しておかずに、帰してやれば良かったと思う事がある」
 一瞬驚いて俺は偟陽を見つめたが、彼はそれ以上を語る気配はもう見せなかった。すぐにいつもの表情に戻り、つまみの伊勢えびのお造りを口に放り込む。
「話を聞くと俺とお前さんの親父は似てるのかも知れんなあ」
 話題は既に切り替わっていた。上手くはぐらかされた気もするが、元々そこまで夫婦のプライベートに突っ込むつもりも無かったので俺はそれに気付かない振りをする。
「うちの父と如月さんは違いますよ」
「違わないさ、どちらも『仕事』が無ければ生きていけない馬鹿なところが」
 始めは確かに俺もそう思った。しかし二人が似ているならば自分がこれ程までに偟陽と親しくなれるはずが無い、と思う。
 俺は今音楽を生業としている。しかしクラシックで全くものにならずに両親を失望させた経緯を持つ俺は、今の職業を実の親に話してはいない。クラシック第一と言ってはばからない父に、ポップスを作る自分を笑われたくは無かったからだ。
 それはつまらない意地であり、見栄だった。
「昔の自分が見たものが全てじゃないぞ、それはその人間のほんの一部に過ぎない」
「え?」
「今だから見えることもあるって事さ」
「何度も言いますが、うちの父はそんなに可愛いもんじゃありませんよ」
 俺はいつも父の視野から外されていた子供だった。だから期待もされないし、叱られもしない。その方がいっそ楽なのだと覚った時にはもう家を一人で出ていた。兄も既に居なくなった空っぽの大きな家を。
「俺にとって写真は人生の一部だ。娘に何と罵られようと、外野が何と言おうとも決して捨てることは出来ない」
 黙って頷く俺に偟陽は更に突っ込んでこう言う。
「君にとっても音楽とはそう言うものじゃないのか?」
 そんな今の自分だからこそ見えるものがあるのではないか、と偟陽は続けた。
 そうなのだろうか。俺は父という人物を見極めてはいないのか。分かっていないのは俺の方なのか?
 さり気なく大きな疑問を俺の中に投げ込んだまま、その当人は笑いながらビールを飲み干すのだった。


 朝方になって携帯電話の着信音が鳴り、まだ眠気覚めやらぬまま二、三回空を切ってやっと電話を掴む。
 意識が清明になってくるにつれて頭痛と胃の不快感を強く感じ、否応無く自分が二日酔いなのだと自覚させられた。
 昨日は飲み過ぎた、偟陽につられてあの後けっこう飲んでしまったからな。
 受話器から思いがけず流れてきた陽気な声を耳にすると、俺は目を閉じながら眉間に皺を寄せる。
「……またお前か」
『何よー、忙しい間をぬって電話している親友に対してそれは無いんじゃない?』
 そこまでして電話をかけてきてくれても、俺は全くありがたくは無いのだが。
「人恋しいなら現地で調達するか、一緒に渡米したメンバーの奴らに相手してもらえ」
『私そんな無粋な人間じゃないもの。アーティストっていうのは感性が大事なのよ、好みってものがあるのよーっ! うもっ、うもーっ!』
「うっ、大きな声を出すな……」
 ガンガンする頭を枕に押し付けながら俺は半死半生の声で呟く。
 そう言えばカインのメンバーは全部で四人なのだが、プライベートでは殆どお互いに付き合いが無いらしい。始めに千尋が作り上げたカインの原型グループも、彼らがデビューするまでの間に高校からの仲良しこよし時代のメンバーは一人減り、二人減り、様々な交代劇を繰り返した後に完成形となったのが今のプロフェッショナル軍団なのだ。
 しかし仕事上同じグループの人間がプライベートでは関わりを持たないというのはよくあることで、カインが特別仲の悪いグループと言うわけでも無いのである。
『そうそう、電話したのは約束した新曲がどうなったかなと思って』
 電波の向こうにいる千尋の言葉をぼんやりした頭で三回反芻した後、それがこの部屋を借りる時に作ると言った「人生」をテーマにした曲であることを俺は認識した。
「悪い、忘れてた」
『何ですって? 酷いわ龍ちゃん、私楽しみにしてたのにい』
「冗談だよ、ちょっと別の仕事が忙しくて手が付けられなかったんだ。二週間以内に送るよ」
『ああん、龍ちゃんって本当に意地悪なんだから。でもつれないところがまたそそるわー』
 俺は黙ったまま腕を天井に向かい、いっぱいに伸ばして電話を遠ざける。コレが俺の「親友」なのかと思うと溜め息も出るものだ。
 そういえばこいつに言いたいことがあったのだ。それを思い出して俺は再び電話を耳元に持ってくる。
「お前なに素で真月と交流してんだよ、俺の方が一瞬焦っただろうが」
『龍ちゃん真月ちゃんと仲良しさんなの? 妬けるわねぇ』
 こういったふざけた発言を連発しては、相手の追及を避けるのがこの男の常套手段だ。毎回こうして俺は反論する意欲を削がれる度に、千尋の良い様に話を進められてしまうのだった。
『私が居ない間に浮気なんかしちゃ駄目よ』
「あー、はいはい」
『あら、誠意の無いお返事ありがとう。でも龍ちゃんはいつも誰かが一緒に居ないと寂しくて死んじゃうウサギさんだから、仕方が無いのかしら』 
「……千尋」
『なあに?』
「俺はしつこいオカマは嫌いだが、察しの良いオカマはもっと嫌いだ」
『お褒めの言葉、どうもありがとう』
 結局その後、俺たちは仕事の事やこの部屋の事務的な内容を話して電話を終えた。携帯電話を布団の上に放り出してぼうっと天井を見上げる。
「人生……ね」
 人の生きざまをたった数分の楽曲の中で表現する、それは思ったより簡単では無いような気がした。

 翌日、依頼されていた曲の入ったディスクを届けた帰りに何となく立ち寄った本屋で、俺は思わず視線を止める。
 企画に合わせて新たに出版したのだろうか、入り口を入ってすぐのところに偟陽の写真集が平積みになって陳列されていた。最近の世界情勢もあり、それはなかなかに売れ行き好調のようである。
 それを俺は一度は手に取って、少し考えた後やはり買うことにする。そしてレジに向かう途中にあることを思い出して、また足を止めた。
「名前何て言ったかな」
 怪しい記憶を辿りながら小説の棚をぐるっと見て回る。そして見つけた。「二月御影」と作者名が書かれたハードカバーの本を取り上げると、俺は好奇心のままに中のページをめくる。
 恋愛ものを書いていると聞いていたからどんな少女小説かと思いきや、しかしそれはとんでもなく重たい雰囲気の文体で内心驚いた。そしてその内容は、なんと何人もの人間の愛憎が交錯するドロドロの恋愛劇である。
 お前は中年の文豪のおっさんか、真月。
 そう言えばあいつの取材対象は全部年上だ。三十代のサラリーマンにホスト、若くても大学生。十代向けの爽やかな恋愛話を書くには全く不適切な対象である。少し考えれば予想がつきそうなものなのに、俺はやや浅慮だったらしい。
 ページを飛ばし飛ばしかいつまんで見てゆくと、そのうち男女のとんでもない濡れ場シーンが出てきて俺はそのまま硬直した。
 こういった小説にこのようなシーンは別に普通だし、俺もいい大人なのだからこれくらいで動揺するのは変なのかもしれない。しかしだ。
 これを十代の小娘が書いていると思うと何ともいえない気分にさせられてしまうのだ。
 日本の将来は大丈夫か。いや、これは言い過ぎか。
 しかし最近の中・高生の性が乱れているというのは、テレビでもよく言っている事だ。俺も学生の頃は羽目を外していた方かもしれないが、その殆どは野郎共とつるんでいたのだから可愛いものである。
 何となく額に汗をにじませながら本を手にしていると、俺のすぐ横で店員が本の整理をし始めるのが視界に入った。
 当然のようにそこに居たたまれなくなり、というかもう人目のあるところでこれ以上この本を読むことが困難であったので俺は素直に閉じて元の場所に戻しておく。
 ついでに偟陽の写真集も置き去りにしてしまい、結局買いそびれることになってしまった。
 その後一通りの日用品を買い込んで車に積み込むと俺は家路を急ぐ。千尋に依頼された曲はメロディも歌詞もまだできていなかったので、早目に取り掛からなければと思っていた。
 そしてマンション近くの道に来ると、前方にどこかで見た背筋の伸びた姿を見つける。有名女子高の制服を着た彼女の後ろには、付かず離れずどこかの男子高校生が二人話しかけようと頑張っているようであった。見たところ、真月は全く相手にしていない様子だが。
 平日の住宅街の午後という条件が、今車を走らせている道路での後続車を皆無にさせていた。
 スピードを落とし、のんびりそれを後方から眺めていると真月が思いがけず振り向く。そして片手を上げるとこう言った。
「ヘイ、タクシー」
「誰がタクシーだ」
 思わず車内で一人そう吐き捨てたが、そのまま通り過ぎることも出来ずに取り敢えず彼女達の側に車を停める。すると真月は迷いも無く車に歩み寄り、さっさと中に乗り込んでくるのであった。
「ぼったくり料金ですがよろしいですか、お客さん」
「一昨日写真展ただで見たじゃない、あれは私のおかげでしょ」
「へーへー」
「はい、出発」
 ドアの向こうで恨めしげに眺めている男子高校生の視線を感じたが、気がつかない振りをして俺はアクセルを踏み込む。別に俺のせいじゃないぞ、こいつが勝手に乗り込んできたんだからな。
 少し走らせた所で、真月が覗き込むようにリアガラスを座席の間から振り返った。
「大丈夫、付いて来てないよ。あいつらなら」
「あんなのはどうでもいいの」
 しかしそう言う割には何かを探すように、真月は未だ後方を見つめている。
「何なのよ、あの女の人」
「女?」
「ううん、何でも無い」
 俺もバックミラーで後方を見ると、遠ざかってゆく道路の曲がり角で立ち尽くしている人物がいた。髪が長い、よく見えなかったがあのシルエットは女か。
 ここを通る時に俺も見ていたはずなのだが、高校生達とは反対の歩道にいたので全く気に留めていなかったのだ。
 そのシルエットに見覚えがあるような気がしないでもなかったが、最近女友達との連絡が滞りがちで思い当たる所も無く、すぐに頭の中から消えてしまう。
「知り合いじゃないのか?」
 その問いに真月は未だ口をつぐんだまましかめ面をしていたが、俺はそれ以上突っ込むことはしなかった。
 もしかしたら彼女に男を取られた人物なのかもしれないし、この位の年の頃は大人に言いたくない事の一つや二つ、更に三つや四つくらいそれは山のようにあるものなのである。
「日曜は悪かったわね、勝手に帰ったりして」
 しばらくの沈黙の後に聞こえてきたその小さな声に助手席の方を振り返ると、真月は反対の窓側を向いたまま顔を俯かせていた。
 しかしこの態度でこいつは謝っているつもりなのだろうか。
「何笑ってんのよ」
 わずかに頬を膨らましながら振り返った少女は文句を言い、俺はわざとらしく咳払いをしながら笑いを収める。
「別に」
「何かムカつく、そういうの」
「そりゃ悪かったな」
 相手に直接文句を言えるだけ根が素直。目を細めながらそう言った偟陽の言葉を、今改めて思い出してしまった俺だった。
 そしてマンションに着き、エレベーターが五階に到着してドアが開く瞬間のことである。
「ママの事ちゃんと分かって無かったのは、本当は私なのかな」
 こちらを見ず、真っ直ぐ前を見つめたまま真月はふとそう呟く。
「さあどうだろ。でも知らなかったなら、これから知ればいいんじゃないの?」
 突然の発言だったので、つい能の無い答え方をしてしまった。それを聞いているのかいないのか、ドアが開ききる前にこの狭い空間から真月は弾かれた様に飛び出して行く。
「送ってくれてありがと、じゃあね」
 そう言いながら一度も振り返らずに自分の部屋に駆け込んで行ってしまった。
「やれやれ」
 あの少女との会話は他の人間と話す時とは勝手が違い、次に何が突発的にやってくるのかとんと予測がつかない。しかしそれも慣れなのか、最近の俺はそれを特に不快と感じることは無くなっていた。
「うーん、俺の人間の器が成長したんだな。きっと」
真月に遅れること十数秒後、独り言を呟きながら既に閉まった五〇二号室の扉の前を通り過ぎたその時である。
 突然大きな怒鳴り声がドアの向こうから聞こえ、思わず俺は身をすくめた。
「はあ? あんたそれどういうつもりよっ!」
 続けて予告も無く五〇二号室のドアが再び開く。
 その途端に携帯電話を耳に当て、怒りも顕わに仁王立ちした真月と俺は目が合ってしまった。
 何だ、一体何事だ。
 面倒くさそうな予感がして俺は反射的に視線を逸らす。身体の向きを変え、自分の部屋へ向けて慌てて一歩を踏み出した。
 しかしその時真月が服の端をつかみ、顔をひくつかせながら俺を見上げた。
「あんたにも替われって」
 無造作に差し出されたピンクの携帯電話を押し付けると真月はさっさと部屋の中へ入ってしまう。この電話はどうするんだ、と聞く間も無かった。
「もしもし?」
『おお、二階堂君か。俺だよ、俺』
 予想はついていたが、世界中のどこを探しても真月をあれほどに怒らせることができるのはこの人だけであろう。俺は溜め息をつきながら、電話の向こうにいる人物に向かって語りかけた。
「今度は何言ったんですか、如月さん」
『ん? 今から東南アジアのB国に行く所なんだ、フライト時間もすぐだからあまり長くは喋っていられないんだけどな』
 なるほど。今月いっぱいしかいられないのは始めから言っていたことだが、あの写真展の一件からまだ二日しか経っていない上に、この予告無しの出国だ。それは真月も怒るはずである。
『以前から探していた現地案内人が見つかってな、善は急げってな。はっはっは』
「せめてもう少し真月の誤解を解いてからの方がいいんじゃ」
『俺は始めから何も隠しとりゃせんが』
 確かにな。あんたは確かに明け透け過ぎな気がしないでもない。
『そうそう、出掛けに君にいい物送っておいたから好きに使うといいよ』
「何ですか、いい物って」
『そりゃあ見てからのお楽しみってやつだろ』
「はあ」
 電話の後ろの方から誰かの促すような声が聞こえた。偟陽の声が一瞬遠くなり、一緒にいるだろう人物に返事をしているのが聞こえる。
『悪いな、もう時間だ。また今度』
「あ、如月さん」
 俺はこの時、一体彼に何を言いたかったのだろうか。
 後でよく考えてみれば特には無いような気もしたが、何となく後ろ髪を引かれる気分になったのは確かであった。それが何故なのかは自分でもよく分からない。
 しかし向こうの電話はそのまま切られてしまい、俺は仕方なく携帯電話のディスプレイを閉じたのであった。
「携帯……」
 五〇二号室の呼び鈴を押そうとして前に立つと、扉の奥の方から何かを床にぶつける激しい音が轟く。ガラスか陶器の割れる景気の良い音も高らかに続き、俺は伸ばしかけた指を黙ってそのまま下ろした。
 女王様御乱心。
 わざわざ自分から被害に遭いに行くことも無いだろう、とそのまま自分の部屋に体の向きを変える。
 この携帯電話は後で渡すか、エントランスの鍵付き郵便受けにでも入れておけばいい。それが最良の策であった。


 その翌々日のことである。まだいつもは寝ているはずの午前八時頃、呼び鈴が鳴って俺は起こされた。眠さとだるさを押さえつつ、キッチンまで歩いていってインターホンの映像を覗き込む。
「真月?」
 今日は普通の木曜日であり、祝日でも休日でもない。モニターに映る制服姿の少女は俯いたままで、その表情までは見えなかった。
「携帯なら一昨日のうちに郵便受けに入れといたぞ」
 ドアを開けて彼女を見下ろすと、真月は低く、そして小さな声で呟く。
「……テレビ」
「テレビ? 何だ、どうせ何かぶつけて壊れたんだろ」
「……爆弾……テロがあったって」
 一瞬何のことかと眉根をしかめたが、すぐにあることに思い至って俺は目を見開く。
「まさかB国……」
 真月は黙ったまま、ただ頷いた。
「あ、良かった真月。まだ家に居てくれて」
 通路の向こうから走ってきたのは哲朗である。しかし彼の顔に前回のような笑みは無く、息を弾ませながら駆け寄ると慌てた様に真月の肩に両手を置いた。
「とにかく何か家に連絡が入るかもしれないから、自宅待機していよう。如月の家には母さんが行ってくれてるから」
 そして次に俺の方を見て、哲朗は頭を下げる。
「僕もさっき知ったばかりで、慌ててマネージャーも連れてきてしまったんです。下にいる彼に交渉して来ますから、その間だけでも一緒にいてやってくれませんか」
 俯いたまま黙り込んでいる真月、困った様子で俺を見る哲朗。
この状況で断ったら鬼だろう。
 起き抜けからとんでもない雰囲気の中、俺は頷かざるおえなかった。

 二人が知ったのは、本当にニュースの第一報だったらしい。
 朝の民放番組は未だに普通の構成どおりに進んでいるし、NHKに変えてもそれらしいことを報道してはいなかった。
 時々思い出したようにテロップが画面の上を通り過ぎ、その通知音が鳴る度に真月はソファーに腰掛けたまま身体をびくりと揺らす。
 飼い主の足元にピッタリと寄り添った猫のルナが、何度も真月を見上げては気遣うようにして身体を擦り付けていた。
 B国にて今朝未明爆弾テロがあった模様。現在死傷者の数は不明。
 たったそれだけの短い文章が、今の状況で得られる全ての情報である。あれから真月は一言も喋らない。テレビ画面を食い入る様に見つめながら、じっとそこに座っていた。
 そしてその時画面の向こうのキャスターが慌しく文面を読み上げ始め、俺たちの視線はそこに集中する。ちょうど哲朗も戻って来たので、真月の部屋には三人の人間が集合した。
『日本時間の今朝未明、B国において爆弾テロが発生しました。現在分かっているだけでも十名の死亡が確認され、死傷者数は今後増加が予想されています。尚、未確認ではありますが戦場カメラマンとして有名な如月偟陽氏も巻き込まれたという情報もあり、現地の日本大使館では――――』
「嘘……」
 呆然と呟く真月のすぐ横に座り、哲朗が静かに言う。
「まだ未確認って言ってただろう?」
 テレビの画面を呆然と見やったまま返事を返さない真月に、哲朗は更に続けた。
「大丈夫だよ真月。叔父さんは昔、外国で誘拐されても自力で帰ってきたことがあるくらいなんだから」
 俺と真月の視線が哲朗一点に注がれる。彼は少し驚いたように両者を比べ見ると、隣の少女に首を傾げた。
「あれ、もしかして知らなかったの?」
 真月が首を横に振る。実の父のそんな一大事件を知らないなんて、それはやはりおかしなことである。
 そして哲朗は少し考えるように無言になると、ゆっくりと口を開いた。
「六年前かな、アフリカの方にいた時に一度叔父さん誘拐されたことがあるんだよ。それがどこの誰かは未だに分からないんだけど、一ヵ月拘束された後に何と自力で逃げてきたんだって」
「そりゃすごい」
「そんな事私初めて聞いたわ。……待って、六年前ってもしかして」
「うん、それがちょうどカタリーナ叔母さんが亡くなった時なんだ。その時に出来たんだって、あの顔の傷」
 そう言いながら哲朗は自分の右頬を指差した。
 何ということか。偟陽は妻の死に際に帰って来たくても、第三者の手によって不可能な状況下に置かれていたというのである。
 しかし一ヶ月も父親が海外で拘束されていたことを子供が知らないだなんて、そんな事が有り得るのだろうか。俺の疑問に哲朗は困ったように眉尻を下げる。
「その時には叔母さんが入院して余り良くない状況だったし、多分それ以上の負担を、叔母さんに付っきりの真月に与えるのは避けたんじゃないかと……真月はまだ十二でしたから」
 偟陽は日本から妻の状況の知らせを受けていた。そして帰国準備を進めていた時に、その誘拐に遭ったのだという。
 それで俺は納得した。死の間際まで真月の母が偟陽を気にかけていたのは、彼女がこの事を知っていたからだ。だから最期の言葉が夫の名前になったのだろう。
「わ、私知らなかった。ママはずっとあいつのこと怨んでると思って」
「仕方ないよ、真月は何も知らされてなかったんだから悪くないんだよ」
 労わる様な従兄弟の声に、それでも真月は唇を軽く噛んだまま微動だにしない。
「如月さん、あんたは嘘つきだな」
 誰にも聞こえない程の小さな声で、俺は一人呟いた。
「隠し事は無い」だなんて嘘っぱちだ。こんなに重大なことを隠しているだなんて、それは反則だろうと俺は思う。
 そして昨日、俺の元に届いた封筒が一つある。偟陽が出国前に俺宛に出したという「いい物」だった。
 中身は二枚のクラシックコンサートのチケットである。俺は全く知らなかったのだが、うちの両親が日本でも有名なオーケストラに客演として招かれていて、そのチケットを彼は送りつけてきたのであった。
 他には手紙もメモも、何も入っていない。
 そうして俺は、彼から出された宿題を胸に抱えたまま出題者の心理を推し量る。
あんたずるいよ本当に、如月さん。

 じっと待っているだけの時間がとても長く感じられた。
 鳴らないままの自宅電話が妙に視界に入って仕方が無い。
 あれが鳴ることを俺たちは待っているのだろうか、それとも鳴らないで欲しいと思っているのだろうか。
「うっ」
「真月?」
 突然真月が口元を手で覆いながら立ち上がった。その顔色はすっかり蒼白で、冷や汗がいくつも額に浮かんでいる。
 慌ててリビングを飛び出すと、廊下の向こうにあるトイレへ少女は駆け込んで行った。それを驚いたように立ち尽くして見送った哲朗の肩に俺は軽く手を乗せる。
「ストレスだろ、不安でずっと神経が緊張しっぱなしだからな」
「……緊張?」
「舞台とかでするだろ、緊張」
「いえ、僕は緊張っていうのしたことがなくて」
 珍しくうろたえている哲朗の顔を見やりながら、俺はどうしてこいつが役者として成功しているのか何となく分かったような気がした。緊張したことが無いとは、何と羨ましい精神構造なのだろう。
 トイレの方へ歩き出そうとしたその時、哲朗の携帯電話が胸元のポケットで鳴り出して歩みを止める。着信の名前を見ると哲朗はわずかに顔をしかめ、出るかどうか悩んでいる様子だった。
「マネージャー?」
 言葉に出さず小さく頷くことで返答を返す哲朗に、俺は苦笑する。
「いいよ、あいつは俺が見てるから」
「すみません」
 哲朗をリビングに残したまま俺は洗面所に向かい、タオルを一つ掴むと開けっ放しになっていたトイレの中を覗き込む。
「大丈夫……なわけないか」
 トイレマットの上に座り込んだままの真月にタオルを持たせると、俺もトイレの入り口付近に座り込みその背中をさすってやった。細い細いと思っていたが、実際に触れるとその背中は背骨がゴツゴツ手の平にぶつかるほど骨と皮しかない。
「お前ちゃんと食べてるのか?」
「食べてるわよ、今日はまだだけど」
 タオルに顔の下半分を埋めながらくぐもった小さな声を漏らすと、吐き気だけではなく胃も痛むのか、小さく身体を丸めて眉根をしかめた。外観だけでなく、こういう繊細な神経のところも彼女は母親に似てしまったらしい。
「薬は何か無いのか」
「ちょうど切れてて」
「しまったな、うちもちょうど良さそうなもんが無いし」
 病院に連れて行くほどでも無いだろうし、いつ何の連絡が来るか分からない状況でここを離れるのはもっと不安になるだろう。
「分かった、じゃ俺が薬買ってくるから」
 そう立ち上がりかけた俺の服の袖を、真月が慌てたように掴んで引っ張った。
「ベッドで寝てるか?」
 そう言いながら真月を立ち上がらせようとしたが、何故か彼女は立ち上がろうとしない。そしてどういうわけか非難がましい目で俺を見上げたままである。
「真月さん、手を離してくれないと動けないんですが」
「……らない」
 しかしその声は始めとても小さくて、俺は思わず「は?」と聞き返してしまった。
「薬なんていらないの、全然大丈夫なんだから。だから、だから……その」
「何だよ」
「だから、大丈夫なんだってば」
 真っ青な顔でそう言われても説得力に欠けるのだが、それでも頑として離そうとしないその細い手に俺はとうとう根負けした。
「分かったよ。吐き気はもういいんだろ、じゃあこんなとこに座ってないで向こうで寝てろ」
 こんな時くらい泣いても良さそうなもんなのに。
 しかしこんなにヘロヘロな状況になっても彼女の目には一粒の涙も無く、意地っ張りもここまで来ればたいしたもんだと俺は内心感心させられてしまった。
 哲朗は何とかマネージャーと再び話をつけたらしい。しかしあまり長い時間は無理のようで、その時には木野家と如月家でそれぞれ電話番をしている自分の両親のどちらかに来てもらうつもりだと言った。普通に考えればそれが妥当なところだろう。
 始めこそ大人しく寝室にいた真月だったがやはり落ち着かないのか、しばらくするとまた起き出してきてリビングのソファーに腰を下ろす。やがて両手で頭を抱えると、苦しそうに吐き出した。
「ママはあいつが仕事で家に居ない間、ずっとこんな気持ちで過ごしていたのね。心が疲れて当たり前だわ」
 すれ違いの生活を続けていた如月夫婦。その本当の姿が、今ほんの少しだけ俺にも垣間見えたような気がした。そしてそれが今、六年の時を経て真月を後悔させているのかもしれない。
「私、これで本当の一人ね」
 そう言った少女の顔には意外にも笑みが浮かんでいた。しかしとても寂しい、何かを諦めてしまったかのような笑顔が。
「何勝手に殺してんだ、まだ本当はどうなったかなんて分からないだろ」
 俺は真月の寂しそうな笑顔に何故かイラついていた。
 あの電話の時、何も考えずにのん気に話していた自分に腹が立っていた。そして何よりも勝手にいなくなった偟陽に、文句の一つでも言ってやりたかった。
 その時、リビングの隅に置いてある電話が鳴り出す。
皆一応に息を飲み、蒼白い顔をしている真月に変わって哲朗が受話器を取った。
「はい、もしもし」
 沈黙が重かった。空気がこれほど重く感じられたのは生まれて初めてのような気がする。
 そして哲朗は受話器を耳に当てたまま、眉間に皺を寄せて俺たちを振り返った。
「――叔父さん?」
「は?」
「ええ?」
 電話の主は何と当の本人、如月偟陽だというのである。
数秒呆然としていた真月だったが、我に返ると勢い良くソファーから立ち上がって受話器を哲朗からむしり取る。さっきまであんなに弱っていたはずなのだが。
「ちょっとあんた、一体どうなってんのよ。……は? 助手が腕を骨折して大変だ? だから何なのよ、もうっ!」
「ま、真月、押さえて、押さえて」
「哲ちゃんうるさい!」
 片手で従兄弟を一蹴すると、真月は烈火の如く電話の相手に怒り倒した。
 電話の応対から漏れ聞く情報から察するに、偟陽自身はちょうどテロ騒ぎのあった店内から席を外していて全くの無傷だったらしい。
代わりに一緒にいた彼の助手が腕を骨折する重傷を負い、今その対応に手一杯という事だった。
 連絡が遅れたのはそれを優先させたためと、携帯電話は混線で繋がらないし、混乱する状況の中でなかなか空いている電話が見つからなかったからである。
「いや本当、無事で良かった」
 そう溜め息のようにもらす男二人に比べ、真月一人が未だに電話口で怒鳴っている。
 それを呆れたように眺めている俺を見て、哲朗が小さく笑った。
「それだけ心配だったんですよ。あんなに甘えて」
「一般的に、あれは怒っているって言うんじゃないのか?」
「いいえ、甘えてるんですよ」
「なるほど」
 そうだな。自分から決して電話を切ろうとしないあたりが、その片鱗を見せていると言えないでも無いような。
「何にしても疲れた。俺は帰ってもう一回寝直すよ」
「ご迷惑をお掛けしました、今日は本当にありがとうございます」
 深々と頭を下げるその人気俳優に、俺は苦笑する。
「いやいや、俺は結局何もしてないから」
 後ろ手に手を振りながら、俺は疲れた顔でそう笑った。
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