ヒューロの欠片  第二話 「パリの正義」 4
 
 人の数、時代の数だけ無数の小さな流れが集まり、それは一つの大きな時の河となる。
 その大河のうねりに翻弄されて後世に名を残すほどの偉業を成し遂げる者、小さな幸せを見つけて生を終える者、悲しみや苦しみを抱えて消える者。
 そこにある人生は千差万別だ。
 一つの要素が変われば、その後の支流の流れも自然と変わる。
 今、人智を越えた神の力によって、その一石が河に投げ込まれようとしていた。
「愚かなる人間よ、運命が変わったからといって必ずしも以前より良い人生が待っているとは限らない。お前は違う道を選んだ、ただそれだけだ」
 ヒューロは再び一人きりになった闇の中で、ただ見つめている。
 抜ける青空、ひしめく建物群の中を走る石畳の道を、ひたすら駆け抜けてゆく一人の少年の姿を。
 二十年前のパリの街をひたすらレ・アルに向かって、マクシミリアンは走っていた。
 十六歳の身体とはこんなにも軽いものなのか。内心驚きながらも足の速度を緩めることはない。
 早く彼女の元へ。そう急く気持ちで胸が張り裂けそうだった。
 途中で辻馬車を捕まえて飛び乗る。ポン・ヌフ(セーヌ川にかかる橋)を渡り、真っ直ぐ対岸のサン・トル街へ馬車は向かった。レ・アルのある広場は、もうその先だ。
 すえた臭いのする狭い車内で外の様子を今か今かと窺っていたマクシミリアンは、馬車が停まるなり外へ飛び出した。
「マリアンヌ、マリアンヌ!」
 真っ直ぐ花屋へ向かい、ひしめく人ごみの中に懐かしい少女はすぐに見つかった。不思議な空間から過去を垣間見るのではない、現実に今あの彼女が自分の目の前にいる。
「マクシム」
 驚きと困惑の表情で彼を出迎えた少女は、しかしかつての太陽のように元気な笑顔を見せてはくれなかった。
「何のご用?」
 顔に笑みを浮かべているにもかかわらず、与える印象は何故か物悲しい。それが前日に自分が彼女を拒んだせいだという事をようやく思い出して、表情を改めた。
「どうした、マリアンヌ」
 花が所狭しと並べられた屋台の奥から出てきたのは壮年の男である。茶色いくせのある髪を後ろでくくり、太い眉毛にいかにもいかつい顔をした大男だった。
「ダミアン伯父さん」
 ダミアン・ボワイエはマリアンヌの母親の兄であり、子供のいない彼ら夫婦の実子同様に姪を育ててきた厳しくも頼もしい頑固親父である。
 いかつい顔の大男が経営する花屋はしかし意外にも繁盛しており、店主の愛想が足らない分を姪と今は席を外している彼の賢い妻が支えているのだった。
 ダミアンはじろりと痩せた少年を見下ろすと、横にいる姪に尋ねる。
「何だあのひょろっちい奴は? 昨日も来てたな、確か」
 明らかに始めから好意的とは無縁の視線であったが、マクシミリアンは怯むことなく受け止めた。
 過去のマクシミリアンなら何も言えなかっただろう。しかし彼は海千山千の人間を相手取り、政治の中枢を泳いできた人間なのだ。
 マクシミリアンがダミアンに向かって丁寧にお辞儀をすると、市場には相応しくない優雅な気品が漂う。見上げた真摯な瞳に射抜かれ、ダミアンは自分よりはるかに年下の少年に目を見張った。
「マクシミリアン・ド・ロベスピエールと申します、ムッシュー。しばらくお嬢さんをお借りしたく、参上しました」
 あの闇の中で、彼は独りであることがどんな事であるかを自覚した。こんなにも自分が誰かを必要としていることに、革命に奔走している間は気付かなかった。いや、気付かない振りをしていたのかもしれない。
「ふん、勝手にしろ」
「ありがとうございます」
「え、伯父さん?」
 店の中に戻っていく大きな背中をうろたえながら見送る少女の腕を掴むと、マクシミリアンは市場の外へ走り出した。
「ど、どこへ行くの?」
「話がある」
 不安げな声を上げるマリアンヌを振り返ると、マクシミリアンはわずかに笑みを浮かべた。
 着いた場所はレ・アルの隣にあるサン・トゥスタッシュ教会の広場である。
 マクシミリアンにしてみれば遠い過去の出来事だがマリアンヌにとってはまだ傷の癒えぬ、つい昨日辛い思いをした場所だ。これ以上何を言われるのだろうかと不安に慄きながら、少女は未だ腕を離さない少年を見やった。
「マク……」
「昨日はごめん」
「え?」
「それに君がどこかの身分ある人との結婚が決まっていたとしても、私は自分の気持ちをちゃんと伝えたい。あ、その前にこれを返しておくよ、マリアンヌ」
 上着のポケットから出した白いハンカチを開き、マクシミリアンはロザリオを差し出す。
「は? あ、ああ、これはあなたのお父様に」
「大事なものなんだろう?」
 言われるままにそれを受け取りながら、何か得心いかない様子で少女は首を傾げる。
 改めて目の前の少女を見ながら姿勢を正すと、マクシミリアンの鼓動が自然と速くなった。
 どんなに大勢の民衆の前で演説をしても、国民公会の議会で発言する時でさえもこんなに緊張したことはかつてない。
 手の平の汗を感じつつ、記憶と変わらない可憐な少女の空色の瞳をじっと見つめながら口を開いた。
「君が好きだ」
 最初は無言であった。水色の瞳は大きく見開かれたまま少年を凝視して、彼女はピクリとも動かない。
「君を守りたい。昨日の無礼は、あの、どうか許して欲しい。…………マリアンヌ?」
 気がついた時には目に涙をいっぱいに溜め、顔をくしゃくしゃにしたマリアンヌが肩を震わせていた。
「もう、何よ今更。昨日は本当に傷ついたんだから」
「うん、ごめん」
 彼女の白い頬の上を、真珠の様な涙が光を反射しながらぽろぽろとこぼれていく。
 昨日流したものと同じはずなのに、こんなにもお互いの気持ちが穏やかなのは何故だろう。
 マクシミリアンはハンカチで白い頬を優しく拭ってやる。
 その時だった。一瞬マクシミリアンの身体に小さな雷撃が落ちたように痺れが走り、視界が真っ白に染め抜かれる。
 呆然とそのままの姿勢で数秒立ち尽くし、マリアンヌも異変に気付いて少年の顔を覗きこんだ。
「マクシム、マクシム大丈夫?」
 身体を軽く揺さぶる振動にやっと我に返ると、少年は驚いたように目の前の少女を見つめ、そして周囲を見回す。
「あ、あれ。私はどうして……」
 自分はマリアンヌに会いに行くかどうかを悩んでいた。そして強い想いに引き摺られる様にしてここへやって来たのだ。それは分かる。
 そしてたった今、マリアンヌに「好きだ」と伝えたことも彼はしっかり覚えていた。
「でも」
「もうなあに、あなた変よ。大体、私結婚が決まってる人なんていないし」
「え、結婚って何?」
「自分が言ったんじゃない、マクシムったら」
「そ、そうだったかな」
「そうよ」
 そう頷くマリアンヌの顔にはあの輝くような太陽の微笑みが戻っている。わずかに感じた自分の中の違和感さえも、それを見れば取るに足りない出来事のようにマクシミリアンには思えたのであった。

「私のお母さんは亡くなったんだけど、お父様は生きてらっしゃるの」
「じゃあ、この間言ってた返事っていうのは」
「伯父さんはダメって言ってたんだけど、どうしても一回だけお会いしてみたくてこっそりね」
 そうイタズラっぽく笑う少女を見ながら、マクシミリアンは以前自分が思ったことが杞憂であったと知って内心胸を撫で下ろした。
 そして先ほどからずっと気になっていたことを思い切って聞いてみる。
「マリアンヌ、そのボンネット外してみてくれないか」
「えっ、あ、いやその……」
 突然動揺を見せる少女の頭に手を伸ばし、マクシミリアンは髪を覆っていた白いボンネットを慎重に外す。始めは抵抗しようとしたマリアンヌだったが、急接近した彼の顔や身体の圧迫感に緊張してそれどころではなくなってしまった。
「ああ、やっぱり」
 マクシミリアンの吐息のような声がもれる。眉尻が下がり、なんとも悲しそうな表情になった。
「ごめん、これも父上のせいだね」
「そんなことないの、私が勝手にやったんだから。だからあの、マクシムがそんな顔すると、私も悲しいし……」
 いつか見た彼女の栗色の美しい髪は結い上げて尚余裕を持っていたはずなのに、今やそれが肩の上辺りまでしかない。
 上流階級の人間が使うカツラの材料は人毛や馬の毛が主流だ。決して裕福でもない彼女は、父に渡す金を作るのに自分の髪を売ったのだろう。
「金髪ならもっと高く売れたのに残念」
 気遣うように微笑むマリアンヌを見て、これ以上は何を言っても彼女の負担になる事を覚って苦笑しながらも短い髪にそっと触れた。
 やがて天に居座っていた日が西の地平にその身の半分を沈め、街は夜の帳に包まれ始める。
 しかしパリの街が眠りにつくのはまだまだこれからだ。真面目な農民や商売人たちが早々と夕食を終えて寝支度を始める頃、暇を持て余した貴族や裕福なブルジョワ階級の者たちがそろそろと繰り出し始めるのである。
 繁華街ならば夜遅くまで営業しているローストビーフ屋やキャバレーの明かりで二十三時頃まで明かりなしでも十分歩けたが、今いる教会の辺りはそうもいかない。
 話すのに夢中でこんなに遅い時間まで引き止めてしまった事を後悔しながら、マクシミリアンは大切な想い人を促した。
「送るよ、帰ろう」
「うん」
 少し恥ずかしそうにマリアンヌは頷き、マクシミリアンの手を後ろからそっと握る。少年は一瞬驚いたように目を見開いたが、わずかに頬を染めただけで口には何も出さなかった。
 いつか自分がアラスに帰る時、こうして彼女の小さな手を握って共に行けたらどんなに良いだろう。
 故郷で自分たちを喜んで出迎えてくれる兄弟の姿を思い浮かべながら、マクシミリアンは未来のことを想った。
 その時である。薄暗くなった通りを猛スピードで走ってくる四輪馬車がいた。
 金持ちがよく使う四輪馬車の割には、全面が黒塗りで余分な装飾は一切見られない。
 猛スピードで回転する車輪が、石畳に激しくぶつかって悲鳴を上げていた。
 御者の男の服もまた漆黒に染め抜かれた色で、まるで闇に溶け込んでいるかのように思える。
 馬車の扉が乱暴に開いた。
 身を乗り出したもう一人の男が身に付けている黒い外套が風に煽られ、見える内側の深紅の布地がいかにも不吉である。
 馬車は真っ直ぐマクシミリアンたちに向かって突進すると、距離をあっという間に縮めた。そしてすれ違いざま、車内に乗っている男が太い腕を伸ばしてマリアンヌの腕を取ったのである。
「きゃあ!」
「マリアンヌ!」
 二人が手を繋いだままだったのが幸いした。
 マクシミリアンは慌ててマリアンヌの身体を引っ張り、不審人物の強襲から辛うじて地に留める。
 理由は分からない、どこの誰とも分からない。しかしあの馬車がマリアンヌを攫おうとしていることだけは明らかだ。
 マクシミリアンはよろめくマリアンヌの手を引っ張って走り出した。
 あいにくこの近辺は既に人影がない。どこか人気のある所はどこだ、脳が瞬時に考えを巡らす。
 北に走れば昼も夜も貴族がお祭り騒ぎをしているパレ・ロワイヤルが。東に行けば日が暮れても絶えず交通量のある橋、ポン・ヌフがある。
 距離にすればどちらも同じだったが、マクシミリアンが選んだのはパレ・ロワイヤルの方角だった。
 パレ・ロワイヤルはルイ十六世の従兄弟オルレアン公が居城を開放している庭園で、ルーブル宮のすぐ隣にある。
 中へ入るのに必要なものは身分ではなく、最新流行の服で着飾った見てくれだと言われていた。庶民の格好をした自分達が入るのは難しいかもしれないが、そこまで行き着けばかなり往来も多いし、入り口にはスイス人の衛兵が常駐しているはずである。
「早く、こっち」
「マ、マクシム待って」
「待ってたら追いつかれてしまう、早く!」
 通り過ぎていった馬車がもたもたと方向転換している間に、二人はとりあえずレ・アルの広場へ繋がる細い路地に駆け込んだ。
 教会の広場からレ・アルに入るには通常表通りを大回りしなければならない。最短の抜け道を使って人気のない市場にやって来ると、土地勘のあるマリアンヌが指差した。
「あっち、あっちに正面入り口とは反対の路地へ抜ける道があるわ」
 早朝から夕方まで人でごった返す大市場も、さすがにこの時間になると静まり返っている。所狭しと並ぶ屋台もその骨組みと品物を並べる台だけが野ざらしにされて、いかにも寂しげな雰囲気が漂っていた。
 その間を走り抜けながら、どうしてこんな状況になってしまったのかとマクシミリアンは考える。しかし普段激しい運動とは無縁の少年は、息を弾ませながら障害物に足を取られないようにするだけで精一杯であった。
 山のように詰まれた木箱の横を通り抜け、地面に置きっぱなしになっている天幕を飛び越える。ジグザグになっている細い通路を駆け抜けて、屋台が連なる隙間を抜けた。
 店じまいした大きな商店が並ぶ細い裏路地に出て大樽が並ぶ間に身を潜めると、その隙間から正面先の大通りを窺い見る。
 その途端先ほどの怪しい馬車が怒涛のように通り過ぎて行き、レ・アルの中へ入っていったようであった。
 その時改めて馬車を見たマリアンヌが一瞬息を飲む。どうしたと声を掛けようとした少年は、隣の少女の顔の蒼さに一瞬同じように息を飲んだ。
「マリアンヌ?」
 しかしここでぐずぐずしているわけには行かない。日はいつの間にか完全に沈み込み、辺りはすっかり真っ暗になっていた。少女の手を引っ張りながらマクシミリアンは立ち上がる。
「早く」
 引き摺るようにしてマリアンヌを立たせたが、何故か目を見開いたまま自ら動こうとはしなかった。
「マリアンヌ」
「お、お父様……」
「何?」
「あの馬車に付いていた紋章は……お父様の」
 唇を震わせながらそう呟いたマリアンヌの顔はすっかり血の気が失せ、マクシミリアンは少女にかける言葉を失った。


 壁に括り付けられたランタンの火が、煌々と闇に包まれようとしている室内を映し出す。
 豪奢な織りの厚いカーテン、落ち着いたクリーム色の壁紙の縁には所々金箔があしらわれ、夏の間は使われることのない暖炉や棚の上には見事な彫刻の芸術作品がずらりと並ぶ。
 しかし一見派手に思えるその装飾たちもトータルで見れば控え目なデザインであり、それがより上品さを醸し出すことに成功している。
 部屋の隅にある天蓋の付いた小さなベッド。そのすぐ横に腰掛け、ベッドに寝かされている幼児を優しく見つめていた一人の女性がゆっくりと振り返る。
「あなた、リシュリュがやっと寝ましたわ」
「そうか」
 音を立てないよう静かにドアを開けて入って来た夫に微笑むと、薄い紅色のドレスを身にまとった女性、ヴァレリー・デュナンは立ち上がった。
「あの話はどうなりまして?」
 この屋敷の主人たるエドモン・デュナンは今年で三十七歳になる。その夫人は未だ二十四歳と年若く、二人の間に生まれた長女リシュリュはまだ三歳になったばかりであった。
「ああ、やはりカスタニエ卿の次男と話が進みそうだ」
「まあ、よろしかったこと」
 あでやかに微笑む夫人を見やると、エドモンは自慢の顎髭を触りながら眠る我が子をそっと覗き込む。
 エドモン宛に娘だと名乗るマリアンヌ・ボワイエから彼に手紙が来たのは、今から一週間ほど前のことだった。
 始めは大蔵省の高級官吏である彼に取り入ろうとするいたずらかと思ったのだが、ボワイエという苗字を見てすぐに思いなおした。
 まだ学生の頃、彼はある街娘と恋に落ちたことがある。娘の名前はアンヌ・ボワイエ。
 何か贈ろうと言えば彼が身につけている物一つだけで良いと言い、エドモンは銀のロザリオをその細首にかけてやった思い出がある。街娘にしては珍しい、慎ましやかな女性であった。
 結局体裁を気にする彼の両親の妨害によりアンヌは目の前から姿を消してしまったのだが、まさかその時に彼女が身ごもっていたとは。
「私に娘がもう一人いただなんて本当に驚きだ。しかもその子はしっかりとした字も書ける教養があるらしい」
 仲間にそうもらしている所へ上官が通りかかり、仕事のできるデュナン氏の娘ならきっと利発に違いない、とトントン拍子にこの話が持ち上がったのである。
 しかし数日前に使者を出してマリアンヌを迎えにやったところ、伯父のダミアンに追い返されて伝言すらできずに戻ってきた体たらくであった。
 既にマリアンヌへは返事を出した後だったので、結婚のことを書き綴った手紙を更に送ってはみたが、どうやらそれもダミアンによって握りつぶされている様子である。
「昔一度だけ見たことがあるが、あの男は頑固の塊のような人間だったからな。これはなかなかに難しい」
 しかし既に上官の子息との婚姻話は走り出している。デュナン家は貴族ではないにしても代々廷臣として繁栄してきた家系であり、その豊富な資産と役人として有能なエドモン自身の将来性を思えば、上官が婚姻話を持ってくることも不思議な事ではなかった。
 とにかく、マリアンヌをできるだけ早く引き取って淑女として仕立て上げなくてはならない。そう焦る彼が出した結論は至って単純なものであった。
「まずダミアンに金で交渉してみよう。それでダメなら力ずくで引き取るのみ」
 役人として上官と親戚関係になるということは大きな魅力である。妻との間に生まれたリシュリュはまだ三歳、偶然降って湧いたような幸運を逃すほど彼は愚かな人間ではなかった。
「マリアンヌ嬢と上手くやれるかしら、私」
「君とは八つしか変わらないから、姉妹のようなものだな。マリアンヌが家に来たら行儀作法をよく教えてやってくれ」
「ええ、楽しみにしているわ」
 エドモンは夫人の白く美しい頬を撫でると、そこに小さなキスを落とす。同じように未だ夢の世界にいるリシュリュの頬にも口付けをすると、戸口で来客を告げる使用人と共に部屋を後にした。
「そうね、楽しみにしているわ。ねえ、リシュリュ?」
 夫がいなくなった部屋で一人呟くと、ヴァレリーは側にあった花瓶に手を伸ばす。
 薔薇の大輪をしみ一つない細指で握りつぶすと、絨毯の上に深紅の花びらが音もなく舞い散った。
「あの娘を迎えに行ったのは、特別な使者ですもの。ふっ、ふふっ……ふふふふふ」
 部屋の照明に照らされた横顔は妖しいほどに美しく、そして悪魔を魅了する毒を含んでいる。
 娘のリシュリュは生まれつき病弱で、すぐに熱を出しては両親を心配させる子供だった。もし、この子が死んだら。
 資産家のデュナン家だからこそ十三も年上の夫に嫁いだのだ。後から出てきた下賎な血の私生児などに、デュナンの資産は一リーヴルとて譲りはしない。
「本当、会うのが楽しみだこと」
 夫が差し向けた使者の代わりにヴァレリーが用意した男達は、決してマリアンヌをこのデュナン邸には連れては来ない。そして逃がすくらいならば……
「ふふ、ふふふふふ……」
 呪いの小さな笑い声は部屋の隅の闇に溶けてゆく。
 貞淑で美しいと世間で評判のデュナン夫人は、自分が描いた喜劇の行く末をここで静かに見守っていた。


「こっちだ!」
「ま、待ってマクシム!」
 石畳を蹴りつける靴底が響いて足にビリビリと振動が伝わる。
 走って、走って、心臓が破れるほどに息を弾ませて、それでも背後から迫る黒い馬車の影は消えることはなかった。
 しかしどんなに苦しくてもマクシミリアンは繋いだ手を絶対に離さない。離した瞬間に彼女がどこかへ消えてしまうのでは、という不安を本能が敏感に感じ取っていたからだ。
 本来は北のパレ・ロワイヤルへ向かうはずだったが馬車に追い詰められる度に方向転換を余儀なくされ、いつの間にか二人はポン・ヌフ(橋)のすぐ近くに来てしまっていた。
 やっとのことでサン・トル街で馬車を再び撒き、二人は河に向かってひたすら足を進める。
 夜のポン・ヌフにも物売りはいるし、橋を渡ってセーヌ河の中央にあるシテ島に辿り着ければ裁判所やコンシェルジュリ牢獄がある。
「この橋を渡りきれば衛兵が巡回しているはずだ、もう少し頑張れ」
 息も絶え絶えなマリアンヌを鼓舞するマクシミリアンも、あくまで頭脳が売りで体力はそれ程でもない。酸欠で視界がかすみ、足が鉛の塊のようにずしりと重かった。しかし何としても自分が守るのだという気持ちだけで身体を動かしている。
「きゃあ!」
 ポン・ヌフはセーヌ河に架かる橋の中で最も使用頻度の高い橋だった。馬車が横に三台は並んで走れる広さがあるし、その横にはちゃんと別で縁石で区切られた歩行者用の道が造られている。
 目の前に広がる石造りの橋に足を踏み入れて半分も踏破できないうちに、マリアンヌが疲労で足をもつれさす。
 石の上に倒れこむ彼女を抱きかかえようとするが、いかんせん疲労で全く力が入らない。その時すぐ横で果物売りが目を真ん円にして自分たちを凝視しているのに気付き、マクシミリアンは視線を動かした。
「何だい、あんたたち」
 果物売りの男は歩道の縁石の上に敷いた布上に商品の果物を乗せ、繁華街から帰ってくる酔っ払い相手に口先三寸でそれを売りつけるのが仕事である。
 夜陰に轟く蹄の音が聞こえた。石畳を叩きつける車輪の軋み、馬を叱咤する御者の掛け声が響く。
 視線を上げれば、橋に直結する大通りの向こう。そこにちょうどあの馬車が顔を出したところである。一直線にこちらに猛進する様子を見て、マクシミリアンは慌てて果物売りの方を振り返る。
「おい、何するんだあんた!」
「すみません、代金は後で払います!」
 籠からオレンジを掴むと、迫ってきた馬車の御者目がけて一気に投げつけた。
 しかし御者は片手でそのオレンジを跳ね除けてしまい、効果は全くない。
 だから今度は馬の顔目がけて投げつけることにした。それは見事に目に当たり、驚いた馬は大きくいなないて前足を躍り上げる。
 既に御者の手綱捌きの問題ではなかった。馬は混乱して迷走を始める。偶然通り過ぎた余所の馬車にぶつかり、または大きくいななきながら前足を上げて通行人を驚かしてはジグザグに進む。
 その隙に果物売りが敷物を留め置くのに使っていた木材を持ち上げると、マクシミリアンは渾身の力を込めて投げつけた。
 両者の距離は十歩あるかどうかという所。しかし何ということか、勉学少年の非力な腕では木材は御者の高さに届かず、その手前で落下を始めてしまうではないか。
「何だ、わぁーっ!」
 しかし何が幸いとなるか分からないものである。木材は御者ではなく馬車の車輪に巻き込まれて車軸を破壊し、そのまま石橋の縁にぶつかって永遠に動きを止めてしまった。
 衝撃で馬を繋いでいた馬具が外れ、混乱した馬がそのまま走り去ってしまったのだからもうこれ以上動きようもない。
「すごい、マクシム」
「い、いや、私もちょっと……驚いた」
 素直に賞賛するマリアンヌに呆然と手を差し伸べながら、マクシミリアンはほつれて顔にかかった髪をぐいとかき上げた。
 その時、立ち上がったマリアンヌが目を見開いて驚愕の声を上げる。
「マクシム、後ろ!」
 振り向くと背後に立っていたのは、馬車の中に乗っていたもう一人の男の方だった。先ほどは分からなかったが顔には素性を隠すための仮面を被り、その腰には帯刀している。
「ガキが、舐めやがって」
 無表情のはずの仮面が、何故か悪魔の怒りの形相に映った。
 男はサーベルを抜き放ち構える。わずかな月明かりに鈍く光る銀色の刃面があまりにも不気味で、垣間見える外套の内側の深紅が彼らの行く末を暗示しているかのようだった。
「は、早く逃げて」
 今まで決して離そうとしなかった手を解放し、マクシミリアンは少女の背中を押す。
 途端に空色の瞳に不安が陰り、マリアンヌが振り返った。
「やだ、マクシムも一緒に……う、ゲフ、ゴフゴフゴフッ」
 突然少女は咳き込んで背中を丸め、その動きを止める。
「危ない!」
 ほんの一瞬だった。
 仮面の男が振り下ろしたサーベルが、マリアンヌ目がけて振り下ろされる。
 嫌な音がした。
 鋭利な刃物が肉に食い込む鈍い音。
 鮮血が迸り、熱い命の欠片が石畳の上に飛び散った。
「いやぁぁぁぁ、マクシム!」
 サーベルを身に受けたのはマリアンヌではなく、それを咄嗟に庇ったマクシミリアンだった。
 背中から斜めに切りつけられ、少女を胸の中に抱いた腕に思わず力がこもる。
 背中が焼けるように熱かった。血が噴出し、服の裾からぽたぽたこぼれてゆくのが振り向かなくてもよく分かる。
 さすがにもう、これでは走れない。
 目を閉じ、何よりも愛しい少女の耳元で彼は囁く。
「アデュー(さよなら)、そしてごめん」
 身体を支える足元が揺らぐ。二歩よろめいて橋の縁にもたれかかり、そして力が抜けた。
「私も一緒よ、マクシム」
 背中一面を深紅に染めたマクシミリアンは、橋の縁を越えて宙を舞う。
 彼にしっかりとしがみついたままマリアンヌもまた、偉大なるセーヌ河に身を投じたのであった。

 
「人間とはこれほどに愚かな生きものなのか」
 暗闇のなか惨劇のあった橋から下流に下った河上に姿を現した赤毛の子供は、苦々しげに吐き捨てる。
 せっかく人生をやり直す機会を与えてやったものを、こんなに早く無駄死にするとは。
 ゆっくりと上流から流れてくるモノを見やりながら、神の子は小さな手を差し伸べた。
「あいにくと今死なれては困るのだ、人間よ」
 マクシミリアンの人生最大の岐路は、確かにあそこで間違いはなかった。
 しかしヒューロの元に戻ってくるはずの欠片はどこにも見当たらず、気配すら感じられない。こんな事は初めてであり、あってはならないことだった。
「何が起こっているのかもう少し様子を見させてもらう。ふん、よくよく悪運の強い男だ」

 パリの闇は深まる。
 人々の欲望も、怒りも悲しみも全てその内に隠して、また新たな朝日を迎えるために。
 こうしてマクシミリアン・ド・ロベスピエールの人生は、また新たな局面を迎えることとなる。




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