第四章、姉の在り方、兄の在り方

「またそんな男の様なお召し物を。いい加減にチャンバラごっこはお止しなさいませティア様」
「チャンバラごっこではない、鍛錬だ。私はかつての命の恩人の様に立派な剣士にだな」
「なってどうするんです、お嫁の貰い手が無くなるだけではありませんか。ああ、このイルゼの力が及ばないばかりに」
「そこまで嘆くような事か、おい」
「幼馴染のオスカー様ならもしかしてと密かに期待しておりましたのに、ウェリ様のお婿候補の一人に挙げられていらっしゃると噂でございましょう。残念ですわ、とてもじゃありませんけれど女神の如き美貌と謳われる姉君には逆立ちしても敵いませんもの。ティア様も素材はよろしいのですから、着飾れば結構それなりなんですけどねえ」
「ふん、オスカーは昔から姉上に対して必要以上に親切だからな。私には一度もあんなふうに」
「あら、あらあらあら。もしかしてティア様、オスカー様にちゃんと女性として接していただきたいと? まあ、いつの間に」
「イールーゼーっ!」
 何でも話せる友人。いつも側にいて、どんな時にでも励ましてくれて、いつも一緒に居るのが当たり前だった少女が居た。
 ティアの乳母の孫娘でありティア付きの侍女でもあったイルゼは、一つ年上なだけだが主人よりもずっとしっかり者ではきはきとよく喋り、よく働く娘であった。
 優しい色合いの栗色のくせ毛、良く晴れた日の空のような薄い水色の瞳。イルゼはいつでもティアのすぐ側にいて、年頃になっても落ち着こうとしない主人を遠慮なく叱り、赤い髪をいつも丁寧に梳いて綺麗だと褒めてくれた侍女だった。
 心配だから将来ティアの腰入れ先まで付いて行くと豪語していた彼女であったが、今はもうこの世のどこにも存在しない。
「イルゼ! おいイルゼ、しっかりしろ。目を閉じたら駄目だ!」
 今から半年前、ティアは外出先でイルゼと二人でいるところを何者かに襲われた。
 鍛錬では無く本物の殺意を乗せた白刃を目の前にしてティアは驚き、そしてそのことに驚いている自分自身に愕然とした。
 実際に人間を斬った事も殺したことも無い。鍛錬ならば兵士に混じって負け知らずの彼女が、枠を超えて実際の殺し合いに放り込まれた途端いつもの技の切れと判断力を鈍らせてしまったのだ。
 ほんの僅かな隙をつかれて怯んだ瞬間、ティア目掛けて振り下ろされた凶刃は咄嗟に間に割り込んだイルゼの柔らかな身体に食い込んだ。
 信じられなかった。悪い夢だと思いたかった。
 迸る鮮血も、苦痛に歪むイルゼの顔も。
 そして我に返った時、ティアの剣は襲ってきた男を滅多切りにして息の根を止めていた。
 自分の全身が敵の返り血で真っ赤に染まっていたが、そんなことよりも傍らで既に動かなくなっていたイルゼの事の方が重大事だった。
「イルゼ、イルゼ、イルゼ! なぜ答えない、お前は私の侍女だろう。嫁ぎ先までしぶとく付いてくるのだろう。こんなところで寝てどうするのだ」
 だが何度呼びかけても、大切な友は二度と答えることは無かった。
 そしてこの惨事は「外出する時には必ず護衛を付けるように」というイルゼの言葉を聞き入れず軽率な行動をとった、ティアの過失でもあったのである。

「……う」
 規則的な揺れの中で、閉じた目蓋の向こうから当たる日差しの刺激にティアは目覚めた。
「起きたか。ちょうど良い、そろそろ一度馬を休めようと思っていたところだ」
 すぐ耳元で低い声が聞こえ、寝起きでぼんやりしていた少女の頭がだんだんとはっきりしてくる。
 昨日は盗賊の残党達に襲われて撃退したものの、まだ他にも仲間がいる可能性もあり二人はすぐその場を発ったのだった。
 自分では今さっきまで起きていたつもりなのだが、夜通しの移動で不覚にもいつの間にか眠ってしまったらしい。
 揺れる馬の背からティアが落ちなかったのは後ろの人物の胸に背を預け、手綱を持つ逞しい両腕に支えられていたからである。
 すっかりクロウの胸の中で眠りこけていた事を自覚すると、ティアは自分の髪の色よりも頬を赤く染めながら黙って身体を起こした。これでも大声で叫ばなかっただけまだましな方である。
 頬が涙で濡れていることに気付いて慌てて拭い、気まずそうに前方を向いたまま背中でクロウの気配を探る。
 気付かれただろうか。いや、あの態勢で気付かれない方が不自然というものだろう。
 ますます居たたまれない気分になり、誤魔化すようにして少女の口が思わず勝手に動く。
「ごたごたしていて言えなかったのだが、実は昨夜襲ってきた野盗は以前私が恨みを買った者どもだったのだ。今更だが、巻き込んで悪いことをした」
「ふうん、逆に追い剥ぎでもしてやったのか?」
「あのなあ、お前は一体私を何だと思って」
 いつもの皮肉に先程までの気まずさも一瞬忘れ、反射的に振り返ったティアの顔のすぐ斜め上にクロウの顔があった。一頭の馬に二人乗りしているのだから、当たり前と言えば当たり前である。
 まるで月の青年神マーニガンの彫刻のような整った顔を突然間近にし、ティアは素で驚いて声も無い。
 照れているというよりも驚きのあまり目を見開いて凝視する様は、どうも年頃の乙女としては色気の無い反応である。夢に出て来たイルゼがこの場にいれば、きっと自分の主人に落第点をつけるに違いなかった。
 凝視された側は居心地悪そうに眉根を顰め、行く先を眺めていた鳶色の瞳が視線を下げる。
「何だ、腹が減ったのか」
「減ったがどうした」
 ティア同様情緒のない青年の言葉に我に返ると、少女はぷいと前を向きながら憤然として言うのだった。
「それにしても最近の盗賊というのは凄いものだな、あのように見事な幻術を操るとは」
 感心しながらそう語るティアは、昨夜クロウが四人目の敵を追いかけて仕留め、それが魔術師だったという事を知らない。
「他に仲間がいるかどうか見回ってきた」というクロウの言葉をそのまま信じ、彼女の中ではあの三人の残党の誰かが姿を隠す魔術を行ったと思っているのであった。
「……わざわざ取り繕う必要もないか」
「何がだ?」
「昨日襲われた原因はお前にあるのだろう? そこの水場で一休みだ、迷惑料の代わりに俺様の馬の世話をしろよ。丁寧にな」
「言っておくが私は馬の所有権を放棄した覚えは無いからな!」
 道の脇に湧き出る小さな泉を指し示すクロウに文句をつけながらも、思い込みからすっかり責任が自分だけにあると思っていたティアは、結局「迷惑料」を払うことになりそうであった。


 岩に囲まれた中でこんこんと湧き出る冷ややかな清水。絶えず溢れ出た水が小川を作り、その先に広がる青い麦畑は見る者の目に鮮やかである。
 山や森ではなく既に人の手が入った場所にいることの安心感か、人間も馬も休息と栄養を補給しながら明けたばかりの朝日の中草の上ですっかりくつろいでいた。
 ティアは手の平を頭上にかざし、朝日に透かされて赤く見える様を眺めながら一人呟く。
「現と意識の境目か。どう見ても考えても、自分が今いるこの世界しかないような気がするのだが。もっと上手に『看る』ことができると、何か変わったものでも見えるのかな」
 いつかゲトリスクとの旅路でこの様な休息時に失敗した事を思い出し、自主的に修行は続けているものの未だに意識投影術が上手くいかないティアはため息をついた。
「お前みたいな奴用に裏技が無いわけではないぞ」
「なんと、裏技か」
「見分けようとするから余計混乱するのだ、だったら始めから目を閉じて見なければ良い。頭を空っぽにして全身の神経を研ぎ澄ませ、頃合を見て目を開く」
「そしたら看えるのか、境界が」
「看えるというよりも感じるという感覚の方が近いな。ま、この方法は外敵がいたらあっと言う間にやられてしまう上に野生の勘任せだ。それに看えたとしても一瞬くらいだろう」
「何だ、使えない裏技だな。大体野生の勘ってどういう意味だクロウ」
「実践では使えなくとも、一瞬でも修行で感覚を知るのは有効だろ」
「おお、言われてみれば」
 野生の勘についての言及があっさりかわされているが、良い事を聞いたという思いの方が強い余りにティアはそれに気付かない様である。
 少女から顔を背けるように横を向き、クロウは密かに鼻でふっと笑うのだった。
「トゥールまではあと半日って所だな。日暮れ前には王都の門内に入れるだろう」
「そうか。トゥールに着いたら何としても師匠を探し出し、謝り倒してでもまた弟子入りさせてもらわねば。そもそも私が事情を黙っていたのが原因ならば、正直に話せばきっとあの頑固じじいでも考慮してくれるに違いない。うむ」
「……魔術の師匠とは『はぐれた』と言っていなかったか、お前」
「そうだったか?」
 今度はティアの方がそっぽを向き、何食わぬ顔で言いのける。
 暫くすると、二人はほぼ同時に道の向こうから複数の騎影がこちらに近づいて来るのに気付いた。
 始めは夜明けと共に働き出す農夫かと思ったが、近づくにつれ見えてくる整然とした騎乗振りはどう考えても只者ではない。
 今まで襲われてばかりの道中であったので、ティアは警戒しながら立ち上がり剣の柄に手をやった。だが突然何かに気付いたのか、少女は目を見開いて立ち尽くす。
 一瞬嬉しそうに口元が綻びかけたが、すぐに頭をぶんぶんと振ると突然馬の方へ駆け出した。
「行くぞクロウ、早くしろ」
「は?」
 しかし生憎と馬の鞍も外してしまっていたので、準備が整う前に相手に追いつかれてしまった。
 やって来たのは総勢五人の男達で、その先頭にいた茶色い髪の若者は馬を飛び降りるとすかさず駆け寄ってティアの腕を掴み取る。
「ティア!」
「…………オスカー、なぜお前がここにいる。お前が居るべき場所はサンブルクだ」
 ばつが悪そうに視線を逸らす少女の青い瞳と、問いかける青年の青い瞳の視線が一瞬交錯する。
 オスカーはティアの腕を決して離そうとはせず、その隣に立っているいかにも胡散臭そうな黒髪の青年を見据えた。
「誰だお前は。お前が彼女をかどわかして連れ回していたのか」
「オスカー、おいちょっと待て」
 力任せにティアを自分の方へ引っ張り込むと、後方の部下の一人に「逃がすなよ」と言い含めた上で引き渡す。
 残りの部下がクロウを取り囲もうとしたがオスカーは左手でそれを制し、しかし反対の右手では腰に下げられた剣を引き抜こうとするのだった。
「ふん、喧嘩を売りたいなら買ってやるぞ」
「戯言はそれだけか」
「わーっ、馬鹿。違うんだオスカー! クロウお前も面白そうだからって勝手に喧嘩を買うな!」
 逃げられないように羽交い絞めされているティアは、その場で足をばたばたさせて叫ぶことしかできない。
 しかし血気に逸る二人の若者にはティアの言葉など全く耳に届いていないのであった。あっと言う間に二人とも抜刀し、槍と剣が激突する。
 手合わせした事のあるティアには、クロウの槍術がフォルマン国の将軍にも匹敵するほど優れたものであることを知っている。
 そして剣術の兄妹弟子であるオスカーもまた、強さにおいては国内で五本の指に数えられる騎士であった。もっともこの一年ばかりは公務が忙しいと理由を付けられて、ティアは長いことオスカーと剣を合わせていないのだが。
 共に達人の剣筋は驚くほどに速い。
 二合、三合と火花が散り、例えティアが拘束されていなかったとしても両者の間に安易に割り入ることなど不可能だろうと思われた。
「ははあ、なるほど。槍に対してはあのようにいなして」
 ふと口から漏れた言葉にティアは我に返る。二人の剣戟に見入ってしまい、ついつい自分の置かれた状況を忘れてしまっていたようだ。
 だがティアが止めるまでも無く、程なく相手との距離を取ったオスカーの方が動きを止めて剣先を下ろした。
「その槍には全く殺気が無い。どうやら私の勘違いだったようだ、申し訳ない」
「別にもう少しやっても良かったんだが」
「これ以上ややこしくするなクロウ」
 剣を鞘に収めたオスカーが振り返る。真正面から見据えられた少女は一瞬息を呑み、口元をきつく結んだ。
「ティア――――ティアナ様、あなたが亡くなった侍女の出身地であるダールベルク領に出向き、祖母君のダールベルク伯爵夫人の元で侍女の冥福を祈りたいと強く望んだからこそ陛下は許可あそばれたのです。だが到着してみれば馬車の中はもぬけの空、あなたの消息が分からなくなってから既に一月。サンブルクが今どれだけ混乱しているかご存知か」
「あてつけがましく丁寧な口調をわざわざ使うな。大体そんな大変な時期ならば、近衛隊副隊長自らサンブルクを離れるのはどうかと思うが」
「いつまでも埒が明かないから捜索隊に志願する許可を頂いたのだ。私がどれだけ心配したと思っている」
「私のことは放っておいてくれ。大体、お前は姉上の側を離れるべきではない」
「だからそれは…………。それで、あの槍使い殿は一体どういう関係ですか」
 わずかに言いよどみながら、オスカーはティアへ向けた視線を逸らすようにしてクロウへ向けた。
「どういうって……」
 咄嗟に聞かれてティアの頭の中を情報が駆け巡る。
 夜の森で偶然会って(上だけ)裸体を見た……これは口が裂けても言えない。
 行き倒れているところを助けてもらい、だがその後に馬の所有権を主張しあって……これも端的に説明するには微妙だろうか。
 そうだ、その後。その後に立ち寄った村でのやり取りの中に、そのものずばりな言葉があったではないか。弟? いや違う、それは自分のことだから
「兄だ! ……あれ?」
 ティアが「弟」であるという設定は通りすがりの他人に詮索されないよう便宜上言ったものであり、この場合には全く使用例が適さない。
 二人がまた剣をつき合わせたら大変だと、場を上手く取り繕おうと変に気を遣った挙句支離滅裂なことを口走ってしまったティアだった。
 眉間に指を当ててオスカーが呆れたように首を振る。
「そんな人物がいたらそれこそ国は大騒ぎだ。フォルマン王国第二王女、ティアナ・エル・フォルマンの実兄とすれば、王位継承権第一位の王子が突然現れたことになるのだから」
「冗談だ」
「何のことやら」
 王女と近衛隊副隊長、それと正体不明の槍使いは、それぞれに小さく息を吐き出した。


 現フォルマン国王には子が三人いるが、その全てが娘であった。
 長女のウェリフィンと三女のマルティナが正妃の産んだ娘で、ティアだけが側室腹である。
 ゆくゆくはウェリフィンが他国の王子か国内の有力者の子息と婚姻して王位を継ぐことになるだろうと予測されているが、噂される婿候補の中には王妹の息子で従兄のオスカー・フォン・ケヒトも挙げられていた。
 しかし生まれつき体の弱い王女が次代の世継ぎを産むことができるのかという懸念があり、ウェリフィンではなく二人の妹のどちらかに継がせた方が良いという意見が根強く囁かれていることも確かである。
 だが次女ティアナは健康過ぎて平気で兵士達に混じって剣術の鍛錬をする破天荒な王女であるし、三女のマルティナは非常に知能の高い少女で、十五歳にしていつも何かしらの研究で引き篭もり他人との交流を嫌う変わった王女であった。
 個性的過ぎる王女達の中では、やはり教養と美貌を兼ね備えてバランスの取れた長女ウェリフィンが最も王女らしい。
 妹王女達も王位を継ぐことなど迷惑にこそ思えど欲することは無かったので、三人姉妹は仲睦まじく王宮で成長していった。
 特にティアナは母が亡くなるまで一歳時から四年間王宮から離れて育てられたので、後に王の元に召還されてもなかなか馴染むことができなかったという経緯がある。
 そんな不安と孤独な心を癒してくれたのがウェリフィンであり、以来ティアナにとって姉は母と同等、いやそれ以上に敬愛するべき存在だったと言っても過言ではない。
 だがその絶対だと思っていた関係が崩れた。
 ティアナが突然刺客に襲われ、大切な親友の侍女イルゼを亡くすことでそれは始まりを告げた。
 国の第二王女が暗殺されかけたのだから、国家的にも大問題な事件である。しかしティアナに屠られた刺客の背後はようとして分からず、そのまま王族の警護を固めるしか打つ手はないと見られていた。
 ティアナはあの日以来常にどこへ行くにも四、五人の警護兵をぞろぞろと連れ歩かねばならず、そしてイルゼを守ることができなかった罪悪感にさいなまれ続けて一日の殆どを部屋に閉じこもるようになっていた。
 そんな彼女を心配して二月のある日、従兄のオスカーが訪ねて来たのである。
 あれほど陽の下が似合う娘だったのがこの三ヶ月ですっかり青白くなり、生気の少ない表情を見てオスカーは本気で驚いたものだ。
 せめてでもと思い雪化粧の施された中庭を一望できる露台に引っ張り出すと、フォルマン国が誇る若き騎士は言った。
「イルゼのことは残念だった。しかし命を懸けて主人を守った忠誠心高き彼女が、今のティアを見たらどんなに残念がることだろう」
 王妹の子で大貴族の長男であり剣技の誉れも高い騎士オスカーは、凛々しい容姿も折り目正しい立ち居振る舞いも、国中の貴族の娘達にとって憧れの騎士である。
 しかしその実は生真面目で融通が利かず、大変不器用な内面を持つ一青年に過ぎない。良家の娘達がきゃあきゃあ言うのを横目に「あんな奴、昔は私に池に突き落とされたこともあるのに」とティアナは一人毒づいていたものだが。
 今もこうして年下の従妹を宥めるのに「忠誠心」を持ち出してくるあたり、兵士ならともかく落ち込んでいる婦女心理の機微に疎い所が顕著に現れているのだった。
 イルゼが無くなったのは十一月。あれからあっと言う間に雪が積もり、ティアナの心も凍ってしまった。
 ちっとも女らしくしないティアナの嫁のもらい手に、いつかイルゼが「オスカーに密かに期待をかけていた」と笑いながら話していたことがふと思い出される。
 オスカーは子供時代からティアとの剣術修行の後ウェリフィンの病床をよく見舞い、その場で少年は普段見せたことの無いような小さな騎士振りを発揮していたものだ。
 ウェリフィンも同世代の異性はオスカーしか知らず、時々訪問が途切れると何かあったのかとティアナに心配そうに尋ねるのだった。
 ウェリフィンは女神フリッガの化身のように美しい少女であったし、誰に対しても労わりを見せる心優しさは万人に愛されて当然で、ティアナは本心から似合いの二人だと思っていた。
 だからこの一、二年、昔から見慣れていたはずのオスカーが自然と視界に入る回数が多くなっていたとしても気にしないことにした。気付かない振りをしていた。
 このまま気付かない振りをしているうちにきっと何とも無くなる、そう決め付けてしまえる程に小さな気持ちであり、姉ウェリフィンに対する想いの方がティアナにはずっとずっと重要なものであったからだ。
 変な話ではあるが、自分の想いが消える日をティアナは安心して待っていたのである。
「いくら剣術の腕が立つとはいえ、やはりお前は女性なのだ。もう危険なことはしないと約束してくれ」
「オスカー?」
「お前が剣を手放すのなら、その分私が身を挺してお前のことを守ろうティアナ」
 ティアナがぼんやりと庭木を眺めていた視線を戻すと、思いがけず真剣な青年の眼差しにぶつかった。
 びっくりして視線を逸らすと、そのまま引き寄せられて広い胸に抱きしめられる。
「は、離してくれ」
「すまない……つい。だが私はお前が刺客に襲われたと聞いた時は生きた心地がしなかった。もう二度とあんな思いはしたくない」
「近衛隊が守るのは父上だ。私を守ってどうする」
 オスカーの胸の中からは開放されたが代わりに両手を握られたティアナは、そう言いながら視線を逸らし、語尾は消え入るように小さく震えていた。
 この一年ばかりは公務を理由に剣術の鍛錬の相手もしてもらえず、城の中ですれ違うことがあっても以前ほど気安く話しかけてくれなくなっていた。
 きっと一足先に大人の世界に飛び込んだ幼馴染は、子供じみた自分の相手をするのが嫌なのだろうと思っていたのでティアナは激しく混乱していた。
 初めて見るオスカーの男の一面に、怖いとすら思った。
「お前は姉上の婿候補に挙げられているのだ、誤解されるような言動をして将来を棒に振っても知らんぞ」
「あれはただの噂だ。父上も直接打診を受けているわけではないし、そんな野心をお持ちの方でも無いから。どちらかと言えば、ドーフィネスから王子を迎えるという話の方が信憑性が高いだろう」
「そうなの、か?」
 だが瞬間的に心をよぎる、淡い金髪の姉の微笑みにティアナの心臓は鷲掴みにされた。
 オスカーがどんなつもりでこんなことを言っているのか分からないが、ウェリフィンがオスカーのことを頼もしくも好ましく思っている事実は変わらないのである。
 確かな形としてはまだ何も無いが、きっと姉と従兄は上手くいく間柄になると確信していたからこそ安心してティアナは「待って」いられたのに。
 当時のティアナの心はとても衰弱していたので、そのまま何事も無かったならば流れに身を任せてオスカーを頼り、別の道を歩いていたかもしれない。
 だが戦を司る主神ヴァナルの思し召しか、ティアナは見てしまったのだ。
 中庭の向こうに佇む東屋の陰にいた人影を。オスカーは反対方向を向いていたので気付いていない。あの見事な金糸の髪、そして刺すように鋭い憎悪に満ちた視線に――――。
 ウェリフィンは冷笑を浮かべるとそのまま黙って消えた。心優しい姉の初めて見る激しい一面にティアナは戦慄し、そして持ち前の勘の良さで何かを覚ったのだ。
 ただの思い過ごしであって欲しいと願いながら、それでも自分の勘がもたらす警鐘を無視することもできず、以来ティアナは引き篭もりをし続ける振りをしてその実密かに抜け出し、ウェリフィンを監視した。
 そして普段は殆ど出歩かないウェリフィンが、定期的に王都の神殿へ密かに出向いているのを知って後をつけたのである。
 その神殿はウェリフィンの実母である正妃の庇護の下改築が成された所で、その関係でよく来ているのか姉は慣れた様子で神像が立ち並ぶ煌びやかな本殿を通り過ぎ、奥の狭い小部屋へと姿を消した。
 何故か神官も一人も姿を見せず、神拝者も現れない。今考えれば明らかに人払いをした結果なのだが、ティアナは姉の無実を裏付けする証拠がただ欲しいとばかり考えていたのでそこまで気が回らなかった。
 そっと閉じられた扉に近寄り、鍵穴から中を覗くと同時に会話が聞こえてくる。
「どうかしら、ゴイルの印について他にも何か分かって?」
「例の本の行方を突き止めました。一度神官の手に託された後、国外に運ばれた様でございます。ですが心得のある者でなければ手に余る代物らしく、最終的にはドーフィネスの大神官に託されたと」
「まあ。そうなの、ドーフィネスにね」
 ウェリフィンの前に跪く男の横顔には見覚えがあった。確かウェリフィンの信奉者の一人で、蛇の様に陰険な印象を与えるいけ好かない青年貴族である。
 姉はあの男のことを怖がっていたはずなのだが、いつの間に個人的関わりを持つようになったのだろうか。
 差し出された王女の手の甲に、レースの手袋越しに接吻をする男の陶酔した様子がティアナには気味悪い光景に映った。自分の大事な姉に触れるなと、今にも中に飛び込んでやりたいと思うほどだ。
「三ヶ月前は失敗したけれど、やはりあの子は始末しないといけないわね。ティアが恥知らずにもオスカーに色目を使い、大貴族の後ろ盾を得て王位継承に有利な状況を作ろうとしているのは分かっているわ。あの忠臣面した侍女が余計な真似をしなければわたくしのこの胸の憂いも少しは晴れたでしょうに、忌々しい」
 どくん、とティアナの心臓が跳ねた。今聞こえた言葉は、空耳だろうか。
「念を入れて、マルティナにも研究とやらの為にフォルマンの僻地へ閉じこもってもらいましょう。これでもうわたくしの王位継承を邪魔する人間はいなくなる」
「御意」
「所詮ティアナは側室腹の娘。それにあれの母親は、突然気の触れた実父のダールベルク卿に城の露台から突き落とされて王宮を去ったのです。ダールベルク卿はそのまま亡くなりましたが、母親は寝たきりになって数年生きたとか。ああ、なんておぞましい一族でしょう」
 全身の血が引いて、ティアナは真っ白に塗りつぶされた頭の中で必死に考えようとしていた。こんなことがあるはずが無い。この世で最も敬愛する姉が、こんな醜い言葉を口にするはずが無いと。
 かつてティアナがダールベルク領からサンブルクにやって来たばかりの頃、侍女たちの間で囁かれていた噂があった。
「知っているかい、四年前に起きたダールべルク伯爵の事件を」
 地方に居たいわく付きの王女が戻ってくるというので、噂好きの侍女達の間で暫く話題になっていた事である。
 名門貴族のダールベルク伯爵の息女は王に見初められて一女を産んだが、その栄光もつかの間、面会に来ていたダールベルク伯爵に突然魔物が取り憑いて発狂し、娘もろとも城の三階の露台から飛び降りたと。
 二人が誤って転落したのは事実であるが、ダールベルク伯爵に魔物が取り憑いたなどという荒唐無稽な噂は死者を貶め、残された遺族をも貶めるものである。
 間の悪いことにちょうど大人たちがひそひそ語っている時、ウェリフィンとティアナが通りかかってしまった。そして当時七歳に過ぎなかった金髪の王女は妹の手を握り締め、こう言い放ったのだ。
「わたくしの妹を愚弄する者はこの城から出てゆきなさい。お前達は王族に仕える為にここにいるのですか、それとも無駄口を吹聴する為にいるのですか」
 ウェリフィンが声を荒げたのは、後にも先にもあの一度きりだった。
 そのウェリフィンが、絶対的な信頼と尊敬を寄せていたあのウェリフィンが、ティアナの母方の一族を「おぞましい」と言うのか。
 自分では一度も考えたことも無かった、王位継承の「可能性」だけでイルゼは殺されてしまったのか。
 ウェリフィンとオスカーが上手く行くことを望む気持ちは今でも変わらないのに、「恥知らずにも色目を使って奪い取った妹」として姉に憎まれるのは仕方が無いと?
「あとは『神々の記憶』の書が手に入れば、わたくしは全てを手にすることができるわ。このゴイルの印があれば、それも遠からぬこと」 
 白い大理石で作られたヴァナル神の胸像が乗せられた台の後ろから、ウェリフィンが何かを取り出していた。ここからはどんなものなのかは見えなかったが、あれがきっと「ゴイルの印」なのだろうとぼんやり思った。
 しかしティアナには何もかもが衝撃的過ぎて、流れる涙はそのままに、ただ嗚咽を抑えるこことしかできない。よろけそうになる足元を何とか交互に出して、物音を立てないように神殿を抜け出るので精一杯だった。
「イルゼ、イルゼ……お前の仇を見つけた。私はどうしたらいい」
 それから三ヵ月後の五月の春、ティアナはダールベルク領へ向かう馬車から忽然と姿を消すことになる。
 ゲトリスクという流れの魔術師とセーンという銀のトカゲと共に、朝日の昇る王都サンブルクを後にして。

 ◇

「とにかく両陛下がとても心配なさっている。今すぐ帰るんだ」
「帰らない。大体何故ここが分かった」
「危うく見落とすところだったが、国境付近の小さな村が盗賊に襲われたという報告が届いたのだ。そこで大立ち回りした人物が、赤い髪の男装した女性だったという情報付きでな」
「……馬の事といい、昨日といい、あの盗賊の一件はどこまでも祟るな」
「もう我が儘は終わりだ。お前はフォルマンの王女なんだぞ、もっと自覚を持ってもらわねば」
 瞬間、ティアの頬に赤みが差して眼光が鋭く光った。未だ兵士の一人に羽交い絞めにされながらも、長身のオスカーを睨み上げながら怒鳴りつける。
「これは遊びではない! お前は信じなかった、だから私は一人でけりをつける。これ以上私の邪魔をしてみろ、誓って許さぬからな」
「ティア」
 王女の怒声に一同が居住まいを正し、沈黙が訪れる。それを破ったのはこの場において一番身軽な状況だと思われる、クロウののんびりした声であった。
「まあ確かにお遊びではないな。ティアは何度も刺客に襲われているし、その中にはフォルマン国の兵士もいたらしいから」
「馬鹿な、我が国の兵がなぜ守るべき王女を襲うのだ!」
 驚きを隠せないオスカーに黒髪の槍使いは不敵な笑みを浮かべ、道の向こうを指差して続ける。
「ではあれを見てどう思う、フォルマン国の騎士とやら」
 風に緩やかに揺れる緑の麦畑の中、道沿いに植えられた垣根の向こうと岩の陰。何かが気配を隠すようにして身を潜めている。
 草の合間から朝日を反射した光が漏れ見えた。それは頭部を覆いつくす鉄の兜であり、抜き身の刃である。
「ドーフィネス兵? いや、それは有り得ない。私達が入国する許可はちゃんと取ってある」
「ならばフォルマンから追いかけてきた姉上の追っ手だ。それとお前、いい加減にこの手を放せ」
 急展開の事態に、背後の兵士の腕が思わず言われたとおりに一瞬緩む。その隙を見逃さずティアは素早く抜けて出た。
 潜んでいた者達も状況の変化に気付いたようである。指笛が響き渡ると、各方面から取り囲むように一斉にその姿を現した。総勢十人、対するこちらは七人である。
「ホラントは殿下を安全なところへ。後の者は」
「ふざけるな、誰が黙って見ていられるか」
「こらティア!」
 あっと言う間に両軍の距離が縮まって戦いの火蓋が切られた。ホラントと呼ばれたティアをずっと拘束していた兵士は、律儀に上官の言いつけを守らんと敵に突っ込む姫君の後を追いながら護衛をする。
 オスカーが連れていた四人の部下は皆なかなかの手練であり、数の劣勢にも関わらず押され負けはしなかった。
 ティアが一人目の腕を切り落とし、オスカーが二人目の脇腹を切り裂く。一方クロウは戦いの渦中から一歩下がり荷物を纏めて馬の綱を解き始めていたが、敵の一人が目ざとくそれを見つけて背後から切りかかった。
 後ろを振り返りもせず槍の柄を真っ直ぐ後方に突き出すと、切りかかってきた男は避ける暇も無く軽々と吹っ飛ばされる。
「やれやれ、これ以上面倒事に巻き込まれるのは御免だな。俺は一足先に目的地に向かわせてもらう」
 呆れたようにそう呟くと、戦っている者たちをあっさり見捨てて馬に跨った。
 しかしそれをおいそれと見逃すティアではない。
「ホラント、こいつの相手をしろ!」
「え、姫様?」
 目の前に立ち塞がる敵の剣を力いっぱい弾き返すと、ティアはホラントにその後の相手を強引に任せて走り出す。
 今にも走り出しそうな馬の手綱を掴んで動きを阻み、馬上の人間を怒鳴りつけた。
「貴様、この一大事に何をとんずらしようとしているのだ。武力というものは意義のある使い方をしてこその武人だぞ! それに何度も言うが、これは私の馬だ」
「俺には関わりのない事だな。それに見ろ、既に戦況は決しているのだから加勢の必要も無い」
 確かに頼もしい味方のお陰で、既にまともに動ける敵の人数は半減している。こうしているうちにもまた一人オスカーが斬り捨てて、五人にまで減っていた。
「ああいう生真面目な人間は面倒だから俺はこの隙に行く。お前はどうする、国に帰るか?」
 確かにオスカーから開放されるには今この時しか無いだろう。オスカーとその部下達は手練の者。ここまで戦っていても特に負傷らしい負傷もせずに敵と渡り合っているのだから、ここでティア一人が抜けても大丈夫なはずだ。
 瞬間的に何かを感じてティアが振り返る。その先には年上の従兄が立っていた、少し意外そうな表情をして。
「オス…………」
 ティアの青い瞳がその心を映したように揺らいだ。しかし言いかけた言葉を小さな唇は飲み込むと、クロウの服をむんずと掴んで馬の背に飛び乗る。
「走れ!」
 いつもとは逆に手綱を持ったクロウの背に掴まると、ティアは思い切り馬の尻を叩き付けた。
 驚いた馬は嘶きを上げ勢い良く走り出す。
「姫様!」
「くそ、退け、退けー」
 ティアがその場を去ったと見ると、既に形勢不利だった残党らは一斉に退却をした。
 それを追尾するかどうかを仰ぐ部下に、オスカーは剣についた血糊を払いながら答える。
「良い、それよりもティアナ殿下の後を追う」
 ホラントが地に討ち捨てられたままの亡骸に近づくと、兜を外して敵の顔をまじまじと見ながら呟いた。
「鎧と兜は我が軍の物とは微妙に違う様にございます。ですがこの顔つきはフォルマン人と言えなくも無い……」
 それとティアが口にした、「姉上の追っ手」という言葉。その時には何も聞かなかったが、ホラントだけでなく他の部下もそれが心に引っ掛かったままなのは一同の顔を見れば一目瞭然であった。事実、たった今目の前でフォルマン国の第二王女は狙われたのだから。
「事実がどちらにせよ、確実な情報が得られるまでこの事は他言無用だ」
「はっ」
 オスカー一行はティア達が走り去った方角へ向けて馬を走らせる。半日も行けば王都トゥールだ、そこに破天荒な王女は向かっているのだろうか。
『お前は信じなかった、だから私は一人でけりをつける』
 下から自分を睨みつけ、怒りを湛えた少女の青い瞳の刺すような視線が不意に思い出された。
 実を言えばティアはフォルマン国から姿を消す一月前に、誰でもないオスカーただ一人にだけウェリフィンの事を打ち明けていた。
 しかしそのとんでもない内容にオスカーは真面目に取り合わず、大事な侍女を亡くした衝撃で精神が未だ混乱しているのだと決め付けてしまったのだ。
 宥めようとするオスカーの手を振り払い、赤髪の王女は目に涙を溜めてあの時こう言った。
「分かった、お前が信じないのならば父上も同じ事だろう。今日私が話した事は全て忘れてくれ」
 そして歩き去る華奢な背中を引き止める言葉をオスカーが探していると、不意にティアの歩みが止まってこう続けた。
「以前の露台での事、あれは私が危険な目に遭ったせいでお前の方こそ混乱していたのだ。昔から誰の事を一番に思ってきたのかを良く考えてみると良い、姉上の婚約者候補殿」
 その後オスカーは弁解の機会を与えられないまま時間を浪費し、ティアは消えてしまった。
 ようやく見つけ出したと思ったら、この腕をすり抜けるようにまた彼女は居なくなってしまう。おまけに一緒にいたあの男の素性は聞けずじまいだ。
 槍の腕もかなりのものだった。躊躇わず大胆不敵な言動を示してみせた黒曜の髪を持つあの男は、どこまで行ってもオスカーとは対極線上にいるべき人種なのだろう。
「馬鹿な、私が余計な事に囚われていてどうする。杞憂すべきはここがフォルマンではなくドーフィネスであるという事」
 些細な事であっても、何が今まで築いてきた両国間の関係を壊すきっかけになるとも限らない。
 何かが起こる前に一刻も早く第二王女をフォルマン国に連れ帰り、事の真相を明らかにすること。
 血統と家名、役職と常識。弱冠二十歳の割には随分と多くのものを背中に抱え込み、自らの羽で飛び上がる事のできなくなった騎士は迷いを断つ様にして首を振った。 


 聖導神官ダヴィドは、温泉療養に出かけていたはずのオーギュスタン王子から突然の召喚を受けていた。
 場所は王宮ではなく、トゥールの近郊にオーギュスタン王子が私的に所有している小さな離宮である。
「急に気が変わってさあ、予定より少し早めに切り上げたんだ。帰り道にこの離宮に寄ったけど、トゥールまで大して遠くもないし密談にはもってこいだろう?」
「……殿下、例の件についての報告でございますが」
 陽気な声のオーギュスタンに対し、ダヴィドは毛ほども浮ついた様子も無く淡々と言葉を紡ぐ。
「結果としては秘密の書庫はございました」
「で?」
「アヴァロンについての記述はどれも仔細までは踏み込んでいないものばかりで、残念ながら場所の特定には至りませぬ。ですがある魔術師の書き記した日記を発見致しまして、こちらにはアヴァロンの『神々の記憶』に繋がる興味深い内容が記されておりました」
「へえ?」
 馬車での長距離移動が高貴の身には負担が大きかったのか、オーギュスタンは気だるそうに長椅子に身を投げ出し、うつ伏せになったまま相槌だけを返す。
「幻の国アヴァロンの場所は誰も知らずとも、その道しるべとなるべき『ゴイルの印』という不思議な石があるのだそうでございます。その石が指し示す方向にアヴァロンがあり、『神々の記憶』を操るための鍵を得る事ができると」
「ふーん、ゴイルの印ねえ。でもその肝心のゴイルの印っていうのはどこにあるのか分からないんだろう?」
「この記述が成されたのは十六年前、場所は隣国フォルマンでございます。内容から察するに、その魔術師がゴイルの印を所有していたのはほぼ間違いないかと。残念ながら現在その魔術師の消息がどうなったかは不明でございますが、フォルマンとはヴァナル教の神官同士、独自の交流もございますので密かに探りを入れてみましょう」
「なるほど、なるほど。僕からもフォルマンに人をやって別口で調査をする事にしようかな。ああそうだ、僕とした事が頼み事をしたのにお礼をどうするか決めてなかったよね。何が欲しい? お金、地位?」
「妹は……フラヴィは勿体無くも殿下のお側に仕えさせていただいておりますが、あれにはいずれ婿を迎えて実家の家業を継いでもらわねばなりません」
 あくまでも淡々と。それがかえってダヴィドがひた隠しにしようとしているものの存在をにおわせる。
「暇乞いかい? そうだねえ、考えてはおくよ。ふふ」
「ご配慮いたみいります」
 室内に漂う重い空気すら楽しんでいるような、オーギュスタンの小さな笑い声は木霊してダヴィドの頭の奥に響いた。


 ダヴィドの父ロドルフは生粋の商人で、自分の商船を持つ裕福層の貿易商である。
 商才に長け先代から受け継いだ家業を成功させて財を成した人物であるが、一つ難を言うならばそれを受け継ぐべき後継者に恵まれなかったということだろう。
 長男のダヴィドは大変利発で将来を期待されていたが、一体何に触発されてしまったのか神学校に入る事を希望し今では神官として将来を嘱望される身。
 晩年生まれたのは娘であり、それもやたらに好奇心が強いのが祟って宮殿の下働きに滑り込み、今では第三王子付きの侍女である。
 他所の人間が聞いたならば、この二人の子達の出世をどれほど羨む事であろう。しかし特権階級への執着に疎いロドルフは、何をおいても金と家業が第一だ。何度「息子を神学校でなくどこかに奉公にでも出せば良かった」と後悔したか数え切れなかった。
 神官は生涯独身で過ごす者も多いが、特に婚姻を禁じられているわけではない。せめて後継者となるべき男の孫を一人でもこさえてくれればこの父が手塩にかけて育ててやるのに、と毎度顔を突き合わせるたびにロドルフが言うものだから以前から多忙なダヴィドは輪をかけて実家に寄り付かなくなってしまったのだった。
 ロドルフの居宅は街の喧騒から離れた一角にある。使用人を十人程抱えるその屋敷の前にはのどかな麦畑が広がり、その間に真っ直ぐ一本の道が屋敷へ向かって伸びていた。
 庭木の様子を見る為に屋外に出ていたロドルフは、家の前の一本道をこちらに向かってくる馬車に気付いて皺の寄った目蓋を細める。
 馬車と言っても馬が引っ張るのは殆ど荷車の様な粗末なもので、その御者台にいる人物を見てロドフルは小さく呟いた。
「おや珍しい。金もろくに稼げない親不孝者のお帰りか」
 ダヴィドはドーフィネス国の中で十番目に偉い神官であるが、父から見れば所詮はそんなものであった。

「まあ、お兄様が帰っていらっしゃってるの?」
 用事で家を空けていたフラヴィは、帰宅途中にすれ違った実家の使用人にそれを教えられて歓喜した。
 そして急いで家に辿り着き、庭先ですれ違ったもう一人の使用人に「もう帰った」と聞かされて心底がっかりする。
「酷いわお兄様、私はもう明日にはトゥールに戻らなければならないのに。やっといらっしゃったかと思えば、こんなにあっと言う間に帰ってしまうだなんて」
 可愛い頬を膨らませて近道の裏口から屋敷に入り、誰にも見咎められずにフラヴィは居間に向かう。しかしいつもは開け放してある居間の扉が閉まっている事に気付くと、少女は小首を傾げながらそれを押し開けようとした。
「――――やはりフラヴィを王宮に行かせるんじゃなかったな。あのダヴィドの憔悴振りを見たか」
 突然自分の名前が耳に飛び込んできたので、フラヴィは扉を押す手を止めて一瞬息を飲んだ。
 何やら父も母も、兄の事について深刻な声音で語らっているようである。
 いけないと思いつつもどうやら自分が関わっているようなので見逃す事ができず、息を潜めて中から漏れ聞こえてくる次の声を待った。
「どうせ噂だと気にも留めてはおらなんだが、よくよく考えてみるとフラヴィが突然王子付きの侍女だなんてどう考えても不自然じゃないか」
「ではあなた、フラヴィの引き立ての代わりに何かを要求されているということですの?」
「しかしいくらダヴィドがフラヴィを可愛がっているといっても、あいつが自分からそんな事を言い出すということは考えられんなあ」
「そうですわねえ、こうして王子様からの賜り物もここにあることですし。でもダヴィドが何かを隠している事は私にも良く分かりますわ、自分がお腹を痛めて産んだ子ですもの」
「腹を痛めて、か。ワシらはもしや、フラヴィの扱い方を間違っていたのかもしれん」
「十八年前、あなたが赤子のフラヴィを連れ帰ってきた時の事を今でも良く憶えていますわ。あの子を産み落としたのは、うちで働いていた元使用人。若い身空で一人出産するだなんてどれだけ心細かったでしょう。結局自分の子を抱けぬまま死んでしまって、可愛そうな子でしたわね」
 フラヴィは顔面を蒼白にしたまま、扉の前から一歩後ずさった。
 自分が両親の子ではない?
 突然の王子付きへの抜擢が、何らかの形で兄ダヴィドに負担をかけていると? いや、両親と血が繋がっていないのならば、尊敬すべきダヴィドも兄ではないのだ。
 瞳から大粒の涙がぱらぱらとこぼれ落ちる。震える口元に嗚咽がこみ上げ、上手く息ができなかった。
『宮殿の仕事は辛くないか、フラヴィ』
 先日ヴァナル神殿の庭で聞いた、朗らかで落ち着いた声と笑顔が脳裏に蘇る。
 その短い言葉の中に、ダヴィドは一体どれほどの思いを込めて言っていたのだろうか。
 血も繋がらず賤しい生まれの自分を本当の妹として慈しんでくれていた、フラヴィにとってはこの世でたった一人の兄。 
 ごめんなさい。ごめんなさい、お兄様。
 何も知らずに幸せに育ったフラヴィは今初めて、自身の存在を否定したい衝動に駆られていた。
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