第二章、国境にて

「お呼びでございますか、オーギュスタン殿下」
「ああ、ダヴィドか。よく来てくれたね」
 フォルマン国と共に片面を海に接するノルグ大陸西端の国、ドーフィネス。
 南西に隣接するフォルマン国との国交は既に五代に渡って良好な関係を保ち続け、更なる関係強化の為に政略婚が執り行われた結果、現在のフォルマン王の実姉がドーフィネス正妃に迎えられている。
 その正妃が二番目に産んだ第三王子オーギュスタン・ド・ドーフィネスは、紗のカーテンを閉めきった寝台の中から気だるそうな声で答えた。
 ダヴィドと呼ばれた男は、三十五歳という若さで七人しか枠の無い聖導神官になった男である。
 神官の地位は頂点に大神官、そのすぐ下に二人の神教司官が控え、聖導神官は三番目となる。更にその下には各地方に散らばる神殿の代表者として神殿長が数十名いるわけで、それを考えればダヴィドの出世がどれだけ早いかが推し量られる。
 彼は優秀なだけでなく人望もあり、特に若い神官達からは絶大な信望を受ける神官であった。
 飾り気の無い灰色のローブに身を包み、ダヴィドは穏やかな表情で頭を垂れ王子の言葉を待つ。
「大神官の加減があまり良くないと聞いたけど、どう? 僕あの人に子供の頃結構可愛がってもらったからさ、心配といえば心配なんだよね」
「殿下のお優しいお言葉、大神官が聞けばさぞや励まされることでしょう。なにぶん高齢で油断はできませぬが、東方より訪れた有名な薬師殿に分けていただいた薬がよく効いた様でございます。今はまだ安静が必要ですが、あの方でしたらきっとすぐご回復なされて殿下に拝謁する日もすぐに来ると存じます」
「それは良かった」
 カーテンの向こうから聞こえるのは抑揚の無い声であったが、ダヴィドは人の良さそうな微笑を浮かべて小さく頷いた。
「本日のお召しは大神官へのご伝言、というご用向きでございましたか」
「まあ、それもあるんだけどさ。ちょっと聖導神官である君に頼みがあってね」
「は、私にでございますか」
「ダヴィドはアヴァロンの『神々の記憶』って知ってる?」
 数秒思案するようにダヴィドは沈黙すると、表情を改めながら答えた。
「『其は神々の叡智を記した書。アヴァロンの地にて永久に眠る、全てのものの至宝なり』以前古い書物の中に、そう記してあるのを見たことがございます。遥かいにしえの時代に姿を消したという伝説の国アヴァロン。そこに今でも眠っている『神々の記憶』という書を手にした者は、何でも望みを叶えることができると」 
「はは、さすがは稀代の秀才と言われるだけはある」
 紗越しの影だけの王子は嬉しそうに数回手を叩くと、笑い含みで言葉を続ける。
「もしそんなものが本当にこの世にあるのなら、なんて素晴らしいことだと思わないかいダヴィド」
「ですが殿下、これはあくまでも伝説でございまして」
「だから。あったら素敵だね、と言っているんだ」
 微妙にオーギュスタンの語気が鋭くなり、ダヴィドは一瞬で表情を固める。
「王都にある三つの神殿のどこかに、王族ですら入ることのできない秘密の書庫があるそうだよ。代々大神官にだけ場所は引き継がれ、有事の際にしか大神官も立ち入ることを許されぬと」
 ダヴィドの表情からは微笑みが消えていた。代わりに額には汗が浮かび、唇を一文字にきつく結ぶ。
「ただ必要なことを調べてきてくれるだけでいいんだ、本当に必要なことは僕が直接手配するから。ね、お願いできるかなあ」
「殿下、私は」
「そうそう、君の妹って随分と年が離れてるんだね。フラヴィだっけ」
「……は」
「宮殿の下働きをしていたようだけど、ついさっき僕付きの侍女に上げたんだ。ま、当然僕には劣るけど、まあましな方か」
 今年で二十歳になるオーギュスタン第三王子は母親似の繊細な美貌を持つ青年であるが、大変偏った嗜好の人物であるというのがドーフィネス宮廷での通説だった。
 彼の興味の対象は自分自身にしか無く、他への酷薄な扱いは宮廷に限らずヴァナル神を祀る神殿にも届いている噂である。
「大神官は今床に臥せってる、その下の神教司官の二人は代理で大忙し。君は七人の聖導神官の中では末席だけれど、今は神教司官に次ぐ二番目の役職に居るわけだからかなり自由が効くんじゃない?」
 規則正しい格子状に配列された床の木目に視線を落とし、ダヴィドは黙ったまま深く頭を下げた。


 フォルマン国とドーフィネス国との境目には川が流れている。と言っても少し幅はあるが、雨が降って増水でもしない限り馬で十分渡れる浅い川であった。
 日が西の空に傾きかけた頃、辺り一帯を包み込んでいる森林地帯でティアとゲトリスクは国境越え最後の夜を過ごすことに決めて既に野営の準備を始めている。
 川原におこされた焚き火に炙られる今夜の食材に、ティアは額に脂汗を浮かべながら難しい顔をしてじいっと見つめていた。
「師匠、本当にこれを食べるのですか?」
「食べないものをわざわざ棒に挿して焼く馬鹿がどこにいる」
「うっ、なるほど」
 青い瞳が困惑した視線を注ぎ続けるのは、こんがりと美味そうに焼けている川魚ではない。
 潔く口から尻にかけて木の枝を貫かれ、火炙りにされている大きなカエルであった。
「わ、私はあまりお腹が空いていないので今日は……」
「葡萄酒と干し肉、ライ麦パン、干しイチジク……」
 平然と焼けたカエルの皮をぺりぺりとめくり、肉にかぶり付きながらゲトリスクが呟く。
「ひっ」
 一瞬肩を竦ませ不快そうに表情を歪めながらも、ティアは言い返す言葉を見繕うことができずに視線を泳がせ、更に額に浮かぶ汗を増やすのだった。
 
 ことの次第は、今日の昼前から始まった。
「ワシは少し用事がある。そろそろ食料も減ってきたから、お前はこの先にあるという村で買っておくように。明日以降はドーフィネスに入っても暫くは人里が無いらしいから、少し余裕を持ってな」
「師匠の御用事とは?」
「弟子に説明する必要は無い」
 質問を一刀両断されてしかめ面になるティアには目もくれず、ゲトリスクは馬首をめぐらし側道へさっさと去ってゆく。
「すぐに追いつく。国境の川辺で待っていろ」
 こうして一時、師弟はお互い別行動をとることになったのだった。
 ティアは丘を下った先にある小さな集落を遠目に見やり、ゲトリスクに言われたとおり馬を進めた。
 そして幾ばくもしないうちに、声を掛けられて手綱を引く。
「お兄さん旅の人?」
 道外れの繁みの向こうから、あどけない表情の少年が顔を突き出してティアに笑いかけていた。少年はクルトと名乗り、これから向かおうとしている村の子供で薬草取りの帰りなのだという。
「僕の村は国の端っこだし大きな街道から外れてるから、滅多に他所の人は来ないんだ。食べ物? 村長さんに頼めばきっと分けてくれるよ、僕も頼んであげる」
「そうか、感謝する」
 そしてクルトを一緒に馬に乗せてやると、ティアは背中の子供を振り返ってこう言うのだった。
「それと、私は『お兄さん』ではないぞ。『お姉さん』だ」
 クルトは全く人見知りしない子供で、しかも何にでも興味しんしんで常に話し続ける忙しい子供だった。
 馬に乗るのも初めだということだったので、少年の興奮はかつて無いほど高まっていたに違いない。
「わあ、剣だ。ティアお姉ちゃんは剣士なの?」
「確かにそうだが、今は魔術師見習いでもあるな」
「すごいねえ。僕の村には剣を使える人は居ないんだ、たまにディーターの兄ちゃんが酒に酔うと鍬を振り回してたりするけど」
「ディーターの兄とやらがどんな者かは知らぬが、それは普通にまずいだろう。誰かが怪我をする前に飲酒を止めさせた方が良いのではないか?」
「ねえねえ、お姉ちゃんはどうして女の人なのに剣術を習おうと思ったの?」
「少しは人の話を聞け、少年」
 一方的に喋り続け、質問をし続けるクルトにティアは苦笑を禁じえない。
「私がクルトより少し幼い頃、ある剣豪に命を救われたことがあってな。以来私はその恩人の姿に少しでも近づきたいと自らを鍛え、自分も周りにいる者達も守れる人間になりたいと思ってきたのだ」
「へえ、じゃあお姉ちゃん強いんだね。僕達のことも守ってくれる?」
 他愛も無い無邪気なその一言に、いつもは晴れた青空の様なティアの瞳に一瞬雲がかかった。
 唇を噛み締めしばらく黙り込んでいたが、背中でもぞもぞ動く子供の気配に我に返るとすぐに表情を改めて振り返る。
「そうだな、ディーターの兄が酔っ払って暴れていたら私が倒してやろう」
「あはは、そりゃいいや」
 背中にしがみ付いていたクルトは、満面の笑顔でそう笑った。
 辿り着いた小さな村はお世辞にも豊かそうには見えなかったが、人懐っこいクルトが仲介に立ってくれたお陰か村長の老人は快く村の蓄えの中から食糧を分けてくれた。
 しかしティアから代金として受け取った硬貨を皺だらけの手の平に受け取ると、老人は仰天しながら首を横に振る。
「五ディルサム(銀貨)! もらい過ぎだ、せいぜいこれなら八十ミル(銅貨)というところだよお嬢さん」
「いや、良いのだ。村の大事な蓄えを譲ってもらったのだから、大した額ではないが皆の役に立ててくれれば私も嬉しい」
 お金が大好きで節約第一主義のゲトリスクが聞けば「無駄金だ」と眉をひそめたところであろうが、余分に出した分はティアの手持ち金なので問題は無いはずだ。
 買った物を馬の鞍に引っ掛けた荷袋に詰め込んでいると、突然複数の馬の蹄の音と奇声が聞こえてきてティアの手が止まる。
「何だ?」
 少女が反射的に振り返るのと、村人の「盗賊だ!」という悲鳴が聞こえたのはほぼ同時であった。


 木で組まれた村の入り口を怒涛の勢いで駆け抜けてきたのは、総勢十人の体躯逞しき男達である。
 みな殆ど髪の毛は伸ばしっぱなしでぼさぼさ、肌も衣服も薄汚れていかにも臭いそうな容貌は野蛮人そのものを体現していた。
 抜いた剣身が振り上げられて太陽の光を反射する。逃げ惑う力無き村人達の目に、その光は恐怖そのものとして映るのだった。
「食い物だ、酒と女。根こそぎ掻っ攫え!」
 怒号と悲鳴が飛び交う中、ひときわ大きなだみ声を張り上げる髭面の男がいた。風体からしてもこの髭男が盗賊の首領であることは一目瞭然である。
「大変だお嬢さん、早くお逃げなさい」
 ティア達が居る場所は村の一番奥まった場所である。村長は少女の背中を焦って押しながら、残った片方の腕でクルトと手を繋ぎ建物の中に逃げ込もうとした。
 しかし盗賊達はこの村のどこに食料が蓄えられているのかを知っていたらしい。
 迷うことなくそのうちの一人がこちらへ進路をとり、手前で逃げ惑っていた村人の一人を進路から排除するように背中を斬り付けて薙ぎ払い、突進してきた。
「ああ、ヤーコブ!」
「何てことを!」
 血を流しながら倒れた村人に注意が行くあまり、村長の動きが鈍くなって盗賊の接近を許してしまった。血に濡れた刃が、その背中にも振り下ろされる。
「止めろ!」
 ティアが間一髪で両者の間に入り、盗賊の刃を剣で弾き返した。
「お、男の格好してるがお前女か。こりゃちょっとした上玉だな」
 勢い余って一度通り過ぎた盗賊は、馬を返しこちらを見て笑う。無精髭を生やした不潔な口元が歪み、馬上から赤い髪の少女を値踏みするように視線を注いだ。
 ティアは自分の馬の鞍に括り付けられた中身一杯の荷袋を剣で切って落とし、あっと言う間に馬上の人となる。
 少女は間髪入れずに馬を疾走させた。男が剣を構え直すその僅かな間に両者はすれ違い、ティアの剣が一閃する。
 男の太い首は半分ほどを切断され、膨大な量の鮮血が噴水の様に飛び散って付近の建物と地面を真っ赤に染めてそのまま落馬した。
「きゃぁぁぁぁぁぁ!」
 凄惨な場面を目の前で見てしまったクルトが、村長にしがみ付いて叫び声を上げる。
 馬を返し、振り返ったティアが顔を上げた。その瞳はまるで何かに取り憑かれた様に感情を失い、視線が流れて既に次の敵を探し始めている。
「躊躇うな、確実に急所を討て」
 可憐な唇が紡ぐ言葉は、まるで己を術にでもかけている様である。戸口でへたれ込む村長達には一瞥もくれず、ティアは馬を疾走させた。
 抵抗できない子羊の群れの中に思いがけなく反抗者を発見した盗賊共は、略奪と暴力に勤しんでいた手を休め我に返ったように次々と襲い掛かる。
 しかし力任せで無軌道な切っ先は簡単にティアにかわされ、代わりに盗賊達は腕を切り落とされ、心臓を貫かれ、両目を切りつけられてあっと言う間に半数が戦闘能力を奪われてしまった。
 ティアは真っ直ぐ髭面の頭領の所までやって来ると、躊躇い無く剣を振り下ろす。
 両者の刃が弾き合い、火花を散らせた。一合、二合、三合と打ち合い、体格差は歴然なのにも関わらず、足だけで巧みに馬の位置を操るティアは盗賊の頭領相手に全く押され負けしている様子が見られない。
 しかしその均衡はすぐに破られた。鍔迫り合いの末、上半身が僅かにぶれた頭領の脇腹めがけてティアの剣が食い込む。
 揉み合うように二人は落馬し、地面に叩きつけられてより早く体勢を整えたのはティアである。頭領の脇腹に刺さった剣を抜き、返す刃を喉元に突き立てて止めを刺す。
「うわ、うわぁぁぁぁ!」
 あっと言う間に半数以下にされた上に頭領まで倒されてしまった盗賊の残党は、ほうほうの体で逃げ出した。
 破壊された家屋と血の臭い、死体が転がる凄惨な光景を晒す小村の真ん中で、ティアは血塗れの剣を握り締めたままただ立ち尽くしていた。
「私は無力だな……すまない、イルゼ」
 掠れた声は未だ覚めやらぬ村人の緊張と興奮のるつぼに吸い込まれ、誰の耳にも届くことは無かった。

 ◇

「偶然出会わせた盗賊を追い払ったまでは良いとしよう。しかしどうしてそれが食い物が無くなることに繋がる」
 カエルを一匹平らげたゲトリスクは、刺さった棒ごと骨を川の中へ放り投げながら面白くもなさそうに尋ねる。
「それは、その。逃げていった盗賊の残党がどさくさ紛れに村の蓄えをしっかり持ち去ってしまって……」
「だから?」
「もちろん村長は受け取れないと言ったんだ、でも」
 ゲトリスクは既に相槌すら打つ様子も無い。呆れた様に鼻からふんと息を吐き出すのみである。
「深い傷を負った者もいるし、少しでも足しになればと……うう、すみません師匠」
 人情に篤いティアは困った村人を見て、手に入れた食料をそっくりそのまま村に返してしまったのである。もちろん代金を返そうとする村長の申し出も断って。
「今までどんな恵まれた生活をしてきたかは知らんが、こんなことを繰り返していたらお前の行き着く先は乞食だな」
「ぬう」
「金も食い物も有限だ。庇護も無く自らの力で生きてゆくには、そんな甘い考えは邪魔でしかない」
 すると口をひん曲げむくれているティアの代わりに、川原の石の上に寝そべっていたセーンが会話に加わった。
「そうだな、ゲトリスクも昔は大変な思いをした。食うものに困って色々なものを食した結果、今では類を見ない悪食だ」
「余計なことは言わんでいい、セーン。大体カエルは珍味だぞ、大陸の東方では普通に皆食っているものだ」
 するとむっつり黙り込んでいたティアが、突然瞳を輝かせながら身を乗り出す。
「師匠はそんな遠くまで旅をされているのですか?」
「まあな」
「それは素晴らしい。私もいつかは様々な遠方の国々を是非見聞してみたいと思っ……」
「そうか。ならばこれも異国情緒溢れていてお前も気に入るのではないか?」
 興奮して喋りだした弟子の言葉を遮る様に、ゲトリスクは焚き火の中から木の棒である塊をかき出す。何重にも包まれた真っ黒に焦げた大きな葉を剥がすと、中で蒸し焼きにされた白いものが顕になった。
「え、何です…………うぎゃーっ!」
 何だろうと覗き込んだティアは、可愛くない叫び声を上げながら派手に尻餅をつく。
「い、いもいもいも」
「芋じゃない、芋虫だ。なかなか濃厚な味で美味いぞ」
 一つ摘んで口の中に放り込むと、躊躇いも無く咀嚼する老人の口の動きがティアには心底恐ろしい光景に見えた。
「何もわざわざ変なものを食べなくても良いではありませんか。川の目の前なのだから、魚を獲って食べるのが普通でしょう!」
 食料を持って来れなかった弟子の報告を受け、遅れてこの川原に姿を現したゲトリスクは今夜の食事は自分が用意すると微妙に含み笑いで弟子に言ったのであった。
 その結果がこれだ。
 嫌がらせだ。どう考えても嫌がらせ以外の何ものでもない。一応後ろを向いてから拳を握り、ぷるぷるとさせて弟子は渋面をつくる。
「ならばワシが辿り着く前に自分で魚を獲り、用意しておけばよかったのではないか。お前は自分の分だけではなく、ワシの分の食料も勝手に人に恵んでやってどう責任をとるつもりだった。ワシもお前も同じように空腹に耐えれば良かったのか、お前のせいなのに? それともお前は、自分の行動に責任がついて回ることを知らずに今まで生きてきたのかティアよ」
 ゲトリスクの言葉が背中に突き刺さる。
 少しの糧食を村に残してきたところで皆が十分に腹を満たせるわけもなく、実際それは自己満足でしかない。そして自分たちの分は何とかなると楽観していたティアは、例えゲテモノ料理であろうと折角用意された食べ物を否定する権利は無いのだ。
「むむむむむ」
 唸り声を上げながらティアが振り向いた。真っ直ぐ焚き火の方へ手を伸ばし、カエルが刺さった棒を掴んで持ち上げる。
 鼻腔をくすぐるにおいは意外にも香ばしい。――――この水かきが無ければ、まだら模様のつるつるな皮が無ければ、恨めしそうにこちらを見ているその目が無ければ食べられそうなのに。多分。
 顔前までカエルを近づけたものの冷や汗をだらだらと流しながら固まる少女に、ゲトリスクの口元が人知れずわずかに綻んだ。
 その時である。老魔術師は一瞬身体の動きを止め、視線だけを森の方へ向けて険しい表情になる。低い声音がティアの注意を促した。
「どうやら他にも珍味を味わいたいものがいたようだ。荷を纏めて馬を引け、早く」
「え?」
 いつに無く殺気立った師匠の様子にティアは目を見開いた。森の方へ視線を巡らすと、木々の向こうから段々と近づいてくる複数の騎影が見える。蹄の音が川の水音に消されて分からなかったのだ。
 始めにティアが考えた事は、昼間の盗賊の残党が彼女に報復をしに来たのではという可能性である。
 しかし馬をゲトリスクの元に引っ張って来たティアが目にしたのは、森に差し込む夕日の赤を反射した頭部全てを覆う銀色の兜。はためくマントの下に着込まれているのは、全身を覆う鎖かたびらであった。
 その整然とした動きからしても、とても野盗とは思えない。
「兵士か」
 馬を走らせながら向かい来る戦士六人が一斉に剣を抜く。それは無言の宣戦布告に相違なかった。


 馬に飛び乗った魔術の師弟は、護衛として雇われている面目あってか弟子の方が真っ先に剣を抜いて飛び出そうとする。
「ここは何とか私が食い止めます。師匠は先にお逃げください」
「殊勝なことだな。しかし昼間の盗賊とはわけが違うぞ」
「しかし」
 そんな事を言い合っているうちに、前方を走る二騎が森を突き抜け川原に飛び込んで来た。
 すかさず馬を進めたティアが受けて立つ。
 すれ違い様に、ティアが一人目の首元を兜の隙間を狙って剣を打ち込んだ。自らの振るった剣は空を切り、兵士は衝撃のままに落馬する。
 昼間の様に辺りが流血で染まらなかったのは、兵士が着込んでいる鎖かたびらが刃の食い込むのを阻んだからである。しかし鉄の塊が頚部に与えた打撲の大きさは計り知れず、頚骨を折ったのかそのまま起き上がってくる様子は見られなかった。
 馬を返して体勢を整えると、既にティア目掛けてもう一人の兵士が突進してくる。
 少女は迫り来る厚刃の剣を弾いていなし、がら空きになった胸部目掛けて剣を突き立てた。
 だが剣を引き抜き体勢を整える間に後続が到着し、ティアは四人に包囲される形になる。
「くそ」
 次々と刃が襲い掛かる中、ティアは巧みにそれぞれと距離を取るように馬を操って三人目の兜を思い切り剣の腹で殴りつけて落馬させた。
 剣と剣のぶつかり合いで火花が散る。残り三人のうちの一人と鍔迫り合いをしながら両者の顔が至近距離になり、敵の素顔をすっかり隠す兜の覗き穴を睨み付けながらティアは唸る。
「何者だ、お前達」
「あなたはここで死ぬ。ただそれだけだ」
「まさか……お前達をここに寄越したのは。何故だ、くそ!」
 しかし激高したティアが目の前の兵士に一撃を加える前に、控えていた残りの敵二本の刃が同時に背後から襲い掛かる。
 その時であった。一瞬空気が薄くなったような、周囲の景色の色が微妙に変わった様な錯覚に、その場に居た剣士達皆が陥る。
「ヒレク、ゲブラー、アメモーン!」
 聞こえてきたのは後方に居たゲトリスクの声であった。その瞬間、ティアの後ろすれすれをもの凄い熱さが通り抜ける。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!」
 背後から少女に切りかからんとしていた兵士二人が、赤ん坊程もある大きな火の玉の直撃を食らい馬上から吹っ飛ばされた。
 川原の砂利の上に転がった兵士らは鎧の上に着込んでいた服に火が燃え移り、あっと言う間に炎に巻かれやがて動かなくなる。
「何だあれは。あんな凄まじい魔術は見たことが無い」
 最後の一人になってしまった鍔迫り合い中の兵士は、兜の中でくぐもった声をもらした。
 敵も呆然としていたがティアも初めて目の当たりにするゲトリスクの魔術のすごさに面食らってしまい、隙を突かれてまんまと敵の逃走を許してしまう。
「あ、こら」
「放って置け」
 闇に沈みつつある木々の向こうへ一目散に馬を走らせる兵士の背中を、複雑そうな顔で眺めながら弟子は師匠を振り返った。
「しかし」
「構わぬ。それより、聞かせてもらおうか」
 既に危険は通り過ぎたが、ゲトリスクの表情は厳しいまま弟子を見やっていた。ティアもその意は汲んでいたが、あえて言葉を返す。
「何をです?」
「あの者どもが役人の遣わした兵士ならば、襲う前にまず何か一言あったであろう。ならば、秘密裏に兵士を手駒として動かせる力を持つ人間がお前を殺しに来たということ」
 ティアは馬を降り、剣にこびり付いた血糊を落とすために川の中へ黙って歩いてゆく。しゃがみ込む横顔にゲトリスクは問い掛けた。
「お前は何者だ、ティア」
「私は、ただの魔術師見習いです。それ以上でも、それ以下でもありません」
「では何故命を狙われる」
「それは……」
 数秒の沈黙が流れた。せせらぎの清らかな音とは対照的に、重く息苦しい沈黙が。
 すると突然ゲトリスクは馬の向きを変え、川を渡り始める。この川を渡った向こうは既に隣国ドーフィネスだ。
 それが何を意味した行動なのかとっさに分からず、呆然としている少女に師匠は振り向きもせずに言い放った。
「役立たずなばかりか、信用の置けぬ者とは一緒に行動はできぬ。魔術指南の契約は無効だ、去れ娘」
「ちょ、待って下さい。私はどうしても魔術が」
「もうお前とワシは何の関係も無い。二度とワシの前に顔を見せるな」
 ゲトリスクの声には容赦が無く、そしてティアの名すら呼ぼうとしなかった。
 強烈な拒絶を表した黒衣の背中は夕闇の森の奥へと吸い込まれてゆき、あっと言う間にティアの視界から消え去ってしまったのであった。 
 プロローグ、第一章  第二章  第三章  第四章  第五章  第六章  エピローグ
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送