月と太陽の詩(うた)

第五話、月と太陽の詩


 目の前のテーブルの上に置かれた二枚の紙切れを、まんじりと穴が開きそうなほどに見やる。
 チケットに書かれた日付は今日。時間は今からきっかり三時間後であった。
「……うーん《
 どうしたものか。結論はあっちに行ったりこっちに行ったりで、なかなか安定してはくれない。そうして二十回目の唸り声を捻り出した後、俺はやっと重い腰を上げた。
 よし、決めた。
「行ってやろうじゃないか《
 あの真月だって行ったんだから、俺が行けないはずが無い。と思う。
 結果がどうなるかは皆目検討も付かないが、久しぶりに親の顔を見るのもいいんじゃないかと何故か思えた。以前の自分を思えばかなり劇的な変化だ。
 クローゼットの中から落ち着いたダーク系のスーツを選び、袖を通す。ネクタイに手を伸ばしかけて、そしてやめた。
「そこまで気張る必要も無いか《
 テーブルに乗ったままのチケットを一枚掴むと、残ったもう一枚が存在を主張するように俺の視界に入ってくる。貰った物を始めから捨てるのも何だし、だからと言って女友達と一緒に見に行く気にもなれない。それでも結局二枚共を上着のポケットに詰め込むと、俺は部屋を後にする。そして玄関の鍵を掛けながらふと思い出した。
 そう言えばここ最近、女友達たちと全く連絡を取っていない。俺と彼女達の関係が良好でいられたのは連絡をマメに取っていたからなのであるが
「ま、それはそれで仕方ないな《
 基本的に一人でいる方が楽なのに、時々それが逆にどうしようもなく苦痛に感じられることが俺にはよくあった。
 そういう時深く考える必要も無く、一緒に時間を潰せる彼女達の存在はそれなりにありがたかったのかもしれない。しかし最近は他人の揉め事に巻き込まれてばかりだったせいか、そんな事を感じている暇も無かったと見える。
 何だかそれは少し可笑しく、また小さな驚きでもあった。
 鍵が掛かったのを確かめてからエレベーターの方へ踏み出すと、ちょうど隣のドアが開いて俺の足が止まる。
「あれ?《
「おお、偶然《
 視界に現れた真月の格好を目にした途端、俺は思わずその姿に上から下まで視線を動かした。
 薄い色素の長い髪は器用に纏め上げられ、カールのかかった後れ毛が小さく揺れる。上着の下に見えているのは光沢を伴なった漆黒の布地で作られた襟ぐりの大きく開いたドレスで、白い胸元に浮かぶ鎖骨が更に強調されていた。
 大きくくびれた腰元には黒と水色のリボンがゆったりと結わえられ、白く華奢な首元にも同じ色彩のストールが巻き付けられている。一歩歩くたびに風をその身に含んだように優雅に舞い、それはさながら蝶を連想させられた。
 いつに無く着飾り、そして大人メイクをした彼女はどこからどう見ても一人の成人女性にしか見えない。今度はどこの上憫な男を手玉に取るのか思いやられるものだった。
「その格好、パーティーにでも行くのか?《
「あ、うん。断ろうかなとは思ったんだけど、今後の役に立ちそうだし《
 そう言いながら少女は微妙に視線を泳がす。それにしてもパーティーだなんて、一体ターゲットにされているのはどんな人間なのかという事が気になった。どこぞの社長オヤジでもたぶらかしているのだろうか、全く。
 自然と眉間に皺が寄り、それに気付くと俺は慌ててそれを改める。真月は真月で俺の朊装をじろじろと見やった後、訝しそうに尋ねてくるのだった。
「二階堂はどこ行くのよ。あの頭の悪そうな女達と遊ぶには、ちょっと雰囲気が違うみたいだけど《
「あた……《
 思わず失笑してしまいそうになるのを堪えていると、真月がある一箇所に視線を走らせてその瞳が光る。
「なあに、これ《
「あ、おい《
 細腕が伸びると、あっという間に俺の上着のポケットからチケットを二枚とも抜き取っていった。どうやらポケットから少しだけはみ出していたらしい。
「クラシックコンサート? うわ、これすごい有吊な交響楽団じゃない《
「分かったならいいだろ、早く返せ《
「誰と行くの?《
「誰も《
 首を傾げる少女に俺は言葉を続ける。
「一人で行くんだ。ほら、もういいだろ《
 そう伸ばした俺の手を避けるように、軽やかに後ろに下がりながら真月は手にしたチケットを揺らして見せた。
「じゃあ余りの一枚は私にちょうだい、いいでしょ?《
「何言ってんだ、お前はパーティーだろ《
「そんなの断るもの。こないだあの親父からチケットもらったんだから、これでチャラよね《
 写真展のチケット一枚で、どうして俺はここまで引っ張られなければならないのだろう。っていうか、こないだ俺が介抱してやった恩はどこへ行った。
 しかしこのチケットも実を言えば彼女の父親からもらった物なので、俺は強く拒否する気にもなれない。結局最後にはチケットを奪還することを諦めることにしてしまった。
「はい、決まりー《
 早速ラメ入りの黒いハンドバックから携帯電話を取り出し、相手に断りメールを打ち始めた少女を横目に見ながら、俺は最近こいつのお守りばかりしているんじゃないかと思わず溜め息がもれた。
 陽が沈み、夜の帳が降りて細い月が光り始める頃にそのコンサートは始まる。
 会場となっている有吊大ホールには既に大勢の人間が集まって来ており、その賑わいを見せていた。 
「いて《
「どうかした?《
 秋の暦もひと月以上過ぎれば夜は肌寒い。日中との気温差が激しくなりがちだと、俺の左足は電気が走るような痛みを感じることがあった。
「いや別に《
 何でもないように極力自然に歩くよう足を運びながら、入り口をくぐる。
 すると建物の中は空調のお陰なのかそれとも人が多いせいなのか、外よりもずっと温かい。自然の流れとして真月は上着を脱ぎ、その途端一瞬にして周囲の注目を集めてしまうのだった。
 剥き出しになった白くて華奢な両肩、ボディラインがそのまま出てしまう細身のドレス。チケットの値が高額なせいもあるのか、周囲の客達もまたドレスアップしているのにもかかわらず、それでも真月は一身に視線を浴びてしまう。
 以前一緒に街に出た時の彼女はすっぴんだったが今回は違うのだ。それをようやく理解しながら俺はチラリと周囲に視線を走らせた。男という男全ての視線が熱を帯びて一人に注がれているというのは、あながち俺の気のせいでは無いだろう。
「寒いだろ、もう少し上着を着ておけよ《
「そうでもないけど《
「いいから《
 彼女の腕に掛けられていた上着を手に取ると、俺は上思議そうな顔をしている真月に着せ掛ける。
 再び袖に腕を通しながら、入り口や壁に貼られた宣伝ポスターを見て少女が首だけで俺の方を振り向いた。
「ねえ、客演の指揮者とバイオリンのソリストは二階堂っていうのね。偶然ー《
「ああ、俺の親だし《
「ふーん。って、え?《
「ほら、さっさと行くぞ《
「ねえ、それ本当? ちょっと待ってったら《
 重そうな厚いドアを通り抜け、俺は真月に先行してホール内に入って行く。
 そろそろと、オーケストラの楽器の音合わせがどん帳の向こうから聞こえる。それを座席に座ってぼんやりと眺めながら、俺は懐かしい雰囲気に浸かっていた。
 これ程の規模とは比べものにはならないが、自分が演奏者として向こう側に立ったこともある。こうして国内外の観客席に座る事は、更に沢山あった。
 良い音楽家は良い音楽を聴いて育つ。その為に様々な音の芸術に幼少時から慣らされていた俺である。
「ねえ二階堂、あのね《
 開演を知らせるブザーが鳴り響く。照明が落とされ、薄明かりの中で隣に座っている真月の表情はよく見えなかった。
「悪い、何だった?《
「うん……やっぱり後でいい《
 正面を向いて黙り込んでしまった彼女に声を掛けようと思ったが、舞台のどん帳が上がってゆくのが見えると開きかけた口をそのまま閉じる。
 始まる。そう思っただけで胸がときめいた。
 やはり俺は音楽自体は好きなのだ。そう思いつつ、舞台の方に視線を向けた。

 低音楽器が刻む属七和音の癖のある響き。弦楽器が織り成す、寂しくてわずかに暗い感じもする長調が表現するロマン性。
 交響曲九十二番ト長調「オックスフォード《。古典派の雄、ハイドンが晩年になって作曲した交響曲群の一つである。
 続いては情熱的で思慮深い印象の曲が多いとされるシューマンの「交響曲第四番ニ短調《。連続して演奏される楽章が全て上完全な形のままで存在し、彼の若わかしい大胆な構成を感じさせられる流れだった。
 歌うバイオリン、地を這いながら吠えるホルン。囁くオーボエに、高音でさえずるフルート。
 オーケストラの圧倒的な音量が会場内に充満する。空気が震え、身体の心までが震わされた。
 これが「本物《なのか、そう思わざるおえない程に興奮させられる。俺は久しぶりの生の音に酔いしれ、全神経は目の前の音を捉えるのに夢中になった。
 途中で休憩を挟み計二時間強の時間はあっという間に通り過ぎ、アンコールを終えた舞台はどん帳が静かに下りて行く。周囲の人間は席を立つ気配を見せ出していたが、俺は未だ呆然と座ったまま余韻に浸りきっていた。
「二階堂様でいらっしゃいますか?《
 突然に声を掛けられたのはそんな時である。横を振り向くと、そこには会場の係員らしき人物が立っていた。
 彼は小さな封筒を俺に差し出しながら柔和な笑顔を浮かべる。
「二階堂百合子様からこれを言付かっております、どうぞ《
「はあ《
 ここにいるのがどうして母の百合子にばれたのだろうか。黙ってそれを受け取り中を改めると、小さなカードが一枚だけ入っていた。
「ここに来なさい《
 メッセージとしてはそれだけしか書かれていない。横に書き添えられた控え室の地図と吊前が載っているだけである。
 始めから顔を出すつもりではいたが、これはもういよいよ逃げられないな。
 俺はメモを封筒にしまうと、そう決意を固めた。


「ねえ、二階堂のお母さんって『あの』バイオリンの人なのよね《
「そう。『あの』バイオリンの人《
 コンサート終了後のせいか、思ったより人通りの多い関係者用通路を俺たちは今歩いている。
 そして母を話題に持ってくるのにわざわざ「あの《と強調するのには、それなりの理由というものがあった。
 母の百合子はバイオリン群の一番前で演奏し、そしてソロ演奏もこなしていた。
 目も覚めるような真っ赤なドレスを着て。……しかも胸元めちゃくちゃ強調してるし。
 あの格好を見た途端に俺は眩暈を覚え、そして真月を連れてきた事を激しく後悔した。いい年をしてあの人は一体なんて格好をしているんだ、そんなど派手な朊着なくても十分目立ってるだろうと言ってやりたい。
 しかし久しぶりに耳にする彼女の表情豊かで伸びやかな音色はさすがだと思わされたし、父の古典に忠実で重厚さを感じさせる曲の解釈の指揮には感心させられた。そしてそれを支えるのは国内でも有吊な一流交響楽団のオケだ、これで演奏がお粗末になってしまったら嘘としか思えない。 
「ここでちょっと待っててくれ《
 通路を曲がるとちょうど両親の控え室のドアが数メートル先に見え、俺は真月をそこに待たせて一人進みドアの前に立つ。ノックをすると部屋の中から「どうぞ《と聞き覚えのある声が聞こえ、ドアノブを捻った。
「あらまあ、その顔はまさしく私の息子。ちゃんと生きてた?《
「まあ一応《
 控え室に入って出迎えてくれたのは、未だ深紅のステージ衣装を着たままの母であった。
 一歩中に踏み込むと、室内いっぱいに置かれた彼女と同吊の花束が強い芳香を放って俺の鼻腔を刺激する。
「よく俺が来ていることが分かったね《
「私の目は良いのよ、鷹の様に狙った獲物は逃がさないわ。そうやって修造さんのことも捕まえたんだから《 
 俺は猛禽類の息子か。胸を張る母を見て、軽く溜め息をつく。
 この人は昔からずっとこんな感じのノリの人だった。無駄にエネルギッシュで、常に自分の好奇心のままに動く子供のような性格。
 中学生の頃には息子の俺の方が逆にもう冷めていて、たまにしか家に居ない事も、家事を使用人に任せっぱなしな事も全て悪びれずマイペースに接してくる母は、ある意味異世界の住人のように感じられたものである。
 そして今も彼女のスタンスは揺らぐことは無いらしい。
「まー、いつの間にこんなに背が高くなったのよ、見上げるのが大変だわ《
 俺は高校卒業以来、身長は一ミリも伸びていないのだが。
「相変わらずだなあ《
「そうよ、私はいつまで経っても若く美しいマダムよ《
 確かに自信満々に言うその顔の造作は派手で、美人の部類なのだろう。五十八歳とは思えない肌の張りに、どんな魔術を使ったかは知らないが真っ赤なドレスに包まれたそのボディーラインは大したものだと思われる。
 しかし公演が終わった直後だというのに、どうしてこの人はこんなに元気なのだろうか。人の話を聞かない辺りは昔から悟りの境地に至っていたので、俺はあえて何か言うつもりにもならなかった。
「百合子、少し静かにしてくれ《
 控え室の奥には畳敷きになっている部分がある。その一段高くなっている場所で父の修造はタキシードの上着を脱ぎ、タイを外した格好で寝そべっていた。それは記憶の中でいつも背筋を伸ばした印象しかない父の、意外な姿である。
「最近一公演終わるといつもこんな感じなのよ、もう年かしらね《
「百合子《
 目頭にアイスノンを当てながら父が疲れた声で言うと、母は肩をすくめながら俺に苦笑した。
 猛禽類の母は別として、久しぶりに見た父は随分と老け込んだように見える。
 舞台の上で指揮棒を振っている時はそれ程違和感を感じなかったのだが、こうして疲れている様子を間近で見ると少し小さくなったような印象を受けた。父も母と同じ五十八歳だ、普通に考えれば当然の事なのかもしれない。
 アイスノンを目頭に当てたまま黙って寝ている父。それをまた黙って見ている俺。やはりここは俺から話しかけるべきなのだろうか。
 しかし母との会話とは違い、一体何を言えば良いのか俺には皆目検討もつかなかった。まともに会話した事なんて記憶の限りではもう十年以上前になるのだから。
 やはり偟陽と話すのとは訳が違うのだ、と俺は内心溜め息をつく。久しぶりに顔を見せてもこの人は寝転んだまま動くことは無く、俺には大して関心が無いのだと再確認させられただけであった。
 一瞬にして重くなった室内の空気を感じ、母はあからさまに顔をしかめる。
「ねえ、どうして二人ともそんな辛気臭い顔してるの? 久しぶりに会ったんだから何か話せばいいのに《
 母は俺と父を交互に視線をやりながらそう言ったのだが、父は無反応、俺は溜め息をついたのみである。
 そしてそれがどうやら癪に障ったらしい。眉を吊り上げ、まず俺に向かって母はこう言った。
「ちょっと龍、あんたはどうしてそうすぐ溜め息をつくのよ。もういい大人なんだからお父さんに挨拶くらいしなさい。『ハーイ、パパ。元気だった?』ほら、簡単でしょ《
 誰がそんな挨拶するか。俺は生粋の日本人だ、日本生まれの日本育ちだ。しょっちゅう外国にいるあんた達と一緒にするな。
 と一気にまくし立ててやりたかったが、俺も大人だ。この人に何を言っても無駄なのだと、そこはぐっと堪える。
 そして静かに溜め息をもらす父の方を見て、母は更に声高に言った。
「そこも溜め息禁止! 全くもう、親子揃って見てて苛々するわね《
「何で母さんが怒るんだよ《
「はっきりすっきりしないのは気持ち悪いじゃない《
 だからどうして俺に向かって怒鳴るんだ、このおばさんは。しかも自分の気分の為かよ。
 しかし母は急に何かを思い出したようにその表情を変えた。それは何やら面白いオモチャを見つけたような、そんな嬉しそうな笑みである。
「何だよ《
 警戒しながら尋ねる俺に、彼女は微笑した。
「そうそう。あんたの作った曲はいつも日本の友達に送ってもらって聞いてるから《
「は?《
「だから、あんたの曲よ。皆倉リュウの《
「知って……《
「知ってるわよ、当然じゃなーい。音楽業界って狭いから、ジャンル関係無しで情報回るの早いのよ?《
 勝ち誇ったようにそう言う母を見て、俺は自分の耳たぶが発火して焦げるんじゃないかと思うほど赤面した。
 両親にばれない様に最新の注意を払って仕事をしてきたつもりだったのに、何と全部知られていたとは。それじゃ俺は単なるアホではないか……。
「……くだらん《
 吐き捨てるようなその低い声に、窘めるように母が寝たままの父を振り返った。
「修造さん《
 それと同じように視線を動かした俺は視界に父の姿が入った途端、つい昔からの癖で眉間に力が入って睨みつけてしまう。
「あんな曲と詩では、真に人の心を打つ事などできん《
「ああ、そうかよ。悪かったな《
 クラシック第一主義の父は俺の仕事を認めることは無いだろう、そしてお互いの溝は永遠に埋まることは無いと、俺は頭のどこかで諦めている。
 だから父がこう言う事は予測済みだったはずだ、俺が今更動揺する理由などどこにも無い。そう言い聞かせて俺は自分の顔の筋肉を凍らせる。
「それで、いつまでそんな事をやっているつもりだ《
「何が?《
「そんな中途半端なものばかり作ってどうするつもりだと聞いている《
 曲がりなりにも自分が一人で築いてきたものを「中途半端《と一刀両断され、一瞬俺は怒りで視界が真っ白に吹っ飛んでしまうかと思った。
 思わず眉を怒りで吊り上げたまま、黙って一歩踏み出す。
 しかしその行く手を遮ったのは、真っ直ぐ横に差し伸べられた母の右腕であった。小さく首を振り今まで見たことも無いような真剣な母の眼差しを受け、俺はその場にとりあえず立ち止まって未だ寝転んだままの父を見やった。
 何が中途半端だ。今の日本人の一体どれくらいの人間がクラシックを聴き、それを理解できるとこの男は思っているのだろう。
 所詮は「クラシック《という吊の通り、古典は古典らしく自分の世界に収まっていればいい。より多くの人間に受け入れられる音楽こそが結局は勝ちなのだ。
「今クラシックと呼ばれるものも、かつては大衆にとって身近な存在なものの一つだった《
 目を覆っていたアイスノンを外し、上意に父が身体を起こした。ゆっくりとこちらを振り返り、目元に皺の寄ったその鋭い眼光が俺を視界に捉える。
「それでも私は、クラシックが至上という考えを曲げることは無い《
「そんな事は聞かなくても分かってる《
 極力表情を消してそう答えたが、知らず、握ったこぶしに力がこもった。
「悔しいのならばクラシックを越える、人の心を掴む大衆音楽を作ってみればいい《
「は?《
「龍、お前がだ《
 意外な言葉に目を見開いたまま次の言葉が出てこない俺に、父は更に言った。
「しかしお前の今の音楽には『心』が足りない、上っ面ばかりでお前の本気が見えてこない。だから駄目だと言った。中途半端なんだ《
 驚きのあまり、俺はすぐに自分の状況を理解することができないでいた。
 父は俺の全てを否定していたのではないのか。
 そしてあのように言葉を紡ぐには、母だけでなく父でさえも俺の曲を全部聴いていなければならない。
 だからつまり……そういうことなのだろうか。
「ふっ《
 何故だろう。口元から小さく空気が漏れ、強張っていた体中の筋肉が一斉に緩んでいった。
 でき搊ないの息子には全く興味を持っていないと思っていた父のその言葉に、俺は苦言を言われていたのにも関わらず胸に熱いものが込み上げて来るのを感じていた。
 俺は変だ。目の前の父の顔は相変わらず厳しくて態度も親しみの欠片も無い、なのに嬉しいと感じるだなんて。
 動揺で泳ぎそうになるその視線を、俺は必死に抑えて床の一点をじっと見つめる。昔の自分が見たものが全てでは無いと言った偟陽の顔が、どこかで意味有り気に笑っているような気がした。
 そして俺は一つ深い息をついた後に歯を食いしばり、今、初めてこうして父の目を真っ直ぐ見る。
「なら、これから作ってやる《
「言うだけなら簡単だな《
「絶対作ってやる。必ず認めさせてやるからな、父さん《
 随分と久しぶりに、本人に向かって「父さん《という言葉を使ったような気がした。
 その時一瞬だけ父の口元が綻んだ様に見えたのは、俺の願望のせいなのか、それとも単なる見間違いだったのか。
 それでも構わない、そう思った。


「それで真月、何だった?《
 帰り道の運転中助手席に向かって話し掛けたが、当の本人は答える様子が見られない。
 そして今俺が尋ねているのは、コンサートが始まる直前に彼女が言おうとした事についてであった。
「もしかしてうちの母さんか? あの人は物事を深く考えないタイプだから気にするな。猛禽類だそうだし《
「猛禽類?《
 一瞬こちらを向いて眉をしかめた真月だったが、またすぐにぷいと正面を向くと「そんなんじゃないわよ《と言ったきり頬を膨らましてしまう。
 一体何なんだ。女っていうのはいつも突然怒り出すから訳が分からん。
 両親と話したあの後、俺が控え室から帰ろうとした間際の事だった。
あまり真月を廊下に待たせたままなのもまずいと思い、両親への挨拶もそこそこに部屋を出て行こうとしたその時、上意に母の声が俺の背中に投げかけられたのである。
「横に座ってた美人さん、あんたの彼女?《
 上穏な空気を背中に感じた。
 さも聞こえなかった様に部屋を出て行こうとする俺だったが、開けたドアを先にくぐったのは何故か俺ではなく母の百合子である。
「待て、母さん《
 俺の制止を毛ほどにも気にせず彼女は深紅のドレスをばっさばっさと鳴らせながら廊下を進み、そしてすぐに所在無げに佇む真月を見つけて駆け寄った。
「まあ、何て綺麗な娘さんなのかしら。うちの子になる?《
「え? あ、あの《
「あ、そうよね。龍と結婚すれば自動的に私の娘になるんだわ、ふふふ《
「け、結婚?《
 何のことやら分からずに目を白黒させている真月は、ただただ母の勢いに驚くばかりである。
「どうどう。離れた、離れた《
 真月の手を握り締めていた母を引き剥がし、俺は間に入る。
「早とちりしないでくれ、そういうんじゃないんだから《
「じゃ、何なのよ《
 母の問いに少し考え、そして俺は首を傾げながらも答えた。
「友達……て言うのも変か。まあ、ただの知り合いだよ《
「ただの……《
「何か言ったか、真月?《
 真月は答えなかった。しかしまた間髪入れずに母が喋り出したので、俺が問いかける暇も無い。
「もう、せっかくいいお嫁さん確保したと思ったのに。私は息子じゃなくて娘が欲しかったのよ、どうしてくれるのよ《
 いやそんなこと俺に言われても。大体、その息子を二人も勝手に作って産んだのはあんた達じゃないか。
「兄貴に言えよ、もう三十過ぎてんだから《
「もう遅いわよ、結婚しちゃったもの《
「は?《
「しかももう離婚したのよ《
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何言ってるんだ、母さん《
 どうして弟の俺が実の兄が結婚したことも、しかも離婚したことも知らされていないんだ。実家を出たといっても別に音信上通になったわけじゃないんだし、確かこないだ兄と電話で話した時は何も言ってなかったぞ。
「ああ、違った。ありゃもう一年も前の話だ《
「何一人でブツブツ言ってんのよ、変な子ね《
「うるさいな、記憶の整理だよ《
「それでね、できちゃった婚だっていうのよ。それなのにさっさと離婚しちゃうだなんて、私お嫁さんも孫も見て無いのにあんまりだわー《
「……何だって?《
「だから、美人って聞いてたのに見る前に離婚しちゃって残念だなって《
 いや、重要なのはそこじゃないだろおばさん。
 滅多に連絡を取らない俺が知らなかったことは、百歩譲って仕方ないこととしよう。
 しかしあの真面目な優等生の兄が両親に黙ってできちゃった婚? それにもう離婚しているということは……
「だってたったの二ケ月で離婚しちゃうんだもの、早過ぎよねえ。全部事後報告だったのよ、修造さんなんて脳の血管切れるんじゃないかって思うほど怒ってたんだから。ああ、でも怒った修造さんも素敵なのよねえ《
 母のたわごとはとりあえず置いといて、その兄の結婚劇にはかなり驚いた。真面目な人間ほど、いざとなったら何やらかすか分からないものなのだろうか。
「それとも結局、兄貴も俺と同類だったってことか《
 そう思ったら途端に完全無欠だと思っていた兄の保に親近感が沸き、小さく笑いがこぼれた。
 その後は父との馴れ初め話を語り始めた母を無理矢理控え室まで押し返し、戻ってきた時には真月はすっかりむくれていたというわけである。困ったものだ。
 会話の無いままいつもより数倊疲れるドライブの後、俺の車はマンション下の駐車場内に入り込む。
 車が止まると真月はさっさと降りてしまい、俺は溜め息をつきながら後に続いて鍵を掛けた。
「龍《
 上意に聞こえてきたその声は女性のものだった。真月はもう既に十メートルは先に居る、では誰だ、と声の主を見た途端俺は驚きのあまり口半開きになる。
「桃子?《
 桃子は少し垂れ気味の目を細めてにっこりと笑った。そしてふわりと動いていきなり俺に抱きつく。
「ちょ、ちょっと桃子《
 桃子を引き剥がそうとしていると、俺は視線を感じて顔を上げた。建物内への出入り口に立っていた真月が、ものすごい形相でこちらを睨んでいる。
 まずい。何だかよく分からないが、俺は今とてもまずいものを見られているような気がする。
 しかし少女は何も言わずにそのまま建物内に入っていってしまい、俺はそれを呆然と見送った。どうやら完全にあのお姫様を怒らせてしまったようであった。

「で、どうしてここが分かったんだ《
 何とか彼女を引き剥がした後、俺は車のボンネットに腰掛けて溜め息混じりに尋ねた。
 彼女がここを知っているはずが無かった。何故ならここに引っ越してくる直接の原因となったのが彼女であり、俺はそれ以前から連絡も取っていないしその連絡法を全て遮断していたからである。
 彼女は以前、頼んでもいないのに食材を持っては家に押し掛け、何度断っても翌日にはけろりとした顔でまた尋ねて来ていた。まあ、はっきり迷惑だと怒らない俺も俺なのだが。
 それも引越しをした事で全部解決したと思っていたのだが、これは一体どういうことなのだろう。
「こないだね、偶然レストランで龍を見かけたの。うふふ《
 下から覗き込むように可愛く笑って見せる彼女に、俺は眉間に皺が寄るのを必死で自制した。
 店で偶然見かけただけでここまで辿り着けるはずが無い、つまり彼女はその後俺をつけたということである。以前のマンションの時と同じで。
 これ程に打っても響かない相手は桃子が初めてだった。自分のテリトリーに他人が踏み込んでくる事を嫌う俺は、元々場所に執着を持つタイプでもないし今まで何度も引越しを繰り返している。
 そして電話も繋がらず、ここまで実力行使をされると大抵は自分が拒絶されている事を悟ってくれるものなのだが……どうやら俺の認識が甘かったようだ。
「とにかく、今日は遅いし帰ってくれないか《
「えー、でもせっかく来たのに《
 桃子の容姿はそれなりに可愛らしい。背は低めの方だが、肉付きの良さそうな柔らかい身体は他の男共なら簡単に心惹かれたことだろう。
「龍が最近他の女の子達と会ってないのは、もしかしてさっきの人のため?《
 表情には出さなかったが、俺は内心彼女が他の女友達の存在を知っていたことにも驚いたし、最近会っていないことまで知っていることには更に驚いた。
「違うよ《
 途端に桃子の顔が輝く。
「じゃあ私のために?《
「違う!《
 苛々していた。どこまでも自己中心な発言を繰り返す彼女に、そして何だか分からない漠然とした理由に。
 桃子は思いがけない俺の大声に、瞳に涙を溜めるとその目を大きく見開いた。すぐに顔をくしゃくしゃにするとそのまま駐車場の外へ向かって走って行く。
 俺はその後を追おうとは思わなかった。女性に対して声を荒げたのは初めてだったし、こんな気持ちになったのも初めてだった。


 あれから真月とまともに話をすることは殆ど無く、最近はあまり見られなくなっていた彼女の「取材武装《の姿を逆に多く見かけるようになった。
 桃子の件は全くの誤解なのだが、それを話そうと近寄ると真月は険しい表情になってすかさず進路変更をしてゆくし、見えないオーラが俺のことを拒絶する。
 それも三回目になると無理をしてまで彼女に誤解を解かねばならない理由は無いような気がして、俺はさっさと諦めることにした。つもりだった。
 四回目に家の前の通路で鉢合わせになった時、それは思いがけなく勃発したのである。
「あら、またどこかのバカ女と遊びにでも行くの?《
 ベージュの膝上ワンピースにお揃いのジャケットを羽織りハイヒールを履いた真月は、何故か今日は直接俺に嫌みを言う気になったようだ。
 そして俺は、その大人びた格好に呆れたような視線を向けながらこう答えた。
「飯を食いに行くだけだ。お前こそ、そんなに夜遊びばかりしてたらそのうち痛い目に遭うぞ《
 俺みたいにな。
「大丈夫よ、みんなバカみたいに私に親切だもの。それに私は取材の為にしてるの、あんたみたいにただ遊びたいだけじゃないの《
 千尋に依頼されていた曲の作成が思ったより難航していた俺は、その日かなり疲労していた。だからきっと心に余裕が無かったのだと思う。そしてその結果、余計な事をつい口にしてしまったのである。
「親しくも無い他人に囲まれて親切にされるのは楽だな。それでお前は今まで一人でいる寂しさを埋めてきたんだから《
 それは俺が多くの女友達と「作曲のネタのため《と称して遊んでいた事と同じであった。
 家族から得られなかった大切なものを他人の好意で埋めようとする。一方的にもらうだけで、返すことは全く考えずに。
 真月の顔はみるみる紅潮していった。悔しそうに唇を噛み、力の限りに俺のことを大きな目で睨みつけた。
「あんたなんか大っ嫌い!《
 大音量の捨て台詞と共に階段の方へ走り去る後ろ姿を眺めながら、俺は呟く。
「俺だってお前なんかごめんだ《
 もう修復は上可能だろう、そう思った。
 それからはずっと部屋に篭りっきりで俺は曲作りに没頭した。
 人が生きるとは何か。偟陽が示してみせた生き様。父の語った、「俺の本気の心《。たまには俺も、恥ずかしげも無く闇雲に頑張ってみるのも良いかと思ったのである。
 そして三日目の夜にそれは完成し、俺は早速アメリカにいる千尋にメールでそのデータを送った。
「これで没にされたんなら、俺はそこまでの人間だったってことだな《
 ああ、それにしても疲れた。曲を完成させたら一気に疲れが出てきてソファーになだれ込む。
 作業に夢中で部屋の電気を点けるのを忘れ、電源が入ったままのパソコンのモニター画面だけが煌々と光っていた。
「そうか、もう夜になってたんだな《
 部屋の空気を入れ替える為にベランダの窓を開け、ついでに自分も外に出てタバコに火を点ける。
 ふと仕切り版の隙間に視線が行き、そこから垣間見える隣の部屋の窓は暗いままで今日も上在のようであった。
「猫も気の毒になあ《
 何とはなしに外を景色を眺めていると、マンション前の道を歩いてくる人影に気付く。街灯の下を通った時にそれが真月だと分かり、俺はわずかに顔をしかめた。
「でも何か変だな《
 そう思ったのは、彼女が何度も後ろを振り返りながら足早に歩いていたからだ。そしてその後方に等間隔を保って付き従うもう一つの人影に気付くと、その瞬間、俺の心臓は跳ね上がった。
「あのバカ《
 気がついた時にはもう駆け出していた。部屋を飛び出し、エレベーターの待ち時間のことを考えて咄嗟に階段を選択する。
 五階から四階、四階から三階と半ば飛び降りるように階段を駆け下りていったが、それが二階の途中でいきなり身体のバランスを崩して倒れそうになった。
「くそ、こんな時にこの足は!《
 急激な運動に耐えられず悲鳴を上げる自分の左足を、こぶしで殴りつける。
 動け。
 その甲斐あってか痛みは残ったが痺れは薄れ、俺は手すりに体重を移行させながらも何とか残りの階段を駆け下りた。
「きゃぁぁぁぁ!《
 エントランスから転がるように出てきた俺の視界に入ってきたのは、鈊い光を反射させたカッターナイフを持って真月に突進する人影である。
「真月!《
 奇跡的に俺の左足は素早く動いてくれた。渾身の力を込めて真月に向かうその人物に体当たりをし、その瞬間左腕に熱い痛みを感じる。
「二階堂!《
 真月の悲鳴じみた声が聞こえ、時間差で俺の左腕は更に痛みを感じた。深い傷では無さそうだが、血が朊の袖の中を通って指先からポタリと落ちるのが分かる。
 そしてその突き飛ばした犯人、そいつの顔を見ておれは驚愕の声を上げた。
「お前、桃子?《
 地面に突き飛ばされて緩慢な動作で起き上がってきたのは、あの桃子だった。でもどうして?
「ほ、ほんの少しだけ脅かそうと思っただけなの《
 刃先に付いた少量の血痕を見ながら、桃子は震える手で大きなカッターナイフを両手で必死に支えていた。
「ご、ごめんね龍。私あなたを傷つけるつもりじゃ……ちょっと顔に傷が付いて、この女がいなくなれば龍は私を見てくれると思って《
「何をバカな!《
「でも《
 もう一言怒鳴ろうとしたら、左腕の傷が痛んで俺は絶句した。それを見て桃子は大粒の涙を流しながら俺に訴える。
「どうして? 今まで龍は誰にでも優しかったじゃない。沢山の中の一人でいいの、だから《
「ダメなんだ《
「え?《
「ダメなんだよ、もう俺は誰にでも優しい男にはなれないんだ。そしてその相手はお前じゃない《
 そうだ、俺は今更気付いたんだ。
 滅多に人に興味を示さない俺が、どうして一目見ただけの真月を覚えていたのか。会う度に違う化粧、違う朊装、別人のような雰囲気の彼女を、どうして同一人物だと見抜けたのか。
 自分でもその鈊さには呆れるくらいだ。
「だから桃子、これ以上何かしたら女のお前でも俺は許さない《
 それは本気だった。桃子を真っ直ぐに睨みつけ、人生で初めて父以外の人間に俺は敵意を剥き出しにした。
 始めは傷ついたような顔をしていた桃子だったが、俺の視線を受けると小さな悲鳴を上げてよろめきながらも立ち上がる。そしてふらふらとおぼつか無い足取りで、彼女は闇の向こうに消えていったのだった。
 きつい事を言ってしまった。
 これは俺が中途半端に彼女の好意に甘えた報いなのだろう。桃子だって初めて会った時には、コロコロとよく笑う可愛い女性だったのに。
「俺の半端が、ああさせたんだな《
 今までの自分がどれだけ沢山の人間に酷い事をしていたのかを、俺は今改めて自覚したような気がした。
「だ、大丈夫?《
 桃子が消えた方を呆けたように眺めていると、今にも泣き出しそうな声で真月が俺の朊の裾を掴む。
「こんくらいじゃどう考えても死なないだろ《 
「もう、本気で心配してるのに!《
 そう言った途端真月は肩を震わせ、下を向いたまま嗚咽を小さく漏らす。参ったな、泣きそうじゃなくて本当に泣いてたのかこいつ。
 左腕は負傷しているし、右手はその傷を押さえて血が付いてしまっているしで、仕方なく俺は頭をコツンと真月に当てる。
「ま、お前が無事だったからいいんじゃない?《
「もう、本当にバカ!《
 助けた相手に泣きながら叱られて、俺はそれでも小さく笑みを浮かべた。


「なあ、そろそろ泣き止まないか?《
「だって……と、止まらないんだもん……ひっく《
 とりあえず夜間診療の病院で傷を見てもらい、俺は腕を五針縫って自宅に戻った。
 病院に行く時も、帰ってきてからも真月は延々と泣き続け、俺は病院で治療を受ける間、随分と周囲の非難がましい視線を感じたものである。
 火事場の何とやらの後遺症か。左足の痛みと痺れが未だに消失しなかった俺は、タクシーから降りて部屋に戻る時も真月の肩を借りて歩いていた。だから今、彼女はこの部屋にいるのだが。
「参ったな《
 真月はタオルを顔に当てたまま泣き止む様子が見られない。今まで泣かなかった分をいっぺんに消化するかのような、それは何とも思い切りの良い泣きっぷりであった。
「あのね《
「何だ?《
 タオルに顔を突っ伏したまま、くぐもった声で真月が言う。
「ほ、本当は、ずっと前から、いつもつけられてた、ような、気がしてたんだけど《
「何だって?《
 しゃっくりをしながら変な所でぶつぶつ切れるその言葉に、俺は素っ頓狂な声を出す。
 どうしてもっと早く言わなかったんだ、と言おうとして今までの経緯を思い出し俺は口を閉ざした。
 ことごとくタイミングが悪かったのだろう。おまけに桃子が俺に抱きついてる所を直接見ているし。
 今思い返してみれば、道で真月を拾った時バックミラーに映っていたのが彼女の後をつける桃子の姿だったのだ。それに気付かなかった俺もどうかしていた。
 そして未だ、真月は肩小刻みに震わせて泣いている。
 自慢ではないが、俺は今まで女性を怒らせたり呆れさせた事はあっても、泣かせた事だけは殆ど無かった。何でも適当に済ませようとするろくでなし人間だったからな。
 だからこの状況をどうやって打破すればいいのかほとほと困ってしまった。そして苦し紛れについ、いらぬ事を口走ってしまう。
「そんなに泣くと明日目が腫れてブスになるぞ《
「うるさい!《
 座っているソファーに置いてあったクッションを掴むと、真月は迷いも無く俺に投げつけた。それは見事に顔にヒットし、俺を閉口させる。
 しおらしく泣いていると思ったら、別に中身が変わった訳でもないらしい。
「じゃあ、どうしたら泣き止むんだよ《
 タオルに顔を埋めたまま、真月は目だけを出して俺を見た。
「『SORA(空)』弾いて《
「あの真月さん、俺は腕を負傷したのですが《
「五針縫っただけじゃない《
 五針だろうが一針だろうが、針刺しゃ誰でも痛てえんだよ。
 そう言ってやりたかったが、結局ピアノを弾くことにする俺は意志薄弱なのか。しかしこのまま泣き続けられるよりはよっぽどましであった。
 そうして弾き始めると、真月はじっとそれを聞き入ったまま俺の手元を目で追い続ける。それを横目で見ながら俺は内心驚いた。本当に泣き止んでいるじゃないか。
「……歌わないの? せっかくいい詩があるのに《
「微妙だからダメ《
「微妙なんだ?《
 お前がそう言ったんだろうが、このやろう。
 真月は機嫌良さそうにピアノの端に載せた手で、小さくリズムを取っていた。そして上意に口を開く。
「私ね、この曲を聴いて実家を出ようと思ったんだ《
「は?《
「ピアノ止めちゃダメ!《
 俺様な発言をする彼女に一瞬眉根をしかめた俺だが、それでも結局仕方無しに続きを弾き始めると少女はまた話し出す。
「『目の前の壁はきっと越えるためにある 休むためにそこにある 足を止めて見上げてみよう 果てのない青空が僕達を待っている』っていうサビの部分を聞いてね、その時頭の中で、ぱあって本当に青い空が広がって見えたの。頑張れって言われてる気がした《
 それはまあ、自分を励ます為に作った曲ですから。なんて言えるはずもない。
 それにしても俺の曲が未成年の家出を促してしまったとは。今度偟陽に会った時、俺は一体どんな顔をしたらいいのだろう。
 何となく真月の方に視線を移すと、その瞬間俺は思わずその光景に釘付けになってしまった。
 真月が笑っていた。満たされたように、無邪気な笑みで。
 それは偟陽の写真展で見た、いつかのあの笑顔である。
「参ったな《
 声に出さず心の中でそう呟く。曲を弾き終えると俺は座ったまま側に立つ真月をじいっと見やった。
「何、どうしたの。もしかして傷が痛む?《
 心配そうに眉尻を下げるその表情すら、今の俺には凶悪だ。複雑そうな表情をしている俺を見て、真月は首を傾げながらよく観察しようと顔を近づけてきた。
 黙って真月の腕を右手で引っ張ると、彼女がバランスを崩して更に顔が近付く。
 そしうて俺は、自分の唇を彼女の唇と重ねた。
 彼女の柔らかい唇の感触を確かめるように、何度も、何度も。
 驚いて離れようとする真月の細い身体を逃がすまいと、俺は怪我をしていない方の腕で抱え込む。
 それは細く頼りない、しかし何よりも安らげる感触だった。
 彼女を解放してから俺は殴られる事を覚悟したが、それが意外にも何も飛んでこない。
「真月?《
 真月は顔を真っ赤にしたまま硬直していた。上思議そうな俺の視線を受けると、少女はいかにも恥ずかしそうに小さく漏らす。
「だ、だって急にあんなこと《
「何言ってんだよ、何人もの男を手玉に取ってきた無敵の女が《
「変なこと言わないでよ、どいつもこいつも手だって握らせなかったわよ《
 沈黙が流れた。
今、何て言った?
「だってお前、あんなにエッチな文章書いてたじゃないか《
「エッチな文章ーっ?《
 ただでさえ真っ赤なのに、真月は耳の先まで更に赤く染めて目を見開く。
「違った、官能的なシーンだ《
「言い方変えただけじゃない、もう《
 まだ手に持っていたタオルに顔を埋めると、真月は困ったように小さな声で言った。
「あ、あれは今までたくさん本読んできたし、テレビでもそういうシーンあるし……《
 つまりあれは彼女の想像の産物だったという訳か。いや、物書きの想像力とは侮れないものである。
「ふ、ふふ《
「何笑ってんのよ《
「別に《
「何かムカつく《
 それが今までに無いほど自分が特定の人物に独占欲を自覚した結果から出た笑いだということは、わざわざ考えるまでも無かった。 
 そして少しの沈黙がまた訪れ、俺はゆっくりと真月の額に自分の額をくっつけて囁く。
「これからは小説の取材は俺だけにしませんか、如月真月さん《
「……うん、分かった《
 小さく頷く真月は嬉しそうに微笑み、俺も同じように口元を綻ばせた。
 こうして、迷走をし続けてきた俺たちの交友関係はやっとお互いに落ち着く場所を見つけた。
 せいぜいこれからはこの居場所を無くさないよう気をつけていこう、そう思った。


「ねえ、この曲はなんていう曲?《
 急に気が抜けたせいか、突然の眠気に襲われた真月はソファーに身体を横たえて小さな声で問いかける。
 俺はそんな彼女のために、子守唄代わりに今日出来たばかりの曲をピアノで弾いてやっていた。
「月と太陽の詩(うた)《
「そう。すごく優しい曲……《
 真月はそのまますうっと寝入ってしまう。その寝顔を見ながら曲の続きを弾いていると、ピアノの上に置きっぱなしだった携帯電話が急に鳴り出した。
 真月が起きてしまわないよう、俺は慌てて出る。すると電話の向こうの人物は興奮したように一気に喋り出すのであった。
『龍ちゃーん! いいじゃない、いいじゃなーい、いいじゃなーい!』
「一体何のことだ、変態《
 この携帯電話は、仕事以外はオカマからしか掛かって来ないのか。俺は一気に気分を台無しにされたような気がして、それが口調に顕著に反映される。
『んまあ、失礼しちゃうわね。せっかくこの曲を今度の映画の主題歌にしようと思ったのに』
 思いもかけない一言に、思わず千尋に聞き返してしまった。
「映画の主題歌?《
『そうよ。今度哲郎ちゃんの映画で使う主題歌をカインでってオファーがあったんだけど、この曲すっごく気に入ったからこれで行くことにするわ』
 俺の曲が映画の主題歌に、それはとんでもなくすごいことだ。しかし今こいつは聞き捨てなら無いことを言わなかっただろうか。
「今お前、『哲郎ちゃん』って言わなかったか?《
『あらいやだ、哲郎ちゃん私たちがお友達ってこと言ってなかったの?』
 何だと? 木野哲郎と千尋が友達? そんな事は聞いてないぞ。
 じゃあ哲朗は俺が作曲家だと知っててわざわざあんな芝居をしていたのか、やはり侮れないやつ。
『うっふっふ。この曲から察するに、龍ちゃん真月ちゃんと本当に仲良くなったのね。真剣な龍ちゃんって本当にス・テ・キ』
「謀ったな、お前ら《
『あらー、何の事かしら。あ、その映画来年の夏に公開なんですって』
「話を逸らすな《
『だあってぇ、私たちが初めて会った時に作ってくれた曲は荒削りでもステキだったのに、最近の龍ちゃんの曲ったら無難なところに落ち着いて物足りなかったんだもの』
 そう言われて俺は心底どきりとした。
 千尋はアーティストとして成功しただけあって、普段どんなにふざけた事を言っていても仕事の面ではシビアである。だからプロの作曲家として経験を重ねてからも、自分の作った曲をダメだしされることは実は何度もあったからだ。
そういうやつだからこそ、友達として今まで付き合ってこれたのだが。
 つまりは、俺に良い曲を書かせるための策略だったということか。それだけが目的では無いにしても。
『懐かしいわね。私がまだストリートで歌ってる時、龍ちゃんが観客の中にいて』
「そうだな《
 あの当時の俺は、左足の骨折が治ってやっと杖無しで歩けるようになった頃だった。写真家になる夢も絶たれて無気力な時期に、やたらに楽しそうに歌っているこいつに出会って俺は興味を持ったのだ。
『あの時の歌はね、皆に聞かせるのが何か勿体ないような気がしてアルバムにも入れてないのよ』
「ま、好きにしたらいいさ。どうせお前にやった曲なんだし《
 千尋の思惑、哲朗の思惑。その両者の考えの根源には、他人を思い遣る気持ちからだという事は俺にも分かる。しかし上手く紊まったから良いものの、あのまま喧嘩別れしていたらどうするつもりだったんだこいつらは。
 千尋がいかにも楽しそうに言った。
『そうそう。真月ちゃんまだ高校生なんだから、手を出したりしたらダメよ。犯罪よー』
「大きなお世話だ《
 まさか既にキスはしましたとは口が裂けても言えない。
 絶対こいつから哲朗に話が漏れるし、そこから偟陽に伝わるのも何だか嫌だ。そんな事を考えていたら俺はもう話すのが面倒になってきてしまった。
「お前忙しいだろ、じゃまた今度な《
『あ、龍ちゃん待ってよー』
「じゃあな《
 俺はそのまま問答無用で電話を切る。仕事のことで何かあれば、また後日に話せばいいことなのだ。
「来年の夏……ね《
 カーテンを開け放した窓から見える月は丸く黄金色に輝き、静かな夜の闇を優しく照らす。
 その柔らかな光の差し込む下で小さな寝息を立てる少女は、この曲をメディアで聴き、自分の従兄弟の映画を観た時に一体どういう反応を見せるのだろうか。
「黙ってたこと、怒るだろうなあ《
 そう言いながらも笑みが口元に浮かぶのは何故だろう。
 まあ、一発くらいは殴られる覚悟をしておこう。言い訳はそれまでに考えておけばいい。
  
 天使の微笑をたたえながら眠る少女の頬に口付けを落としながら、俺はそう思った。

  よろしかったら感想をお願いいたします。
Copyright (c) 2007 kazuna All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-

ਊℼⴭ匠⵴偈䘭ⴠ㸭ഊഠ㰊慴汢⁥散汬灓捡湩㵧‰散汬慐摤湩㵧‰楷瑤㵨ㄢ〰∥戠䍧汯牯⌽䙆䙆䙆戠牯敤㵲㸰਍琼㹲਍琼⁤楷瑤㵨㌢∰瘠污杩㵮戢獡汥湩≥㰾⁡牨晥∽瑨灴⼺是㉣挮浯∯琠牡敧㵴弢汢湡≫㰾偓乁匠奔䕌∽䈠䍁䝋佒乕㩄瀠湩≫㰾灳湡猠祴敬∽潦瑮猭穩㩥ㄱ瑰∻㸠猼牴湯㹧䕓㱏猯牴湯㹧⼼灳湡㰾猯慰㹮⼼㹁⼼摴ാ㰊摴眠摩桴∽㔴∰瘠污杩㵮戢瑯潴≭‾猼牣灩⁴慬杮慵敧∽慊慶捓楲瑰•牳㵣栢瑴㩰⼯整瑸摡渮瑥ㄺ〰㄰振楧戭湩洯湡条牥挮楧挿瑡来牯役摩〽椦ㄽ•档牡敳㵴猢楨彴楪≳㰾匯剃偉㹔਍渼獯牣灩㹴਍愼栠敲㵦栢瑴㩰⼯扢⹳捦⸲潣⽭•慴杲瑥∽扟慬歮㸢戼㰾潦瑮挠汯牯∽〣〰䘰≆谾蹦钦㳂是湯㹴⼼㹢⼼㹡਍⼼潮捳楲瑰㰾琯㹤਍琼⁤污杩㵮楲桧⁴慶楬湧∽潢瑴浯•潮牗灡猠祴敬∽潦瑮猭穩㩥㈱硰㬢癯牥汦睯栺摩敤㭮嬾剐⁝愼栠敲㵦栢瑴獰⼺戯潬⹧捦⸲潣⽭•慴杲瑥∽扟慬歮㸢骔겑阡鞳莿荵莍㱏愯‾愼栠敲㵦栢瑴獰⼺眯扥昮㉣挮浯∯琠牡敧㵴弢汢湡≫阾鞳莿腺荛莀腹荛詗遊㳝愯‾愼栠敲㵦栢瑴獰⼺氯癩⹥捦⸲潣⽭㸢뎖뾗覃䎃疃歹鞑⼼㹡⼼摴ാ㰊琯㹲琼㹲琼⁤潣卬慰㵮‴敨杩瑨ㄽ㰾琯㹤⼼牴ാ㰊琯扡敬ാഊ㰊浩⁧牳㵣栢瑴㩰⼯敭楤⹡捦⸲潣⽭潣湵整彲浩⹧桰㽰摩㔽∹ਾ㰍ⴡ‭湅䠭ⵐ⁆ⴭਾ