夏の少年、私の麦わら帽子 3
 
第三話、手、いろんな手

「だからさー、悪かったって言ってるだろ?」
「ぜっ……たい許さないんだから」
「まあちょっとくらいは死んじゃうかなーとは思ったけどさ、まさか見事に全滅するなんて思わなかったんだよ。なあ、祐司」
「うん、聞いてびっくりだね」
 細い土の道を挟んで緑色の稲がいっぱいに広がる中、他に誰もいない景色の中で三人の声だけが辺りに響き渡っている。
 道路を通ると遠回りになるからと、私たちはもう通り慣れたいつもの田んぼのあぜ道を歩いていた。
 先頭が颯太、真ん中が私、一番後ろが祐司で一列になって。
「ちょっと待ちなさいよ。じゃあやっぱり、私の部屋の中で蛍が死んじゃうこと分かっててやってたんじゃない」
 私が前を行く颯太の服を引っ張ると、ヤツはバランスを崩して身体を大きく揺らした。
「うわっ、なにしやがる!」
 危うく水田に落ちるところを何とか踏ん張ると、颯太は一人前の方へダッシュする。
「何だよ、お前だって蛍見れてあんなに喜んでたくせに。コロコロ態度が変わるやつだな」
「だってその時はあんなことになるとは思わなかったもの」
 私も駆け足で颯太のことを追いかけ、祐司もとりあえずといった感じで後に続いた。
「でもすずなちゃんって、本当に身体が弱かったんだね。何か未だに信じられないや」
 後ろから聞こえてきたその聞き捨てならない能天気な声に、私は思わず振り返る。
 前を行く颯太はもう走るのを止めて立ち止まっていたので、追いついたところで私たちも足を止めた。
「なんですって?」
「え? あ、いや、だってすずなちゃんいつも元気だし」
 えへ。だなんて笑いながら祐司はそう誤魔化したけれど、私にそんな小手先は通用しないわよ。
「俺も俺も。みんながすずなは病弱とか言ってたけど、いまいち嘘っぽいと思っててさ。だっていつも態度偉そうじゃん、お前」
 あんたたち、言うに事欠いてそうきますか。いい度胸してるじゃないの。
 私はねえ、こんな田舎に観光で来たんじゃないのよ。ましてやあんたたちと遊んでやる為に来たんじゃないんだから。
「私はここに療養しにきたのよっ!」
 ほっぺを膨らましたまま、私は颯太と祐司を次々と田んぼの中に突き落とす。
 二人とも何とかしりもちはつかずに済んだみたいだけど、ビーチサンダルの足がずっぽりと田んぼの泥の中に埋まってすぐに身動きが取れないでいた。
 ふっ、天誅よ。
「すずな、てめっ何しやがる!」
「私は先に行ってるから、あんたたちは川で足洗ってから来なさいね。じゃーねー」
「すずなー!」
 私は頭の上の麦わら帽子が飛ばされないように手で押さえながら駆け出した。
 後ろの方で二人が何か言ってるけれど、まあ放っておくわ。心の広い私はこれで蛍の件をチャラにしてあげるんだから、ありがたいと思いなさい。
 見上げた空は今日も晴天で、真っ青な空に真っ白い入道雲。
 走る私をすり抜けて行く風はちょっとだけ気持ちが良くて、私は今までに無いくらい思い切り走った。
「ああ、やっぱり外っていいわ」
 四日ぶりのお外は相変わらず夏真っ盛りで暑かったけれど、私は胸のずっと奥の方から湧き出てくるワクワクした不思議な感覚を、とても心地良いものに感じていた。

 田んぼを抜け、小川の側を駆け抜けるとすぐそこに森が見えてくる。私は真っ直ぐその奥の方まで進んで行き、やがて目的の場所に辿り着く。
 四日ぶりに見た森の主は相変わらず静かにでんとそこに居座っていて、森の中に差してくる細い木漏れ日が幾つも折り重なって主を浮かび上がらせていた。
 地面から浮き出ている主の根っこに足を取られないように気をつけながら近づくと、ごつごつした主の表面に手を触れる。
「あの時はありがとう、主さん」
 緩やかな風が吹いて、主の枝に茂った葉っぱがさわさわと揺れた。まるで「どういたしまして」と主が言っているようで、私は思わず口元を緩める。
 主に助けてもらったことを、あれから私はおばあちゃんにも颯太のおじさんやおばさんにも言ったんだけれど、大人は頭が固くてダメね、誰も信じてくれなかったわ。
 朦朧として幻でも見たんだろうって、笑われただけなんだもの。
 でも颯太と祐司は私の話を目を輝かせながら聞いていたわ。すごい、すごいって言いながら。
 颯太は「小遣い上げてくれるように頼んだらダメかな」なんてアホなこと言ってたけど、そんなお願い、私が神様だって相手にしないわよ。
 全く、バカはいつまで経ってもバカなんだから。

 しばらくしてから颯太と祐司が遅れてやって来て、秘密基地に入る前に森の主に挨拶をして行った。
 でもその時の祐司の顔がいつになく真剣なような気がして私が首を傾げていると、その視線に気づいた祐司はすぐにいつもの笑顔に戻って私を見る。
「どうかした、すずなちゃん?」
「ううん、何でもない」
 何だろう。
 祐司ってたまにすごく大人に見える時があるわ。
 でもその顔は本当に極たまに一瞬しか見せないもので、他人の視線に気づくとすぐに消えてなくなってしまう。
 颯太の後に続いて洞窟に入ってゆく祐司の後ろ姿を見送りながら、私は考えていた。

 そう言えば、どうして祐司は東京からここに引っ越して来たんだろう。



 まだ太陽が東の山から顔を出して間もない時間。
 まだ蝉も起きだしていないのか、森の中は静かな空気が漂っていた。ひんやりとして、ちょっとだけ水分を含んだとっても綺麗な空気が。
 その中を私たちはある木に向かって歩みを進め、到着したところで颯太が先に目的の部分を確認しに走って行った。
「よしよし、ちゃんとかかってるぞ」
「本当、颯太?」
「ああ、お前も見てみろよ、祐司」
 祐司も小走りでその木に近づくと、小さな歓声を上げる。
「すごいや、雄のカブト虫までいる」
 この木は「クヌギ」っていう種類の木なんだって。
 私にはよく分からないけど、前の日に蜂蜜とかをここに塗っておくとこうやって虫が集まってくるとか何とか。
「……虫集めて何がおもしろいのよ」
 実は私は蝉すら気持ち悪くて触れない。こんな苦労してまで捕らなきゃいけない昆虫って、一体何様なのかしらね。
 朝早くたたき起こされて微妙に不機嫌なまま私がそうブツブツ言っていると、祐司が嬉しそうにこっちを向いて手招きの動作をしてみせる。
「すずなちゃん、早くおいでよ」
 いや、私は別にここで待ってますけど……。
 なんて言っても無駄なような気がして、とりあえず私はそのカブト虫やらを見てみることにした。
「ほら、カッコいいだろ」
「結構力ありそうだね、僕たちが飼ってるのと同じくらいかな」
「え、あんたたち、もう飼ってるのにまた捕りに来たの?」
 黒光りした立派な角を持つカブト虫を眺めながら、私は二人に問いかける。
「何言ってんだよ、これはお前のカブトだろ、すずな」
「は?」
「僕たちはこっちの大クワガタが狙いだったから」
 そう言いながら、祐司はカブト虫の横でもぞもぞ蜂蜜を舐めているクワガタを指差した。
「だから、どういうこと?」
「俺たちは仲間の印にそれぞれカブト虫を飼うしきたりになってるんだ。だからお前も飼うの」
 私は眉根を寄せて颯太を見る。
「しきたりも何も、あんたたちにそれだけの歴史なんて無いじゃない。嫌よ、私こんなの飼うなんて」
 私に言わせればカブト虫だろうがクワガタだろうが、真っ黒で節だらけの気持ち悪い足をした虫でしかない。
 ようするに、カブト虫もゴキブリも一緒なのだ。
「まあまあ、きっと飼ってるうちに可愛くなるよ」
 そう言いながら虫かごの中にカブト虫を入れると、祐司はそれを私に手渡した。
 いや、本当にいらないんですけど。
 もう一回抗議しようと私が口を開きかけたその時、颯太が思い切りクヌギの木を足で蹴りつけた。
 その衝撃で木の幹が揺れ、その上の枝と葉っぱはもっと大きくゆらゆらと揺れる。
「なっ、なに?」
「こうやって木を揺らすと、虫が落ちてくるんだよ」
 祐司がそうやって説明してくれたその直後、私は帽子の上に何かが落ちてきたような軽い衝撃を感じた。
 何だろうと思って帽子を脱いでそれを見ると、そこに乗っていたのはもぞもぞと動くイモ虫……じゃないわ。
 毛が生えてる……毛虫?!
「きゃー! やだやだやだーっ!」
 思わず帽子を颯太たちに投げつけ、私はそこから少し離れた場所まで移動した。
 冗談じゃないわ、あそこに立っていたらまた毛虫が落ちてくるかもしれないじゃないの。
「あ、颯太。クワガタ落ちてきたよ」
「やりっ」
 ちょっとあんたたち、私のことよりクワガタの方が優先なの?
 全く腹の立つガキどもだわ。
 でも私が顔をしかめてそれを眺めていると、クワガタを拾ってもう一つの虫かごに入れ終えた祐司が、私の帽子を拾って土を払ってから持ってきてくれた。
 うう、でも毛虫が乗ってたのよね、これ。
「大丈夫だよ、ちょっとだけの間だし。すずなちゃんの帽子投げですぐにどっかに吹っ飛んじゃったから」
 眉間にしわの寄った私の表情を見て、祐司はそう笑った。
 変なところも多いけど、きっと祐司は東京でもモテていたんだと思う。女の子にこうやって気を遣える美形の男の子って貴重なものよ。
 祐司の綺麗な顔をしげしげと眺めながらそれを受け取ると、私は帽子に視線を移す。
 毛虫が乗っていたらしき形跡はどこにも見られない。でもなあ……。
 やっぱり、家に帰って拭いてから被ることにしよう。うん。
「私先に帰るね、お腹すいたし」
「おう、またな」
 颯太はまだ他の木に用があるみたいだったし、私は毛虫がいつ上から降ってくるか分からない所にいるのは嫌だから早々に帰ることにした。
 それにこれだけ付き合ってやったんだから、もう十分でしょ。
 帽子を片手に持ったまま踵を返すと、後ろから祐司の声が投げかけられる。
「あ、すずなちゃん」
「なに?」
「これ、忘れ物」
 そう言って差し出したのはカブト虫の入った虫かごだった。
 私は微妙に顔がぴくぴくするのを必死で抑えながら、仕方なく手を差し出す。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
 やっぱりその時祐司はいつもと同じようにニコニコ笑っていて、私は彼が何を考えているのかさっぱり分からなかった。


「ねえ嘉子さん、一応このカブト虫にも名前付けてやった方がいいのかしら」
「ん、まあお前の好きにすりゃいいんじゃないかい?」
 透明の飼育ケースに土と木の枝と一緒に入れられたカブト虫を、畳の上に寝転んで眺めながら私はぼんやりと考える。
 何だか押し付けられちゃったカブト虫だけど、触らなきゃどうってこと無かったわ。
 それに名前が無いと、やっぱり可哀想よね。
「よし、決めた」
「何に?」
「カブトの『カブ』」
「あんたも安直だねえ」
 おばあちゃんの言った「安直」の意味はよく分からなかったけど、褒められていないことだけはよく分かる。
 私は少しだけ眉を動かすと、飼育ケースの中を覗き込んでこう言った。
「いいじゃない、カブはこの名前が気に入ったのよ。ねえ、カブ?」
 カブは相変わらず木の枝に引っ付いたまま動こうとしなかったけれど、「無言は同意と同じ」って確かテレビドラマで言ってたわ。だからいいのよ、これで。
 私はそう決め付けてこの日、カブト虫に「カブ」と命名したのだった。



 毎日毎日遊び倒していた私たちにも、どうにもならない意外な強敵がいた。
 決してその存在を忘れていたわけじゃないわ、いつも頭の隅にはあったのに、なかなか手につかなかっただけなのよ。
 この膨大な量の夏休みの宿題たちを。
 始めの頃こそ私に「外で遊べ」って言ってたくせに、お盆を過ぎたあたりからおばあちゃんは口うるさくなってきた。それで私もさすがに焦り始めてきたというわけなのだ。
 まあ昼間は遊び回っていて、晩ご飯食べてお風呂入ったら早々に寝ちゃう私がいけないんだけどね……。
 私の今までの夏休みは殆んど家から出る事が無かったから、夏休みの宿題は大抵お盆前に終わらせていた。
 でも今目の前にある宿題リストのプリントは、何故か何一つ消化されていない。
 やった記憶が無いんだから当たり前か。
 全教科が入ってるこの上なく面倒くさい「夏休みの友」。他にも漢字の書取り帳、作文、感想文、ポスターに自由研究。あああ、日記なんて今更どうしろっていうのよー。
「まずいわ」
 学校を休みがちでも勉強をおろそかにしたことは無かったから、私は今そうとう焦っていた。
 時計を見ればもうすぐ午前九時。そろそろやつらが家を出る頃だ。
 私は電話の黒くてでっかい受話器を取り上げると、ご町内の電話帳を見ながらダイヤルを一つ一つまわした。
 ジーコロロ、ジーコロロと行ったり戻ったりするダイヤルの音が、静かなおばあちゃん家の廊下に響く。
 しばらく待っていると電話の向こうの相手が出た。ちょうどいいことに当人が出てくれたみたいで何よりだわ。
「ああ、颯太? 今日はおばあちゃん家で宿題をやるわよ。え? ザリガニ釣りなんていつでもできるじゃないの、いいから夏休みの宿題もってうちにいらっしゃい。あ、祐司にも電話しておいてくれる? じゃーね」
 受話器を置くと私はよし、と一人うなずく。
 私は本来の自分を見失っていたわ、遊びの誘惑に負けて堕落してはだめなのよ、すずな。
「嘉子さん、今日はここで宿題やるからお茶菓子か何か無い?」
 縁側で眼鏡をかけて本を読んでいたおばあちゃんが、その声で顔を上げた。
「ああ、戸棚にせんべいが入ってるよ。後で私がカルピスと一緒に出してあげるから」
「うん、ありがとう」
 今日は一日かけて宿題を片付けるわ。そしたらまた好きなだけ遊べるもの。
 ……あら、何だか私、目的が間違っているような気がしないでもないような。
 

「なーなー、これってどういうこと?」
「え、ああ小数点が付いてる時はとりあえずそのまま掛け算だけして、後でお互いの小数点の……てちょっと、聞いてんの?」
「聞いてるよー、全然わかんねーけど」
「全く、何であんたはこんな問題もできないのよ」
「うるせーな、お前の教え方が悪いんじゃいの?」
「その前に学校で教えてもらったでしょーがっ」
「まあまあ、二人とも」
 私と颯太が中腰になりかけたところに祐司が割って入り、お互い不発に終わってそのまま腰を下ろす。
 抜かったわ、宿題はやっぱり一人でやるものなのね。いちいち颯太に教えてばかりじゃ全然はかどらないったらないじゃないの。
 同じ学校なら宿題を見せ合って写すこともできたんだろうけど、私だけ違うからそれもできないし。
 私と颯太はいっぱい溜め込んでいたドリル系の宿題をやっているのに比べて、祐司は紙粘土でのんきに貯金箱を作っていた。
 驚いたことに、もう他の宿題は殆んど終わってるんだって。いつも三人一緒に遊んでるのにいつやってたんだろう。
 やはり侮れないわ、祐司。
 颯太が祐司の宿題を写そうと狙っていたみたいだけど、ここに現物が無いんじゃやりようが無い。っていうか、そんな事私が許さないわ。
 同じ苦労を分かち合ってこその仲間ってものよ、ふっ。
 でもちょっと今日の祐司はいつもに比べて元気が無いようにも見えた。マイペースなのはいつものことなんだけど……。
「ねえ、それ何作ってるのか聞いてもいい?」
 祐司が手を真っ白にして紙粘土をこねくり回して作っているもの。
 私にはどう見てもでき損ないの仏像にしか見えないんだけど、宿題の工作で仏像作るっていうのも何か変じゃない?
 でも祐司はどこか上の空って感じで、仏像の丸い頭をぼんやりと指でなで付けていた。
 仏像の頭って丸いぶつぶつがいっぱい引っ付いてるのよね、そんなにつるつる頭にしちゃって大丈夫かしら。
 私が胡散くさそうにその仏像もどきを眺めていると、やっと視線に気が付いた祐司は私にニッコリ笑いながら言った。
「ごめん、何か言った?」
「ううん、別にいいんだけど」
 その時、出されたせんべいをかじりながら颯太が首を傾げる。
「なあ祐司、それって大仏?」
 言った。それも私が言い難いことをそのものずばりと。
 私と颯太の視線を受けて祐司はそれぞれの顔を見比べ、それから自分の工作の作品に視線を移す。
 祐司は特に表情を変えることも無く、軽く首を横に振った。
「違うよ、ウルトラマン」
「ウルトラマン?!」
 ウルトラマンがどうやったら大仏になるんだろう。
 私も颯太も口が半開きのまま表情はそう言いたげだったけれど、二人ともあえて何も言わなかった。
「うん、カッコいいでしょ?」
 ニコニコしながらそう聞かれても困るのよ、祐司。
 心の中でそう呟きながら、私は微妙な愛想笑いを浮かべて祐司に答えるのだった。


「祐司、おばあちゃんから電話だよ」
 突然居間に顔を出したおばあちゃんがそう言うと、祐司の顔が一瞬はっとしたように目を見開いた。
 慌てたように電話に向かう祐司を見送ると、私と颯太の視線が自然とぶつかる。
 やっぱり何かがあったのだ。
 私たちも慌てて後を追うと、祐司が電話の黒い受話器をとって既に話し始めているところだった。
「うん、うん、分かった。すぐ帰るから」
 そう言いながらうなずく祐司の顔色は真っ青で、今にも倒れそうに見える。
 本当に一体何があったんだろう。
 短いやり取りで受話器を置くと、祐司は電話についてしまった紙粘土の白い跡を見ておばあちゃんを見上げた。
「ああ、気にしなくてもいいさ。そんなの拭けばすぐに取れるし」
「うん、ありがとう、嘉子さん」
 硬い表情のままそう言うと、祐司はそのまま玄関の方へ向かう。
「お母さんが発作起こして救急車で運ばれたって。僕もおじいちゃんたちと一緒に病院に行くから、今日はもう帰るね」
「お母さんが?」
 発作という単語を聞いて私の心臓が跳ね上がった。だって私も「喘息発作」に悩まされてきた一人だもの。
 祐司はあっという間に靴を履いて玄関から飛び出して行く。
 廊下に立ったままの私たちは呆然と、開けたままになっている玄関を見つめていた。
「あいつのかーちゃん心臓が弱くてこっちに療養に来たんだぜ、すずな」
 歯を食いしばり、眉根を寄せ、怒っているのか困っているのかよく分からないような顔で颯太はそう呟く。
「心臓……?」
 何だか大きな黒い不安のかたまりが私の中にいっぱい広がって、私はそれ以上口をきく気にはなれなかった。
 祐司のお母さんは心臓が弱い。
 今日、発作が起きて救急車で運ばれたって。
 心臓の発作ってどんなだろう、多分喘息とはきっと違うよね。
 でも発作と言われるものに良いものは無い。本人にとっては耐え難い苦しいものであるはずだと、私の過去の経験は教えてくれる。
 祐司のお母さん、すぐに良くなってくれるといいけれど……。
 何となく顔をうつむかせた私の肩を、おばあちゃんが軽く叩いた。
「さあ、いつまでもこんなとこに立ってないで残った宿題やっちまいな。気になるなら、また日を改めてお見舞いに行けばいいだろ」
 まだ顔を強ばらせたままで颯太はおばあちゃんを見上げる。
「じゃあ明日行けるかな?」
「どうだろうね、しばらくは家族しか面会できないかもしれない。ま、私が祐司のおばあちゃんに聞いといてやるから」
 颯太はまだ何か言いたそうに口を二、三回開きかけたけれど、結局そのまま黙ってうなずいた。



 あれから三日が過ぎた。
 祐司は毎日病院に通っているらしく、私たちと遊ぶことは一度も無いままだ。
 私と颯太も何となく遊ぶ気にもなれなくて、家でだらだらと時間を過ごしていた。まあ、おかげで宿題もあらかた片付いたんだけど。
 悶々としながら、そして四日目。
 お昼ごはんを食べてすぐの時間におばあちゃんがどこかに電話しているのが聞こえて、私は自然と聞き耳を立てていた。
「ああ、貴子かい。颯太はそこにいるかね。……ああ、祐司のお母さんの見舞いに連れて行ってやろうと思ってね」
「嘉子さん本当?」
 私は座っていた居間から思わず身を乗り出し、廊下に両手をついておばあちゃんにそう叫んだ。
「ああ、本当だよ」
 おばあちゃんは受話器を耳に当てながらそううなずく。
 私は駆け足で自分の部屋に飛び込み、服を着替え、ポシェットをたすきがけに引っ掛けて、最後に麦わら帽子を掴んでおばあちゃんの元に走った。
 おばあちゃんはもう電話を終えていて、自分の部屋に帰ろうとしているところを捉まえて私は急かす。
「早く行こう、病院はこの辺じゃないんでしょ? 面会時間終わっちゃうよ」
 私だって入院したことなら何回もある。だからそれくらいの知識はあるのよ。
 でもおばあちゃんは眉尻を下げて溜め息をつきながら、私の頭をなでて言った。
「いや、行くのは明日にしようと思ってたんだよ。今日はちょっと寄り合いがあるからどうしても時間が取れないんだ、すまないね」
「ええ、そんなあ」
「悪いね、どうしても外せないんだよ」
「どうしても?」
「どうしても」
 おばあちゃんがこうやって言うときは、どんなにお願いしても絶対に意見が変わることは無い。
 いい時はそう答えるし、ダメなときはどう言ってもダメなのだ。
 私が溜め息をつきながらポシェットを肩から外したその時、玄関を激しく開ける音が響いた。
 おばあちゃん家の玄関の引き戸は木とガラスでできているから、それはもう割れる寸前じゃないかと思うくらいの衝撃音だ。
「嘉子ー! 明日じゃダメだ、今日行くんだー!」
 そのバカでかい声に、おばあちゃんは呆れたように溜め息を漏らすと玄関に向かう。
 私もその後に引っ付いていくと、そこにいたのはやっぱり颯太だった。
「お前は玄関を壊す気かね、もっと丁寧にできんのか」
 脳天に張り手を食らわされた颯太は一瞬怯んだけれど、それでもすぐに立ち直っておばあちゃんに食い下がる。
「頼むよ嘉子、さん。明日まで待つなんてできねーよ」
「だから私は用事があって無理だと言っただろう」
「そこを何とか」
「ダメだ。どうしてもってんなら、自分のかーちゃんに頼みな」
「かーちゃんいつも午後からパートだからそれこそ無理だ」
「だったら諦めな」
「じゃあ、俺たちだけで行く」
「は?」
 そう言ったのはおばあちゃんだけじゃなくて、私もだった。
 だってこの辺に大きな病院なんて見かけなかったから、バスに乗って行かなきゃいけないんでしょ?
「隣町だよ、お前にできるかね?」
「できるっ!」
 何だか胸を張って勢い良く颯太は答えたけれど、私はとっても不安だった。だって一人で電車もバスも乗ったこと無かったんだもの。
 本当に子供だけで大丈夫なの?
「大丈夫だよな、すずな」
 そう視線を投げかけた颯太の目は「うんって言え。うんって言わなきゃ絶対ゆるさねー」って言うかのようにじいっと私を見る。
「脅すんじゃない」
 ぺしんと颯太の頭を軽くはたくと、おばあちゃんは膝を折って私に問いかけた。
「自分で考えな。お前は行けると思うかい、それともやめておくかい?」
「う……」
 私は一瞬言葉につまり、頭の中でぐるぐる回る色々な気持ちを一所懸命整理しようとした。
 それで最後に浮かんだのは、玄関を出て行く直前に見た、祐司の強ばったあの表情。
 私は顔を上げ、おばあちゃんの目を真っ直ぐ見ながら答える。
「行けるわ、嘉子さん」
 こうして私と颯太は、二人だけで隣町の市民病院まで行くことになったのだった。



「緑色のバスでしょ、あれかなあ」
「バス停ならこっちにもあるぞ、すずな」
 大見得を切った割には何となく心細げに歩いている私たち。
 おばあちゃんに見送られてとりあえず駅前まで出るバスでやって来たけれど、ここからが問題だった。
 幾つかあるバス停の中から、隣町までの路線バスを探さなきゃいけないのだ。といっても、せいぜい路線は三つくらいっておばあちゃんは言ってたけれど。
「あ、白河市って書いてある」
 バス停に書かれた目的地と同じ文字を見つけると、私たちはそこにちょうどやって来たバスを見上げる。
 教えられたのは緑色のバス。
 よし、これも緑色だわ。
「早く乗ろうぜ」
 バスの横に停留所の名前が書いてあって、その中から私が目的地の文字を探している間に、颯太は勝手にバスの中に乗り込んでしまった。
「あ、ちょっと待ってよ」
 でもバスのドアが閉まってしまいそうだったので、私も颯太の後を追って慌てて乗り込む。
 その時チラッと「上ノ」という文字が見えたので、私はとりあえず安心した。
 目的地は白河市の「上ノ台」というところ。これで間違い無さそうだ。
 颯太は張り切って一番前の座席に座っていて、仕方なく私もその隣に座る。ガチャガチャいいながらドアが閉まると、バスは勢いよく走り出た。
 止まるときには横の赤いボタンを押せばいいのよね。
 ちょっとドキドキしながら、私はバスの壁面に設置されているボタンを見やるのだった。

 それからしばらくは、物珍しい景色を楽しむように私たちはバスのフロントガラス、座席の横の窓から見える景色に目を見張っていた。
 それで一番最後にフロントガラスの上に付いている料金表を何となく眺めていて、私の心臓がドキンと跳ね上がる。
「上ノ原?」
 私たちが行きたいのは「上ノ台」、上ノ原じゃない。
「間違えたんだ、どうしよう」
 私は慌てて颯太の服を引っ張ると、泣きそうになるのをこらえながら小声で言った。
「颯太、これ上ノ台行きじゃないよ、上ノ原だって」
「え、そうなの?」
 でももうバスは五つ以上停留所を通り過ぎた後だ、今からちゃんと引き返せるだろうか。
 心臓がバクバクいって手の先、足の先から血が引いていくようだった。
 さっきまで楽しんでいた外の景色が、とんでもなく遠い国の景色のように思える。
 とりあえず降りなきゃ。これ以上進んだら大変なことになるかもしれない。
 私が赤いボタンを押そうとしたその時、颯太は黙って座席を立ち上がった。そして揺れるバスの中を数歩歩くと、運転手さんに話しかける。
「すみません、このバスは上ノ台には行かないんですか?」
 運転手さんは思ったよりもずっと良い人だったらしく、にこやかに答えてくれた。
「あれ、ボク上ノ台に行くのか? 困ったなー、このバスは上ノ台には停まらずにそのずっと先に行っちゃうんだよ」
 あああ、やっぱり。と顔を蒼くさせる私に反して、颯太は特に取り乱した様子も無くまた質問をする。
「じゃあ始めの所まで引き返したほうがいいでしょうか?」
「いや、それは大丈夫だよ。途中までは上ノ台行きも上の原行きも路線が一緒なんだ。そうか、同じ緑色のバスだったから間違っちゃったんだな」
 運転手さんはその後、このバスが次に停まる停留所で私たちに降りるように言い、そして上ノ台行きのバス停の場所まで丁寧に教えてくれた。
 私はそのやり取りを、座席に座ったまま口を半開きにして眺めているだけだった。
 颯太はただのバカだと思ってたのに、意外と頼りになるやつだったのだ。驚いた。
 バスが停留所に着いてそこから降りると、私たちは次の目的地へと歩き出す。
 目的の上ノ台行きのバス停はここから見える場所にある。でも大通りの向こう側で、ちょっと大回りして信号のある横断歩道を通らなきゃならなかった。
 私が不安げにとぼとぼ歩いていると、少し前を歩いていた颯太が不意に振り向く。
「早く行くぞ」
 そう言いながら私の手を取ると、ぎゅっと握って引張り気味に歩き出した。
 男の子と手をつないで歩くだなんて、幼稚園の遠足以来だわ。
 でも何だかつないだ手の先から私にも颯太の勇気が伝わってくるような気がして、私は少しだけ気持ちが浮上する。
「うん」
 そう笑うと、私は颯太と同じ歩調で元気に歩き出したのだった。

 その後はバスも間違えず、降りるバス停も颯太が運転手さんに確認してから乗り込み、私たちの視界にやがて大きな病院が見えてきた。
 そして何となく離せないでいる颯太の左手と私の右手は、お互いの座席の間に置かれたまま。
 ――――あら、どうしたのかしら。
 つないでいる手から颯太の横顔に視線と移した途端、私の心臓が何故か今更のようにバクバク言い始めたのだ。
 やだ、どうして私顔が赤くなってくるの?
 でも私の意思とは裏腹に、心臓のドキドキは止まらないし顔の温度は上がり続ける。
 赤くなった顔を隠すために私は麦わら帽子を目深にかぶり、顔をうつむき加減にして熱が引いてくれるのをじっと待った。
 颯太にばれませんように。 
 つないだ手の平だけ急に神経がいっぱいできてしまったように、私の意識は全部そっちに集中していた。
 ああ、早く病院に着いてくれないかなあ。
 年季の入った緑色のバスはガタガタと揺れながら道路を走ってゆく。
 やっぱり私はうつむいたままで残った時間をやり過ごし、やがてバスは上ノ台に到着したのだった。



 六階内科病棟の、六〇五号室。武部佳代。
 六階にエレベーターで登ってからおばあちゃんに書いてもらったメモを通りがかった看護婦さんに見せ、私たちはその部屋まで案内してもらった。
 分からない時は、怖がらず素直に大人に聞く。これは今日私が颯太から習ったことだ。
 病室のドアはどこも開いたままになっていたけれど、祐司のお母さんが入っているのは個室だった。
 個室だけは全部ドアが閉められていて、横に並ぶ部屋の幾つかには「絶対安静」っていう文字が書かれた紙が貼り付けてある。
 病棟内が少し暗いせいか、何だかそれを見ているだけで「やっぱり病院って大変なところだな」と私は気持ちが少し重くなってしまった。
 ノックをすると中から女の人の返事が聞こえる。
 そっとドアを開けて入ると、ベッドの上に座っている女の人が私たちに笑いかけてくれた。
「あらあら、可愛いお客さん。さっき初瀬川(はせがわ)さんからの伝言を聞いたとこなのよ。本当に子供だけで来たのねー、すごいわ」
 初瀬川って言うのは私の苗字、そしておばあちゃんもそうだ。
 ちゃんと連絡を入れておくあたり、やっぱりおばあちゃんのやることは抜かりが無いなと感心させられた。
 颯太のやや後ろでその光景を見ていた私にも視線を移すと、その人はとても綺麗な笑顔で言う。
「あなたがすずなちゃん? 祐司から聞いてるわよ、とっても可愛い子だって。颯太君と仲がいいのね」
 私と颯太がつないでいる手に視線を移すと、ふふふと小さい声で笑った。
 バスを降りてからここまで来る間に、つないでいる手のことをいつの間にか意識しなくなっていた私は顔を真っ赤にして。そして何故か颯太までもが耳まで真っ赤になりながら、お互い慌てて同時に手を放した。
 その時後ろの開いたままのドアから、聞きなれた声が投げかけられる。
「あれ、来てくれたの?」
 振り向くと祐司が缶ジュースを二本持って入ってきたところだった。
 い、今の見られてないわよね。大丈夫よね?
 内心焦りでいっぱいになったけれど、何とか私はそれを顔に出さないように押しとどめる。
「わあ、嬉しいなあ」
 でも私の心配をよそに、祐司は本当に嬉しそうに朗らかな顔でそう言うと、自分が持っていたジュースを見た。
「僕、あと二本買ってくるよ。一緒に行こう、颯太、すずなちゃん」
「お、おう」
「うん」
「あれ、どうしたの。二人とも顔が赤いけど」
 祐司の突っ込みに私と颯太は途端にカーッっと顔を真っ赤に染めて、口をパクパクとさせる。
 ああ、もう私ったらどうしちゃったのよ、一体。
「何でもねーよっ、早く行くぞ、祐司」
 颯太は軽く首を傾げる祐司を引っ張って病室をさっさと出て行き、それを追う私の後ろで、祐司のお母さんは楽しそうにクスクス笑っていた。


「もーうちの親もこの子も、心配性で困っちゃうわ」
 病室には椅子が一個しかなくて、颯太と祐司は窓側の縁の上に座り、私はその椅子に座ってジュースを飲みながら祐司のお母さんと話している。
 颯太は祐司に会えたのがよっぽど嬉しかったのか、何だか大盛り上がりで祐司に色々と話しかけていた。
 そして女は女同士、しかも小さい頃から身体が弱くて苦労しているもの同士で妙に気が合っちゃって、私も祐司のお母さんとお話することに夢中になってしまった。
 祐司のお母さんは発作を起こす数日前から風邪をひいて身体の調子を崩していたみたいで、祐司がここのところおかしかったのはそれが心配だったからなんだって。
「ちょっと体調崩したくらいで発作が簡単に起こるわけもないんだから、あの日も無理矢理私が送り出したのよ。そしたら本当に発作が起きちゃって、私もびっくりだわ。ふふふ」
 祐司のお母さんはとっても上品に笑う人で、透き通るように肌の白い人だった。
 ジュースを飲む時に動く細い手首は、触っただけでも本当に折れてしまいそうなほどに細い。
 美形の祐司のお母さんだけあって、目鼻立ちも繊細なつくりでとっても綺麗な人だった。私と似たようなちょっと茶色っぽい細い髪は、左肩の辺りでゆったりと結わえられている。 
 私は今までずっと自分のことを病弱な人間だと思ってきたけれど、こっちに来てからは外で遊んでばっかりだったから、今の私は日に焼けて腕も足も真っ黒だ。
 何か、女の子としてこれってどうなのかしら。
 自分の腕と祐司のお母さんの綺麗な腕を見比べて、私は思わず溜め息をついてしまった。
「どうしたの、すずなちゃん?」
「ううん、おばさんの手は白くて綺麗だなーって思って」
 溜め息のようにそう漏らす私を見て、祐司のお母さんはまたクスクス笑う。そして私だけに聞こえるように、顔を近づけて耳元に手を添えてそっとこう言うのだった。
「女の子はね、好きな男の子ができたらそれだけでうんと可愛くなるのよ。すずなちゃんは元々可愛いけど、これからもっと可愛くなるわ」
「そういうもの?」
 首を傾げる私に祐司のお母さんは微笑んでうなずく。
「もういるかとおばさんは思ったけど、違ったのかな?」
 私は瞬間的に、それが誰の事を言っているのか分かってしまった。そして顔を真っ赤にして訴える。
「ちっ、違うわ。あれはたまたま……」
 たまたま手をつないでいただけだもの。
 そう言おうとした声がつい大きくなって、窓際に座っている男二人が揃って首を傾げた。
「なあ、何の相談?」
「ヒソヒソ話してないで教えてよー」
「女同士の話なの、ね、すずなちゃん」
 祐司のお母さんはそう笑うと私の手を取り、優しく握ってくれる。
 それはとても温かくて、柔らかくて、そしてすべすべの白い肌の綺麗な手。
 自分も大人になったらこんな綺麗な手になれるかしらと思いながら、私はじっとその手を見つめていた。
 祐司のお母さんは元々こっちが地元の人で、今祐司が暮らしてるのが実家。結婚してしばらくは東京で暮らしてたんだけど、そのうちにまた体調が悪くなってきて療養の為に三年前こっちに帰ってきたんだって。
 祐司のお父さんは東京で仕事があるから、タンシンフニンとかいうのをしているらしい。
 何にしても病気で入退院を繰り返す人生って、本当に大変よね。
 今でこそ私は調子がいいけど、ちょっと前まで病院とは切っても切れない仲だったんだもの。
 祐司のお母さんもお気の毒な人だわ。
 本人を目の前にして表情に出すわけにもいかなかったので、私は心の内で眉尻を下げるのだった。

 病室から出る間際、祐司のお母さんが不意に私を呼び止めた。
「待って、すずなちゃん。ちょっとこっちに来て」
 何だろうと思ってベッドの側まで戻ると、祐司のお母さんは私がかぶっている麦わら帽子のリボンに触れる。
「ちょっと曲がってたの。はい、これでよし」
 その時ふんわりといいにおいがして、私は少しだけドキッとした。
「ありがとうございます」
「いえいえ。気をつけて帰ってね」 
 部屋の出入り口で振り返って見た祐司のお母さんは、白いカーテン越しに入ってくる午後の夏の日差しに照らされて、白い肌が更に透き通って見えるようだった。
 それはまるで一枚の絵のように綺麗な光景で、私は一瞬見とれてしまう。
「すずな、早く来いよ」
「あ、うん」
 廊下の方から颯太の呼ぶ声がして私はすぐに我に帰ると、ぺこりと頭を下げてその部屋を後にした。

 病院の玄関まで見送りに来てくれた祐司が指差して言う。
「帰りのバスはあそこのバス停から出るから。あ、ここまで来れたんだから分かってるか」
「お前も一緒に帰ればいいのに、祐司」
「ううん、僕おじいちゃんがまた後で来るから、その時に一緒に帰るよ」
「そっか、それじゃしょーがないか」
 颯太はそう言うと、バスの時間を確認しにバス停に向かって駆け出してゆく。
 それを何となく眺めながら立っていた私は、突然身体をびくりと緊張させた。
「ごめん、本当は見ちゃったんだ」
 そう言いながら、祐司が横に並んでいた私の左手を後ろ手に握ったからである。
「ふふ、ちょっとやけちゃったりして」
 そんな天使みたいな顔で「ふふ」って笑われても、どこまで本気で言ってるのか全然分からないんですけど。
 身体を硬直させたまま私は耳の先まで真っ赤にして、帽子の位置をずらして顔をうつむかせた。
 ああもう、颯太といい、祐司といい、私の許容範囲を超えているわ。
 私も含めてみんな一体どうしちゃったっていうのよ。
 それでも私にはこれだっていう正しい答えなんて思いつくことはできなくて、バスの中と同じく、祐司の方からその手を離すまで顔の熱が引いてくれるのをじっと待つことしかできなかった。
 後ろに隠されたこの手に、颯太が気づかないことを願いつつ……。

 視線の先の颯太はバス停を一所懸命覗き込んでいる。
 祐司は何だかすっとぼけた顔でどこを見るでもなく、辺りを眺めやっていた。
 そして私は、このまま顔が焦げそうなほどに頬を赤らめたまま必死で耐える。そして眉をひそめた。
 何だか私だけ妙に大変な思いをしているような気がするのは何故かしら。割りに合わない気がするわ。
 未だつながれたままの左手の感触をありありと感じながら、私は一人そう思うのだった。
 

「ねえ、カブ。私頭がどうかしちゃったんじゃないかしら」
 夕ご飯が終わった後に居間の畳の上に寝転び、私はカブの入った飼育ケースを見つめる。
 カブは相変わらず時どきしか動いてくれなかったけれど、小さな触覚みたいなのをちょろちょろ動かして「お前も大変だな」と私に答えてくれているような気がした。
 おばあちゃんが食器を洗う音が、静かな家の中に木霊している。
 そんな中でも今私の頭の中を駆け巡っているのは、颯太と祐司の手のことだった。
 右手は颯太、左手は祐司。何だかもう未だに感触が残ってるような気がするのは一体どういうことなのかしら。
「はー。私、自分で自分が分かんないわ」
 ほっぺたを畳にひっつけてそう呟くと、私はもう一回大きな溜め息をつく。
 ああ、そう言えば私、教室でみんなと特定の男の子の話題を語ったことなんて一度も無かったんだわ。
 だってそこまで仲の良い女の子なんていなかったし、男の子なんて興味も全く無かったんだもの。
 ぐるぐるぐるぐる頭の中を駆け巡るぼやきを繰り返しながら、私はカブを見つめる。
「私の相談相手はあんたしかいないのよ、カブ。しっかりしてよね」
 でもその頼りない唯一の相談相手は聞いているのかいないのか、のっそりのっそり木の枝に登って行って途中で止まる。
 何かしたいのかとじっと眺めていると、カブは細くなった枝の上で足を踏み外し、身体の重さに耐え切れずにそのまま土の上に落っこちてしまった。
「ダメだ、こりゃ」
 私は思い切り脱力して畳の上で伸びると、また一つ大きな溜め息をつくのだった。 



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