ヒューロの欠片  第二話 「パリの正義」 5
 
「ムッシュー・ロベスピエール、あまり時間がありませんからなるべく早く戻ってきて下さいね」
「分かった、顔を見て祝いの言葉を二、三言ってくるだけだから」
 十二月の寒風吹き荒ぶパリの空の下、簡素な四輪馬車からゆるりと一人の青年が降り立つ。
 すらりとした立ち姿に、亜麻色の生気溢れる瞳。髪には丁寧に髪粉をつけて一糸の乱れもなく束ねられ、セピアの落ち着いた色合いの上着の下に覗くのはクラヴァット(ネクタイ)と刺繍入りのベストである。
 あれから既に十六年が過ぎていた。
 その後弁護士としてマクシミリアンは故郷で名声を勝ち得、精力的に活動していた。しかしあくまでも頑固に正義を貫こうとする姿勢は、次第にアラスの上・中流階級から煙たがれるようになってしまった。
 彼を支持する貧民層の信頼は厚く、歴史の流れが作り上げた三部会(聖職者、貴族、平民からなる議会)の代表者としてフランス革命のまさに舞台上で、政治家として活躍するようにまで成長していたのである。
 三部会の第三身分代議士、それが今年三十二歳になる彼の肩書きなのだ。
「マクシム! まさか本当に来てくれるだなんて」
 招待された屋敷の大広間に入った途端に出迎えてくれたのは、今日の主役である。
「やあ、久しぶりだな。カミーユ」
 カミーユ・デムーラン、三十歳。弁護士を経て現在はパリで旧体制を批判するパンフレットを刊行するなど、ジャーナリストとして活躍している革命家の一人である。
 フランス革命は今から一年前、一七八九年のバスティーユ牢獄陥落がその始まりだと言われている。そのバスティーユ陥落のきっかけを作ったのが、パレ・ロワイヤルで民衆を扇動したジャーナリストのカミーユであった。
「お互い忙しくてあまり会えませんけど、マクシムの論文をうちの雑誌に載せたいし、これを機会にまたよろしくお願いしますね」
「それは願ったりだな。とにかく結婚おめでとう、花嫁は随分と美しいご婦人だと噂に聞いているよ」
「ふふふ、そうなんですよ」
 幸せそうに昔と変わらぬ人懐こい笑顔を浮かべるカミーユを見て、マクシミリアンの口元に自然と笑みがもれた。
 広間には親族や友人の他に、革命家の端くれであるカミーユに相応しく数人の同志が祝いに駆けつけている。後にパリ市長になるぺティヨンやジロンド派の指導者となるブリッソーなど、層々たるメンバーに視線を走らせた後でマクシミリアンはカミーユを見た。
「申し訳ないんだが、これからまた議会に行かなければならないんだ」
 三部会においてぽっと出の若い弁護士としか見なされなかったマクシミリアンは、その発言をことごとく握りつぶされるという苦い経験を去年の一年間ですでに味わわされていた。
 それ以来、殆ど毎日議会に通い詰めては戦い続けている。「演説」という武器一つだけを頼りにして。
 その時マクシミリアンが入って来た扉とは対角線上にある、もう一つの出入り口の方でざわめきが起こった。
「何かあったのだろうか」
「どうせ酒を飲みすぎた親父が足元を狂わせてつまづいたんでしょう」
 そう肩をすくめて見せたカミーユであったが、慌てて駆けつけてくる侍従に耳打ちされると顔色を変える。
「マリーが?」
 首を傾げるマクシミリアンに、カミーユは一礼した。
「妻の気分が悪くなったようなので、少し失礼します。折角来ていただいたのに満足にお相手もできなくて申し訳ありません、マクシム」
「ああ、いや。私はもう帰るから気にしないでくれ」
 すまなそうに一度振り返ったカミーユだったが、しかしすぐに部屋の奥の人だかりへ一直線に走っていった。
 何年もの恋愛期間を経て成就させた相手だと聞いている。あの恋多きカミーユがやっと本物の「運命の相手」を得たのだと思うと、他人事ながら感慨深いものを感じた。
「さあ、私にはやらなければならない事がある」
 人だかりの向こうにわずかに見えた花嫁のドレスにその場で一礼すると、マクシミリアンは身体の向きを変えた。

 あれからたった十数年のうちに、西ヨーロッパ随一の人口を誇る大国フランスには沢山のことが起こっていた。
 今まで黙って虐げられてきた民衆は、税金を払わずに遊び暮らす貴族に、国庫を浪費するばかりで何の改善策も立てられない王に、反旗を翻して利権を取り戻し多くの特権階級を国外へ追い払った。
 ヴェルサイユに篭っていた王族をパリに移すと、それと共に三部会もヴェルサイユからパリに移動して一年と少し。
 しかし本当の改革はこれからだ、マクシミリアンは冷静に今の情勢をそう分析している。
 誰もが自由で、そして平等な世界。それがかつて愛読していたルソーの社会契約論の理想であり、彼にとっての目標であった。
 疲れきった身体でサントンジュ街にある自分のアパルトマンへ戻ってくると、マクシミリアンはクラヴァットを外して棚の上に置く。書きかけの論文を仕上げようと机に座ると、ランタンの明かりに照らされて光を反射しているあるものが視界に入った。
「相変わらず成長がないな、私も」
 しばらく眺めた後、ペンたての横に引っ掛けてある銀のロザリオを指で突いて苦笑した。
 十六年前、確かにあの時暴漢に襲われた彼は、背中に大怪我を負ってそのままセーヌ河に落ちた。マリアンヌも共に、である。
 しかし次に目を覚ました時には、何故か寄宿舎の自分のベッドの上に寝かされていた。
 服は記憶のままに一刀両断されていて血まみれだったが、背中には傷一つ残っていない。不可思議なことではあったが思うことはただ一つである。
「マリアンヌは」
 しかしレ・アルのいつもの場所には、ダミアンが経営する花屋はどこにも見当たらなかった。
 その後人づてに聞いてボワイエ一家が住んでいるというアパルトマンに辿り着くことができたが、そこにはもう誰も住んでおらず、ただテーブルの上に銀のロザリオが残されていたのみである。
 彼女は死んでいない、だからその証にこのロザリオを私に残していったのだ。
 あの夜に自分たちを襲ったのが何者なのかは分からなかったが、その言葉無きメッセージに自分の心を励まし、納得するしかなかった。
 そうしてマクシミリアンの手には、ロザリオと彼女からもらったリンドウの花で作ったしおりだけが残ったのである。
 やがて故郷へ戻り弁護士として働く傍ら、マクシミリアンは忙しい毎日の合間にできたわずかな休日に「散歩」と称して各地を訪ね歩くようになった。
 生きているならば必ずどこかで会えるはず。わずかな希望でも、それを捨てることはできなかった。
 だが三部会の代議員になってからはそれも困難となり、もう二年近くアラスにも帰っていない。弟のオーギュストはパリで弁護士となり、長女のシャルロットはアラスの家を守っている。次女のアンリエットは病弱がたたり、既に病死していた。
 父親のフランソワはあれ以来姿を見せなくなり、あの三年後にミュンヘンで病死したと噂で聞いている。
 あんなにも憎んでいたはずなのに「これであの男と永遠に縁が切れたのだ」と思うだけで、何の感慨も湧かない自分がいた。
「やはり私は冷たい人間なのだろうか」
 かつてマクシミリアンに、哀れな父親を許してやれと言った少女の幻影は、ロザリオの向こうで微笑を浮かべているのみであった。


「これだけ言っているのに何故分からない、ダントン!」
「俺はお前のように酔狂な人間じゃないからな、『徳』なんぞで到底生きてゆけはしないんだよ」
「私はそういう話をしているんじゃない」
「お前の説教は聞き飽きた!」
「同志ダントン、少し落ち着いてください」
 言い争う二人の間にカミーユが入り込み、両者は仕方なく口を閉じるが非友好的な視線がぶつかり合う。
 世の中ではその後王権が廃止され、三部会の代わりに革命家達による国民公会が行政を取り仕切るようになっていた。しかしその中心的存在であるマクシミリアンとダントンは、性質の違いにより両者の溝を深める一方である。
 だがマクシミリアンがこうもダントンに注意を促すのには、彼の妻に関する疑惑によるものだった。
 ダントンは前妻に先立たれ後妻を迎えたばかりだが、こともあろうに王党派の娘だったのである。
 実を言えばダントンは愛する前妻の遺言に従ったまでなのだが、この革命の嵐吹き荒れるど真ん中でそんなことをやってのけるのは、誰の目にも無謀としか言えなかった。
 革命によりフランスから逃げ出した貴族はごまんといる。彼らは他国の王をそそのかし、または取引をして祖国に攻め入ろうと常に画策しているのだ。
 未だ国内が安定しきっていない状態で、攻め入ってくるオーストリアやプロシアにもフランスは同時に対処せねばならない。そしてダントンの新妻は、夜毎夫がベットの上でもらす話を国外にいる亡命貴族に流していると見られていた。
 それはマクシミリアンの政治の片腕、サン・ジュストがもたらした有力な情報である。
 近頃のダントンは妙に退廃的で、利権を平気で漁るようになり自滅をしたがっているようにも見えた。たった一人の為に祖国を危険に晒すわけにはいかない、それが政治というものなのだ。
 そうしてマクシミリアンは、ダントン一派を政治の舞台から一掃することを決断する。彼に心酔しているカミーユ・デムーランもまた余波を避けることは不可能だった。

 一七九四年、カミーユの結婚式からわずか四年で、時代が学友の仲を永遠に引き裂いた。
「次は貴様の番だ、ロベスピエール!」
 下宿先の部屋で聞いたダントンの最期の言葉が、今でもマクシミリアンの耳に残っている。
 そうして彼は今、革命広場に一人佇んでいた。そこはかつて「ルイ十五世広場」と呼ばれた場所である。
 まだ少年だったマクシミリアンは、ここでマリアンヌに読み書きを教えた。未だ鮮明に蘇る記憶。まるでつい昨日のことの様に思い出すことができる、宝のような時間である。
 あの頃は輝かんばかりに美しかったこの広場も、今では大きく様変わりをしていた。
 広場のシンボルであるルイ十五世像は傷だらけにされて権威を地に貶め、かつてはよく見られた、広場を通り抜けチュイルリー公園やシャンゼリゼ通りに向かうキャロッス(豪華四輪馬車)は皆無である。
 彼らが勉強する時に使った東屋は取り壊されて既になく、その代わりに広場に存在を知らしめていたものがあった。断頭台である。
 大人の背丈ほどもある大きな木製台座の側面を階段で上ると、中が空洞で天高くそびえる木の枠組みが控える。処刑の痛みを少しでも和らげるために開発されたギロチンは、今ではすっかり人々の恐怖の対象として定着しつつあった。
 あれほどに美しかった広大な庭園の景色は、今や人殺しの場所として人々の心に刻み込まれているのである。
 政治の場から離れふと我に返る時、マクシミリアンの心には時々やりきれない虚しさが押し寄せるようになっていた。何かが間違っているのではないか、そう心の奥底で叫んでいる自分がいた。
 自由と平等の世界。それを目指したはずなのに、欺瞞と恐怖が吹き荒れる今の血まみれのフランスはどんどんそこから離れていってしまっているのではないか、と。
 革命広場に隣接するチュイルリー公園を遠方に眺めると、視界の隅に入る断頭台が無言でマクシミリアンを責め立てているようだった。
 溜め息をつき、瞳を閉じて黙祷を捧げる。ここで命を潰えた革命の同志は数知れず、かつて自分が祝辞を捧げた国王さえも露と消えていた。
 そうして目蓋を開けた時、目の前に一人の婦人が佇んでいることに気付く。黒いドレスを纏い、やはり黒い帽子を目深に被っているところを見るとどこかの未亡人のようだ。
「どうかなさいましたか、シトワイエンヌ」
 シトワイエンヌとはマダム、マドモワゼルの変わりに使われるようになった敬称で、「女性の市民」という意味を持つ。ムッシューもシトワイヤン(市民)に取って変わられ、普段使う言葉にも市民革命の片鱗が現れていた。
「ええ、あなたを待っていたの。…………マクシム」
 婦人が自分の名前、それも今は殆ど誰も使わなくなった呼び名を口にしたのでマクシミリアンは思わず目を見開く。
「失礼ですが、あなたは」
 婦人はゆっくりとした動作で帽子を取り、素顔が顕わになる。その途端彼は絶句し、震える手をそっと胸に当てた。
 憂いを帯びた空色の瞳、美しく結い上げられた茶色の髪の毛。可憐な唇はそのままに、その立ち姿は大人びてはいるが懐かしい記憶の面影と瓜二つである。
「マリ、アンヌ?」
「ええ」
「やはり君は生きていたのか」
「そして今は、マリアンヌ・デムーランというの」
 悲しげに微笑むマリアンヌに、マクシミリアンは雷撃にでも撃ち抜かれたかのように身体を硬直させた。
「デムーラン」
 優しい仕草で小さく頷く彼女をただ凝視する。デムーラン、それはつい先日亡くなった後輩の苗字である。
 カミーユの妻は病弱だという話で殆ど表には出てこなかった。その後のマクシミリアンとカミーユの付き合いも、結局数回原稿を送ってやり取りしたのみである。
 自分と徹底的に反りの合わないダントンに傾倒していく後輩とは更に疎遠となり、とうとう彼らは接点を失った。
「マクシムは死んだって聞かされていたの」
 二十年前、共にセーヌに沈んだあの夜。
 マリアンヌの身体は比較的早いうちに川岸に打ち上げられ、帰りの遅い姪を探しに来たダミアンがそれを発見した。
 その時彼の視界にゆっくりと下流に流されてゆく少年の姿も入り、一度はダミアンは飛び込もうとする。しかし少年を取り巻く水は絶えず深紅に染まり、身体はピクリとも動かないことにすぐ気付いた。
 あの出血量ではもう到底助からないだろう、いやもう事切れていてもおかしくはない。そう判断して彼は姪を担いでそのままそこを去ったのである。
 デュナン家の手から逃れるため、その夜のうちにダミアン一家はパリを後にした。しかし荷物を纏めている最中にマリアンヌが目を覚まし、マクシミリアンを探しに行こうと暴れる姪を縛り上げて言ったのだ。
「あの少年はもう死んでいた、諦めろマリアンヌ」
 伯父の言葉を信じたくはなかった。ほんの数時間前まで一緒にいて、この手を繋いでいたのに。
「そんなの嘘よ、生きてるわ!」
 彼らの行き先を記すメッセージを残すことは許されず、少女はせめてもの思いで銀のロザリオを残していった。
「身体が弱いのは本当なの。私あれから肺の病を患ってしまって」
 田舎に移り住んで数年後、病が重くなった少女を完治させるためにはもっと設備の整った医療施設と資金がいるという現実に伯父夫婦は直面する。
 マリアンヌの実父エドモンの性格を知るダミアンは元々この仕打ちに疑問を感じなかったわけでもなく、意を決して単身パリのデュナン家に向かった。
 影で義理の娘を排除しようとした正妻は流行病で既に他界しており、当主のエドモンは襲撃の事実をダミアンから告げられて驚愕した。
 出世や保身のために娘の婚儀を進めようとしていた彼だが、それはマリアンヌ自身の幸せにも繋がると彼なりに考えた結果である。仕事では真面目で優秀な大蔵省の役人であるエドモンは、元々それほど悪い人間ではなかった。
 彼は快く娘のために南フランスの別荘を貸し与え、優秀な医師も遣わした。そこで彼女は一進一退を繰り返す長い闘病生活に入るのである。
「私ね、いつか病気が治ったらマクシムを探しに行こうと思ってたの」
 しかしその想いも長の闘病生活で色褪せてゆき、段々とマクシミリアンが本当に死んだのではないかと想うようになってしまった。
 動けなかった時間は彼女から体力を奪い、かつて石畳の上を跳ねるように歩いていたそのバネを奪い、気力をも奪い去っていく。
 触れたら折れてしまいそうなほどに弱く、しかし時折見せる微笑は柔らかな日差しのようで暖かい。大人になったマリアンヌは同時に教養も身につけ始め、やがて小康状態を保てるようになる頃には周囲から深窓の令嬢と噂されるようになっていた。
 彼女が正式にエドモンに引き取られることはなかったが、腹違いの妹リシュリュも時々別荘に遊びに来ては交流を深めていき、戯れに一緒に付いてきた妹の友人というのが何とカミーユ・デムーランだったのである。
 カミーユはマリアンヌを見つけて驚嘆した。こんな所で彼女に再会するのは真に神のお導きだと思わざるおえなかった。
 実を言えば十四になったリシュリュとカミーユは恋仲未満の微妙な関係だったのだが、ここで彼の意識は一気に姉に傾くこととなる。
 それ以来カミーユは仕事の合間を縫ってはマリアンヌを訪問した。
 パリではジャーナリストとして現体制を批判していた彼も、ここでは生臭い話は一切せず詩を朗読し楽しい話だけをした。
 身体が弱ったままのマリアンヌは遠方を尋ね歩く夢も潰え、記憶の中にいるマクシミリアンを思い出すだけの生活を虚しく送っていた。そんな彼女を根気よく励まし、見守り続けたのがカミーユなのである。
「とても優しい人だったの。時々おっちょこちょいな所もあったけれど、その失敗だって笑って済ましてしまうような人だった」
 かつてカミーユが寄宿舎で見せた無邪気な笑顔を思い出しながら、マクシミリアンは苦笑する。
「よく知っているよ、私のルームメイトだったから」
「ええ、そうなんですってね」
 マリアンヌがその事実を知ったのは、その五年後の結婚式の日だった。
 死んだと思っていた。今まで何度となく夢にまで見た人物を遠目に見つけた彼女の心情は、一体いかばかりであったろう。
「ほんの少しのきっかけで、私たちの運命は全然変わっていたかもしれないわ」
 カミーユが政治の話のついでに、マクシミリアンを話題に出していたら。彼女が静養する場所が南ではなく北フランスであれば、時折新聞にも掲載された彼の活躍が耳に入っていたかもしれない。
「どこですれ違ってしまったのかしら」
 白い頬を伝うその透明な涙には、一体どれだけの想いが込められていたことだろう。儚く頼りない肩を震わせ、記憶よりずっとたおやかに成長した愛しい女性を目の前にマクシミリアンの腕が自然に伸びる。
「マリ……」
 伸ばした指が彼女の肩に触れる寸前。ドレスの黒い色が神経を絡め取り、ピタリと動きが止まる。
 私は彼女を抱きしめる資格も、触れる資格も無い人間なのだ。
 承知の上でマクシミリアンはカミーユを裁判にかけ、断頭台に送った。そして彼女から優しい夫を奪ったのはこの自分なのだと、この時はっきり自覚させられたのである。
 どうして自分が生きていると信じてくれなかった、とは言えなかった。公務に追われる彼もまた、マリアンヌの影を時折思い出すだけの日々を送っていたのだから。
 愛する女性が他の男によって既に奪われていたという事実に、普段冷静な彼だって腹立たしいものを感じないでもない。
 しかし「目の前にいればせめて殴ってやったものを」と思ったところで、相手はもうどこにもいない。
 いなくなった今でさえ、喪服を着せることで彼女を独占しているカミーユが恨めしかった。
「君は、本当にカミーユにとって『運命の人』だったんだな」
 あの狭い二人部屋で、黒い瞳を輝かせながら少年は語っていた。頬を上気させ、それはとても嬉しそうに。
 繰り返される恋愛話を呆れ顔で聞いてはいても、そんな思いをすることすらマクシミリアンには楽しい出来事の一つだった。学院一の秀才の彼に物怖じせずに話しかけてきたのは、あの同室の後輩ただ一人であったのだから。
 マリアンヌは断頭台を見上げながら呟く。
「どうしてこうなってしまったのかしら。どうして人は大切な命を、こんなにも簡単に奪えるようになってしまったの?」
 学生の頃の活気溢れるパリの街。けっしてみなが裕福で幸せとは言えなかったが、いつも街には人が溢れ、市場には物売りの声が響き渡っていた。しかし今はほんの少しの疑いだけで裁判にかけられ、断頭台に上がりかねない物騒なご時勢である。
「分からない」
 マリアンヌは黙っていた。それが余計辛く思えて、マクシミリアンは頭を垂れる。
「恨むなら、恨んでくれていい。私を恨む人間はもう数え切れないほどいるのだから、今更一人や二人増えても変わりはしない」
 嘘だった。何よりも自分の心の大事な部分を支えてくれていた思い出の少女に、背を向けられる事ほど堪えることはない。
「私はあなたを恨んだりしないわ」
 顔を上げたマクシミリアンの視界に入ってきたのは、とても優しい陽だまりの様な笑顔だった。全てを許す、聖母とはこのようなものなのかと心の内で思う。
「もう、人が死ぬのはたくさん。誰にも死んで欲しくないの」
 微笑の余韻を残し、マリアンヌは広場を立ち去って行く。
 公道に待たせてある馬車に彼女が乗り込むその時まで、マクシミリアンは一瞬たりともその視線を逸らすことは無かった。

 その後マクシミリアンは、ひと月ほど議会から遠ざかることにした。
 下宿先で物思いに耽ったり、大家の子供たちと遊んだりして過ごし、仕事らしい仕事は何一つしなかった。
 現政権の象徴的存在でありながら表舞台に出てこなくなった彼を非難する声、戻ってくるように働きかける議員。
 その陰で、不正を激しく嫌うマクシミリアンの潔癖な政治姿勢に身の危険を感じる後ろ暗い輩どもが、密かに蠢動を始める。
 マクシミリアンはそれに気付いていなかったのか、わざと気付かないふりをしていたのか。
 いずれにせよこの一ヶ月の空白が、今後の革命政府を大きく揺るがす引き金となる。
 



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